次の日からの壮馬は、まるで別人のようだった。
 熱が出ても、鼻血が出ても、歯を食いしばって毎日絵を描き続けた。そんな根性論のようなやり方、効率的じゃないと友達から止められたこともあった。しかし壮馬は突き進み続けた。滝を登るような気迫が壮馬の身体に溢れていた。
 塾も、それから一日も休まなかった。
 どれだけ怒られようが、否定的な言葉を吐かれようが、大木のようにびくともしなかった。
 やることは一つだけ。
 ただひたすら、一本一本の線に、魂を込め続ける。全てを賭けて、線を引く。

 不意に雫が死んだことを思い出し、日常的に涙を流すこともあった。例えばタブレットで絵を描いている時、「そういえば雫もタブレットで絵を描いていたな」と思うと、そこから無数の思い出が呼び起こされ、涙が止まらなくなった。
 それは授業中だろうが、歩いているときだろうが、話している時だろうが変わらなかった。
 塾で絵を描いている時は特に、ずっと泣いていた。雫への思いと直結していたからだ。
 静かな教室に、壮馬が鼻を啜る音がいつも響いていた。
 泣きながら描く壮馬がいても、徳田も、他の生徒たちも何も言わなかった。この塾はそういう所だった。しかし休憩時間や終了の時間になると、みんな壮馬にお菓子やティッシュをくれた。この塾はそういう所でもあった。

 しかし壮馬自身が感じる最も変わった部分は、別の所にあった。
 『自分は多くの人の助けを借りて絵を描いている』という意識の芽生えだった。
 それはあの夜、車の中で徳田から言われて気付いたことだった。
 絵を教えてくれる徳田。切磋琢磨し合う塾の生徒たち。支えてくれる家族。何かと世話を焼いてくれる美咲。いつも応援してくれる青山。雫と仲の良かった仲村さん。あの夜、雫との最後の思い出を見逃してくれた玉井さん。
 そして、誰よりも、雫。壮馬が世界で最も愛している女の子。雫は壮馬に全てをくれた。愛を。夢を。温もりを。思い出せば、雫はすぐそこに居る気がした。雫の温もりが、優しさが、陽だまりに包まれているような時間が。

 雫のためにも、雫以外の人たちのためにも、全てを賭して描いていく。
 しかし意識が変わったからといって、美大への道が簡単になったわけではない。壮馬は浪人して、何度かその分厚い壁に跳ね返された。それでも、壮馬の決意は微動だにしなかった。落ちた日も、泣いた日も、変わらず筆を握った。
 そしてニ浪の後、ようやく壮馬は東方芸大に合格を果たした。


 *****


 やがて時は経ち、壮馬の大学を卒業して、プロの画家となった。
 誰も見たことが無いような幻想的な風景をダイナミックな構図で描くスタイル。彼の発想力と独創性にはパワフルで、あたかも見る人を引き込んでしまうような力があると、世界的に評価を受けるようになった。
 壮馬は画家として着実に知名度を上げていき、メディアへの露出も多くなった。
 そしてついに、パリの美術館で、壮馬の個展が開かれることが決まった。


 開場の前日、展示の完了したギャラリーの中央に立ち、壮馬は自らの絵を眺めていた。27歳になっていた。
 「立派な会場じゃないか」
 後ろから飛んできたのは聞き慣れた日本語だった。振り返り、声の主を確認した壮馬の顔は緩んだ。
 「徳田先生」
 徳田がこちらに向かって手を上げている。幾分白髪の増えた徳田に向かって、壮馬は頭を下げた。
 「よせ。絵の実力的にも知名度的にも、俺はもうとっくに越されてしまったんだ」
 「いいえ、僕なんかまだまだです。徳田先生が有名なプロモーターを紹介してくれなかったら、こんな短期間でパリで展示会を開くなんて出来ませんでした」
 徳田は鼻から息を出して笑い、何度か頷いた。
 「お前に才能があるっていうのは以前にも言ったし、現状を見れば分かりきったことだ。だがこの業界はそれだけじゃ渡っていけない。俺はほんの少し、その手助けをしたに過ぎない。ここまで来れたのは、水瀬さんを思うお前の気持ちが強かったからだ」
 徳田は目を落とした。
 「ここに……水瀬さんと参加出来れば、彼女との作品があれば、もっと良かったんだろうが……」

 あの日約束した、共に作品展を開くという、二人の約束は果たせなかったのだろうか
 違う。

 「雫は居ますよ。彼女の作品もあります」
 徳田は顔を上げた。壮馬はやや上を向いて、ギャラリーを見回した後、入口の方に向かって歩き出した。
 徳田もそれに続く。
 二人は歩きながら、一作品一作品、絵の前を通り過ぎていく。
 その一つ一つに、幻想的な風景が繰り広げられている。桜の咲き乱れる古都。木々の中に作られた町。蒸気を上げる工場地帯の、鈍色の路地裏。夜空を貫く一番星が照らす雪原。
 その絵の一つ一つに、一人の少女が描かれていた。
 彼女はこちらを向いて手招きをしたり、何かを話しかけたり、遠くを指差して微笑んだりしていた。




 壮馬の絵には、全てに共通する特徴があった。
 全ての風景の中に、黒髪の少女が描き入れられていることだ。
 少女の服装は絵ごとに違っていた。
 華やかなドレスで着飾っていたり、高校の制服を着ていたり、ファンタジー世界の住人のような服装をしていたりと様々だった。
 しかし、少女の顔立ちは全て同じ。
 白い肌に通った鼻筋。大きな瞳は優しそうに垂れている。
 雫だった。
 全ての絵で、雫が旅をしていた。

 絵によっては後ろ姿しか見えなかったり、小さくてぱっと見ただけでは表情がよく分からないものもあった。それでも、壮馬は力を尽くして、雫の姿を描き込んだ。
 暗闇に光を灯すように。
 魂を、入れ込むように。
 愛おしく、抱くように。
 天国まで、届くように。
 あの日の思い出を、映し出すように。

 それは対話だった。祈りだった。秘密だった。

 誓い合った、笑いあった、口づけを交わした、あの雨の日の、二人だけの、結婚式のように。
 雫の魂はいつも壮馬と共にある。
 壮馬の絵にはいつ雫が居て、いつまでも、いつまでも共に絵の中を旅し続けているのだ。


 壮馬は壁の前で立ち止まった。そのギャラリーの入口には、横長の壁一面を覆うように、びっしりと絵が飾られていた。
 「そうだったな」
 壮馬の隣に立った徳田は、遠くを見るような目で、それらの絵を見上げた。
 かなりの数の絵が、まるで異世界に繋がる無数の窓であるかのように、色とりどりに満ちていた。
 そこに飾られているのは、壮馬が雫と過ごした三年の間に、二人で描いた全ての絵であり、紛れもなく、壮馬と雫の合作だった。


 壮馬は不意に、病室の、消毒液の匂いを嗅いだ。無機質な機械音が聞こえる。
 白い病室。通いなれた、雫の個室。
 ベッドの上に柔らかな表情の雫が座って、絵を描いている。
 壮馬の視線に気付いて、顔を上げた雫が、笑いかけてくれる。
 壮馬も笑い返す。
 二人は肩を寄せ合い、絵を描き始めた。

 二人の濃密な時間の、全てがここにある。これらの絵は、壮馬にとっても雫にとっても、それが人生において、最も大切にしたいもので、価値の付けられない宝物で、大げさでもなんでもなく、二人の全てだった。
 この一つ一つの絵を決して忘れない。雫とともに作った過程も、出来上がった喜びも、語り合ったあの日も、壮馬はこの先も抱き締めて離さない。


 世界を回り、二人で作品展を開く。
 例え雫が死んでも、死が二人を分断しても、約束の結果がここにある。

 「やっと、ここまで来れたよ。雫」

 壮馬は確かに、雫との約束を果たしたのだった。