その頃、吽の狛犬を所持している美波は、商店街をおぼつかない足取りでフラフラと歩いていた。

 あの日、周平と別れて以降、美波は一度も笑顔を見せたことがなかった。何もかもが何となく上手くいかない。今まで上手く折り合いをつけていた母ともケンカをしてしまった。

 母は自分のために夜遅くまで働いているのだと、2人になったときからずっと思ってきた。しかし最近は、自らの出世のために、面倒な家事全般を押し付けているのではないかと感じ始めた。出勤する母のために朝食を用意し、手作りの弁当を渡す。洗濯物も洗い物も全てが美波任せで、最近では手伝おうとするどころか労いの言葉すらもない。学校に行って帰宅すれば掃除をし、洗濯物をたたんで風呂の準備をする。それから夕食を作って―――なぜ私が?どうして、自分だけがこんなに一生懸命にならなければならないのだろう。自問自答を続けた美波は、納得できなくて全てを放り出した。
 そんな状態の美波に、会社から帰宅した母親が厳しい口調で叱責した。これが、きっかけだった。普段であれば直接的な表現はせず、もっと優しい口調で話すことができたのかも知れない。しかし、徹夜明けであったため、母親も余裕がなかったのだろう。

「アンタ、家の中が滅茶苦茶じゃないの。何でこんな状態になってるの?片付けくらいしたらどうなの?昨日お風呂入ってないから、すぐに入りたいんだけど。何で風呂の準備ができてないの?いったい何をしてたのよ。時間なんて有り余ってるんだから、これくらいする時間はあるでしょ。簡単なことなんだから、これくらいやってくれないと困るんだけど!!」

 母親の言葉を聞いた瞬間、美波は目を見開いたまま硬直した。そして同時に、反論の言葉すら出せないほどに落胆した。哀しみでも寂しさでもなく、心を支配した感情は諦念。急激に心が冷え込み、美波の瞳から感情が抜け落ちた。

 褒めて欲しかった訳ではない。
 ただ、手伝いたかっただけ。
 ただ、少しでも負担を少なくしたかった。
 一人で頑張る母親が少しでも楽ができるように。
 一人ではなく二人だと分かって欲しくて。
 できることを頑張った。
 料理ができるようになって。
 毎日お弁当を用意できるようになって。
 仕事から帰ってきたらすぐに休めるように。
 少しでも笑顔が増えるように。
 一言でも会話が増えるように。
 二人で力を合わせていけるように。
 二人で幸せになれるように。
 褒めて欲しかったわけではない。
 それでも、たまには「ありがとう」って言って欲しかった。
 それが、それだけで満たされたのに。

 美波の劇的な変化に、母親は即座に気が付いた。そして、自分の失言によって、どれだけ娘が傷付いたのかを悟った。
「ち、違うの・・・美波」
 震えながら伸ばされる母親の手を、美波が払い除ける。そして、そのまま一言も発することなく、その場を後にした。
 美波の後ろ姿に何も言うことができず、手で口を押さえた母親は、その場で膝をついて嗚咽を漏らした。

 美波は自室に入るとカギをかけ、扉に背中を預けたままズルズルと床に崩れ落ちた。
 正常な心理状態であれば、美波は母親の職場環境等を想像して聞き流したかも知れない。そもそも、いつも通りに全てが完璧だっただろう。しかし、精神的に少しずつ追い詰めらている今の美波には、他人を慮る余裕はない。だから、思う。
 本当は、自分のことを召使いか何かだと思っているのではないのか。
 ずっと、自分に対して不満があったが我慢していただけなのではないのか。
 もしかすると、自分がいない方がいいのではないのだろうか。

 今の美波を慰める者は存在しない。
 軽い言葉で繋がっていた友人はどこにもいない。
 用事もないのに連絡してくるクラスメートはいない。
 「可愛い」と褒めてくれる同級生の男子はいない。
 どうでもいい話に付き合ってくれる親友はいない。
 落ちる、落ちる、落ちる。
 堕ちる、堕ちる、堕ちる。
 遮るものが何もない穴に落ちて、底まで滑り堕ちる。

 この日から、美波は母親が家にいる時間帯は部屋から出なくなった。
 どうすればいいのか分からない母親は、後悔と自責の念に押し潰されそうになりながら、生きていくために仕事に向かった。


 美波の話し相手は狛犬だけになった。
 ただの置き物のはずなのに、狛犬に向かって愚痴をこぼすと少しだけ気持ちが楽になる気がした。

 誰とも話しをしなくなって1週間ほどが経った頃。それでも、ほんの少しだけ理性を保っていた美波は、気分転換を兼ねて部活に行くことにした。このままで良いとは、こんな状態の美波自身でさえも思っていなかった。何かのきっかけになれば良いと思い、グラグラと揺れる頭を持ち上げ、身支度を始める。洗面台に向かい、鏡に写ったボロボロの自分を見て自嘲する。酷い有り様だった。あれだけ気を遣ってきた肌が荒れ放題だ。寝癖ができた髪を後部で縛り、顔をどうにか化粧で整える。無表情の女子高生に見詰められ、美波は視線を逸らした。

 部活に必要な物をリュックに詰め込み、美波は無言で玄関からマンションの廊下に出た。