周平が自転車で移動を始めたとき、部活が終わった美波は最寄り駅の改札を抜けるところだった。

 カラオケ店の真正面にある駅から一駅だけの電車通学。電車に乗っている時間よりも、徒歩で駅から自宅に帰るまでの時間の方が長い。それでも、母親の勤務先への通勤時間を優先し、部活で遅くなることも考慮するとこの選択肢しか無かったのだ。とはいえ、徒歩で10分。駅前通りから商店街に続く道ということもあり通行人も多く、間断無く街灯もあるため明るく安全面でも不安はない。
 美波の母が購入したマンションは、中古ではあるが外部からのセキュリティ対策もされたそれなりに良い物件だ。慣れた手つきでエントランスの鍵穴にキーを挿し込むと、美波は郵便ポストを確認したあとエレベーターに乗り込んだ。

「ただいま」

 いつも通り玄関を開けると、誰もいない室内に向かって個をを掛ける。そのまま短い廊下を進んでリビングの扉を開け、煌々と室内を照らす電灯のスイッチを入れる。家具や電化製品等、生活に必要なものに過不足はないものの、ひどく生活観がない空間だった。
 美波は床にカバンを置くと、エアコンとテレビのスイッチを入れて冷蔵庫に向かう。そしてペットボトルを取り出し、コップに冷えたスポーツドリンクを注ぎ一気に飲み干した。

 ようやく人心地ついた美波は、ダイニングの椅子に腰を下ろす。
「それにしても、ひどい話だったな」
 今日聞いた話を思い出し、何度目かも分からない言葉を吐き出す。
 何も悪い事をしていない人に悪意しかない罪を被せ、みんなで無視して心を折り、人格を否定して未来までも奪った。しかも、自分たちの間違いに気付いた後も謝罪すらせず、彼の状況を見て見ぬふりをして追い詰めた。本当に有り得ない。
 元々、卑怯なことが嫌いな美波であったが、それ以上に、自分の恩人であり目標としてきた人が陥れられたことが許せなかった。


 美波は小学6年生の頃、いつも怯えながら生活をしていた。
 両親の折り合いが悪く、家の中はいつもギスギスとした緊張感が漂っていた。父親はほとんど帰宅することはなく、たまに帰ってきたと思えば母親と激しく罵り合い、頻繁に物が壊れる音が響いた。怒号が飛び交う中、美波は部屋の片隅に小さくなって震えていた。

 父親も母親も、美波がいくら頑張っても褒めることはなく、美波が悪いことをしても叱ることもなかった。
 そして中学1年生の夏、美波は家出をした。自分を見て欲しくて、自分の話しを聞いて欲しくて、自分の存在を認識して欲しくて、最終手段に出た。どんなに怒られても良かった。むしろ、二人に大声で怒鳴られたかった。見付かりやすいように近くの公園のベンチに座り、探しに来てくれるのを待った。

 だけど、いくら待っても誰も来なかった。
 どんなに時間が過ぎても、名前を呼ぶ声さえ聞こえなかった。
 公園のベンチで空が明るくなるまで待ったものの、結局、父親も母親も美波を捜しに来ることはなかった。
 明け方、警察官に補導された美波が帰宅すると、すでに父親の姿は無く、母親は自室のベッドで寝息を立てていた。

 その光景を目にした瞬間、美波の中で何かが壊れる音がした。
 願いによって支えられていた心が折れた。
 褒めてもらえなくて泣いた。
 叱ってもらえなくて泣いた。
 見てもらえなくて泣いた。
 泣いて、何度も泣いて、泣いて、泣いて。
 もう、涙は出なかった。
 ただ、何もかもを諦めた。
 ここに、愛情はない。
 ここに、希望はない。
 ここに、夢はない。
 ここには何もない。
 現実を受け入れ、美波は曖昧に笑ようになった。

 それから1ヶ月もしないうちに両親は離婚し、父親が親権を放棄したため、美波は母親と一緒にこのマンションに住むことになった。当然のように父親とは音信不通。母親は生活のためと称して夜遅くまで家を空け、美波はやはり独りだった。
 母親と二人暮らしになり、美波は家事全般を引き受け、笑顔で母親を送り出すようになった。

 何も、要求しない。
 何も、伝えない。
 ただ、頷くだけ。
 ただ、曖昧に笑う。

 そんな日々が1年以上続いた夏の日―――
 美波の目の前で、優勝候補筆頭といわれていた男子バスケットボール部が負けた。相手は聞いたこともない弱小校だった。当然のように、第2クオーター終了時点で20点以上リードしていた。むしろ、20点差でも健闘していると思えたほどだった。相手校のメンバーは当たり前のように項垂れ、絶望感を隠し切れず肩を落としていた。しかし、背番号4の選手だけは諦めていなかった。味方を鼓舞し、自身が限界を超えて活躍。そして、最後には逆転して見せた。

 その光景を目にし、美波は何年ぶりかに泣いた。
 気が付くと、ポロポロと涙が溢れては落ちていた。
 まだ、諦めるには早かったのではないかと。
 まだ、できることがあったのではないかと。
 まだ、諦めることができていなかったのだと。
 まだ、限界まで頑張っていないのではないかと。
 美波が笑う。
 作り物ではない、本物の笑顔を見せた。

 その日以降、いつも教室の隅で小さくなっていた美波は、積極的に行動するようになった。できることは全力で取り組んだ。決して諦めることなく、自分を鼓舞し先頭に立って周囲を引っ張るようになった。外見にも気を配るようになり、元来の容姿もあって一躍クラスの中心になった。美波は背番号4の姿を思い出し、少しでも近付けるようにと前へと進んだ。
 この先に揺るぎない自信と、自立した自分の姿があることを信じて。
 幸福になるための努力が足りなかったのだと、必死に足掻き続けることを心に刻み付けて。

 肝心なことは未解決のままで。