その日は、静かに雪が降っていた。
春を告げるはずの梅がほころびはじめた朝、
わたしは、やわらかな痛みに目を覚ました。
(あ……今日、かもしれない……)
ずっと夢のようだった。
八雲さまと愛し合い、命を授かって、
そして、もうすぐ――この腕に抱くことができる。
「八雲さま……」
小さく呼ぶと、すぐに戸が開いて、
夜の装束のままの八雲さまが、わたしのもとに駆け寄ってきた。
「……来たのか?」
「ええ……たぶん、今日……わたしたちの、赤ちゃんに会えます」
言葉にした途端、
胸の奥がふわりと甘く、くすぐったく、涙がにじみそうになった。
「……ありがとう、綾女。……ありがとう……」
八雲さまは、何度も何度も、わたしの手を握り、
額に口づけをして、ただそっとそばにいてくれた。
* * *
出産の痛みは、正直、怖かった。
けれど、そのたびに八雲さまがわたしの背を撫で、額の汗を拭い、
優しい声で、わたしの名を呼び続けてくれた。
「大丈夫、綾女。私がここにいる」
「そなたは強い。……愛しい我が妻よ、もう少しだ……」
「……八雲、さま……」
指をぎゅっと握り返す。
そのあたたかさに、何度も、乗り越えられた。
そして――
「……おぎゃあ……」
あまりにも、やわらかい――
でも、しっかりとした小さな声が、この寝殿に響いた。
「……あ……っ」
「綾女……」
涙が、止まらなかった。
産婆様がそっと、わたしの胸に赤子を置いてくれる。
あたたかくて、ほっぺたがもちもちしていて、
まだ泣き顔しか知らないのに、もう、愛しくてたまらなかった。
「……この子……わたしたちの……赤ちゃん……」
「……ああ。私たちの……奇跡だ」
八雲さまは、わたしと赤子をそっと抱き寄せ、
おでこに、頬に、指先に、祝福の風を吹き込むように触れていった。
「……かわいい女の子だ」
「……本当に? よかった……」
「綾女に似て、ふわふわで、あたたかい」
赤子は、わたしの胸元で小さく指を動かしながら、
まるで八雲さまの声に安心したように、すうすうと眠りはじめていた。
「……ねえ、八雲さま。この子が少し大きくなったら、一緒に梅の花を見に行きませんか」
「もちろんだ。梅も桜も、桃も藤も、すべてそなたとこの子のために咲かせよう」
「……ふふ、ほんとに、甘やかしすぎですよ……」
「愛する妻と娘を、甘やかさずにいられる神などおらぬ」
そう言って、八雲さまがわたしの髪にキスを落とす。
そしてもう一度、赤子のほっぺに、そっと唇を当てて――
「おかえり。私たちの元へ、生まれてきてくれてありがとう」
その声は、世界でいちばん優しく、甘やかで、
神の祝福に満ちていた。
* * *
あの日から、日々は甘く、にぎやかに変わった。
八雲さまは、娘の髪に風の飾りを編み込み、
わたしが眠っている間にも、ずっと赤子のそばで子守唄をささやいている。
「……この子はな、よく笑うのだ。綾女そっくりに」
「そうやって、わたしに似てるって言ってくれるけど、
たぶんお顔は八雲さま似ですよ」
「それは困るな。そなたに似たほうが、何倍もかわいい」
「……もう……八雲さまったら、」
「当然だ。私は、そなたたちのために、この千年を待っていたのだから」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
あたたかな日差しの中。
神の夫と、人の妻と、そして――ふたりの奇跡の子ども。
永遠のような、やさしい春の光の中で、
この幸せが続くようにと、心から祈った。



