病室を開けると、いつもと全く雰囲気が異なっていた。
 ほとんど光源がない。いつもは昼間でもついている蛍光灯は灯っておらず、ベッドのそばに僅かな間接照明だけが灯っていた。それが雫の姿を、まるでシルエットのように浮き上がらせていた。
「壮馬くん、来てくれたんだ。ありがとう、大好き」
 雫が小声で言った。小声だが、いつもより高い。
「いやあ、途中見つかりそうになって、危なかったよ」
 壮馬はもう誰にも見られているわけでもないのに、そろりそろりと歩いていた。
「大丈夫だったの?」
「まあ忍者の子孫であるワシにとってはにべもなきことよ」
「忍者っていうのは初耳だね」
 小声で言葉を交わしながら、壮馬は雫の横に座った。
 少しづつ闇に目が慣れてきて、雫の顔の輪郭が見えてきた。じっと壮馬を見つめている。
 壮馬は思わず目をそらした。急に心臓が高鳴ってくるのを感じた。雫の姿が、これまでになく艶めいて見えた。壮馬はその感情を抑え込もうと目を逸らす。
「えっと、どうして雫は俺と寝たいなんて言ったんだ?」
「うん」
 今度は雫が俯いた。
「不安なんだ」
 暗くて雫の表情をうまく読み取れない。笑っているようにも、泣きそうな表情にも見えた。
「最近、眠れないことがあるんだ。勝手だよね。私、あれだけ壮馬くんに夜はしっかり寝たほうが良いって言ってたのに、自分は……」
「そんなこと気にしなくていいよ」
「自分勝手かもしれないけど、明日には心臓が止まっちゃうかも、いや、この瞬間に心臓がとまっちゃうかも、もう壮馬くんとは会えなくなっちゃうかもって思ったら、怖くて、不安で」
 雫はこの暗い病室にずっと一人だった。最近は壮馬の他に、雫の母親も来る回数が増えているみたいだが、夜は孤独だ。症状が安定しているとはいえ、一度心臓の動きが悪くなった時から、その気持は一層強くなったはずだった。
 彼女の不安な感情は、壮馬が推し量ろうとして推し量れるものではない。

「分かった、雫」
 壮馬は雫を抱き締めた。
「一緒に寝よう。ぐっすり寝よう」

 壮馬は雫の右隣に寝そべった。1人用のベッドなので、当然だが少し狭い。しかしそれは逆に雫との距離が近いということでもあった。
 自分でも意外だったのだが、ドキドキするとか、体温が上がるような感覚があるとか、そういったことは無かった。
 ただ、布団の下で繋いだ手。その温もりがとても心地良い。「自分は今、雫と一緒にいられる」そのことがとても嬉しかった。心に充足感が広がっていった。

 雫は何も言わなかった。
 暗い病室の中、雫の息遣いだけが聞こえてきていた。
 言葉はいらない。
 壮馬も何も言わなかった。
 本当は塾を辞めようとしていること、芸大に行くことを諦めようとしていることを今日伝えようと思っていた。しかし、言うことが出来なかった。今言うべきではないと思った。
 ずっとこうしていたい。
 雫は出会った頃、「夜の草原に寝そべって、夜空を見てみたい」と言ったことがあった。「そんなことしたら草がチクチクするし、虫にたかられて星どころじゃなくなるよ」と壮馬は笑ったのだが、今、壮馬も同じことを思っていた。雫と一緒に夜の夜空を見たいと思った。満点の星空。白く、赤く、青く、輝く、空一面を覆い尽くす星星を見上げて、今と同じように、ただ手を繋いで、同じ思いを共有していたいと思った。

 そんなことを考えながら暗い天井を見つめていた時だった。
「起きてる?」
 不意に雫が言った。
「起きてるよ」
「そっか」
 それ以降、雫は黙った。しかし数分するとまた
「起きてる?」
 と声が聞こえた。
「寝てるよ」
「起きてるじゃん」
「これは寝言なんですよ」
 雫の、静かな笑い声が聞こえた。何だか、こんなやり取りをしてると、雪山で寝ないように、互いに生存確認をしているみたいだな、と思った。
 何度か同じようなやり取りが続いた後、雫が静かに言った。
「ねえ、こういうやり取りってさ、何だか雪山で遭難してさ、お互いに寝ないよう起こし合ってるみたいじゃない?」
 壮馬は思わず雫の方を見た。
 雫も、壮馬の方を見ていた。暗くて表情は分からなかった。でも、目と目が合っている気がした。雫も壮馬と同じことを考えていてくれた。それが嬉しくて、暫く、雫と見つめ合っていた。
「俺も同じこと考えてた」
 雫は何も言わなかった。二人で、互いの方を向いて、両手を握りあった。ただ、そうしていた。そうしていたかった。

 次に壮馬の意識が戻った時、壮馬も雫も仰向けに寝ていて、片手だけを握った状態だった。
 カーテンの外がほんのり明るくなっていた。
 壮馬は全身から血の気が引いていくのを感じた。
 病院では午前2時ごろと5時ごろに看護師さんが見回りが来ると、事前に雫から聞いていた。その時間になったらトイレに隠れるつもりだった。つまり、一晩中起きていようと考えていたのだ。
 壮馬は慌てて時計を確認する。6時12分。

 壮馬は首をかしげた。
 二度の見回りは済んでいるはずだった。
 雫の方を見ると、静かに寝息をい立てていた。その首元まで布団が被せられている。壮馬がしたことではない。
「そういうことか」
 壮馬は頭をかいた。
 気付かれていたのだ。最初から。
 婦長の玉井さんは、おそらく階段の下で既に壮馬を発見していた。しかし、黙っていてくれたのだ。
 二回の見回りでも、彼女は、もしくは彼女に言い含められた看護師さんは、壮馬と雫が一緒に寝ていることに気付いた上で、黙認してくれたのだ。

 壮馬は、温かい感情が胸に広がっていくのを感じた。雫と二人だけの世界ではない。色んな人が、壮馬達を助けてくれている。支えてくれているのだと実感した。

 壮馬は雫を起こさぬよう、そろりそろりと布団から出た。
 音を出さぬようトイレに入り、あらかじめ持ってきていた学校の制服に着替えた。この時間ならば、学校までは余裕を持って到着出来る。
 音を立てぬよう、病室を出ようとしたときだった。
「壮馬くん」
 雫が上体を起こしていた。
「いってらっしゃい」
 朝焼けを背に、雫の笑顔は輝いていた。何者にも勝る笑顔だと思った。自然と壮馬も優しい顔になっていた。
「いってきます。また放課後」
「うん」
 手を振って、壮馬は病室を出た。
 あの表情を、これからもずっと見ていたい。もっと雫と一緒にいる時間が欲しい。やはり、受験はやめようと壮馬は思った。