わたしの名前は、白川綾女(しらかわ あやめ)。
由緒ある白川の家に生まれた、長女です――なんて言っても、誰も信じてはくれないでしょう。

 

「姉さまって、どうしてそんなに地味なの?」
「ねえ、これ、あたしに似合うと思わない? ……やっぱり、姉さまじゃこういうの着こなせないものね」

 

妹の綾音(あやね)は、いつだって太陽のようでした。
光を受けてきらきらと輝く、みんなの愛を一身に集める、そんな子。

わたしといえば、影にひっそりと佇む月のような存在。
気づかれず、褒められず、叱られても、文句も言えずに、ただそこにいるだけ。

でも――それでも、綾音のことを嫌いにはなれませんでした。
あの子はとても綺麗で、何をしても人を惹きつける。少しばかり意地悪を言っても、誰も彼女を責めたりなんてしない。

……だから、わたしがひとりで泣くしかなかったのです。

 



 

「綾女、おまえは今日も社の掃除をしに行きなさい。綾音にはお客様がいらっしゃるのだから」

父のその言葉には、もう驚きも怒りも湧いてきませんでした。
家の使用人たちでさえも、わたしが通るときは道をあけてくれない。
でも、山の社だけは――そこだけは、わたしを責めたりしません。

 

白川家の裏手にある小高い丘。
石段を百段ほど上ると、苔むした小さな社があるのです。
そこに祀られているのは、八雲さまという名前の氏神さま。

誰もお参りに来ない、忘れ去られたような社。
でも、わたしはその場所が好きでした。静かで、優しい風が吹いて、草や木の声が聞こえる気がする。

 

ほうきで石畳を掃きながら、わたしはそっと手を合わせます。

「……今日も、お邪魔します。あの、また落ち葉を集めてしまって、ごめんなさい」

 

そのとき。

「謝ることではないよ。むしろ感謝している、綾女」

 

声が、しました。
驚いて振り返ると、そこには――白い狩衣に銀の髪をなびかせた、凛とした姿の青年が立っていたのです。

 

「……あなたは……?」

「名乗るのが遅れたな。私はこの社に鎮まる神、八雲という」

 

――神、さま? 

 

うそ、だって神さまだなんて……でも。
彼の目は、雲を湛えた湖のようで。
その声は、風のように優しく、心に沁み込んでくるようでした。

 

「綾女。そなたは、いつもここに来て、私の社を大切にしてくれていたな」

「……いえ、それは……。わたしには、それしか……できることがなくて……」

 

ぽつぽつと、言葉がこぼれてしまう。
情けないな。こんなわたしを、神さまは見ていたの?

でも、八雲さまはふわりと笑いました。

 

「そなたの手は、誠に美しい。誰に見向きされずとも、日々を懸命に生きる者こそ、神は愛おしく思うものだ」

 

……その言葉だけで、涙が出そうでした。
だれも言ってくれなかったのに。
家族ですら、わたしを褒めてはくれなかったのに。

 

「ありがとう、ございます……八雲さま」

 

八雲さまは、ひとつだけ首を傾げてから、石段に腰を下ろしました。

 

「今日は、ここに少しばかり居てもよいか? そなたと話してみたくなったのだ」

神さまなのに、まるで年上の友人のような、その物言いに戸惑ってしまいます。
でも、不思議と心は穏やかでした。
うまく言えませんが、八雲さまのそばにいると、肩の力がふっと抜けるのです。

 

「はい……あの、掃除はもうすぐ終わりますので。すこし、お待ちください」

 

箒を手に、わたしはいつもより丁寧に落ち葉を集めました。
音もなく佇む八雲さまは、ずっとこちらを見ていらっしゃって……気づくと、胸がどきどきしてしまっている自分がいます。

 

(神さまなのに、どうしてこんなにやさしくて、あたたかくて……)

 

やがて掃除を終えると、八雲さまはわたしの隣に並び、社の縁に腰を下ろしました。
その距離は、思いのほか近くて、袖が少し、触れてしまいそうでした。

 

「綾女。そなたは、なぜ、毎日ここに通っていたのだ?」

 

「……えっと……屋敷に、居場所がないから……です。妹と比べられてばかりで……」

 

気づけば、自然と口にしていました。
誰にも言えなかった気持ちが、ぽつりぽつりとあふれていく。
わたしの話を、八雲さまは一言も遮らず、じっと耳を傾けてくださっていました。

 

「……妹は、本当に綺麗で、賢くて……。家の人たちは、いつも綾音ばかりを見ていました。わたしには、何も……ないから」

 

そのとき、不意に八雲さまが、わたしの手に自分の手を重ねてきました。
すっと、温かな風が吹き抜けたような感触。
その手は、どこまでもあたたかく、指先まで大きくて。

 

「綾女。そなたは、比べられるために生まれたのではない。
誰かと比べられて、価値を決められるような、そんな存在ではない」

 

「……っ、八雲、さま……」

 

声が、震えてしまいました。
誰にも言ってもらえなかった言葉を、どうして神さまが知っているの――?
こんなに優しく、心を抱いてくれるなんて。

 

「私は神であり、そなたを見ていた者だ。
そなたの涙も、ひとりきりで掃除をしていた姿も、
ただ、そっと手を合わせて祈っていた日々も――すべて、私の目に映っていた」

 

その言葉が、胸に染みて、涙があふれました。
だれにも見てもらえなかったわたしを、八雲さまは、見ていてくれたんだ。

 

「……わたし……、生まれて、よかったんでしょうか……?」

 

「もちろんだ。そなたは、私が初めて“美しい”と思った人間だ」

 

どきん、と心臓が跳ねました。
神さまが、わたしのことを――?

 

八雲さまのまなざしは、まるで宝物を慈しむようでした。
優しく、やわらかく、それでいて深くて、吸い込まれそうになる。

 

「……私の名は八雲。風と時を司り、かつて災いを鎮めた古き神……だが今はただ、静かにそなたと過ごす時間を、何よりも尊く思っている」

 

心が、いっぱいになって。
涙でにじむ視界の中で、八雲さまの指先が、そっとわたしの頬に触れました。

 

「綾女。どうか、自分を卑しむのはやめてくれ。そなたは、唯一無二の尊き存在だ」

 

――わたしの、存在に、価値がある?

 

信じたくて、でも信じられなくて。
それでも、八雲さまの手のぬくもりが、胸の奥にじんわりと広がっていく。

 



 

屋敷に戻ると、綾音がわたしを待ち構えていました。
ふわりと優雅に髪を揺らし、紅の唇で微笑みながら。

 

「姉さま、どこに行ってたの? もしかして、また“あのお社”かしら?
……ふふっ。そんなボロ神に好かれても、あなたの人生、変わらないわよ」

 

美しく、品のある笑顔。
でもその奥には、冷たい悪意が潜んでいることを、わたしはもう知っていました。

 

「……変わらなくても、わたしは、好きだから」

 

そう答えると、綾音のまなざしが一瞬だけ、揺れました。
ほんの一瞬、わたしの知らない感情が、彼女の目に浮かんだ気がして。

 

「ふぅん……だったら、その神さまにでも嫁いだら? 姉さまには、それくらいが“ちょうどいい”と思うわ」

 

そのときの、綾音の微笑。
どこか、ひりひりと胸を刺すような、鋭い美しさを湛えていた。

 

だけど。
わたしにはもう、胸を張って言えることがある。

 

――わたしを見てくれた、ひとがいる。

 

神さまに、ただ一人のわたしとして、名を呼んでもらえた。

 

だからもう、いいの。
誰かの陰ではなく、わたし自身の光で、生きてみたい。

 

そう思えた――社の、優しい風の午後でした。