徳田の黒いセダン車で連れて行かれたのは、深夜まで開いているラーメン店だった。大学生らしい二人組と、スーツを着たサラリーマン風の男性が一人、両者ともテーブル席に座っていた。
徳田が先にカウンター席に座ったので、壮馬も隣に座った。徳田はメニュー表を一瞥した後、机の上を壮馬の方へ滑らせた。
「腹減っただろ。何でも食って良いぞ」
「え、奢ってくれるんですか?」
「ガキが遠慮するな」
「あ、ありがとうございます」
壮馬は徳田の心情を測りかねていたが、とりあえず注文することにした。
「えっと、じゃあこの『大食いチャレンジラーメン辛さマシマシハバネロ地獄盛りMAX、スープ一滴でも残したら料金1万円頂きます。なお、いかなる健康被害が出たとしても当店は一切責任を負いません』を一つと……」
「少しは遠慮しろ」
徳田は壮馬の頭を軽くはたいた。
待っている間、徳田は何も話さなかった。壮馬からも話しかけなかった。ラーメン屋の明かりが夢で見る景色のように、やけにぼんやり見える。
運ばれてきたのは壮馬が注文したラーメンの特盛と、徳田が注文した炒飯だった。しかし徳田は頼んだ炒飯は食べず、壮馬の方へ滑らせた。
「これも食え」
「え、先生は?」
「俺は塾でコンビニ弁当食ってたんだ」
そう言ったきり、腕を組んで正面を向いた。そこで初めて、徳田が壮馬のためだけにこのラーメン屋に寄ったのだと分かった。不意に感じた徳田の優しさに、壮馬の目は潤んだ。
「ありがとうございます」
壮馬は涙を隠すように、思い切り麺をすすった。ラーメンの旨味が口中に広がる。飲み込んで身体の中がぽかぽかしてくる。身体が温かいのは、ラーメンを食べたからだけではなかった。徳田は終始彫刻のように動かなかった。
徳田はラーメンを食べ終わっても、会計が終わっても一言も喋らなかった。ただ店を出た時に一言
「送ってやるから家の住所を教えろ」
とだけ言った。
「お前が最初入塾希望で来た時、本当は断ろうと思っていた」
信号待ちをしている時、徳田は呟くように言った。
「何でですか?」
後部座席に座っていた壮馬から、徳田の表情は見えなかった。
「当たり前だろう。お前は毎日途中からしか授業に出られないと言った。そんな舐めた奴なんか普通は入れん。他の者のモチベーションに関わる」
車が動き出した。街の灯りがゆっくりと流れていく。
「じゃあ、どうして」
「面接で、お前の絵を見せられた時、何て下手くそな絵だと思った」
壮馬はわけが分からなかった。絵が下手だから入塾させたとでもいうのか。
「それなのに、どうしてだ。魔力があった。いや、魔力と言うより……見る者を吸い込むような、抗えない、そう、重力だ」
「重……力?」
壮馬は展示会の前日や、動画の中で雫に言われたことを思い出した。
『壮馬君の絵は、人を引き込む力があるよ』
雫と同じことを、徳田にも言われている。線が繋がるような思いだった。
「しかしそれが一番の決め手じゃない」
「じゃあ何が……」
「重力の正体が気に入ったからだ」
「重力の、正体?」
「お前が絵を描くことになったのは恋人に絵の世界を旅させるためだと入塾するとき言っていただろう。それで気付いたんだ。こいつは自分の全てを賭けて世界を作っているんだと」
壮馬は徳田の方を見た。やはり暗い車内で徳田の表情は見えない。
「お前も身にしみて分かっているだろうが芸大受験は生半可な気持ちで出来るものじゃない。だから俺は、加藤、お前が本気なのか試しに入れてみたくなった」
繁華街に出て、車内が明るくなった。一瞬ミラー越しに見えたネオンの光に照らされた徳田の顔が黄色く、笑っているように見えた。
「そうしたら、お前は俺が出した課題は全てこなしてきた。本来は浪人生がこなすような課題を、毎日欠かさずやり切ってきた。こいつは本気だ。病気の恋人のために本気で絵描きになろうとしていると分かった。人のためにここまでやり切ってくる奴は今まで見た中で、殆ど居ない。俺はお前のガッツが気に入った」
信号で停止した時、不意に徳田がこちらを向いた。彫りの深い落ちくぼんだ目が、こちらを覗いていた。真っ直ぐな目だった。
「俺は才能がある奴よりガッツがある奴のほうが好きだ。絵っていうのは不思議なものだ。勿論才能のある奴の方が絵は上手くなるのが早い。だが根性のある奴には強い情熱がある。情熱は線に顕れる。情熱が色を際立たせる。そういう奴がずっと描いてると、絵を買いたいって客が出てくるんだ」
「僕には、才能は無いけどガッツはあるってことですか?」
信号が青になっていた。後ろからクラクションを鳴らされた。強めのクラクションだ。しかし徳田は微動だにしなかった。
「いいや、お前は才能もガッツも、2つを持ち合わせている。だから、俺はお前を必ずモノにしてやろうと思った」
徳田ははっきり、大きな声で言った
ネオンに照らされる徳田の顔、鳴り響くホーン、点滅する信号。力強い徳田の声。全てが映画のワンシーンのように、壮馬の目に焼き付いた。
「お前の絵には、入塾した時から迫力があった。確固たる世界観があった。勿論下手くそだったが、線の太さを感じた」
徳田は前を向いていた。やっと車が動き出す。
「だが最近、どうもお前の絵にあった気迫が弱まっている気がしてな。どうにかそれを思い出させようと、最近強い言葉を使い過ぎた。俺も焦っていた」
そこから、大きな声で喋っていた徳田の言葉が、急に聞こえにくくなった。
「言い過ぎだった。申し訳ない」
やがて車が壮馬の家の前に到着した。壮馬が頭を下げ、車から出ようとした時
「おい」
徳田は前を向いたまま言った。
「もう二度とサボるなよ」
夜空の下、壮馬の顔が青空のように晴れていく。
「はい! ありがとうございます!」
徳田が先にカウンター席に座ったので、壮馬も隣に座った。徳田はメニュー表を一瞥した後、机の上を壮馬の方へ滑らせた。
「腹減っただろ。何でも食って良いぞ」
「え、奢ってくれるんですか?」
「ガキが遠慮するな」
「あ、ありがとうございます」
壮馬は徳田の心情を測りかねていたが、とりあえず注文することにした。
「えっと、じゃあこの『大食いチャレンジラーメン辛さマシマシハバネロ地獄盛りMAX、スープ一滴でも残したら料金1万円頂きます。なお、いかなる健康被害が出たとしても当店は一切責任を負いません』を一つと……」
「少しは遠慮しろ」
徳田は壮馬の頭を軽くはたいた。
待っている間、徳田は何も話さなかった。壮馬からも話しかけなかった。ラーメン屋の明かりが夢で見る景色のように、やけにぼんやり見える。
運ばれてきたのは壮馬が注文したラーメンの特盛と、徳田が注文した炒飯だった。しかし徳田は頼んだ炒飯は食べず、壮馬の方へ滑らせた。
「これも食え」
「え、先生は?」
「俺は塾でコンビニ弁当食ってたんだ」
そう言ったきり、腕を組んで正面を向いた。そこで初めて、徳田が壮馬のためだけにこのラーメン屋に寄ったのだと分かった。不意に感じた徳田の優しさに、壮馬の目は潤んだ。
「ありがとうございます」
壮馬は涙を隠すように、思い切り麺をすすった。ラーメンの旨味が口中に広がる。飲み込んで身体の中がぽかぽかしてくる。身体が温かいのは、ラーメンを食べたからだけではなかった。徳田は終始彫刻のように動かなかった。
徳田はラーメンを食べ終わっても、会計が終わっても一言も喋らなかった。ただ店を出た時に一言
「送ってやるから家の住所を教えろ」
とだけ言った。
「お前が最初入塾希望で来た時、本当は断ろうと思っていた」
信号待ちをしている時、徳田は呟くように言った。
「何でですか?」
後部座席に座っていた壮馬から、徳田の表情は見えなかった。
「当たり前だろう。お前は毎日途中からしか授業に出られないと言った。そんな舐めた奴なんか普通は入れん。他の者のモチベーションに関わる」
車が動き出した。街の灯りがゆっくりと流れていく。
「じゃあ、どうして」
「面接で、お前の絵を見せられた時、何て下手くそな絵だと思った」
壮馬はわけが分からなかった。絵が下手だから入塾させたとでもいうのか。
「それなのに、どうしてだ。魔力があった。いや、魔力と言うより……見る者を吸い込むような、抗えない、そう、重力だ」
「重……力?」
壮馬は展示会の前日や、動画の中で雫に言われたことを思い出した。
『壮馬君の絵は、人を引き込む力があるよ』
雫と同じことを、徳田にも言われている。線が繋がるような思いだった。
「しかしそれが一番の決め手じゃない」
「じゃあ何が……」
「重力の正体が気に入ったからだ」
「重力の、正体?」
「お前が絵を描くことになったのは恋人に絵の世界を旅させるためだと入塾するとき言っていただろう。それで気付いたんだ。こいつは自分の全てを賭けて世界を作っているんだと」
壮馬は徳田の方を見た。やはり暗い車内で徳田の表情は見えない。
「お前も身にしみて分かっているだろうが芸大受験は生半可な気持ちで出来るものじゃない。だから俺は、加藤、お前が本気なのか試しに入れてみたくなった」
繁華街に出て、車内が明るくなった。一瞬ミラー越しに見えたネオンの光に照らされた徳田の顔が黄色く、笑っているように見えた。
「そうしたら、お前は俺が出した課題は全てこなしてきた。本来は浪人生がこなすような課題を、毎日欠かさずやり切ってきた。こいつは本気だ。病気の恋人のために本気で絵描きになろうとしていると分かった。人のためにここまでやり切ってくる奴は今まで見た中で、殆ど居ない。俺はお前のガッツが気に入った」
信号で停止した時、不意に徳田がこちらを向いた。彫りの深い落ちくぼんだ目が、こちらを覗いていた。真っ直ぐな目だった。
「俺は才能がある奴よりガッツがある奴のほうが好きだ。絵っていうのは不思議なものだ。勿論才能のある奴の方が絵は上手くなるのが早い。だが根性のある奴には強い情熱がある。情熱は線に顕れる。情熱が色を際立たせる。そういう奴がずっと描いてると、絵を買いたいって客が出てくるんだ」
「僕には、才能は無いけどガッツはあるってことですか?」
信号が青になっていた。後ろからクラクションを鳴らされた。強めのクラクションだ。しかし徳田は微動だにしなかった。
「いいや、お前は才能もガッツも、2つを持ち合わせている。だから、俺はお前を必ずモノにしてやろうと思った」
徳田ははっきり、大きな声で言った
ネオンに照らされる徳田の顔、鳴り響くホーン、点滅する信号。力強い徳田の声。全てが映画のワンシーンのように、壮馬の目に焼き付いた。
「お前の絵には、入塾した時から迫力があった。確固たる世界観があった。勿論下手くそだったが、線の太さを感じた」
徳田は前を向いていた。やっと車が動き出す。
「だが最近、どうもお前の絵にあった気迫が弱まっている気がしてな。どうにかそれを思い出させようと、最近強い言葉を使い過ぎた。俺も焦っていた」
そこから、大きな声で喋っていた徳田の言葉が、急に聞こえにくくなった。
「言い過ぎだった。申し訳ない」
やがて車が壮馬の家の前に到着した。壮馬が頭を下げ、車から出ようとした時
「おい」
徳田は前を向いたまま言った。
「もう二度とサボるなよ」
夜空の下、壮馬の顔が青空のように晴れていく。
「はい! ありがとうございます!」


