季節は春。
山の社にも、ふわりと花の香が満ちはじめたある日。
「八雲さま、桜が咲いています。……去年も、こうして一緒に見たの、覚えてますか?」
わたしが娘を抱きながら微笑むと、
八雲さまはその隣で、少しだけ瞳を細めて空を見上げた。
「覚えているとも。
そなたがこの腕にいた日も、この桜の下だった」
「……今年は三人で見られて、幸せです」
「来年も、その次の年も、きっと――」
そう言いかけたとき、ふいに八雲さまはわたしの手を取って、
深く息を吸い込み、静かに言った。
「綾女。……私は、人として生きることを選ぼうと思う」
「え……?」
「神である限り、そなたとこの子の時とは交わらぬ。
たとえ百年経っても、私は変わらず、そなたたちは先へと進む」
「……でも、それは……」
「もう十分なのだ。長く神として生きたこの千年よりも、そなたと、娘と、同じ“時”を生きられる人生の方が、はるかに尊く思える」
「八雲さま……」
「命ある日々を、共に笑い、泣き、老いていけるならそれこそが、神が求めた“ほんとうの幸福”なのかもしれぬ」
その決意に満ちた眼差しを、わたしは胸がいっぱいになりながら見つめ返す。
「……うれしいです。八雲さまが、わたしとこの子のために、そこまで……」
「ただ、私は、愛しいもののそばにいたいだけだ」
「……じゃあ、ずっと、そばにいてくださいね」
「……ああ、命尽きるそのときまで」
* * *
それから、八雲さまは儀をとり行い、氏神の座を、眠るように静かに手放された。
代わりに、春の神風が彼の背を押すように、
あたたかな息吹を、この社にもたらした。
やがて、八雲さまの肩に、うっすらと色がさした。
肌がやわらかくなり、心臓の鼓動が聞こえるようになる。
「……八雲さま、鼓動が……」
「うむ。……これが、“生きている”ということか」
そう言って、彼はわたしと娘を同時に抱きしめた。
「心がこうして震えるのは、初めてかもしれぬ」
「じゃあ、これからは毎日、いっぱい震えてくださいね」
「ふふ。綾女の言葉ひとつで、私はもう何度でも震えるぞ」
三人、ぴたりと寄り添いながら、
まだ見ぬ未来を想った。
桜が、ゆっくりと舞う。
* * *
ある晩。
娘がすやすやと眠る横で、わたしたちは寄り添っていた。
「綾女。……そなたと娘がいてくれるこの世界は、本当に美しい」
「……八雲さま。わたしも、あなたと“同じ時間”を歩けることが、本当に幸せです」
「手をつなごう。……この命が尽きるまで、ずっと」
「はい……。ずっと、ずっと」
指を絡める。
風はやわらかく、月は静かに微笑んでいるようだった。
これが、終わりではない。
けれど――きっと、ここからが、わたしたちの本当の物語なのだ。
神と人ではなく、
男と女として、夫と妻として、そして――親として。
娘の寝息に、優しく包まれながら、
わたしたちは、そっと唇を重ねた。
「……おやすみ、八雲さま。大好きです」
「……おやすみ、綾女。永遠よりも、そなたが愛しい」
静かに、夜が降りる。
ぬくもりは変わらずそこにあって、明日もきっと、愛が降り積もる。
これは、命を宿し、愛を知り、共に生きる物語。
終



