雫のお願いを聞くのには、ちょっと勇気が必要だった。
壮馬は入院棟の非常階段を上っていた。静寂の漂うその空間には、壮馬の足音だけがやけに大きく反響している。時刻は夜の11時を回っていた。病院の面会時間はとっくに終わっており、それどころか消灯時間も過ぎていた。壮馬は今、病院の規則を破って、雫の病室を目指していた。非常階段を使っているのは巡回の看護師に見つからないようにするためだった。
今日、別れ際に頼まれた雫からのお願い。それをこれから叶えに行く。
雫の病室がある7階まで一息に上るのは、流石に息が切れた。
雫は何故こんな要求をしたのだろう。
階段を一歩ずつ踏みしめながら、考えていたのはそのことだった。
雫の要求。それは、「今夜だけで良いから一緒に寝たい」というものだった。雫の要求を叶えるには、消灯後の病院に忍び込まなければならない。見つかったら、学校に連絡されるかもしれないし、今後の面会に制限が課される可能性もある。雫もそれは分かっていたはずだった。分かった上で必死にお願いをしてきた。
彼女が壮馬にリスクを背負わせるような要求をすることは、今まで一度も無かった。
だからこそ、壮馬は願いを叶えてやりたいと思った。彼女にとって、そうしなければならない何かがあるのだ。
六階まで上がり切り、あと一息と七階に上がる階段に足をかけたときだった。不意に、上の方からドアの開く音がした。
壮馬の心臓が跳ねた。
誰かいる。
一瞬で逃げるか、このまま隠れておくかの二択が浮かんだ。隠れていても、音の主が降りてきたらアウトだ。一瞬で見つかってしまう。かといって逃げ出せば、捕まることはないだろうが、音を出してしまう以上侵入者の存在には気付かれてしまう。そして今日、雫と会うことは出来ない。
「誰かいるの?」
低い中年女性の声。婦長の、玉井さんだった。彼女は規則に厳しい人で、壮馬も何度も注意を受けている。見つかったら最後だ。
脇に汗をかいていた。
壮馬はとどまることを選択した。気付かれたらダッシュで逃げる。だが、それまでは見つからない可能性にかける。雫が待っているのだから。
体勢を低く保つ。
こつ、こつ、と音が降りてくる。
全身の汗が吹き出していた。顔を伏せている壮馬の額から、大粒の汗が流れ落ちた。
こつ、こつ、こつ……。
止まった。
顔を伏せているので相手の状態がわからない。今、どのあたりにいるのかも分からなかった。すぐ上の七階から降りてきているのか、それより上からなのかも。
靴音が再び響いた。
壮馬は思わず顔を上げた。音が、遠ざかっていくからだった。よく響く、扉の軋み、閉まる音。静寂が残される。
ばれなかった、のか? そうとしか考えられない。
普通なら、声掛けくらいはするだろう。
何にせよ助かった。壮馬は大きく息を吐いた。しかしまだ油断は出来ない。
壮馬は用心して、その場に少しの間、とどまっていた。
スマホで10分経ったのを確認してから動き出す。今夜、絶対雫に、会わなければならない。


