竹に囲まれた紫陽花の花が、青や桃色にその花びらを染めている。
そこに二人の小さな幼い少女がいた。
二人の少女はそっくりであるものの、一人は少しつり目、一人はおっとりとしたたれ目であった。
「いい?梗華。私達はこの貴宝院家を継いでいかなくてはならないの。妖を退治して、人々を守っていくの」
「うん!」
「私、梗華と一緒ならなんでもできるって思うの。だから、梗華。力を貸してくれる?」
「うん!姉様!」
小さな少女二人は、手を取り合い、将来を誓い合う。
なんて幸せな世界なんだろうか。
けれどそんな幸せな世界は、すぐに歪んでいき、また闇に呑まれていく。
*
梗華ははっとして目を覚ます。
今の今まで見ていた夢に、少しの時間想いを馳せた。
(今のは夢……よね。だって、私と姉様にこんな思い出は存在しない。姉様は幼い頃から厳しかった。優しくされたことなんて、一度もないはずだもの……)
夢はたかが夢なのだ。梗華の願望が、夢に現れたにすぎないのだろう。
梗華は重い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がる。
手鏡を覗くと、忌々しい深紅の瞳が、梗華を見つめていた。
「こんな……っ、こんな目さえなければ……っ」
もう何度思ったか分からない。
この瞳さえなければ、自分は両親からも、姉からも見捨てられずにすんだのだろうか。
貴宝院家の娘らしく力に目覚め、姉とともに妖を討つことができたのだろうか。
もう幾度となく考えてきたことを、梗華は今日も考える。
「どうして私は、こんな目を持って生まれてしまったの……?」
「梗華!梗華!」
「は、はい!姉様……っ」
仙花に呼ばれ、梗華は慌てて彼女の前へとやってくる。
「このお茶はなに!?苦くてたまらないわ!」
そういうと仙花は、熱いお茶を容赦なく梗華の顔に浴びせかけた。
「あ……っ」
あまりの暑さに驚く梗華に、今度は湯呑が飛んでくる。
「何をぼさっとしているのよ!!さっさと代わりのお茶を持って来て!!また不味いもの寄越したら許さないわよ!!」
仙花は熱がる梗華になど目もくれず、金切り声で罵声を浴びせる。
そんな梗華を憐れむように見ていた使用人達は、自分にその火の粉が飛んで来ぬよう、そそくさと仕事に戻っていく。
梗華はぐっと唇を嚙みしめ熱さに耐えながら、「申し訳ございません……」と呟き、その場から下がる。
熱湯を掛けられ、ひりつく頬に気を留めないようにしながら、梗華は慌てて新しいお茶の準備を進める。
梗華の記憶がある限り、二人の齢が十を数える頃から、仙花は梗華に酷い仕打ちをしていた。
仙花のその強大な妖を滅する力が目覚める前から、仙花は自身の力の覚醒を疑うことなく、梗華を馬鹿にし続けた。
結果として梗華は、特別な力にも目覚めず深紅の瞳もそのまま右目にある。
生まれた時からそんな目を持っていたせいなのか、仙花が梗華に優しくすることは一度もなかった。
どころか、ここのところの仙花は、梗華が死んでも構わないと言うように嫌がらせの度を越していた。
梗華の傷口にわざわざ塩を塗りたくったり、暴力や暴言は日常茶飯事で、先程のように熱湯をかけられることもしばしば。
その行為には悪意しかなく、仙花が梗華をいらないものだと思っているのは明白だった。
「ふう……」
夜、梗華は自室から月を見上げる。
夜のそのひとときだけが、梗華にとって安らげる時間だった。
仙花に怒鳴られも、叩かれもしない、やっと一人になれる時間。
いつまでこんな時間が続くのだろうか、いつ終わりが来るのだろうかと、月に問いかける日々。
そんな梗華にも、最近少し楽しみができた。
庭の茂みががさがさと音を立て、そこからひょいと狐が顔を出す。
「あら、やっぱり今日も来てくれたのですね」
狐は梗華の元へとやってくると、その身を梗華に寄せ、一緒に月を眺めるのだ。
この狐とは、数日前に出逢った。
貴宝院の敷地内で、動物用の罠に掛かっていたところを梗華が見つけ、山へと返したのだ。しかし狐は梗華を気に入ったのか、毎日のように梗華の元へとやってきては、その隣に腰掛け、一緒に夜のほんのひとときを過ごすようになったのだった。
「今日も月が綺麗ね。お月見が好きなのかしら」
その金色の身体に触れると、温かくお日様のようないい匂いがした。
「私の話し相手は貴方だけです。来てくれてありがとう」
毎日毎日仙花に酷い仕打ちを受けても、梗華がなんとか心を失わずに生きてこられたのは、狐のおかげだった。
人間でなくても、だれかが寄り添ってくれているのだと思うと、梗華の心はそれだけで少し楽になるのだった。
「今度こっそりお団子を用意しておきますね。またこうしてお月見しましょう」
狐に言葉などわかるはずもないのだが、お団子、という言葉に、狐の耳がぴくりと反応したような気がした。
「あ、でも狐はお団子食べられるのかしら……」
そんなことを考えているうちに、狐はさっと立ち上がりその姿は木々の奥へと消えていた。
「みすぼらしい手ね……」
梗華が仙花の目の前の机へと湯呑を置くと、その手を見た仙花が呟いた。
「どうしてそんな汚い手で生きていけるのかしら」
梗華の手は食器洗い物や洗濯で荒れ、ひび割れ、傷だらけだった。年若い女子とは思えぬような皺皺の手に、仙花はまた蔑むような視線を向けた。
梗華はその手をさっと隠すと、「申し訳ございません……」と小さく呟く。
ふんと鼻を鳴らした仙花は、一口お茶を啜って。
「あつっ……!」
勢いよく湯呑から口を離した。
「なんてもの寄越すのよ!!火傷したじゃない!!」
「も、申し訳ございません……っ!」
そうして湯吞を力いっぱい梗華に投げつけた。
「どうしてこんなこともできないの!!あんた、私を下に見ているんでしょう!?」
「そ、そんな……姉様をそんなふうに見たことなんて……」
「嘘よ!!あんたは私をいっつも馬鹿にして!!心の中では私を嘲笑っているんだわ!!私が弱いとそう思っているんでしょう!?」
仙花の金切り声に、慌てたように松子がやってくる。
「あらあらどうしたの仙花」
「お母様!梗華が無能のくせに私を馬鹿にするの!」
仙花は松子に泣き真似をしながら縋り付く。
「そんな、私は姉様を馬鹿になんて……」
しかしそんな梗華の言葉は当然松子に届くことなどなく、松子は梗華を睨みつけた。
「梗華、貴女立場をわかっているのかしら?無能で呪われた貴女を、こうして使用人としてこの貴宝院に置いているだけ感謝なさい」
「……はい」
「わかったのなら早く片付けて頂戴」
松子は仙花の頭を撫でながら、部屋を出て行く。
梗華はそんな二人の後ろ姿を見つめながら、ただただ茫然としていた。
(使用人……私は、家族ですらない……)
力なく立ち尽くす梗華の目の前に、父である廉太郎が通り過ぎた。
何事もなかったかのように一瞥する廉太郎に、梗華は胸が苦しくなる。
(父様も母様も、私のことなんて本当に家族とも思っていないのね……)
わかり切っていたことではある。しかしその事実をまざまざと見せつけられる度、梗華の心は痛むのだ。
髪から滴るお茶に構いもせず、梗華はテーブルと床を拭き続けた。
「梗華、貴女、変なことはしていないわよね?」
「え……」
ある時急に、仙花にそんなことを言われた。
「私に隠し事はしていないか、と訊いているの」
仙花は感情を押し殺すように、力強くも冷ややかに訊いてくる。
「ね、姉様に隠し事なんて……なにも……」
梗華がそう答えると、仙花は「そう」と淡泊な返事をした。
「貴女がなにか企んでいたとしても、私にはすぐにわかるわ。それを忘れないで」
「は、はい……」
仙花が何故そんなことを言うのかは、梗華にはわからなかった。
ある夜、梗華は寝苦しさで目を覚ました。
(なんだろう……この感覚……)
梗華にとってそれは、感じたことのないなにか強大な力のような、気配のようなものだった。
すると間もなくして、屋敷内が慌ただしくなる。
まだ日の出までかなりの時間がある真夜中のはずだが、松子や廉太郎、仙花の声が聞こえて、梗華は自室を出てこっそりと声の方を覗く。
すると仙花が妖との戦闘時に着用する巫女服へとその身を包み、何人かを従え出て行くところであった。
(なにか強大な妖が現れたんだわ……)
仙花が真夜中に出掛けるのを、何度も見たことがあった。そういうときは大概、人里を襲う強大な妖が現れたときであり、夜だろうが就寝中だろうが、仙花はそれを祓いに行くのだ。
梗華は自室に戻り、布団に横になる。
こういうとき梗華はいつも考える。
(私になにか能力があって、姉様の力になれたのなら……)
梗華になんらかの能力があり仙花の力になれたとしても、仙花はおそらく、梗華を目の敵にするのだろうが、どうしてもそんなもしもを考えずにはいられない。
梗華が能力に目覚め、深紅の瞳など持ち合わせていなかったら、二人は貴宝院の名に恥じぬ存在になっていたのかもしれない。
普段、妖の気配など感じないはずの梗華でさえ、なにか不思議な気配を感じるのだから、妖は余程の力を持っているに違いなかった。
「姉様……」
酷い仕打ちを受けながらも梗華が仙花を想ってしまうのは、双子であるから姉妹であるからだけでなく、夢に視たように、仙花にももしかしたら優しい心が存在するのではないかと期待してしまうからだ。
(夢はたかが夢だというのに、いつまでも未練がましいこと……)
そうして梗華がまた眠りにつこうとしていると、りん、と一つ、鈴の音のような音が聞こえた気がした。
その音に反射的に起き上がった梗華は立ち上がり部屋を見回して、そうしてはっと息を飲んだ。
いつからそこにいたのか、着物を着た男性がそこに立っていたのだ。
真っ暗闇の部屋にそこだけが光輝いているかのような、金色の髪を持つ美しい青年であった。
「梗華」
落ち着いた穏やかな声が空気を震わす。
自身の名を呼ばれたことに驚く梗華に、青年は手を伸ばした。
「梗華、迎えに来た」
「え?」
すると突然、梗華の右目、深紅に彩られた呪われた瞳が疼き出す。
梗華が瞳に手を当てていると、その手をどけるように青年が梗華の腕を取った。
「綺麗な瞳だ」
「え……」
「これほど美しい瞳は、見たことがない」
呪われた瞳だと言われ続けた梗華の瞳を、美しいと言ったのは彼が初めてだった。
青年は梗華の瞳を覗き込むように見つめ続ける。あまりの近さに我慢できなくなった梗華は、ぱっと顔を逸らす。
「き、綺麗なんて嘘です……。この瞳のせいで、私は……」
「梗華」
青年がまた名前を呼ぶ。
「どうして私の名前を……?」
見たことも、会ったこともない青年だ。それなのにどうして彼は梗華のことを知っているのだろうか。
「やっとまた貴女に逢えた」
「え?」
梗華が目を丸くしながら青年を見つめていると、廊下でバタバタと忙しない足音が聞こえてきた。
「梗華っ!!!」
「姉、様……?」
先程妖退治に出掛けたはずの仙花がしかし、息を乱してそこに立っていた。
青年はくるりと仙花を振り返る。
「随分と早いな。強大な祓いの力を持っているとは、真であったか」
青年は少し小馬鹿にしたような笑みを貼り付け、仙花はそれを鬼のような形相で睨みつける。
「あんたね!あんただわ!いつもいつも私の邪魔をするのは!!」
「邪魔をしているのはどちらだ?いつまでも自分の思い通りに事が運ぶと思うな」
仙花と青年を交互に見つめる梗華は、二人がなにを言っているのかさっぱりわからなかった。
青年は再び梗華の方を向き、その元気のない真っ白な肌に触れた。
「梗華、力に目覚める時も近い。必ず迎えにくるぞ」
「え……?」
また一つ、りん、と鈴の音が鳴って、気付けば青年の姿はなくなっていた。
辺りを見回していた梗華はしかし、仙花の狂気に満ちた表情にはっと息を飲んだ。
「姉、様……?」
仙花は梗華を睨み付け、思い切り突き飛ばした。梗華の身体は軽々と吹き飛び、部屋に置かれていた箪笥に背中を強く打ち付ける。
「うっ……」
息が出来ず呻く梗華を、仙花は容赦なく蹴り付ける。
「梗華!変なことはしていないと言ったわよね!?嘘ついたのね!?」
「ね、姉様……っ、私は、なにも……っ」
梗華の痩せ細った身体から、骨の折れるような音が聞こえ始める。
「……っ、姉っ様……っ」
痛みで意識が朦朧とする梗華に、仙花は暴力を振い続ける。
「どうして!どうしてまたこうなの!!」
仙花は悲鳴にも似た叫び声を上げると、胸元から短刀を取り出す。
(ああ、私の人生はここで終わるのね……)
梗華がそう覚悟を決めると、仙花はその短刀で躊躇いもなく自身の首を掻き切った。
闇夜に鮮血が飛び散る。
力なく膝をついた仙花は、そのままばたりと音を立てて倒れてしまった。
「姉、様……っ」
梗華は驚き、痛む身体を引き摺りながら、仙花の元へ向かう。
仙花の首からおびただしい量の血が溢れ、畳を赤く染めていた。
風を切るようなひゅーひゅーとした呼吸の仙花の口から、なにか呟き声が漏れる。
しかしその言葉がなにを意味しているのか、梗華にはわからなかった。



