翌朝、夏休みにも関わらず、周平の枕元にある目覚まし時計は6時に鳴り響いた。昨日まで7時過ぎに布団から這い出していたことを思えば、1時間以上は早い起床になる。しかも、「あと5分」と粘ることもなく、あっさりと布団を後にした。そして、昨日と同じように運動に支障がない服装に着替えると外に出た。
 周平はグッと背伸びをし、入念に柔軟体操を始める。多少筋肉痛にはなっているものの左膝に痛みはない。いきなり長い距離を走るには不安があるし、感覚的に3キロほどの距離を周平は走ることにした。ちょうど良い位置に広い公園があるため、折返しの目標に決めた。夏休みの間に、もっと長い距離を、中学生の頃以上のスピードで走りたいと考えている。

 約3年ぶりにジョギングを始めた周平は、息を弾ませながら無意識に笑っていた。身体を動かすことの楽しさを、ようやく思い出せたのだ。
 周平が公園を目指していると、日の出前の道を他にも走っている人がいた。各々のペースや年齢は様々ではあるが、何となく仲間のような気がしてくる。ジョギング中の年配の男性が、擦れ違うときに周平に対して笑顔を向けた。
「おはようございます」
 咄嗟のことに呆気に取られ、周平は無言のまま通り過ぎてしまった。ハッとしてすぐに立ち止まって振り返ったものの、男性は既にかなり離れた場所まで遠ざかっていた。

 早朝にジョギングをするという経験がなかった周平は、「挨拶をする」という当たり前のことすらできなかった。高揚していたテンションが、自分の不甲斐なさで急降下する。しかし、この3年間とは違い周平はすぐに思い直した。
 チャンスは今日一日だけではない。今日しか走らないという訳ではない。それはおそらく、あの男性もそうだろう。それならば、明日は自分から声を掛ければいいだけのことだ。
 周平は再び顔を上げ、走り始める。何度でも始める。そう決めたばかりなのだ。

 朝の運動を終えた周平は、朝食を済ませると次は学校に行く準備を始める。
 今日から夏休みであるため、補習もない周平は登校する必要はない。しかし、気が向いた部員によるオカルト研究部の活動は、毎日行われている。そもそも、周平の収集した資料やデータは、部室にあるノートパソコンと本棚に入っているのだ。確かに、自室のパソコンにもバックアップのデータはある。しかし、気分というものがある。自宅の、自室で、自分の机に座り、自分のノートパソコンを一日中睨み付ける。など、例え周平といえども、想像しただけで気分が萎える。

 あまり早く行っても仕方がないし、遅いと暑くて自転車など乗っていられない。ほど良い時間は10時過ぎくらいだろうか。その時間帯に出発すれば、ほどほどの暑さの中を進んでいけるだろう。テレビで天気予報を確認しながら、周平はそう結論を出す。
 そして、ほど良い10時過ぎ、空のペットボトルに麦茶を入れ、母親が用意していた弁当を持って周平は家を出た。少し時間が違うだけで、いつもと同じ道。見慣れた景色。でも、15分ほど自転車をこいだ頃に通り過ぎる場所で、つい視線がマンションに向く。昨日のことを思い出した周平は、無意識に笑顔になっていた。


 背中に汗を滲ませた周平が部室に辿り着くと予想通り部室の扉は全開で、カタカタと古い扇風機が回る音が聞こえてきた。
「お疲れ様でーす」
 周平が部室に足を踏み入れた瞬間、廊下よりも2度ほど高い空気が出迎えた。窓も扉も開いているのに温度が高いのは、一体なぜなのだろうか。
「おあーよー」
「おう、お疲れさん」
 凛音は自分の机の上に突っ伏して半分解けていた。拓真はシャツのボタンが1つ余分に開いているものの、概ねいつも通りだった。
「可成は大丈夫か?」
「何がですか?」
 拓真の質問に質問で返してしまった周平であるが、質問の意味が分からないので仕方がない。
「電磁嵐のことだ。世界的に大変なことになっているようだ。オレもネットが使えなくなって困っている。誰とも連絡がつかないからな」
 と、そこまで言って、拓真が申し訳無さそうに口を噤んだ。何を察したか周平は理解したが、それはそれで失礼な気がする。
「あー可成君には友だちもいないし、特に問題はないだろうね。スマホのアドレス帳も家族とオカ研の部員以外の名前があるとも思えないしね。可成君は世界で唯一、電磁嵐に全く影響を受けていない人物なのかも知れないよ」
 これはこれで失礼極まりない。とは思うが、周平は言い返すことができない。昨日、もう1人名前が増えたが、一度も連絡をしたことがないし、ほぼ初対面といっても良い間柄だ。

「まあ、とりあえず座りたまえよ。お互いの情報を交換しようではないか。まあ、ネットが使えない現状では、ほぼ同じ情報しか持っていないとは思うがね」
 凛音がアゴを机の上に置き、どうにか顔を周平の方に向ける。
 謙遜しているが、どこから収集しているのか凛音の情報集能力は異常だ。この環境下であっても、周平よりは多くのことを知っているのは間違いない。