周平は少し間を空けて話し掛けた。
「何があったんですか? 
 誰か分からない人間に話す気にならないのは分かりますが、どこの誰か分からないからこそ、話せることもあるのではないですか?
 約束します。僕はどんなことがあっても、例え貴方が殺人鬼であろうが、僕が貴方の手を放すことはありません」

 本当に悪い人は、一人ぼっちで「助けて」なんて言わない。
 助けてと口にする人は、裏切られ、理不尽に虐げられた人だ。
 かつての自分がそうであったように、誰かが信じて、向き合って話しを聞けば、少しでも心が安らかになる。
 周平は「助けて」の悲鳴に、全力で応えようと決意する。

「僕は―――もう随分と前になりましたが、信じていた友だちや仲間、周囲の人たちに裏切られたことがあります。身に覚えの無い罪を着せられ、信じていた人たちから罵られ、孤立した経験があります。部活も辞めてしまい、教室でも無視されて。だから、誰も信じられなくなって、でも一人は嫌で、絶望の中で、誰かに助けて欲しいと心から願いました」
 無意識に左膝を撫でながら、中学生のときに起きたことを頭に浮かべる。あのとき、悪意がある作り話を広げたのは北方だった。北方はずっと、周平のポジションを狙っていた。みんなの中心にいて、リーダーシップを発揮していた周平が気に入らなかったらしい。

 ああ、春瀬の場合も同じだ。
 今日の出来事を思い出して周平は表情を歪める。本人のいないところで嘘を広げ、自分に都合が良いように真実を捻じ曲げる。そして、第三者たちは確認をすることもなく悪意を鵜呑みにし、裏切り、罵り、貶す。


 美波は狛犬から聞こえてくる話を聞き、自分と同じような経験をした人がいるのだと、申し訳ないと思いながらも少し安堵した。
 同時に、なぜか紗弥から聞かされた周平のことを思い出した。無意識に、たった今聞いた話しを周平の過去に重ね合わせた。だからかも知れない。誰かも分からない人の話を、美波は素直に聞くことができた。そして、思っていることを全て吐き出すことができた。

「最近、本当に良いことが何もなくて。少し前に仲が良かった母親と口論してしまって、それから会話もなくて、何かギクシャクして、自宅なのに何か居心地が悪くなってしまって。それに、今日は、そんなこと一度もしたことがないのに、男遊びしているって嘘を広められてしまって。いくら違うって言っても誰も信じてくれなくて。あんなに仲良かったのに、みんな私の話しを聞いてくれなくて。私を取り囲んで、嘘を振りかざして私を責め続けるから―――――もう、耐えられなくて、その場から逃げ出したんです。
 もう何もかもがどうでも良くなって、電車に飛び込もうかとか本気で考えてしまうほどに・・・でも、私は吽の狛犬を持っているから、それはできないから。でも、暗い部屋に一人でいると・・・もうムリだった。ホントに限界だった。だから狛犬に、助けて欲しいって、お願いをしたんです」


 偶然にも、周平は中学3年生のときに転居に伴って転校したため、地獄のような環境から逃げ出すことができた。噂話などに左右されず、自分の価値観で接してくれた千代の存在も大きかったと、今となっては分かる。
 周平には狛犬の向こう側にいる人の状態が、痛いほど理解できた。
 そして、偶然立ち会った美波に関する作り話を思い出し、話し相手である狛犬の持ち主に重ね合わせた。美波であるはずがない。そう思いながらも、これときから狛犬の持ち主と会話をするときは、頭の中に美波を思い浮かべるようになった。

「あの、阿吽の吽の狛犬がどんな役割かを知ってますか?」
 周平の問いに美波が応える。
「えっと、二種類の狛犬のうち口を閉じている方だと聞きました。それと吽は終わりを意味するので。良くない物や感情が集まってくるとも。だから、頑張って抵抗しろって、ある人に言われました。そわが私の役目だと」
 美波の説明を聞き、周平は夢バーが会ったという女性本人だと確信する。
「概ね合ってると思います。僕は始まりを意味する阿の狛犬が手元にあります。
 だから、なのでしょうか、最近、朝のジョビングを始めました。数年前に交通事故で膝を骨折してしまい、医者にもう以前のようには動けないと言われました。ですが、もう一度頑張ってみようと思っています。今日は車庫の隅で埃を被っていたボールに空気を入れて、ドリブルの練習もしました」


 周平の話を聞いて、美波のテンションが一気に下降する。自分の方に阿があれば、こんな状況にならなくても済んだのではないかと思ってしまう。そうであれば、どれほど楽だったかと思ってしまう。そう考える自分が嫌で、美波の心がどんどん冷えていく。


 美波の心理状態を見抜いているかのように、周平が話しを続ける。
「でも、現実は自分の想像よりも、もっと過酷でした。何年もまとも運動などしたことがなかったので、ほんの数百メートルで息が切れました。やはり負担が大きかったのか、初日は膝が発熱してしまい病院で点滴を受けました。ドリブルも酷いものです。脳が記憶しているのは当時の動きです。でも、実際は全く動けないので、酷いものでした。
 ・・・・・あの、ですね、阿吽に優劣はないと思います。僕にとって、過去の記憶は本当に思い出したくないものです。でも、阿は過去を思い出のままにしてくれない。やっと瘡蓋(かさぶた)になった傷跡を、無理矢理に剥がされるんです。本当に厳しい狛犬ですよね」

 周平には狛犬の向こう側で、相手が息を飲んだのが分かった。