ある夜。
ぽつり、ぽつりと降り始めた雨の音に、ふと目を覚ました。

 

八雲さまはすでに起きていて、寝殿の縁に腰かけ、外を眺めていた。
背中ごしに差す灯りが、彼の横顔をやさしく照らしている。

 

「……八雲さま?」

 

「……起こしてしまったか?」

 

「いいえ。……なんだか、胸が、少しどきどきして」

 

わたしが隣に座ると、八雲さまはそのまま、わたしの肩を抱き寄せてくれた。

 

「……雨の音が、胎に響く。そんな気がしてな」

 

「……胎?」

 

八雲さまは、わたしのお腹にそっと手を置いた。

 

「綾女。……最近、胸が張るような痛みはないか。食べ物の好みに変化は?」

 

「……あ……はい。こないだまで好きだった梅干しが、すっぱく感じて……。あと、眠気がつよくて……」

 

「……やはり。綾女。そなたの中に、私との子が芽吹いているかもしれぬ」

 

「……えっ……!」

 

信じられない、でも――心の奥で、どこか納得する感覚があった。

 

八雲さまの手が、あたたかくお腹を包む。
その優しい掌に、涙が出そうになる。

 

「神の血を継ぐ子が、人の身に宿るのは……奇跡だ」

 

「……わたし、ちゃんと育てられるでしょうか……? 神さまの子どもなんて、わたしに……」

 

その不安を、すぐに彼は抱きしめてくれた。

 

「大丈夫だ。綾女。そなたは、私の妻であり、愛する者だ……神だからではなく、“八雲という男”の子を、そなたが宿してくれた。それだけで十分だ」

 

「……八雲、さま……」

 

わたしは、その胸にぎゅっと顔を埋めた。
不安も涙も、その温かさがぜんぶ溶かしてくれる気がした。

 

「……この子にも、そなたのような、優しい心があればいい」

 

「……八雲さまのように、強くて、思いやり深い子になりますように」

 

「……ふふ。すでにふたりとも、親馬鹿だな」

 

「ええ。……馬鹿になるくらい、大事にしたいですから」

 

小さな未来の命。
それが、こんなにもふたりを近づけてくれるなんて、思わなかった。

 

わたしのお腹にそっと口づける八雲さまの姿は、
神ではなく――愛するひとそのものだった。

 

 

* * *

 

それからの日々は、さらに甘くて、やさしかった。

 

少しでも冷えそうになると、八雲さまは風を呼んで室をあたためてくれる。

 

「この時期は冷えが大敵らしいからな。綾女と、この子を守るのが、私の仕事だ」

 

朝は、優しい手で目覚めさせてくれて。
夜は、長く、長く、髪を梳かしながら、わたしの耳元で子守唄のようにささやいてくれる。

 

「この世界に、そなたと子がいる――それだけで、私は生きる意味を知るのだ」

 

「……そんなこと言われたら、息できなくなっちゃいます」

 

「なら、私の胸で呼吸をすればいい」

 

「……ほんとに、もう……甘すぎます……」

 

「甘くて当然だ。愛している妻と、私の子を宿してくれる身体に、感謝しかないのだから」

 

その手が、指が、唇が――
まるでお腹の奥にある命ごと包み込むように、わたしを大切に、大切に触れてくれる。

 

そして、夜。
抱き合うたび、わたしたちはますます深く、恋に落ちていった。

 

「……綾女。子を産んだら、その次は……そなたと、もう一度“夫婦の契り”を重ねたい」

 

「……え?」

 

「もう一度、式をしよう。今度は、子も共に」

 

未来のその景色を想像して、胸がいっぱいになる。
神さまとの未来――それは、どこまでも、どこまでも甘い。

 

(……この人と、生きてゆける)

 

心から、そう思えた。
だから今、八雲さまの胸の中で――

 

わたしはもう一度、そっと目を閉じる。

 

ぬくもりと、幸せと、未来が、
静かに、甘く降り積もっていた。