帰宅した美波は今日の出来事を思い出さないように、リビングのソファーに座りテレビを見ていた。
いつもは面白くもないお笑いタレントが上から目線のコメントをしているが、ここしばらく少し様子が違っている。いつまで続くか分からない電波障害と、インフラ設備や公共サービス、通信網の麻痺による治安の悪化がテーマになっている。笑いをとるために不適切発言を連発したお笑い芸人は、有線電話による猛抗議のため即座に出演禁止になった。何となく、視聴者も出演者も、余裕がないと感じてしまう。
しかし、社会情勢を考えると、それも仕方ないとは思う。その原因の一端は、現在美波が見ている特集だろう。
中央構造線付近での頻発する地震。ここ3日間で、震度4以上の地震が10回以上。しかも震源が中央構造線上であり、それ以外の関連が考えられない位置関係なのだ。強引に南海トラフ地震と連動させようとする学者もいるが、それには何の説得力もなかった。それより、中央構造線上で発生する巨大地震に対する関心度の方が高い。関心度が高い、ということは危機感を覚えているということである。
当然、そんな番組を見ていると、美波のテンションは下がっていく。久し振りに夕食を自炊しようかと思っていたが、既に作る気は完全に失せていた。確かに夏の日中は長いが、それでもいずれ西の山に沈む。目に入る情報量が減ると、思考は内側へと向いていく。窓の外が薄暗くなったとき、美波はソファーの上で膝を抱えていた。膝を抱えると落ち着くのは、胎児と同様に護られている気持ちになるからなのだろう。
20時を回ると美波は立ち上がって自分の部屋に向かう。そろそろ母親が帰宅する可能性があるからだ。あの日以降、まともに会話したことはない。母親の方から積極的に話し掛けられることはないし、美波からわざわざ話し掛ける理由もないからだ。カーテンを閉め切った部屋は真っ暗で、美波は定位置の部屋の隅へと移動し壁を背にして座る。その瞬間、今日の出来事がフラッシュバックした。
本当のことを言っても誰も信じてくれない。嘘吐きが当たり前のように虚言を撒き散らして私を陥れても、その嘘がいつの間に真実になる。どんなに真実を伝えようとしても、誰も聞いてさえくれない。嫌な思いをし、怖い体験をし、酷い仕打ちを受けた私が悪者にされ、穢され、貶され、罵られた。被害者の私がいつの間にか加害者にされ、まるで娼婦のような扱いをされた。信じていた友だちも、ずっと一緒に頑張ってきた仲間も、誰もが私を蔑み、誰も味方にはなってくれなかった。信じられなかった。あんなに一緒にいたのに、あんなに頑張ってきたのに、私よりもあんなヤツの言葉を信じるなんて。悔しくて、哀しくて、腹が立って、絶望した。
居場所を失った。この嘘は誇張されて伝わり、面白半分に改竄され、もっと酷い内容で広がっていくに違いない。もう、どんなに頑張ったところで、以前のようにはなれない。穢わらしいモノとして扱われ、嘘しかない陰口を囁かれ、品性の欠片も無い男たちに視姦される。私は何もしていないのに。何ひとつ悪いことはしていないのに。もう学校には行けない。噂が学校中を駆け巡り、私の悪評が他校にまで回されているかも知れない。コンビにのバイトも伝わってしまうかも知れない。もう、コンビににも行けない。もう、外に出られない。ずっと、この部屋の中に隠れておかなければならない。もう、完全に一人ぼっちになってしまった。
美波が狛犬を相手にして語りかける。
「もう、ムリだよ
理不尽なことをされて、一人ぼっちになって。
強くもない私は耐えられないよ。
頼れる人も、味方もいなくて、居場所も失って。
もう、どうしようもないよ。
終わりに飲み込まれないようにって、できないよ。
阿の狛犬を持つ人を見付けるなんて、ムリだよ。
もう、折れそうだよ。
細くなった私の心なんて、簡単に折れちゃうよ。
―――――ごめん、泣いちゃった。
もう、我慢できない。
悔しい、よ。
哀しい、よ。
ねえ、もう、私にはムリだよ。
一人ぼっちは、ムリだよ。
これ以上は、ホントに、ムリだよ。
ねえ、助けてよ。
誰か、助けてよ。
お願い、誰か助けてよ
助けて―――――」
―――――その声は、周平の耳に届く。
自室で吽の狛犬を探す方法を考えていた周平の耳に、突然小さな声が聞こえてきた。目の前にある狛犬が喋った。そうとしか周平には思えなかった。
聞こえてきた声は「助けて」。周平はごく当たり前に、それが吽の狛犬を持つ人物の声だと分かった。終わりを呼び寄せる吽は、それを持つ人物に絶望を運んでくる。かつて絶望を経験した周平は、それがどんなに厳しい状況で、心を保つことがどんなに難しいことかを知っている。だから、助けを求める気持ちも、それがどれほど限界に近いかも理解している。
そんなときは、絶対に一人でいてはいけない。
誰かが背中を支えなければならない。
誰かが味方にならなければならない。
誰かが「大丈夫」だと笑顔を見せなければならない。
だから、周平は狛犬に向かって断言した。
「―――――大丈夫ですよ、僕がここにいますから」
いつもは面白くもないお笑いタレントが上から目線のコメントをしているが、ここしばらく少し様子が違っている。いつまで続くか分からない電波障害と、インフラ設備や公共サービス、通信網の麻痺による治安の悪化がテーマになっている。笑いをとるために不適切発言を連発したお笑い芸人は、有線電話による猛抗議のため即座に出演禁止になった。何となく、視聴者も出演者も、余裕がないと感じてしまう。
しかし、社会情勢を考えると、それも仕方ないとは思う。その原因の一端は、現在美波が見ている特集だろう。
中央構造線付近での頻発する地震。ここ3日間で、震度4以上の地震が10回以上。しかも震源が中央構造線上であり、それ以外の関連が考えられない位置関係なのだ。強引に南海トラフ地震と連動させようとする学者もいるが、それには何の説得力もなかった。それより、中央構造線上で発生する巨大地震に対する関心度の方が高い。関心度が高い、ということは危機感を覚えているということである。
当然、そんな番組を見ていると、美波のテンションは下がっていく。久し振りに夕食を自炊しようかと思っていたが、既に作る気は完全に失せていた。確かに夏の日中は長いが、それでもいずれ西の山に沈む。目に入る情報量が減ると、思考は内側へと向いていく。窓の外が薄暗くなったとき、美波はソファーの上で膝を抱えていた。膝を抱えると落ち着くのは、胎児と同様に護られている気持ちになるからなのだろう。
20時を回ると美波は立ち上がって自分の部屋に向かう。そろそろ母親が帰宅する可能性があるからだ。あの日以降、まともに会話したことはない。母親の方から積極的に話し掛けられることはないし、美波からわざわざ話し掛ける理由もないからだ。カーテンを閉め切った部屋は真っ暗で、美波は定位置の部屋の隅へと移動し壁を背にして座る。その瞬間、今日の出来事がフラッシュバックした。
本当のことを言っても誰も信じてくれない。嘘吐きが当たり前のように虚言を撒き散らして私を陥れても、その嘘がいつの間に真実になる。どんなに真実を伝えようとしても、誰も聞いてさえくれない。嫌な思いをし、怖い体験をし、酷い仕打ちを受けた私が悪者にされ、穢され、貶され、罵られた。被害者の私がいつの間にか加害者にされ、まるで娼婦のような扱いをされた。信じていた友だちも、ずっと一緒に頑張ってきた仲間も、誰もが私を蔑み、誰も味方にはなってくれなかった。信じられなかった。あんなに一緒にいたのに、あんなに頑張ってきたのに、私よりもあんなヤツの言葉を信じるなんて。悔しくて、哀しくて、腹が立って、絶望した。
居場所を失った。この嘘は誇張されて伝わり、面白半分に改竄され、もっと酷い内容で広がっていくに違いない。もう、どんなに頑張ったところで、以前のようにはなれない。穢わらしいモノとして扱われ、嘘しかない陰口を囁かれ、品性の欠片も無い男たちに視姦される。私は何もしていないのに。何ひとつ悪いことはしていないのに。もう学校には行けない。噂が学校中を駆け巡り、私の悪評が他校にまで回されているかも知れない。コンビにのバイトも伝わってしまうかも知れない。もう、コンビににも行けない。もう、外に出られない。ずっと、この部屋の中に隠れておかなければならない。もう、完全に一人ぼっちになってしまった。
美波が狛犬を相手にして語りかける。
「もう、ムリだよ
理不尽なことをされて、一人ぼっちになって。
強くもない私は耐えられないよ。
頼れる人も、味方もいなくて、居場所も失って。
もう、どうしようもないよ。
終わりに飲み込まれないようにって、できないよ。
阿の狛犬を持つ人を見付けるなんて、ムリだよ。
もう、折れそうだよ。
細くなった私の心なんて、簡単に折れちゃうよ。
―――――ごめん、泣いちゃった。
もう、我慢できない。
悔しい、よ。
哀しい、よ。
ねえ、もう、私にはムリだよ。
一人ぼっちは、ムリだよ。
これ以上は、ホントに、ムリだよ。
ねえ、助けてよ。
誰か、助けてよ。
お願い、誰か助けてよ
助けて―――――」
―――――その声は、周平の耳に届く。
自室で吽の狛犬を探す方法を考えていた周平の耳に、突然小さな声が聞こえてきた。目の前にある狛犬が喋った。そうとしか周平には思えなかった。
聞こえてきた声は「助けて」。周平はごく当たり前に、それが吽の狛犬を持つ人物の声だと分かった。終わりを呼び寄せる吽は、それを持つ人物に絶望を運んでくる。かつて絶望を経験した周平は、それがどんなに厳しい状況で、心を保つことがどんなに難しいことかを知っている。だから、助けを求める気持ちも、それがどれほど限界に近いかも理解している。
そんなときは、絶対に一人でいてはいけない。
誰かが背中を支えなければならない。
誰かが味方にならなければならない。
誰かが「大丈夫」だと笑顔を見せなければならない。
だから、周平は狛犬に向かって断言した。
「―――――大丈夫ですよ、僕がここにいますから」


