数え切れないほどのタメ息を吐きながら、どうにか美波は部室に辿り着いた。部室のドアを開けようとしたところで内側からドアが開き、中から同級生の部員が顔を出した。ちょうど体育館に向かうところなのだろう。
「おはよう」
 どうにか声を絞り出した美波の顔を見て、バスケットシューズを手にした同級生は目を逸らして横を摺り抜けて行った。素っ気無い対応に美波は首を傾げ、ドアノブを回した。部室の中にはまだ3人の同級生が残っていたが、美波の顔を認識した瞬間、無言で立ち上がりゾロゾロと部室を出て行った。

 その様子を目にした美波は、みんなの変わりように驚く。それと同時に、酷い対応をされた原因を自分なりに想像する。
 理由として考えられることは、夏休みの部活に1日も出ていないことくらいだ。置き手紙はしたものの、あんなものでは納得できなかったのかも知れない。北方がしたことは本人のためにも隠しておきたかったが、こうなってしまったからには、あの時のことを話さなければならないだろう。
 美波はそう心に決めると、着替えて体育館に向かった。

「おいおい、春瀬のヤツ来たぜ!!」
 美波が体育館に姿を見せると、男子バスケットボール部の部員から声が聞こえてきた。それは明らかに蔑みを含んだものだった。困惑する美波が周囲を見渡すと、女子部員はゴール下に集まりヒソヒソと何か話している。その雰囲気から、美波に好意的な内容ではないことは分かる。
「みーなーみー。残念だったなあ、オレが落ちなくてさあ」
 北方が下卑た笑みを浮かべながら、美波の元に歩いて来た。先日のことを思い出し、美波は少し後ずさる。
「春瀬、オマエ遊び人がったんだなあ。知ってたらオレがイヤってくらい遊んでうやったのによう」
 他の男子部員も近付いて来て、美波に顔を近付けてくる。美波は意味が分からず、何が起きているのかを確かめるために周囲を見渡す。女子部員たちは目を細めて美波を蔑む。男子部員たちは美波の身体を舐めるように見詰めている。

「あの日のこと、みんなに教えてやったぜ」
「あの日のこと?」
 美波にとって「あの日のこと」とは、執拗に北方に追い回され、繁華街の方に連れ込まれそうになった日のことしかない。しかも、ガラが悪い男たちが絡んでくると、助けるどころか美波を見捨てて逃げ出した。
「あの日のことだよ。終業式の日、部活が終わったあと、オレを誘ってきたときのことさ。部活が終わったらオレのところに来て、制服のボタンを1つ外してよ、色目使ってきたじゃないか」
 美波はこの瞬間、北方に嵌められたことに気付いた。
「何を言ってるの?私が降りる駅で待ち伏せして、ずっと後を追い掛けて来たのはアナタの方じゃない」
 美波が真実を告げると、北方は大声で笑った。
「はらな、言った通りだったろ。オレがストーカー紛いのことをしたって言い訳するぞって。見てみろ、嘘吐きのセリフなんて、最初から決まってるんだよ」
「何を言ってるの・・・」
 本当のことを言ったにも関わらず、まるで美波が嘘を吐く前提で話しが進んでいく。美波が周囲を見渡してみても、男子部員たちはもとより、女子部員たちも完全に北方の言葉を信じ切っている。

 北方が一歩足を踏み出し、美波に近付いてき全員に聞こえるように口を開いた。
「で、どうだったんだ?オレにフラれたあと、声を掛けてきた4人とは、朝まで楽しんだのか?」

 男子部員たちが大声で笑う。
「今度ヒマなとき、オレが相手してやるからな」
「じゃあ、オレ2番!!」
「ジャンケンなジャンケン」
 女子部員たちからは、非難の声が上がる。
「こんな人と一緒の部活なんて嫌なんだけど」
「多数決して退部させようよ」
「み、みんな、ちょっと落ち着こうよっ」
 紗弥1人が止めたところで、大きな流れは変わらない。

 ついに美波は我慢できなくなり、その場から逃げ出した。その行為が北方の言葉を肯定することになったとしても、たった1人で立ち続けることなどできるはずがなかった。
「おいおい、逃げ出したぞ!!」
 誰かの嘲る言葉と嘲笑を背に受けながら、美波は体育館から飛び出した。
 もう、ここに美波の居場所はない。
 もしかすると、この学校にもないかも知れない。
 歯を食いしばり、目頭に力を込め、美波は部室に飛び込む。そして、ロッカーにあった私物をリュックに詰め込むと急いで外に出た。もう二度と入ることはないかも知れない。そんな感傷も、今の美波には微塵もない。

 帰る場所はない。
 頼る人もいない。
 縋るものもない。
 何もない。
 それでも、美波の足は教室に向かう。
 美波のすべてがあった場所。
 みんなの笑顔があった場所。
 日常があった。
 変わらない日々があった。
 それが、どんなに幸せだったかと、今さらながらに思う。
 今の美波には全てが真っ黒に染まって見えている。
 何もかもが色を失い、足下には底が見えない漆黒の穴が開いている。

「そうだったんだ」

 美波はクラスメートの男の子を思い出した。
 美波を感動させた人。
 美波が目標にした人。
 美波を助けてくれた人。
 美波が初めて二人乗りした人。
 そして、美波よりももっとひどい裏切り行為をされ、大好きだったバスケットボールを奪われ、それでも、他人のために一歩を踏み出せる人。

 今なら彼の気持ちが分かる。
 痛いくらいに。
 でも、私は弱いから。
 もう、前を向いて歩けない。
 絶望に抗うことなんてできない。
 もう約束なんて誰も覚えていないだろう。
 でも、その方がいい。
 私の声は誰にも届かないから。
 分かってる。
 でも、どうかお願い、
 誰か、助けて―――――

 誰もいない2年3組の教室の中で、もう我慢できなくなった涙をポタポタっと落としながら震える手でチョークを握る。どうにか文字を書き終えた美波は、その場から動くこともできず床に座って嗚咽を漏らす。


 どれだけ時間が過ぎただろうか、美波の耳に教室に近付いて来る足音が聞こえてきた。バスケットボール部員ではないかと思い、美波は慌てて教壇の下に隠れた。数瞬後、教室の扉が開かれる。扉を開けたのが誰かは分からないが、バスケットボール部員でないことは確かだった。しばらくすると、教室を覗いた人物は扉を閉めて出て行った。
 美波は教壇の下から出ると、静かに扉を開けて去っていく人物の後ろ姿を確認する。

 それは、今の美波が信頼できる唯一の人物だった。
 その後ろ姿を見たことで、少しだけ美波の心は救われた。