それからの数日間、壮馬はほとんど何をする気も起きなかった。
タクシー会社に支払いをしに行った以外では外出もしなかった。あの時の運転手さんは確かに在籍していたが、彼から「つけ」の報告などは受けていないと言われた。確認を取ろうとする事務員の前に、代金の入った封筒を置いて逃げるように立ち去った。
学校にも行かず、勿論塾にも行かず、気を紛らわすように毎日お笑いの動画ばかりを見ていた。ぴくりとも笑えなかった。
雫が死んでから、毎日続けていたスケッチも辞めていた。雫が生きていても塾は辞めるつもりだった。しかし、ここまでぱったりと辞めてしまうとは自分でも少し驚いていた。それ程までに、絵を描く理由と雫の存在は直結していたのだろう。
ただ頭の中にあったのは、USBの中に入っているデータ、そしていつか届くという段ボールの箱の中身が何なのか、ということだった。
この数日間、何度もUSBの中身を見ようと思ったのだが、何となく段ボールの荷物と一緒に見た方が良い気がして、机の引き出しにずっと仕舞っていた。
「あんた宛に荷物が届いてるわよ」
母親から声をかけられたのは、葬儀から5日目の夕方だった。壮馬は急いで部屋から出て一階に降りた。
「誰から?」
階段を降りながら聞いた。
「それが……送り主が、水瀬雫さんになってるのよ」
母親は困惑気味だった。故人から荷物が届いたのだから当然の反応と言えた。
「分かった。ありがとう」
壮馬は段ボールを受け取ると、再び急いで自室に戻った。
壮馬はどちらから先に見るか迷ったが、段ボールのほうが気になって、そちらから先に開けることにした。雫はもうこの世に居ない。その彼女が、母親に何を託し、そして自分に送って来たのか。それが単純に気になっていた。
ガムテープを慎重に剥がし、中身を開けると、先ず一番上に置いてあったのは封筒だった。四つ葉のクローバーの便箋の中に、手紙が入っているようだ。壮馬は先程よりも更に慎重に、少しも破かないようにセロテープを剥がしていった。
一番前面に入れられていたのは一枚の紙だった。最初に
『この荷物は、私が死んだらお母さんに送ってもらうよう頼んでおきました。「あんなに仲悪かったのに」って壮馬くんは驚くかもしれません。喧嘩もしたし、いっぱい泣かされたけれど、それでも私にとってたった一人のお母さんだから、最後に頼みを聞いてもらうことにしたんです』
と書かれていた。そこで送り主の謎が解けた。雫は恐らく、最後に親子の触れ合いを持とうと思ったのだ。どうやったって和解は難しかったかもしれない。母親としては不十分だったのかもしれない。それでも、最後に、葬儀場で会った彼女は、紛れもなく雫の母親だった。
壮馬は手紙を読み進めていく。
懐かしい。雫の字だ。壮馬は字を書いていた雫の横顔を思い出しながら、その次を読み進める。
『もう中身は見てくれたかな? それは、私から壮馬くんへのプレゼントです』
壮馬は急いで衝撃吸収用の紙を取り除いていった。
中から出てきたのは、重厚感のある木製の箱だった。封を開けると、中には色とりどりの絵の具や、様々なサイズと形状の、艶やかな筆。パレットナイフや陶器製のナイフも入っていた。
どれもひと目見て分かる、高級な油絵用具。買うかどうか迷いもしないグレードのものだった。恐らく、全て合わせて10万円は超えているだろう。
壮馬は再び手紙に目を移した。
『これは壮馬くんへのプレゼントです。今まで貯めていたお金で買いました。でも、どうか気にしないで下さい。どうせあの世にお金は持っていけないのだから、世界で一番大切な壮馬くんのために全部使いたかったのです
▼壮馬はすごい油絵セットを手に入れた! これで大幅レベルアップ間違いなしだ!』
思わず、壮馬はその手紙を抱いて蹲った。彼女心遣いも、気持ちも、優しさも、全てが愛おしかった。抱き締めたくてたまらなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなってくる。悲しくてそうなっているわけではない。風を受けて赤く顕われる炭火のように、冷めていた絵画への情熱が、赤く、熱を帯びてきている。
長く忘れていた感覚だった。最近ずっと、作業のように絵を描いていた。
今、何のために絵を描いたのか、壮馬は初めて気付いた気がした。久しぶりではなく、初めて。
壮馬は次に、PCの電源を入れてUSBを差し込んだ。
PCが立ち上がり、壮馬は急いでUSBのアイコンをダブルクリックした。そこには「壮馬くんへ」と書かれた動画ファイルがあった。
動画は、見慣れた病室で、雫が誰かと会話をしているところから始まった。
「撮れてるかな?」
雫は前髪をせわしなく気にしながら聞いている。
「撮れてるよ」
画面の外から、恐らく仲村さんの声がした。雫は一度わざとらしく咳払いをした。
「壮馬くん、見えていますか? これをあなたが見ているということは、私はもうこの世に居ないのだと思います……ふふっ、一度はこの台詞を言ってみたかったんだよ」
雫は画面に向かって手を振っていた。言葉や表情の明るさと裏腹に、雫の声には力が無かった。恐らく昨年の秋口、彼女の病状が悪化して以降にこの動画は撮られている。
雫の声が、記憶の中の弱っていく彼女と重なって、胸が締め付けられるように痛んだ。
壮馬の頭に浮かんだ言葉は「遺書」だった。彼女はもう長くない自分の寿命を悟っていた。だからこうやって、動画という形で壮馬に遺書を残そうとしたのだろう。
雫は目を伏せたり、こちらを向いたりしながら言葉を紡ぎ始めた。どうやら、メモを見ながら読んでいるらしい。
「私は病気になってから壮馬くんと出会うまで、生まれてきたことをずっと後悔していました。
どうして私がこんな病気にかかってしまったんだろう。
どうしてこんなに苦しい思いをしないといいけないのだろう。
私は、自分の人生に、良いことなんて一つも無いと思っていました。
けれど、壮馬くんと会って、考え方が変わりました。もし私の病気に意味があるとしたら、それは壮馬くんと出会うためだったんだと思う。何だか月並みな言葉になってしまうけれど、私は心からそう思っています。
壮馬くんは誰よりも私を笑わせてくれて、何でも私の願いを聞いてくれて、格好良くて、本当に王子様みたいだと思ったよ。
そうだ、私、壮馬くんに謝らないといけないことがあります。壮馬くんが毎日私のところに来て一発ギャグを披露してた時、実は三日目くらいからずっと笑いそうだったの。でも、笑いを堪えてた。だって、笑っちゃったら、この面白い人、満足してもう来なくなっちゃうかも、って思ったから」
そう、だったのか。そんなこと心配しなくても良かったのに。俺は最初から君に一目惚れしてたよ。
壮馬からこぼれた笑み。目は涙で溢れそうだった。
「壮馬くん、ごめんね。私はもうあまり長く生きられません」
雫の表情に影が過った。
「だから、一緒に世界中で作品展を開くという夢も、一緒に旅をして回るという夢も、果たすことが出来ないと思います。ごめんね。壮馬くんは絶対に私との約束を、守ってくれていたのに。私のせいで……」
雫はそこで俯いた。
わずかに、鼻をすする音が聞こえた。
再び、話し始めた雫の声は途切れがちで、上ずっていた。
しっかりとカメラを見据える彼女の目尻から涙がつたう。
「壮馬くん、もし今、迷っているんなら、苦しんでいるんなら、決して無理しないで。私はもう壮馬くんの人生には居ないんだから。私との約束なんて気にしないで、縛られないで。自由に生きて。底抜けに明るくて、私を笑わせてくれる壮馬くんが何より好きだから。だけどーー」
雫は一度鼻をすすって続ける。
「私の勝手なお願いを一つだけ聞いて貰えるのなら、絵を描くことは、辞めないで欲しいです。趣味で良いから続けて欲しいの」
雫の目の力が一瞬強くなった。
「だって、壮馬くんの絵には人の心を動かす力があるよ。見る人を旅に連れ出してくれる、魔法みたいな力が。私も壮馬くんの絵のお陰で何度心を癒されたか分からない。私の他にも、壮馬くんの絵で救われる人がきっといる。だから、趣味で良いから、自分のペースで良いから、絵を描き続けて欲しいって思います。もう君とは一緒に居られない私からの、最後のお願い」
雫は一度、ハンカチで両目を拭いてから、また話し始めた。拭った傍から既に涙が流れている。
「私の人生、短かったけど、心から幸せだったって言えるよ。だって、体の芯から愛する人に出会えて、その人と一杯一緒に居られたから。一緒に御飯食べて、絵を描いて、おしゃべりして。多分私の寿命が百年あっても、千年あっても、これ以上の幸せには出会えなかった」
雫は、もう一度涙を拭った。オレンジ色のハンカチは濡れて色が黒っぽく変わっていた。
「最後に、壮馬くんに、『大好き』って言います。いっぱい言います。壮馬くんが『そんなに言うの?』ってドン引きしちゃうくらい言います。だって、死んだらもう言えないから。今のうちに人生一生分、全部、言うね。壮馬くん、本当に今までありがとう。大好き」
雫は、涙に濡れた顔で微笑んだ。
「大好き」の言葉。何度も何度も、雫の口から、少し恥ずかしそうに紡がれていく。
聞き慣れた雫の声。聞き慣れた言葉。
大好きだった声。大好きだった言葉。
もう二度と直接聞くことは叶わない。
画面の外からもすすり泣く声が聞こえた。
壮馬の目じりからも涙がこぼれ落ち始めていた。
一瞬、涙を拭い、壮馬がうつむいたときだった。
「大好き、大好き、大好き、大好き、大好き、大好き」
堰を切ったように雫の声が響いた。
「大好き、大好き、大好き、大好き、大好き、大好き」
雫は、大声で、半ば泣き叫んでいた。今まで抑え込んでいた感情を全て吐き出すように。言葉が溢れ出す。
「大好き、大好き、大好き。世界で一番大好き。大好きだよ! もっと一緒にいたいよ、壮馬くん」
雫は両手で目を覆い、大声を上げた泣き始めた。壮馬も嗚咽が堪えられなくなった。雫の声を聞いて、初めて、壮馬は雫の愛の深さ、大きさを思い知らされた。
そこまで愛してくれていた。
画面の中に映っているのは、泣き虫の一人の、どこにでもいる女の子だった。ただ、彼女は既にここにいないと言う事実が、壮馬の胸に深く突き刺さった。倒れそうな程深い悲しみだった。
動画が一度途切れ、次の場面に移り変わった。と言っても、同じ背景で同じベッドの上に雫が座っていた。雫はもう泣いていなくて、変わりに目が赤く腫れていた。
「それから言い忘れていたけれど、何と! 壮馬くんにプレゼントがあります。冥土の土産です! プレゼントはもう見ちゃったかな? もし見ていないのなら、何が入っているかは開けてみてのお楽しみだよ。じゃあ、またね。壮馬くん、ずーっと、元気でいてね。さよならは好きじゃないから、こう言わせて。『大好き』」
壮馬は空気を抱くようにして蹲った。暫く、動くことが出来なかった。雫への様々な感情が、壮馬の中に渦巻いていた。
しかし一つだけ、動画を見る前と、違うことがあった。
その目は透明な涙に濡れながらも、目は赤い意思の光を宿していた。
淡く、淡く、青い記憶をたどれば辿るほど、暗く、深い漆黒の慟哭に貫かれ続けていたその心。
しかしその闇の中に、静かに、だが確かに灯る赤い炎が、徐々に心に燃え広がっていく。
やがてそれが大きな火柱となった時、壮馬は塾に向けて駆け出して行った。


