離れの蔵の一室で、梗華は空を見上げていた。
窓は格子のように板が張り付けられており、辛うじて日が差し込んで来る。しかしそれ以外の明かりはない。蔵の入口は外から固く錠が掛けられており、中から開けることは不可能だった。
蔵には今は使われていない家具が置かれており、その他には梗華が横になるためのみずぼらしい一枚の布団があるだけだった。
蔵が開かれるのは、日に四度のみであった。朝昼晩の食事時と、夕食後の湯浴みの時間である。貴宝院に仕える使用人が、梗華にご飯を持って来、湯浴み用の水の入った桶を持ってくるのだ。
いつからこんな生活をしているのかわからない。
気が付いた頃にはもう、この蔵での生活を余儀なくされ、梗華は閉じ込められていた。
十歳くらいまでは普通に過ごしていたと思うのだが、その記憶もなんだか曖昧だった。
梗華には貴宝院の妖祓いの力を引き継いだ、双子の姉の仙花がいた。
しかし仙花は、双子の姉妹でもあるにも関わらず、能力のない呪われた右目を持つ梗華を酷く軽蔑していた。
梗華が知る限り仙花はいつも梗華を憎んでいた。
(姉様はなんでも持っているというのに、どうして私を憎むのかしら……)
梗華と違い仙花は妖祓いの強大な力も、両親からの愛も、周りからの羨望もなにもかもを持っていた。だというのに仙花は梗華を虐げ、憎しみの対象としていた。それが何故なのか、梗華にはわからなかった。ただ気持ちが悪いという、それだけの理由なのかもしれない。
夕食のあと、時たま仙花がやってくることがあった。
「梗華、貴女にお似合いな程に無様な姿だわ」
痩せ細り、ぼろぼろの着物を身に纏った梗華を見て、仙花はわざわざ罵倒しにくるのだ。
「いくら己の人生を嘆いたって無駄。こんなところじゃ、助けなんてこないわよ」
(助け……?)
そんなひと、来るわけがないととっくに梗華は諦めていた。
両親はおろか、貴宝院に仕える使用人達は皆主に従順であり、誰一人として梗華に優しくする者はいなかった。それはもしかしたら、仙花がきつく言っていたのかもしれないが、梗華は誰かを頼ろうなどと言う考えをとっくの昔に捨てていた。
「やっと!やっとだわ!私の、私だけの最高の人生が歩める!」
仙花は恍惚とした表情を浮かべながら、高笑いをして出て行く。
仙花に何をされ、何を言われたとしても、梗華にはもうなんの感情も浮かばなかった。
(私はどうして生きているの?なんのために生きているの?)
そんなとりとめもない考えが、ぐるぐると梗華の中に渦巻く。
(もう、このまま、死んでしまいたい……)
梗華は虚ろな瞳で、窓の格子から曇った月を見上げる。
すると、ひょこっと蔵の中を覗くように、なにかが顔を出した。
梗華はそれをじっと見つめ続ける。
どうやらそれは、狐であるようだった。金色のふさふさとした毛を揺らし、蔵の中にいる梗華を見つめている。かりかりと爪を立て、蔵の壁を擦っているような音がした。
梗華は窓に近付き、狐に話しかける。
「狐さん、私はここから出られないの。外は、どんな感じですか?」
梗華の声にぴくりと大きな耳を動かす狐。
「毛並み、ふわふわね。触ったら気持ち良さそうだわ」
届くことのない手を狐に伸ばす梗華に、狐はぴょんと跳ね上がり梗華の指先に触れた。
その瞬間、雲が切れ、影っていた月が世界を明るく照らす。
梗華の脳内に、見たこともない映像が流れ込んでくる。
小さい頃の梗華と、目の前で笑う幼少期の仙花。
竹と紫陽花に囲まれたそこに立つ、金色の髪を持つ美しい青年。
使用人として、仙花にこき使われる梗華の姿。
畑を荒らす動物の捕獲用に仕掛けられた縄に、足を引っ掛けている狐。
狐と共に縁側に座り、月を眺める梗華。
そしてなにか叫びながら狐を蹴り飛ばす仙花の姿。
仙花に熱湯を掛けられる梗華。
そして、青年が梗華の部屋にいる姿。
仙花が血を流し、白目を剥いている姿。
その他にも、断片的な映像が梗華の脳内を埋め尽くした。
「これは……、一体なに……?」
記憶……、ではないはずだ。梗華の人生で一度もこんな場面はなかった。
しかし何故か、確かに経験したような感覚もある。そんなはずはないというのに。
梗華が混乱していると、突如として、りん、と鈴の音が鳴った。
はっとして顔を上げると、目の前に金色の髪を持つ、美しい青年が立っていた。
「梗華」
青年は梗華を強く抱きしめた。
「え?え?」
青年はもう二度と離さないとでも言うかのように、きつくきつく梗華を抱きしめた。
「来るのが遅くなってすまない。この地域一帯に張り巡らされた結界がさらに厄介になっていてな。奴の隙をついて此処へやってくるのに思ったよりも時間を要してしまったのだ」
青年はそう話すが、梗華には青年が何を言っているのか、全くわからなかった。
「ええっと、すみません……貴方は……?」
梗華は青年を少し警戒しながら、一歩後退った。
「そうか。何も覚えていないか」
「え?」
「梗華、貴女を迎えにきた」
「迎えに……?」
「そうだ。貴女は私の妻となるのだ」
「え……?」
梗華は目を丸くして、青年を見つめる。
(妻……?私が?この方の……?)
「どうして、私のことを知っているのですか……?」
梗華には婚姻の申し出など一切なかったはずだ。何故なら梗華は生まれてこの方、存在を秘匿とされており、生まれてこなかったということになっているからだ。
「知っている。私は貴女が生まれた時からずっと見ているのだから」
梗華はまた驚いたように目を瞬かせる。
「あの、よくわかりませんが、私は、その、貴方様には相応しくないかと存じます……」
「何故だ?」
首を傾げる青年に、梗華は慌てて頭を下げた。
「わ、私はなんの能力も持っていないのです。貴宝院に生まれていながら、能力に開花せず、こんな、こんな呪われた瞳を持って生まれ……」
梗華が白い布に巻かれた瞳を抑えていると、青年はその手をそっと取った。
その瞬間、梗華は妙な既視感をおぼえる。
(あ、れ……?なにか、以前にもこのようなことがあったような……?)
青年は梗華の右目に巻かれた白い布をさっと取ると、その深紅の瞳をじっと見つめた。
間近に綺麗な顔があって、梗華は一瞬見惚れてしまう。
「綺麗だ。瞳も、梗華自身も」
「え……?」
「美しい。恥じることなど、一切ない」
青年のあまりに実直な言葉に、梗華は泣きそうになる。
(綺麗だなんて、今まで一度も言われたことがなかった……)
薄汚れた着物に、水仕事で荒れた手、そして呪われていると揶揄されてきた深紅の瞳。
そんな梗華を綺麗だと言ってくれたのは、彼が初めてだった。
「あ、あり……」
胸が詰まったような感覚に、上手く言葉が出てこなかった。
梗華が少し落ち着いてくると、青年はゆっくりと話し出す。
「繰り返された輪廻の記憶がないのなら、私の名前も憶えていないか?」
「?はい……」
梗華は俯きながら答える。
「そうか、では再度名乗ろう。私は咲夜。妖の世界を統べる妖狐だ」
「妖、狐……?」
「そうだ」
梗華は自身の耳を疑うように、青年の顔をまじまじと見つめる。
(どう見ても人にしか見えないけれど、この人は妖、なの……?)
梗華の考えを読んだかのように、咲夜はふっと笑みを零した。
「私が妖に見えないと言うのだろう?」
「えっ、あ……」
「しかし、これを見たら納得もするであろう」
その咲夜の言葉のあと、人の姿をした咲夜の頭から大きなふさふさの耳が生え、大きな尻尾が出てきた。爪は鋭く尖り、梗華の薄い身体など容易に引き裂かれてしまいそうだった。
咲夜の妖狐の姿に、梗華はまた目をぱちくりとさせた。
「人には見えまい?」
「は、はい……」
(妖……本当に存在するのね……)
この世界では人と妖が対立していることは重々承知しているものの、本当に妖を見るのは、梗華にとってこれが初めてだった。梗華には妖を見る力すらなく、この屋敷から外に出たこともなかったためだ。
「怖いか?」
「え?」
「妖を見るのは初めてだろう?私が怖いか?」
怖い、という感情は湧かなかった。
それどころか梗華の中には何故か、懐かしい、という気持ちが込み上げる。
(変だわ……会ったことなんて、ないはずなのに……)
「怖くは、ありません……」
「そうか」
梗華の言葉に、咲夜はふっと表情を緩める。
咲夜は梗華の頬を撫でると、深紅に染まった右目を覗き見る。
「梗華、自分には能力がないと言ったな?」
「はい……」
「貴女には能力がある」
「え?」
「その力を解放しよう」
そう言った咲夜は、梗華の深紅に染まる瞳に口付けを落とした。
すると感じたことのない、気の流れのような、不思議な温かいものが全身を駆け巡っていく感覚があった。
すると梗華の身体が、がくんと膝から崩れ落ちる。それを優しく支えた咲夜は、梗華の背中を擦る。
「すまない。いきなり力を流し込み過ぎたかもしれないな」
(これは、一体……)
全身がなにか気配のようなものを感じている。大小さまざまなその気配の数は数えきれないほどで、梗華はふと、ああ、これが妖の気配なのだと悟った。
「梗華の力は今、目覚めたのだ」
「え?」
そう言われたところで、梗華は自分の力がどういうものなのか全くわからなかった。何か術が使えそうな気もしないし、そもそも皆能力をどのように認知しているのかさえわからない。
「あの、私の能力って……?」
梗華が恐る恐る咲夜に尋ねると、咲夜はきっぱりと言い切った。
「妖を統べる能力だ」
「え……妖を、統べる……?」
「そうだ、梗華の能力は、妖を統べる能力。妖を従える能力だ」
ずっと無能力だと言われていた梗華だ。咲夜の言葉は俄かには信じがたかった。
それに妖を統べる、だなんてそんな強大な力があるとするならば、国を揺るがす能力だ。今までそんな能力を持った人間がいたなどと、聞いたことがなかった。
「その深紅の瞳に宿された力は、来るべき日に覚醒する。そう決まっていた。私と梗華は共にあるべき存在。いくら世界が変わろうとも、それが揺らぐことはない。私達は、この世に生を受けたその日から、そうなる運命なのだ」
「運命……?」
「梗華は今まで妖に触れて来なかった。故に私の妖の力を流し込むことでその力が覚醒するのだ」
咲夜の話に、未だに信じられないと、困ったように眉を下げる梗華。
「私はずっと、貴女を見てきた」
「え?」
「狐の姿を通して」
「狐……、あ」
狐。そう言えば先程もこちらを覗き込むように狐がこちらを見ていた。
「あの狐は私の遣いだ。あれを通して、ずっと梗華を見ていた」
梗華の脳内にまた、狐を助け、一緒に月を眺めた映像が流れ出す。
「貴女が本当に私の妻に相応しいのかどうかを見させてもらっていた。そうでなければ、始末しようと思っていた。梗華の力は、それだけ妖の世界でも強大なものなのだ。しかし、それも杞憂だったようだ」
「え?」
「私の遣いの狐を、助けてくれたことがあっただろう?あれは少し抜けたところがあってな。それを梗華、貴女が救ってくれたのだ」
梗華の脳内に、縄に足を取られている狐の姿が鮮明に現れる。
「私は貴女の綺麗な心に魅入られたのだ。貴女なら、人と妖の世界をより良いものにできると」
咲夜は梗華を愛おしそうに見つめる。梗華はそれがなんともむず痒く、話題を変えた。
「あ、あの……、私と狐さんが出逢ったのは先程が初めて、のはずなんです。けれど、何故か助けた記憶も、一緒に月を眺めていたような記憶もあって、あの、言っている意味がわからないかもしれないのですが、ええと……」
「それはそうだろう」
「え?」
たどたどしく話す梗華の言葉に、咲夜は平然と頷く。
「それは過去の記憶だ」
「いえ、過去にそんな出来事は……」
「起きているのだ。この世界は繰り返されているのだからな」
「世界が、繰り返されている……?」
「そうだ。貴女の姉によってな」
「姉様、が……?」
「順を追って話そう」
咲夜はそう言うと、梗華に今まで起きたことを話し始める。
一度目の人生、それは、梗華が強大な妖を統べる能力に目覚め、咲夜に嫁ぐ人生だった。
梗華はやはりこの時も能力の目覚めが遅く、仙花が貴宝院家の期待を一身に受けていたのだが、姉妹仲は良く、両親や使用人から虐げられる梗華を、仙花が守り続けていた。
しかし、咲夜が梗華の前に現れ、妖の力を浴びたことによって、その深紅の瞳に隠された妖を統べるという、強大な力に目覚めてしまう。
これでやっと姉様のお役に立てる……!そう意気込んでいた梗華だったが、前代未聞の強大な力に、両親は掌を返し、梗華を溺愛し始めたのだ。
これで貴宝院が能力者の頂点に立てる、国を統べることすらできると、廉太郎と松子は大喜びだった。
そうして梗華とは対照的に、今度は仙花が虐げられることとなり、仙花の敵意は梗華に向いた。
「……どうして、どうしてなの……っ!!!私が、私がこの貴宝院家を継ぐはずだったのに……!お父様もお母様も、どうして梗華ばかりなの!!」
梗華を憎んだ仙花は、梗華を殺そうと飛び掛かった。
しかしそれは咲夜が軽々と阻止し、梗華を殺そうとした罪で捕らえられた仙花は、そのまま梗華を憎み、呪いながら自害したのだった。
「これが私達が初めて出逢った世界での出来事だ」
「そんな、そんなことって……」
「そうして仙花は、人生を繰り返す力を手に入れる」
梗華を恨みながら死んでいった仙花は、輪廻の狭間で悪しき妖に取り込まれ、繰り返しの能力を手に入れる。
呪ってやる、呪ってやる。こんなはずじゃなかったのに。もう一度人生をやり直せたら。
憎しみに心を取り込まれた仙花は、気が付けば自分が十の頃に戻っていた。
二回目の人生を送る仙花は、容赦なく梗華を虐げる。
梗華はずっと疑問に思っていた。どうして仙花は、無能の自分なんかを憎んでいるかのような瞳で見てくるのかと。
まさにそのままの意味だったのだ。仙花は、梗華を憎んでいたのだ。
そうして二回目の人生。咲夜の遣いである狐と梗華を蹴り飛ばしていた仙花に、狐が報復し、仙花は運悪く石に頭を打って死んだ。
そして三回目。
また十の頃に戻った仙花は、ますます梗華を虐げていく。その行動は二回目とは比べ物にならないくらいに容赦なく、梗華を殺そうとしているのは明白だった。
しかしまたも咲夜が登場し、このままではまた梗華が力に目覚めてしまうと思うや否や、自分の首を掻き切り、自害し、繰り返しの能力を使ったのだった。
「……今は、何回目なのでしょうか……?」
「六回目だ」
「六回……」
仙花はその繰り返しの能力を使い、もうすでに六回人生をやり直していた。
梗華がはなから蔵に閉じ込められているのは、咲夜や狐に会わせないようにするためだったのだ。
「まさか姉様が、そんな能力を……」
自分の満足のいく人生にするまで繰り返す。
その執念深さと復讐心に、梗華は胸が苦しくなった。
(私は、それほどまでに姉様に憎まれていたのね……)
梗華の能力が目覚め、両親の愛が一気に梗華に向いてしまったのは、梗華にはどうしようもないものではあったはずなのだが、仙花の怒りの矛先は梗華に向かってしまったのだ。
「彼女は梗華が力に目覚めぬよう、暗躍し続けた。そしてそれがうまくいかないとなると、自害し、やり直したのだ」
咲夜の話を聞き終わった梗華の脳内には、今までの人生の映像がすべて鮮明に思い出されていた。
咲夜との初めての出逢いも、狐の遣いと過ごした夜も、段階的に酷くなっていく仙花からの嫌がらせも、目の前で命を絶つ仙花の姿も、この時梗華はすべてを思い出したのだった。
「繰り返しの能力はもともと妖の力だ。妖達には今までの記憶はもちろんある」
「そう、だったのですね……」
「繰り返しの能力は人に渡ってはいけないものだ。妖は世界の理を重んじる。故にこの繰り返す世界を止めねばならない」
咲夜の言葉に、梗華はわなわなと唇を震わせながら詰め寄る。
「でしたら私が……!私が死ねばよいのです……!」
「なんだと……?」
「元はと言えば私が、私が妖を統べる能力などに目覚めてしまったから、姉様がこんなことになってしまったのです!私さえいなければ、こんなことには……っ」
梗華の言葉を遮るように、咲夜は梗華を強く抱きしめる。
「咲夜……様……」
「馬鹿なことを言うな。貴女は私の大事な花嫁なのだ」
「でも!私のせいで姉様が!私なんて、誰にも必要とされていないのです!いない方が良いのです!」
両親からの愛もなく、ずっと虐げられて生きてきた。自分は必要のない、生まれてくるべきではなかった人間なのだと、梗華はそう思って生きてきた。
今更死など怖くはない。自分が死んで、世界が丸く収まるのなら、梗華はそれが一番だと考えた。
咲夜は梗華を抱く腕に力を込める。そうして梗華の瞳を見つめ、はっきりと言い切った。
「梗華は必要な人間だ。私が必要としている。心優しき貴女と、添い遂げたいと思っている」
咲夜の言葉に、梗華は驚いたように目を丸くした。
「この世に生を受けてきてくれて感謝している。どうしても私は、梗華でなくてはならないのだ」
「どうしてそこまで……」
咲夜の言葉に嘘偽りがないことは、梗華にも伝わっていた。何故そこまで自分に固執するのか疑問が残りつつも、梗華にとって咲夜の言葉は今まで自分自身を傷付けてきた言葉達を打ち消すには十分だった。
(誰かにこんなふうに言ってもらえるのは初めて……)
梗華の瞳から、一筋の雫が流れる。
(私はずっと、誰かに言ってもらいたかった……。生まれてきたこと、生きていること。ちゃんと意味があるのだと……)
静かに涙を流し続ける梗華に、咲夜は優しく寄り添い続けた。



