阿の狛犬を机の上に置き、周平は目を閉じて考える。

 「もう、以前のように運動はできませんよ」と、軽い口調で主治医に告げられた。否定されても必死にリハビリを続けた。もう一度みんなと一緒にバスケットボールがしたくて、痛みを堪えて膝の可動域を広げる訓練をした。ギブスでの固定期間が長かったために、ガチガチに固まった関節。その左膝を夜通しマッサージし、以前と変わらず動くようにと念じた。
 だけど、全てが無意味だった。
 バスケットボール部の仲間に罵られ、クラスメートに無視され、全てが絵空事に思えて。考えることをやめて、他人と関わることをやめて、努力することをやめて、今まで手に入れたものを捨てた。
 それでも、いつのまにか時間は過ぎていて、身体のキズは癒えていた。意識していなかったけど、自転車のペダルを踏み込んでも痛まなくなっていた。たぶん不恰好だったとは思う。だけど、全力で走っても膝は痛くなくて―――――信じていた仲間に裏切られ、身に覚えの無い悪評に晒されて、何もかもどうでもよくなった。だから、あれからずっと、誰とも関わらないように、顔を上げないようにしてきた。でも、心のどこかで、きっかけを待っていたんだ。いつまでも過去に圧し潰されて身動きが取れない。そんな自分にずっと目を背けてきた。だけど、もう前に進まなければならないって。あの頃のクラスメートが謝罪に訪れた。たぶん、あのときの「ごめんなさい」で、過去の呪縛から解き放たれたんだと思う。

 始まりの象徴である阿の狛犬。
 もう一度、始めようと思う。
 失ったものは戻らない。
 それなら、もう一度積み重ねてみるさ。
 また裏切られるかも知れない。
 それなら、また凹んで、もう一度やり直すだけだ。
 もう一度始める。
 今度は、何度でも始める。
 何度でも。
 明日からじゃない。
 今日からだ。

 周平は立ち上がると、いつも部屋着にしている中学時代の体操服に着替える。
「とりあえず、軽くランニングから始めるか」
 体育以外で運動をすることもなくなっていたため、周平は少しずつ身体を慣らしていくことにする。そのまま玄関に向かいながら、「ちょっと走ってくる」とキッチンに声を掛けた。奥で何か言っているが、周平は無視して玄関の靴箱を覗き込む。少し小さくなっているかも知れないが、ランニングシューズも捨ててはいないはずだ。
 以前使っていたシューズは、探すまでもなく簡単に見付かった。少しも汚れが無い状態で、ケースに収められていたからだ。周平はキッチンの方に向かって頭を下げると、シューズを履いて外に出た。

 入念に準備運動をして、周平は自宅の周辺を軽いジョギングのペースで30分ほど走った。
「今日は、このくらいで許してやろう」
 ゼーハー荒い呼吸をしながら謎の言葉を残し、周平は初日の運動を終了した。心配だった左膝が痛むことはなく、運動不足のために異常な心拍数で動き続けている心臓以外に問題はなかった。

 ジョギングが終わった周平は、汗を拭いながらキッチンに向かった。周平の自宅はダイニングキッチンのため、そこに置いてある食卓で食事をすることになっている。対面キッチンで料理をしている母親の前に座り、いつものようにテレビのニュース番組に視線を送る。テレビの画面を見ながら、周平は疑問を抱いた。
「これ、何で映ってるの?」
 周平の問いに、手を動かしながら母親が答える。
「ウチはケーブルだから、映るテレビ局もあるのよ」
「へえ・・・」
 聞いてはみたものの、あまりテレビを見ない周平は適当に相槌を打った。

 テレビは緊急特番らしく、今回の磁気嵐についての特集を放送している。要約すると、こんな感じだ。
 日本時間の18時45分頃、太陽フレアの大爆発で発生した電磁が地球に到達した。無線の電波は全てが利用不可能。その他、交通機関等にも影響が出ているため、事前に確認が必要。人体への影響は不明。磁気嵐の期間は少なくとも2週間以上。新しい情報は分かり次第公表する。

 世界は大混乱かも知れないが、周平個人には特に影響がない。連絡を取り合う友だちもいないし、遠くに行く予定もない。夏休みの予定は、自転車でオカルト研究部に行くくらいだ。
 そんなことを考えている周平の口から、「はあ」とタメ息が漏れた。高校生ぽい夏休みでないことは、周平も十分に理解はしていた。

 そのとき、テレビの上部に地震速報が表示された。
「徳島で震度3・・・何か珍しい場所が震源地なんだな」
 そんな周平の言葉を、ちょうど調理を終えた母親が拾う。
「今日はこの辺りも地震があったしね」
「え、そうなの?」
 全く揺れたことに気付かなかった周平は、驚いて母親の方に顔を向ける。
「19時15分とか言ってた気がするよ。震度2とかだから、ジッとして座っていないと気付かないくらいだけどね」

 母親の話を聞いて、周平はポケットに入れていたスマホを取り出す。そして、地震情報を検索しようとして手が止まった。ネット環境が無くなっていること思い出し、今日何度目かのタメ息を吐く。
 有線なら利用できるのだろうか?などと思いながら、周平は自室へと向かう。

「どこ行くの?もう晩御飯だから座っていなさい」
「はい」