翌日、カバンに栗羊羹を隠し持った周平は、いつものように2年3組の教室で、いや教室の隅でスマホを弄っていた。当然のように、読んでいるのは吉備真備についての記事だ。せっかく新情報を得るチャンスが訪れているのだ。予習復習は必須である。
 そんな周平の席に近付く人物がいた。人の気配を感じた周平は、放課後の打ち合わせだと思い顔を上げた。しかし、そこに立っていたのは、予想とはまったく違う人物だった。周平は想定外の自体に、目を見開いて硬直した。

「ちょっと聞きたい事があるんだけど。可成君てどこの中学出身なの?」
 隅っこ暮らしをしている周平に対し、自然体で声を掛けてきたのは美波だった。
 クラスメートになって3ヶ月経過した現在、今さらのように話し掛けてきた理由が周平には全く分からない。少し驚いたものの、特に考える質問でもなかったため普通に答えた。
「高天台中学だけど」
「高天台・・・そうなんだ。ごめんね、いきなり変なことを聞いて」
 周平の出身中学校を確認すると、美波はいつもの笑顔を見せて立ち去った。

 いったい何だったんだ?
 そう思いながらも、いくら考えても意図が分からないため、周平はすぐに思考を放棄した。


 放課後、ついに周平が待ちに待った時間が訪れた。
「私は先に帰って準備しておくから、少し遅れて来てね」
 そう言い残すと、千代はホームルームの終了とともに足早に帰宅した。周平は千代の後姿を見送ると、カバンの中を確認する。
 よし、栗羊羹はちゃんと入っているし、準備は万全だ。
 カバンをポンポンと叩くと、逸る気持ちを抑え周平も教室を後にした。

 ゆっくり階段を降り、いつものように周平は駐輪場に向かう。体育館の横を通り過ぎようとすると、昨日と同じように側面の鉄扉が開け放たれていた。そして、昨日と同じように扉の横にバスケットボールがあった。
 周平は体育館の中を見渡し誰もいないことを確認すると、昨日と同じように靴を脱いで磨かれた床の上に立った。バスケットボールを軽く叩き、跳ね上がった反動でドリブルを始める。経験者でなければ、こんな風にドリブルを始めたりはしないだろう。昨日とは違い左右の手でリズミカルにドリブルを繰り返す。そして、スリーポイントライン手前で止まると、その場でジャンプシュートをする。放たれたボールは昨日とは違い、ノータッチでリングに吸い込まれた。
 リングを摺り抜けて転がっていくボールを一瞥すると、周平は喜ぶでもなく背を向けて体育館を後にした。


「・・・可成じゃん。この学校にいたんだ」
 美波と一緒に隠れて見ていた女子部員が呟いた。その女子部員は、背番号4が北方だと言った真備中学出身の朝倉 紗弥だった。
「気付かなかった。あの頃とは見た目も、雰囲気も、何もかもが違い過ぎて、今まで全然気付かなかった」
「どういうこと?」
 美波が食い気味に訊ねると、オドオドしながら紗弥が答えた。
「ずっと前、美波が背番号4が誰だったか聞いたことかあったよね? ごめん、もしかすると違う人かも知れない」
 一瞬、美波は驚いたが、すぐに納得もした。美波が生き方を変えるきっかけになった人物が、どうしても北方だとは思えずにいたからだ。


 その頃、周平は既に校門を通り過ぎていた。いつにも増してペダルを踏む足に力が入る。まるで遠足前日のように高揚する気持ちを抑え、天秤神社へと急ぐ。鼻歌まで口ずさんでいる。千代には「ちょっと遅れて来て」と指示されていたが、既に周平の頭からは見事に消え去っていた。

 学校から10分もかからないうちに、周平は天秤神社に到着した。
 周平はゼイゼイと荒くなった呼吸を整えながら自転車を停めたあと、本殿へと続く石階段を見上げて愕然とした。すっかり忘れていた1000段超えの石段が、壁のように聳え立っている。いつもであれば即座に退散するところであるが、吉備真備の情報というご褒美と、せっかく購入した栗羊羹のことを考えると上る以外の選択肢はなかった。

 梅雨明け後の炎天下に石段1000段とか正気の沙汰ではない。登下校のためとはいえ地獄の石段を毎日往復している千代は、修験者の領域に足を踏み入れているのではないだろうか。周平が同じ立場であれば、即座に家出するレベルの苦行である。しかし、今日は、今日だけは、この石段を踏破するしかない。

 周平はカバンの中にあるスポーツドリンクのペットボトルを確認し、数年振りに気合を入れた。
「よし、行くか!!」