壮馬は駅までの道を疾駆した。
 手足が千切れるほど、大きく振りながら。

 雫のメッセージを見るまで確かにあった、確かな雫の死。それが今、違うものになろうとしている。
 虚空を切る手が空の星に振り上げられる。

 『私はもう壮馬くんの人生には居ないんだから』

 違う。
 雫は居なくなってなんかいない。
 俺が生きている限り、雫は死なせない。
 みんなの心から雫が居なくなっていったとしても、徐々に雫の存在が薄くなっていったとしても、絶対に終わらせない。
 俺が絵を描き続ける限り、雫は生き続ける。
 この世界全部に聞こえるくらい叫んでやる。示してやる。描きなぐってやる。
 雫が生きた証。生き続ける意志。彼女の全てを。

 壮馬は自分の胸の辺りをぎゅっと握り締めた。

 『私との約束なんて気にしないで』

 ごめんな、雫。
 お前の方が辛いはずなのに、俺が辛気臭い顔してたせいでお前に気を使わせちゃって。
 叶えるよ。
 元々雫一人の物だったその夢は、もうとっくに俺達の夢になっただろ。
 この夢はお前がくれた、俺達二人の大切な宝物だ。
 この夢がある限り、俺達は繋がっている。
 雫との夢も、雫の命も、俺が繋いでみせる。
 あの約束は断ち切れない。断ち切らせない。
 雫の存在を、絶対に終わりにさせてたまるか!

 壮馬は瞬き始めた星の下を走り抜けていった。


 *****



 塾に押しかけた壮馬は、徳田を見つけるなり近づいて行った。全身汗だくで、異様な雰囲気をまとっている。しかし他の生徒達は壮馬に目もくれない。いつものように、ひたすらに自分のキャンバスと向かい続けている。
 「おい、何のつもりだ」
 徳田が壮馬を制するように低い声を放った。
 「お願いします! もう一度、もう一度この塾に通わせて下さい!」
 壮馬は徳田に向かって、勢いよく頭を下げた。そのままの姿勢で動かなくなった。徳田はため息をついて壮馬に背を向けた。
 「静かにしろ。授業中だ」
 教室の中には、ただ鉛筆を走らせる音だけが響いている。やはり誰も壮馬に注目しようとはしなかった。
 「お前はもう一週間以上この塾を休んでいる。つまり部外者だ。早く出て行ってくれ」
 徳田の言葉は今までに無いほど冷たかった。「何か理由があるんなら行ってみろ」
 壮馬は顔を上げた。徳田の背中を見つめたまま、掠れた声で、言った。
 「恋人が、死にました」
 徳田が振り返った。驚きに目を瞠っている。徳田とほぼ同時に、全ての生徒たちも一斉に壮馬を見た。誰もが手を止めていた。教室内の音が無くなった。

 徳田は、徐々にその目を細め、眉尻を下げた。いつもギラギラと目を見開いている徳田のそんな表情は初めて見るものだった。
 「そうか、まだ若いのに、可哀想にな」
 静かに言った後、徳田はいつもの威圧的な表情に戻っていた。
 「それは分かった。だがお前は以前来た時、もうここは辞めると言って出て行ったじゃないか」
 「はい。でも取り消させて下さい。僕は絶対芸大に行かないといけないんです」
 壮馬は徳田の目を見て、ゆっくりと言った。
 「一度辞めると言った人間を戻してやる程この場所は甘くない。芸大受験もだ。出て行け」
 徳田はドアの方に顎をしゃくった。しかし壮馬は一歩も動かなかった。徳田は壮馬と目と鼻の先まで近づく。呼吸の音まで聞こえる。壮馬は徳田を見つめ続けた。炎が燃えていた。心の底から燃え上がっていた。

 その時、壮馬を睨みつける徳田の目の瞳孔が開いた。まるで何かを発見したかのようだった。そして僅かに、一瞬、誰も気付けないほどの一瞬、徳田が笑ったように、壮馬には見えた。
 「出て行けと言っている」
 「お願いします。もう一度やらせて下さい! 僕は彼女と約束したんです。絶対芸大に受かって、世界的な画家になるって! 絶対彼女との約束を果たさないといけないんです!」
 「いいから出ろ! 他の者の邪魔をするな!」
 徳田は壮馬の襟首を掴むと、そのままドアのある場所まで押していき、開け放つと勢いよく壮馬を突き飛ばした。床に倒れ込んだ壮馬を尻目にドアを締める。
 壮馬は直ぐに立ち上がり、ドアノブを回した。しかし鍵が掛かっていた。いくら回しても開かない。荒い息をしていた壮馬は、ドアの前に座り込んだ。その目は強い意思を宿したままだった。

 壮馬はエレベーターの前に設置されてある椅子に移動し、徳田が出てくるのを待った。同じ場所に非常階段もある。徳田がこのビルを出るためにはここを通らなければならない。
 何時まででも徳田を待つつもりだった。待って、捕まえて、絶対に復帰の許可を得るつもりだった。壮馬は他の塾や予備校に通ったことがあるわけではないが、直感的に、芸大に受かるには徳田の力が絶対に必要だと感じていた。何があってもここで引き下がるわけにはいかなかった。

 20時を回り、生徒達が出て来た。彼らは壮馬を確認したが、誰も声を掛けようとはしなかった。ただ、みんな無言で壮馬の横にお菓子やジュースを置いていってくれた。
 壮馬が「ありがとう」と言っても、みんな軽く頷くだけだった。
 時刻は22時を回っていた。既に生徒は全員塾を出ていた。徳田はまだ出てこない。
 同じ階に入っている他の会社や学習塾も既に閉まっていて、廊下はもうかなり暗い。人の気配もしない。少し、病院に似ていると思った。
 「雫」
 壮馬は無意識に呟いていた。病院、という単語から即座に雫が連想されたのだ。会いたい。しかしもう病院に行っても雫には会えない。そう頭が結論付けた途端、また涙が込み上げてきた。
 今の壮馬の頭はどんな単語も雫と結びついてしまって、あらゆる場面で簡単に涙が出てくるようになってしまっていた。
 会いたい。雫に、会いたい。

 靴音がした。
 俯いていた壮馬は顔を上げる。徳田が目を細くしてこちらを見ていた。
 「お前、まだ居たのか」
 驚いたような、呆れたような声だった。
 「先生、あの」
 「ああ待て」
 徳田は手のひらで壮馬の言葉を制した。
 「お前、晩ご飯は?」
 「食べてません。ずっとここで先生を待っていたので」
 徳田は腕組みをして、自分の前髪を揺らすように、口から上に息を吐いた。
 「ちょっと付き合え」