天秤花火大会の開催時刻は20時から45分間。その1時間前の19時に、周平は天秤神社の階段に到着していた。いつもならば見上げる石段に遮る物などないが、今日は階段の入口にロープが張られ、2人の警備員が立っている。この先は立入禁止という訳だ。
 昼間に天秤神社の境内から眺めれば分かるが、眼下に広がる景色は圧巻だ。街の中心にあり周囲に高い山がなく、ちょうど石段の頂上からは花火大会の会場が真正面に見える。天秤神社に御参りに行ったことがある人ならば、一番花火がきれいに見える場所はここだと答えるだろう。それだけに、大勢の人が押し掛け、石段で事故が起きることを危惧した神社側が、花火大会の日は立入禁止にしているのだ。


「着いたよ」
 手にしている狛犬に、周平が短い言葉で語り掛ける。

「私も、今、着いた」

 その声は、狛犬と同時に、直接耳朶を震わせた。
 誰かが近付いて来る気配を感じ、周平が顔を上げる。
 無意識に存在を重ねてはいたものの、本人だとは思わなかった人物がお互いの目の前に立っている。
 周平はたった今話し掛けた狛犬を手の平に乗せ、美波の前の前に差し出す。
 美波もそれに合わせるように狛犬を手の平に乗せ、周平の持つ狛犬に並べる。

「ホントに口が開いてるんだね」
 美波が阿の狛犬を覗き込んで訊ねる。
「そうだよ。 これで、また阿吽の狛犬が揃った」
 安堵して大きく息を吐き出す周平に、笑顔の美波が補足する。
「うん。私たちも、やっと揃ったね」
「そ、そうだね」
 周平は美波から視線を逸らし、照れ隠しに笑うしかなかった。

 周平は美波とともに階段の入口に立つ警備員に歩み寄ると、ポケットに入れてきた封筒を渡す。封筒の中身は、神主が周平に持たせた許可証だ。これさえ持っていれば、何かの理由で立入禁止になっていても、自己責任で入ることができるという代物だ。警備員は中身を取り出し天秤神社の朱印が押印してあることを確認すると、2人を階段に続く石畳へと通した。

 2人は石段の下に到着すると、並んで見上げる。1000段を超える石段。上りの所要時間は通常であれば1時間前後。ちょうど、花火大会が開催される頃に境内に到着するのではないだろうか。
 どうにか間に合いそうだという安堵感と開放感。そして、2人だけの戦いが終わることへの寂寥感(せきりょうかん)と欠落感。複雑な感情にかき乱されながらも、周平は美波に声を掛ける。
「行こう」
 美波は目を見詰め返すと、力強く頷いた。


 バスケットボール部で主力として活躍してきただけあり、美波はツライ表情も見せず軽快に階段を上がっていく。その横にいる周平も、息を弾ませてはいるものの足を止めることなく上る。

 半分ほど上ったところで夕陽が一筋の光を残して沈み、何もかもが曖昧になっていった。黄昏時は、誰そ彼時(たそがれどき)。人の顔の見分けがつかないほど暗い時間帯。参道の石段に街灯などあるはずもなく、隣を歩く人の顔が見えなくなって少し不安になる。確認しようと思って伸ばした手が、2人の真ん中でぶつかった。思わず立ち止まる2人。顔を見合わせたあと、少し笑って手を繋いだ。

 上り始めて45分ほどで2人は境内に到着した。
 石段の頂上で振り返ると、眼下には天秤市の夜景と遠くに花火大会のメインステージのライトが見える。もう少しで花火大会が開催されるが、ここで眺めている時間はない。花火が見たいなら、また来年、再来年と見ればいいだけのことだ。今年は、それよりも重要なことがある。2人の手を繋いだままお互いの顔を見て頷くと、本殿の方向に向かって歩き始めた。

 立入禁止の境内には人の姿は無く、社務所から灯りが漏れているが誰かが出てくる気配はない。静寂に包まれた境内に、地面を踏み締める音だけが数かに響く。周平が場所を覚えているため、迷うことなく本殿へと向かう。


 ―――――2人が拝殿と社務所の間を通り抜けようとしたとき、それは起きた。

 一瞬、眩暈したのかと思うほど足下が揺れた。
 その次に、立ち並ぶ石灯籠がガタガタと音を立て始めた。
 崩れそうなほど前後左右に大きく動く石灯籠。頭上では本殿の巨大な屋根がギシギシと大きな音を鳴らし始める。バラバラと何かが頭上から落ちてくる気配がした直後、瓦が次々と落下し、立て続けに地面でガシャガシャと音を立てる。ついには境内の石灯籠が倒れ始めた。立っていられなくなった美波はその場にしゃがみ込み、周平は美波を護るようにしてその上から覆い被さった。

 少しずつ小さくなる揺れ。
 周囲から音が消え、先ほどまでの静寂が辺りを支配する。
 5分近く揺れた地震は、確実に震度5以上のものだった。
 しかし、これが始まりであることを周平は分かっている。
 当然ながら、美波もこれが終わりではないことを十分に理解していた。

「急ごう」
「うん」