美波は交通量の多い道路を横断すると、マンションのエントランスに足を踏み入れた。そして、オートロックを開けるため、カバンに手を入れて視線を落とす。
いつもならカギを取り出してドアを開けるだけのルーティンである。しかし、今日の美波は手を止めて、振り返る動作を入れた。遠ざかる自転車のテールライトが目に写り、美波は無意識に目尻を下げた。
不思議な感覚だった。
クラスメートとはいえ、ほとんど会話をしたことがない相手だった。
危ないところを助けられ、自転車に二人乗りをして自宅に送り届けてもらった。
こんなこと、普段なら絶対にしない。
でも、ずっと友だちだったかのような空気感だった。
確かに、一方的には知っていた。
だけど、過去と現在が重なったのはつい最近のことだ。
もっと違う、もっと違う何か。
ずっと伸ばしていた手が、やっと繋がったような。
ここ最近は感じることがなかった高揚感に包まれながら、美波は自動ドアを通り抜ける。郵便受けを確認するためにエレベーターの前に差し掛かったとき、グレーの床に小さな物が落ちていることに気が付いた。なぜか気になって近付いてみると、それは小さな置き物のようだった。
小首を傾げながら置き物を拾うと、3センチほどの小さな狛犬だった。マンションに住んでいる人の落し物だと推測し、明日管理人に預けようと思ってスカートのポケットに入れた。
いつもより速いペースで、周平は自転車をこいでいた。自転車のライトなど、一応付いている程度で正直あまり明るくもない。しかし今日の周平は、何となく色んなことが大丈夫な気がしていた。
らしくない事をしたと思う。
平気で裏切る他人を助ける義理などない。
今でもそう思っている。
でも、裏切られた他人は、助けなければならないと思った。
まさか、春瀬だとは思わなかった。
春瀬の手を掴み、全力で走るとは思いもしなかった。
緊急事態とはいえ、自転車に二人乗りとか想像もしなかった。
不思議と、自然に会話ができた。
ずっと以前から友だちだったみたいに。
いや違うな。
ずっと伸ばしていた手が、やっと繋がったような。
数年振りに他人のことを考えているうちに、周平は自宅のガレージに帰ってきた。いつものように自転車を停めたとき、ふと空気が抜けて潰れたバスケットボールが目に入った。ガレージの奥で埃を被り、真っ白になってしまった思い出。随分と前に捨て去ったはずなのに、なぜか今日は自然とそちらに足が向かう。
ボールの前に立った周平の手が無意識に伸びる。しかし、その手が届く直前、ボールの横に在る物に気付いて止まる。3センチほどのそれを、周平は手の平に乗せて自分の目線に持ち上げた。
「狛犬?何でこんなところに・・・」
周平は顔に近付けて狛犬を観察する。本体は白磁のようで、細部の作り込みから到底土産物には思えなかった。
小首を傾げながら狛犬の口元を確認すると、大きく口を開いているようだった。
この狛犬は「阿」だ。関心が無い人は知らないが、神社などで見掛ける狛犬には2種類ある。1つは大きく口を開けた「阿」で、もう1つは口を閉じた「吽」だ。この「阿」と「吽」で対になっている。始まりを表す「阿」を発する際に大きく口を開けるため、狛犬の「阿」は言葉の意味と同様に始まりを意味する。そして、終わりを表す「吽」は口を閉じて発声するため、口を閉じている「吽」の狛犬は終わりを意味している。
飛鳥時代から平安時代について追い掛けている周平は、当然のように狛犬の種類も意味も知っている。
周平は狛犬を持ったまま、もう片方の手を左膝に置く。そして、しばらく顔を伏せたあとで立ち上がった。
その日、観測史上最大の太陽フレアが齎した災害規模の電磁嵐は、文字通り全世界に災害級の電波障害を引き起こした。ほぼ全ての電波は遮断され、スマホを始めとする電子機器、テレビ放送やラジオ放送といった各種メディア、飛行機や電車等の管制室が必要となる交通手段までもが完全に停止した。それでも、電話回線を利用した従来の電話、一部のケーブルテレビ、新聞等の紙媒体が辛うじて混乱の状況を伝えていた。
百代の王の治世が終わる。
心無き者たちが支配を企み、分別が無い者が傍若無人に振舞う。
それを目にした者たちは、彼等を英雄と称える。
天秤が地に堕ち、均衡を失った世界は崩壊へと向かう。
少しずつ、しかし確実に、世界は終焉に向かって動き始めた。
いつもならカギを取り出してドアを開けるだけのルーティンである。しかし、今日の美波は手を止めて、振り返る動作を入れた。遠ざかる自転車のテールライトが目に写り、美波は無意識に目尻を下げた。
不思議な感覚だった。
クラスメートとはいえ、ほとんど会話をしたことがない相手だった。
危ないところを助けられ、自転車に二人乗りをして自宅に送り届けてもらった。
こんなこと、普段なら絶対にしない。
でも、ずっと友だちだったかのような空気感だった。
確かに、一方的には知っていた。
だけど、過去と現在が重なったのはつい最近のことだ。
もっと違う、もっと違う何か。
ずっと伸ばしていた手が、やっと繋がったような。
ここ最近は感じることがなかった高揚感に包まれながら、美波は自動ドアを通り抜ける。郵便受けを確認するためにエレベーターの前に差し掛かったとき、グレーの床に小さな物が落ちていることに気が付いた。なぜか気になって近付いてみると、それは小さな置き物のようだった。
小首を傾げながら置き物を拾うと、3センチほどの小さな狛犬だった。マンションに住んでいる人の落し物だと推測し、明日管理人に預けようと思ってスカートのポケットに入れた。
いつもより速いペースで、周平は自転車をこいでいた。自転車のライトなど、一応付いている程度で正直あまり明るくもない。しかし今日の周平は、何となく色んなことが大丈夫な気がしていた。
らしくない事をしたと思う。
平気で裏切る他人を助ける義理などない。
今でもそう思っている。
でも、裏切られた他人は、助けなければならないと思った。
まさか、春瀬だとは思わなかった。
春瀬の手を掴み、全力で走るとは思いもしなかった。
緊急事態とはいえ、自転車に二人乗りとか想像もしなかった。
不思議と、自然に会話ができた。
ずっと以前から友だちだったみたいに。
いや違うな。
ずっと伸ばしていた手が、やっと繋がったような。
数年振りに他人のことを考えているうちに、周平は自宅のガレージに帰ってきた。いつものように自転車を停めたとき、ふと空気が抜けて潰れたバスケットボールが目に入った。ガレージの奥で埃を被り、真っ白になってしまった思い出。随分と前に捨て去ったはずなのに、なぜか今日は自然とそちらに足が向かう。
ボールの前に立った周平の手が無意識に伸びる。しかし、その手が届く直前、ボールの横に在る物に気付いて止まる。3センチほどのそれを、周平は手の平に乗せて自分の目線に持ち上げた。
「狛犬?何でこんなところに・・・」
周平は顔に近付けて狛犬を観察する。本体は白磁のようで、細部の作り込みから到底土産物には思えなかった。
小首を傾げながら狛犬の口元を確認すると、大きく口を開いているようだった。
この狛犬は「阿」だ。関心が無い人は知らないが、神社などで見掛ける狛犬には2種類ある。1つは大きく口を開けた「阿」で、もう1つは口を閉じた「吽」だ。この「阿」と「吽」で対になっている。始まりを表す「阿」を発する際に大きく口を開けるため、狛犬の「阿」は言葉の意味と同様に始まりを意味する。そして、終わりを表す「吽」は口を閉じて発声するため、口を閉じている「吽」の狛犬は終わりを意味している。
飛鳥時代から平安時代について追い掛けている周平は、当然のように狛犬の種類も意味も知っている。
周平は狛犬を持ったまま、もう片方の手を左膝に置く。そして、しばらく顔を伏せたあとで立ち上がった。
その日、観測史上最大の太陽フレアが齎した災害規模の電磁嵐は、文字通り全世界に災害級の電波障害を引き起こした。ほぼ全ての電波は遮断され、スマホを始めとする電子機器、テレビ放送やラジオ放送といった各種メディア、飛行機や電車等の管制室が必要となる交通手段までもが完全に停止した。それでも、電話回線を利用した従来の電話、一部のケーブルテレビ、新聞等の紙媒体が辛うじて混乱の状況を伝えていた。
百代の王の治世が終わる。
心無き者たちが支配を企み、分別が無い者が傍若無人に振舞う。
それを目にした者たちは、彼等を英雄と称える。
天秤が地に堕ち、均衡を失った世界は崩壊へと向かう。
少しずつ、しかし確実に、世界は終焉に向かって動き始めた。


