「何度も言わせるな!」
眼の前でキャンバスが蹴り倒された。教室の中に乾いた音が響く。しかし他の予備校生達は微動だにせず、黙々と己のキャンバスと向かい合っている。「またか」壮馬の心に浮かんできたのはその言葉だった。あまりにも自分の心が冷めていて、そちらの方に驚いたくらいだった。
「加藤、ここに入ってどれくらい経った?」
「約一年と半年です」
「何で線一本もまともに引けるようになってないんだ」
壮馬は言葉に詰まった。まともに引けないわけではない。壮馬の画力は格段に上達していた。ただ、それはやはりこの塾に入る前の壮馬と比べての話だった。
このままでは絶対東方芸大に受からない。それを徳田は分かっていて、何とか壮馬を焚きつけようとしているのだ。分かっていた。だが壮馬もここまで必死にやって来た。ほぼ全ての時間を絵を描くことに割いてきた。それでもまだ、足りなかった。
このままじゃ駄目だ、このままじゃ駄目だ、そう思うほど、うまく描こうと思えば思うほど、線は乱れ、デッサンは崩れた。
あんなに好きだった絵が、今は苦痛になっていた。塾に行く途中も足が重くなった。キャンバスと向き合う度に吐きそうになる。描いているものが気に入らなくて、徳田にそうされなくても自分で破り捨てたくなった。
最近は雫の助言も受け入れ、睡眠時間は取るよう注意していた。しかし、布団に入っても頭をもたげるのは絵のことばかりで、まともに寝られない日もあった。
本来楽天的だった壮馬が、こんなに人生に対して思い詰めたことは初めてだった。
徳田に怒られながら、壮馬の頭には様々な思考が浮かんでいた。
どうして俺には才能が無いんだ。
どうして絵が上手くならないんだ。
どうしてまともに線も引けないんだ。
どうしていつまで経っても他の塾生に追いつけないんだ。
どうして俺はここで怒られている?
どうしてこんなに苦しい思いをしないといけない?
どうして俺はこんな所に居る?
どうして雫とあう時間を削ってまで、やらないといけない?
どうして。
どうして。
どうして……?
自問自答を続けるうちに、何故自分がここにいるのか分からなくなってきた。壮馬の中で、何かの思いが破裂しそうだった。
『雫に会いたい』
最後に残ったのはそのことだけだった。
「どうして黙っている」
徳田の問いに壮馬は顔を上げた。
「無理なら辞めても良いんだぞ。絵描きになるだけが道じゃない。若いから未だ色んな道が選べる」
この言葉も、何度も言われた言葉だった。壮馬の心を揺さぶって、本気かどうか試そうとしている。
その手には乗らない。
「やめません。僕は絶対に世界的な画家になります」と突っぱねてきた。しかし、今、積み重ねられたストレスや重圧は、壮馬を押しつぶす寸前まで追い詰めていた。
壮馬は再び顔を下げた。強く目を閉じる。
辞めるわけにはいかない。俺は絶対、雫のために約束を……。
約束。
そうだ、俺は絶対東方芸大に受かると約束したのだ。
でも、何のために?
世界的な画家になるためだ。
でもそれって、本当に必要なことなのか? そして、本当に、雫のためなのか? 会う時間を削ってまで、こんな過酷な毎日を、いつまで続ければ良いのだろうか。
壮馬が目指す東方芸大の絵画科の入試は熾烈を極めるのは一度書いた通りだ。戦うのは全国から集まった、同年代で最も絵の上手い者達。それに加え、二浪、三浪して腕を磨いてきた浪人生や、プロのイラストレーターだっている。
その中に混じって、30倍と言われる倍率を潜り抜け、最も絵の上手い百数十人にならなければ受からない。
それがどれだけ過酷なことか、言葉にするのは難しい。努力だけではどうにもならない壁が確実に存在ている。
終わりの見えない戦いだ。
途中で投げ出すだけならまだ良い。ノイローゼになってしまう者もいる。気が狂(ふ)れたようになってしまう者だっているのだ。
押し黙ったままの壮馬に、徳田は更に言葉を投げつけた。
「加藤、お前は絵を描くことに、まだ真剣になり切れてない。そんな態度じゃあ100年あっても芸大には受からん」
言葉を理解した瞬間頭、沸騰したように血が昇った。壮弾かれたように立ち上がった。ガタン、と椅子が倒れる。
「舐めてません! 僕はここに来てから一度だって休んだことも無ければ手を抜いたことも無い! 先生の言う通りのことをずっとやって来ました」
壮馬は初めて徳田を睨みつけた。勿論、初めての反抗だった。しかし徳田はまるで虚空を見ているかのように涼しい顔で壮馬を見つめ返していた。
「お前がここに入るときにも言ったことだが、もう一度教えてやる。本気で絵描きを目指すってことは、それ以外の道を全て捨てるってことだ。お前は自分の一番大切な時期を棒にふる覚悟で絵に取り組んでいるか?」
徳田を睨んでいた壮馬の目つきが弱くなった。
絵画科受験生は一般の受験生が必死に勉強している間、命を削って絵を描いている。本当なら、もっと偏差値の高い、世間的に見ても有名な大学に行ける可能性を捨ててまで、絵を描くのだ。
なぜなら東方芸大の絵画科に入るには、何よりも絵を描く能力を高めていく以外に方法がないからだった。
これをやめて、一般の大学に変えようとしたら、絵を描いていた時間は、少なくとも受験においては全て無駄になる。
潰しが効かない。
そんなの分かってるつもりだった。
そんなこと考える必要などないと思っていた。100%受かるまで努力するつもりだったからだ。
壮馬の心を見透かしたかのように続ける。
「根性も堪え性も無いんなら、そんな中途半端な気持ちなら、絵を描く時間を、お前の入院している恋人と一緒に居てやる時間に当てた方が、まだ有用な時間の使い方だと思うがな」
「先生に雫のことをどうこう言われる筋合いはありません」
「じゃあ分かりやすいようにもう一度言ってやろう。やる気が無いんなら絵描きなんて辞めちまえ!」
いつもなら、何でもない言葉だった。しかし、この言葉で壮馬の心の糸が、音を立てて一気に切れた。それは怒りの沸点とは違うものだった。
壮馬は自分の鞄を持ち上げると、そのまま足早に出口へと歩いて行った。
「おい、おい加藤!」
徳田の声には若干だが焦りの色が見えた。何度か徳田の声が聞こえたが、エレベーターの前に立つ頃には、もう何も聞こえなくなっていた。


