先に周平が立ち上がり、手を引っ張って美波を立ち上がらせる。そして、そのまま拝殿の裏にある本殿へと向かった。
 地鳴りがしている。まるで地面の底で龍が蠢いているかのように、地球の唸り声が再び小刻みに地面を揺らし始める。

 2人が本殿に辿り着くと、入口の扉は先ほどの地震の影響なのか、蝶番が壊れて開いていた。周平と美波は顔を向き合わせると、一度大きく頷いて扉の隙間から中に入った。形式だけの本殿の内部は暗くて何も見えなかったが、階段の位置を覚えていた周平が先導する形で進んで行く。
「ここから下りるよ」
 手探りの状況で階段の場所を見付けた周平は、頷く美波を確認して地下へと続く階段を下りていく。幸いにも電気が止まっていなかったため、階段の上部に取り付けらていた電源スイッチにより照明が点灯した。それでも、足下を照らす程度の光源であり薄暗いことには違いなく、長い階段をゆっくりと下りていく。そして、ついに2人と阿吽の狛犬は天秤がある場所に辿り着いた。


 何も無い異質な空間の真ん中に、周平が以前目にした通りの台座があった。台座である巨岩の中心に真っ直ぐに立つ支柱。その傍らに、天秤が力を失って横たわっていた。

 周平と美波は台座に歩み寄ると、その天秤を手に取った。
「これを支柱に乗せて、それぞれの受け皿に狛犬を乗せれば」
「それでいい、のよね?」

 周平は天秤を支柱に乗せようとした瞬間、先ほどから聞こえていた地鳴りが一層大きくなった。足下が小刻みに揺れ始め、地下室の天井からパラパラと砂が落ちてくる。これまでの地震とは違う初動。地下室に響く地鳴り。おそらく、これが本当の終わりの始まりだと確信する。

 急いで支柱に天秤を乗せ、片方に阿の狛犬を乗せる周平。
 その隣で、慌てて美波も吽の狛犬を皿に乗せる。
 しかし、天秤は釣り合うどころか、まるで支柱と反発し合うように転げ落ちた。
 周平と美波は各々の狛犬を拾い、再び天秤を支柱に乗せて―――今度は周平が狛犬を乗せたところで、天秤が支柱かた転がり落ちた。まるで、何かが不足しているかのように。

 地鳴りが地響きに変わり、足の裏にビリビリと振動が伝わってくる。地中深くから近付く何かが、最後の警鐘を鳴らしているかのうようだった。

「あ、阿吽の呼吸・・・」
 ポツリと呟いた美波の言葉に、周平が顔を上げる。
「占い師のお婆さんに言われたの。阿吽の呼吸を忘れるなって」
「それだ!!」

 今度は天秤を支柱に置いたあと、タイミングを合わせて阿と吽の狛犬を乗せる。
 それでも、天秤は転がり落ちる。
 まだ、合っていない。
 阿吽の呼吸とは、絶妙にタイミングが合っているということ。
 それは、タイミングが合っているというだけではなく、思いも、呼吸も、まるで2人が1つになっているかのように思える状態のことだ。

 周平は天秤を支柱に置くと、美波の手を握り締めた。美波も周平の意図を理解したのか、目を閉じて大きく深呼吸する。目の前に迫った終焉も忘れ、ただ、隣から聞こえる呼吸に自分の呼吸を重ねていく。繋いだ手から伝わる温かい感情に自分の思い織り交ぜ心を重ね合わせる。そして、お互いの手が同時に伸びる。

 2人がゆっくりと目を開けると、両方の皿の上に狛犬が乗った状態で天秤が左右に揺れていた。
 

 しかし、地響きが止まらない。
 暴発一歩手前という状態で小康状態を保っている。
 それも長くは続かず、徐々に揺れが大きくなり始めた。
 再び天秤が落ちないように、周平が天秤を押さえる。
 その隣で、美波も周平の手を必死で押さえた。
 天秤がガタガタと大きく揺れる。
 周平と美波がいくら押さえようと、大きくなる揺れが直接支柱に伝播し、2人の手を振り解こうとする。
 重石だ―――と、周平が気付く。
 天秤を抑えていたのは重石だった。
 周囲を見渡し重石を探す。
 しかし、あのときに目にした重石はどこにも見当たらない。
 更に強くなる振動。
 重なっていた美波の手が離れる。
 不意に変わった重さに、周平の手が天秤から離れそうになる。

 そのとき―――――微かに耳に届いた。
 花火が打ち上げられた。
 地下室まで届く花火の音。

 その音が何度も響いたあと、周平が重ねた手の下から声が聞こえた。

 ―――きれいだね
 ―――中止にならなくて良かった
 ―――来て良かった
 ―――また来年も見たいね
 ―――また一緒に来ようね
 ―――来年も来ようね
 ―――来年はもっといい場所で見たいね
 ―――来年は
 ―――来年は
 ―――来年は

 花火大会は祈りだ。
 日本三大花火大会の長岡の花火は、慰霊、復興に尽力した先人への感謝、恒久平和への願いを込めて打ち上げられる。初めての花火大会も、飢饉と疫病の犠牲者を弔うために開催された。鎮魂と未来への祈願。だからこそ、人の思いが集約される。

 重石―――――それは、思石だ。
 人々の思いが、未来への希望が、天秤を抑える力だったんだ。
 だから、養老律令で未来へと続く道徳心を養い、人々を律した。
 言葉の大切さと重さを忘れないように。
 猿や犬にならないように。

 しかし、1000年続いた律令は明治維新によって廃止された。
 さらに、インターネットの普及により言葉が軽くなり、本来の力を失う。それでも、軽くなった言葉が宙を飛び交うことによって、その数でどうにか抑え込むことはできていた。
 偶然が必然か、電磁嵐によって頼みであった数も無くなり、思石は壊れた。

 周平が手を放すと天秤を抑えるように、小粒の真珠ほどの真っ白い石が乗っていた。それが重石であることが周平には分かった。