病室の中にいた人々の目が一斉にこちらを向いた。眼鏡を掛けた医師が一人。そして看護師が二人。彼らの表情は一様に険しかった。暗い目で壮馬を見つめている。
 彼らの中に、壮馬は看護師の仲村さんを見つけた。荒い息をしていた壮馬は一瞬、息を呑んだ。
 彼女の目は赤く腫れている。
 雫は。
 雫はどうしている?
 しかし雫の顔は、医師の背中に隠れて見えなかった。

「雫」
 壮馬は雫のそばに駆け寄った。彼女の顔は眠っているようだった。本当に、眠っているようだった。
 しかし、いつもの雫と全てが違っているのが一瞬で分かった。安らかだった。穏やかだった。しかし僅かにも動かなかった。その寝顔はどこまでも、生からは遠かった。壮馬から、生きている者から遠ざかっていた。
 今朝見た、静かな寝息を立てる可愛らしい雫の寝顔とは、何もかもが違っていた。
「雫」
 壮馬はもう一度呼びかけた。反応はない。
「雫」
 ひざまずいた。膝の痛みも忘れていた。雫は、応えなかった。
「壮馬くんが来てくれたよ。良かったね、雫ちゃん」
 雫に呼びかける、仲村さんの声は震えていた。その声は、全く相手の返答を想定していない言葉のように聞こえた。言いようのない焦りともどかしさが汗となって、全身を覆った。
「壮馬くん、手、握ってあげて」

「雫!」
 壮馬は呼びかけながら両手で、包むように握った。その瞬間、頭から、急激に全ての血が落ちていくような感覚に陥った。気が遠のいていた。手足から温度が冷めていく。


「仲村さん、雫は」
 壮馬はすがるように仲村さんを見上げた。しかし彼女は目をそらすように、ゆっくり首を振っただけだった。両目からは涙がつたっている。
「水瀬雫さんは亡くなられたんだ。君が到着する30分ほど前だった」

 仲村さんの代わりに医師が応えた。低く、小さな声だった。壮馬を見つめる眼鏡の奥に表情が見えない。
「亡くなられた……?」
 壮馬は言葉の意味が、理解出来なかった。いや、理解が追いつかなかった。これ以上無いくらい、頭が混乱していた。医師は壮馬の問には応えず、腕時計に目を移した。
「二人にしてあげるから、最後に彼女と過ごしてあげなさい」
 医師は背を向け、出口に向かった。看護師たちも続く。その際「親御さんはまだ来られないのか」「今来てるそうですが……遠方にいるらしくて」というやり取りが聞こえた。
 ドアの閉じる音がした。
 しとしとと、雨の降っている音だけが聞こえる。
 壮馬と雫は、二人きりになった。



 *****


 二人で病室に居るのは、いつも通りの、ありふれた光景のはずだった。
 壮馬が病室に入って、先ず手を挙げる。そうすると雫が笑い返してくれて、二人はハグをする。それから二人で絵を描いて、他愛ない話をして、笑い合って……。
 今日も、その日常が繰り返される筈だった。「いつも通り」の二人の世界が、この病室にあるはずだった。

 壮馬は改めて雫の顔を見た。繊細で、目鼻立ちが通っていて、とても綺麗だった。きめ細やかな色白の肌もそこにあった。それも普段と変わらない雫の姿のはずだった。それなのに、それなのに全くいつもと違って見えた。彼女の顔は、人の顔から、「物」に変わろうとしていた。
 
 どうあがいても、現実を受け入れまいと喚いても、決して動かしようのない事実がそこにはあった。
「起きてくれ、雫」

 壮馬はまた呼びかけた。雫がその言葉に反応して、目を開けてくれるような、そんなことを考えた。しかし彼女の身体はぴくりとも動かなかった。
「朝『行ってらっしゃい』って言ってくれたみたいに、今度は『おかえり』って言ってくれ」
 壮馬の声は震えていた。
 雫の手を、決して離さぬように握りしめていた。しかしその手は決して動かなかった。
 何度も握った手。小さくて、柔らかくて、優しい手。今はただただ、冷えていくだけだった。

 壮馬は自分の視界が、急にぼやけていることに気付いた。目の温度が上がっていくような感覚と共に、暖かい水滴が頬を伝っていく。体温を含んだ涙。一度流れ出した涙は堰を切ったように止まらなうなった。

 壮馬はかきむしるように涙を拭うと立ち上がった。雫の顔に自分の顔を近づけた。ただ、雫の「顔」だけがそこにはあった。もう二度と、笑ったり、怒ったり、泣いたりしない、永遠の寝顔。息をする音は聞こえなかった。
 壮馬は雫の唇に、そっと口づけをした。

 おとぎ話のように、王子様のキスで生き返るお姫様を夢想したわけではなかった。ただただ、雫との繋がりを欲していた。手を握っても、呼びかけても。もう雫との繋がりを感じられなかった。だから、口付した。切れていく、彼女との時間を、必死に繋ぎ止めたかった。

 雫の身体はまだ暖かかった。それでも、どうしようもない程に冷たかった。触れた瞬間、壮馬はもう二度と、雫と心を通わせることが叶わないのだと気付いた。
「雫、頼む。起き上がってくれ」

 再び跪いた壮馬。雫の手を握りしめ、祈るように呟いた。何とか体の奥から絞り出したような、上ずった声。
 雫の応えは無かった。
 身体がずしりと重たくなっていく。
 一人だけの病室に、壮馬の呻くような、咳をするような泣き声と、雨の音だけが響いていた。
 日付が変わっても、雨は降り続いていた。