いつの間にかリビングのソファーで眠っていた美波は、いつもと同じ時刻に目が覚めた。すっかり凝り固まった身体を起こすと、大きく伸びをする。室内には人の気配を感じることはできず食卓の上に視線を送ると、テーブルの上には昨夜美波が用意した料理が、そのままの状態で残されている。おそらく、昨日、母は帰宅できなかったのだろう。

 美波はソファーから立ち上がると、テーブルに近付く。そして、自分が作った料理を見下ろして短くタメ息を吐いた。電磁嵐により様々な障害が発生していることは、高校生の美波でも容易に想像がつく。母親が会社で重要なポジションに就いていることも理解している。分かってはいる。だけど・・・と美波は思ってしまう。自宅には固定電話がある。電話線を辿って行けば母の勤務先に行く着くはずだ。ほんの数分、いや数十秒、「帰れない」の5文字を伝える時間が無いとは思えない。
 いつもなら冷蔵庫に入れるか、冷凍できるものであれば小分けにして冷凍庫に保管する。でも、今日の美波は自分が作った料理を生ゴミとして捨てた。ビニール袋の中で形を崩す元料理を、美波は冷めた目で見下ろした。

 ようやくカーテンを開けていないことに気付いた美波は、ベランダへと続く窓まで移動すると一気に明りを取り込んだ。いつもなら母親と自分の弁当を作り、2人分の朝食を用意している。しかし、今日は非常食として保管していたオートミールを器に盛り、ザバザバと牛乳を注ぎ込んだ。きちんと朝食は摂るべきだ。そう思っていた美波は、どんなに忙しくても手を抜くことはしなかった。でも、こうして用意すると簡単で時間の短縮にもなる。しかも、意外に美味しいと美波は感じた。
「明日から、もう、これでいいよね」
 そう呟きながら、美波は底の深いスプーンですくっては口に運んでいった。

 朝食を済ませた美波は、食器を雑にシンクに置くと時刻を確認する。壁に掛かっている時計は7時30分を指している。とりあえず洗濯をして、洗い物を済ませ、9時からの部活に間に合うように自宅を出なければならない。その前に顔を洗って身支度を整えて、と洗面台に向かう。タオルを交換し、カゴの中身とともに洗濯機の中に投げ込む。洗剤を入れ、スイッチをONにして、30分余りの洗濯時間の間に習慣である笑顔の練習をして―――――誰?
 鏡に写る自分の顔を見て、美波はそれが自分だと直ぐには気付かなかった。口をへの字に曲げ、不機嫌そうに首を傾げている。あまりの表情に、美波は慌てて笑顔を作る。しかし、今日はどうしたことか笑顔が不自然になる。何度練習しても納得がいく笑顔にならなくて、結局、イライラして途中でやめてしまう。

 ほとんど化粧をしない美波ではあるが、全くしていない訳ではない。リップも使えばビューラーなどを使うこともある。それにこの時期は日焼け止めも必須だ。だけど、何となく今日はのらない。こんな日は洗濯が終わるまで、友だちとSNSで会話をして気を紛らわす。ところではあるが、今はインターネットが使えない。何となく、色々なことが上手くいかなくて、テンションが上がらない。仕方なくリビングに移動し、美波はテレビをつけた。
 インターネット専業の放送はどうにもならないが、昔ながらのテレビ局はケーブルテレビの契約がある場所にだけ、いつもと同じように放送を続けている。しかし、どこのテレビ局も襲来している電磁嵐についての見解と説明だけで、楽しめる話題など何一つなかった。

 ぼんやりと、テレビの番組を眺める。どうでもいい芸人のコメンテーターが、カラッポの持論を展開する。遠くで洗濯機が終了の音を鳴らす。その音で我に返った美波は、自室に戻って制服に着替える。口を閉じた狛犬をポケットに入れ、時刻を確認した。8時10分。今から出れば、ちょうど良い時間になるはずだ。
 ああ、洗濯物を干す時間が無い。今日は午前練習の日だから、帰宅するのは13時過ぎ。それから干しても夏だから乾くだろう、と結論を出し、美波は家を出ることにした。部活用のTシャツや丈が長目の短パン、スポーツタオルなどをリュックに入れ玄関に向かう。動きやすいクツを履き、玄関のドアを開けて外に出る。1人のときでも必ず口にしていた「いってきます」が、今日は聞こえなかった。

 バタバタと廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。このマンションの管理人は9時出勤であるが、管理人室の小窓前に常設されている落し物カゴに入れておけば、探しているだろう本人が回収していくはずだ。
 エレベーターで1階まで下りた美波は、自動ドアのすぐ外にある小窓前に置いてあるカゴの中に狛犬を置いた。短い間であったが、話し相手がいない美波には、相手をしてくれた唯一の存在である。

「じゃあね、バイバイ」
 そう言って、美波は狛犬に手を振る。細部まで作りこまれている狛犬は、一般的な土産物には見えなかった。もしかすると、非常に高価な物なのかも知れない。そのとき、小窓から管理人室の中にある時計が美波の目に入った。
 8時20分。電車しだいではあるが、間違いなくギリギリになる時間帯だ。美波は慌て最寄り駅へと向かった。