目の前で電車が発車する。いつもと同じ時刻に家を出て、いつもと同じペースで歩いてきたのに、なぜか改札を抜けた所で電車が動き出した。次の電車は15分後。部活の始まる時間には間に合わない。
「ああ、そうか」と、スマホを取り出した美波は嘆息する。連絡が取れないという状況を思い出し、もういっそのこと今日は行くのを止めようかと思う。だけど、せっかく準備をしてここまで来たのだからと思い直し、美波は次の電車を待つことにした。
何となく、気分が沈む。沈んで、沈んで、底まで沈んだらどうなるのだろうか。底はあるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、美波の待つホームに次の電車が到着する。いつもの車輌に見知った顔は無く、みんな1本前の電車に乗っていたのだと理解する。理解すると同時に、自分だけが遅刻することも確定してしまう。
美波が学校の最寄り駅に着いた時刻は9時55分だった。
駅のロータリーに設置されている時計を見上げながら、美波は今後の予想を立てる。走って行っても着替えていたら10分遅れることになる。歩いて行けば20分近い遅刻だ。10分も20分も大差ないという結論に辿り着き、美波は街路樹が作る日陰を選びながら歩道を歩いた。
想定通りの時間で学校に到着し、グランドの横に建てられている運動部系のクラブハウスに向かう。部室のドアを開けると、当然のように誰もいなかった。どこかに穴が開いて潰れたバスケットボール。先月予選で敗退した3年生が引退し、部室の使用を許されて決めたロッカー。美波のバスケットシューズは動きやすさを重視したローカットモデルだ。
自分のロッカーの前に移動した美波は、今さらのように昨日の出来事を思い出した。基本的に、バスケットボール部は男女が同じ時間に体育館を使用することになっている。体育館に行けば、嫌でも北方と顔を合わせなければならない。そんな事実を思い出し、美波の表情が強張る。悪いのは北方であって美波ではないが、それだけに顔を合わせたくない。
豹変した北方。挙句の果てに、美波を置き去りにして1人で逃げ出した。
当然のように美波は会いたくはなかったし、ヘラヘラと笑いながら軽く謝る姿が頭に浮かび表情が歪んだ。
結局、美波は数分部室にいただけで、部活には顔を出さずに帰ることにした。そもそも、バスケットボールがすごく好きだった訳ではなく、中学生のときの延長的な感覚で入部しただけだ。たまたま中学が強豪校だったため、2年生のときには準レギュラーとして試合にも出ていたが、ただそれだけだった。背番号4が北方だと勘違いして、邪な気持ちで続けてきただけと言っても過言ではない。美波にとってバスケットボールは、そういう感覚のものなのだ。
―――――しばらく休むかも。
そう記入した紙を自分のロッカーに貼り、美波は部室を後にした。
「しばらく、というか、もう辞めようかな」
そう呟きながら、せっかく登校したにも関わらずほんの15分ほど滞在しただけで美波は帰宅を始めた。
学校の最寄り駅の前まで戻ってきた美波は、先日みんなで行ったカラオケ店の割引券を持っていることを思い出した。嫌なことが続いたため、ストレス発散のために1人カラオケとか良いかも知れない。そう考え、自動ドアを抜ける。すると、併設されているクレーンゲームコーナーが稼動しているだけで、カラオケの受付はクローズになっていた。
「そうだよね、普通に考えると配信が止まってるよね」
ガックリを肩を落とすと、今度こそ帰宅するために美波は駅に向かった。
結局、美波は2時間ほど散歩をしただけでマンションに戻って来たことになる。
途中で弁当を購入したため、いつものように自分で昼食を作る必要もない。
エントランスに入り管理人室の前を通り掛ったとき、目の端に写った小さな物に美波の意識が奪われた。朝置いていった狛犬が、そのままの状態で座っていたからだ。美波の足は自然と狛犬の前まで動いて止まり、両手は小さな体をすくい上げる。狛犬を自分の目線と同じ高さに持ち上げると、美波が目を細めて話し掛けた。
「誰も連れて行っていないってことは、誰の物でもないってことだよね。きっと、そうだよね。どう、うちの子にならない?」
美波は聞こえないはずの返事を聞いた気がして、何度か頷いたあと、そのまま狛犬を自宅に持ち帰った。
口を閉じた狛犬は「吽」―――――「終わり」を意味する存在。
美波は、抗わなければならない。
でも、沈むことは泳ぐよりも簡単で、底は深くて暗い。
「ああ、そうか」と、スマホを取り出した美波は嘆息する。連絡が取れないという状況を思い出し、もういっそのこと今日は行くのを止めようかと思う。だけど、せっかく準備をしてここまで来たのだからと思い直し、美波は次の電車を待つことにした。
何となく、気分が沈む。沈んで、沈んで、底まで沈んだらどうなるのだろうか。底はあるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、美波の待つホームに次の電車が到着する。いつもの車輌に見知った顔は無く、みんな1本前の電車に乗っていたのだと理解する。理解すると同時に、自分だけが遅刻することも確定してしまう。
美波が学校の最寄り駅に着いた時刻は9時55分だった。
駅のロータリーに設置されている時計を見上げながら、美波は今後の予想を立てる。走って行っても着替えていたら10分遅れることになる。歩いて行けば20分近い遅刻だ。10分も20分も大差ないという結論に辿り着き、美波は街路樹が作る日陰を選びながら歩道を歩いた。
想定通りの時間で学校に到着し、グランドの横に建てられている運動部系のクラブハウスに向かう。部室のドアを開けると、当然のように誰もいなかった。どこかに穴が開いて潰れたバスケットボール。先月予選で敗退した3年生が引退し、部室の使用を許されて決めたロッカー。美波のバスケットシューズは動きやすさを重視したローカットモデルだ。
自分のロッカーの前に移動した美波は、今さらのように昨日の出来事を思い出した。基本的に、バスケットボール部は男女が同じ時間に体育館を使用することになっている。体育館に行けば、嫌でも北方と顔を合わせなければならない。そんな事実を思い出し、美波の表情が強張る。悪いのは北方であって美波ではないが、それだけに顔を合わせたくない。
豹変した北方。挙句の果てに、美波を置き去りにして1人で逃げ出した。
当然のように美波は会いたくはなかったし、ヘラヘラと笑いながら軽く謝る姿が頭に浮かび表情が歪んだ。
結局、美波は数分部室にいただけで、部活には顔を出さずに帰ることにした。そもそも、バスケットボールがすごく好きだった訳ではなく、中学生のときの延長的な感覚で入部しただけだ。たまたま中学が強豪校だったため、2年生のときには準レギュラーとして試合にも出ていたが、ただそれだけだった。背番号4が北方だと勘違いして、邪な気持ちで続けてきただけと言っても過言ではない。美波にとってバスケットボールは、そういう感覚のものなのだ。
―――――しばらく休むかも。
そう記入した紙を自分のロッカーに貼り、美波は部室を後にした。
「しばらく、というか、もう辞めようかな」
そう呟きながら、せっかく登校したにも関わらずほんの15分ほど滞在しただけで美波は帰宅を始めた。
学校の最寄り駅の前まで戻ってきた美波は、先日みんなで行ったカラオケ店の割引券を持っていることを思い出した。嫌なことが続いたため、ストレス発散のために1人カラオケとか良いかも知れない。そう考え、自動ドアを抜ける。すると、併設されているクレーンゲームコーナーが稼動しているだけで、カラオケの受付はクローズになっていた。
「そうだよね、普通に考えると配信が止まってるよね」
ガックリを肩を落とすと、今度こそ帰宅するために美波は駅に向かった。
結局、美波は2時間ほど散歩をしただけでマンションに戻って来たことになる。
途中で弁当を購入したため、いつものように自分で昼食を作る必要もない。
エントランスに入り管理人室の前を通り掛ったとき、目の端に写った小さな物に美波の意識が奪われた。朝置いていった狛犬が、そのままの状態で座っていたからだ。美波の足は自然と狛犬の前まで動いて止まり、両手は小さな体をすくい上げる。狛犬を自分の目線と同じ高さに持ち上げると、美波が目を細めて話し掛けた。
「誰も連れて行っていないってことは、誰の物でもないってことだよね。きっと、そうだよね。どう、うちの子にならない?」
美波は聞こえないはずの返事を聞いた気がして、何度か頷いたあと、そのまま狛犬を自宅に持ち帰った。
口を閉じた狛犬は「吽」―――――「終わり」を意味する存在。
美波は、抗わなければならない。
でも、沈むことは泳ぐよりも簡単で、底は深くて暗い。


