タクシーは中々前へ進まなかった。本来なら混まない時間帯のはずだった。しかし午後から振り始めた雨で、交通量が増えていた。
 壮馬はタクシーの中で小刻みに震えていた。
 不安げに何度もスマホを確認し、外の景色を見つめた。何も頭に入ってこなかった。
「水瀬雫さんが今、危険な状態です。すぐ病院に来られますか」
 それが病院からの連絡だった。壮馬は雨の中、傘もささずに道を走った。途中、タクシーを見つけて身を投げ出すようにして止めた。

 大丈夫だ。以前同じようなことがあった時だって雫は無事だったじゃないか。死ぬほど焦って、急いで病室まで駆けつけたら、雫は笑っていたじゃないか。今回も同じはずだ。今回だって雫は、病室にたどり着いた壮馬に、朝と同じく優しい笑顔を向けてくれるはずだ。
 壮馬は何度も自分に言い聞かせた。しかし、不安は増幅して打ち寄せてきて、その度に叫びだしそうな焦燥感に身を焼かれた。
「くそっ、全然進まねえ」
 タクシーの運転手は舌打ちをした。彼は行き先と壮馬の様子から事情を察したらしく、様々な裏道を通ったり、すり抜けをしたりしながら時間短縮を図ってくれていた。しかし、片道一車線のこの道ではもう身動きが取れなかった。
 壮馬は居ても立ってももいられなくなった。
「運転手さん、ここで降ります! ここから走ります」
 壮馬は財布からお金を出そうとした。
「良いから」
 運転手の顔がこちらを向いた。
「一秒でも急ぐんだろ、行きなさい。料金はまた落ち着いてから会社まで払いに来てくれれば良いから」
 ドアが開いた。「ありがとうございます」壮馬は出た瞬間駆け出していた。



 冬の冷たい雨が、壮馬の顔に打ち付けていた。鼻にも口にも、雨が流れ込んできて呼吸が苦しくなるほどだった。
 それでも壮馬はイチョウ並木を疾走した。
 水の中にいるかのような感覚だった。
 一歩踏み出す度に靴の中に水が染み込んできて、一歩踏みしめる度に水が染み出す音がした。

 全ての不安も、恐怖も、走る原動力に変えて走った。様々な思いが壮馬の足を動かしていた。
 もうこれで自分の体が壊れても良いとさえ思った。

 病院までの距離は1キロを切っているはずだった。それなのに、その道のりは永遠にも感じられた。
 果てしない道を、終わりの見えない雨の中を壮馬は駆けた。
 もう自分がどれだけ体力を使ったのかも分からなかった。
 足がもつれた。
 急に地面が迫ってきて、前のめりに打ち付けられた。鈍い痛みが手のひらと膝に広がる。
 しかし、体を押し上げるように、すぐに立ち上がった。
 こんなところで止まっているわけにはいかなかった。壮馬の目に写っているのは雫の顔だけだった。
 壮馬は再び疾駆した。

 病院に到着しても壮馬はスピードを落とさなかった。人々が異様な風体の壮馬を避けていく。

 エレベーターの中で、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返した。擦りむいた膝の部分が破れ、血が滲んでいることに今更気付いた。
 7階に到着する。壮馬は最後の力を振り絞って走った。心臓の鼓動が早くなっているのは走っていたからだけではない。
 雫の病室の前。
 壮馬は両手で扉を押し開けた。