壮馬が病室に入ると、雫がいつものように手を振っていた。
雫の後ろの窓には夕日に染まった雲が浮かんでいた。空は夜の色に変わろうとしている。
「壮馬くん、今日も来てくれてありがとう。大好き」
いつものように雫とハグをして、ベッドの隣に座ろうとしたら、「待って」と雫に両肩を掴まれ止められた。
雫の両手が壮馬の肩から、目の下に移った。彼女の細い親指が目の下を撫でた。
「やっぱり目の下にクマさんがいるね」
目のクマの心配をしているらしい。その表現の仕方が可愛くて、思わず笑みがこぼれた。
「もう、笑いごとじゃないよ。ちゃんと睡眠は取らなきゃいけないって毎日言ってるのに」
雫が壮馬を心配するのは今に始まったことではない。何かあると雫は壮馬を気遣った。展示会の準備で奔走している時もそうだったし、塾で色々と言われて悩んでいる時も彼女は敏感に察知した。
「どうしても壮馬くんが睡眠を改善する気がないようなので」
雫はタブレットを取り出し、壮馬に見せながら話しを継いだ。
「えー、睡眠は、私たちの心身の健康に欠かせないものです。しかし、壮馬くんのように忙しい現代人では、睡眠の優先順位が下がりがちです。そこで今回は、睡眠がどのように私たちの生活に影響を与えるかを解説し、その重要性を見直していただきたいと思います」
タブレットには、先ほど雫が喋った言葉が浮かび上がってきている。どうやらスライドショーのアプリのようだ。
「え、プレゼン?」
「先ず、なぜ睡眠が重要なのか? について解説します。 睡眠中、体は細胞を修復し、筋肉や組織を再生することによって……あれ、何だっけ」
雫は時々タブレットを覗き込みながら、たどたどしいプレゼンを続けていく。
その時、雫がタブレットの画面を切り替えて、ブラウザの履歴欄が映った。横にいると全部見えてしまうのだ。
壮馬は目を見開いた。そこには「睡眠改善」「睡眠の質」「眠りの深さ」など、睡眠に関するHPや検索欄でびっしりと埋まっていた。
恐らく雫はかなりの時間を費やしたはずだった。壮馬を心配しての行動だった。
不意に、壮馬は視界がぼやけてくるのを感じた。彼女の優しさが、余裕を失っていた壮馬の心に深く沁みた。しかしそれだけの理由では無かった。
壮馬は隣から雫の肩を抱いた。雫の髪からは、陽だまりの匂いがする。
「え、ちょっと壮馬くん、どうしたの?」
壮馬は雫にバレないように涙を拭った。
「ごめんな雫、俺のためにプレゼンまで用意してくれて」
壮馬はわざと甲高い声で言った。普通の声だと泣いていることを気付かれそうだと思った。
後ろから抱き着いて、雫の小ささを改めて感じる。こんな優しい子が、どうして病気にならなければいけなかったのだろうか。どうして、普通の女の子として生活が出来ないのだろうか。どうして自分は、こんなに無力なのだろうか。
「プレゼントもあるよ、壮馬くん」
「プレゼント?」
雫から離れ、顔を背けて涙を拭っていた壮馬が振り方を向くと、彼女はベッド横の引き出しから、何かを取り出していた。
雫が壮馬の手元に持ってきたのは、カモミールティーのスティックが入った袋の詰め合わせと、色紙のようなものだった。色紙には挿絵を交えながら睡眠の知識、意識すべき所などがカラフルな文字でまとめてあった。
「これは……」
壮馬は雫の顔をまじまじと見た。雫は少し恥ずかしそうに頬を赤らめていた。
「私がプレゼンしただけじゃあ壮馬くん忘れちゃうと思ってさ。こうして手書きにしたら、壮馬くん大事にしてくれるでしょ?」
壮馬の胸に、温かさと、苦しさに似た愛おしさが一度に押し寄せた。
本当は立場が逆の筈だった。壮馬が雫を元気付けてあげなければならないはずだった。雫は心臓に重い枷を抱えている。入院期間中、死を間近に感じて、雫は怖い筈だった。不安で張り裂けそうな精神状態だとしてもおかしくない。
それなのに、彼女は優しく壮馬を労ってくれる。本気で壮馬を気遣ってくれている。壮馬のことを、自分よりも何よりも大事にしてくれる。
色々な思いと共にまた涙が溢れてきた。
「そ、そういえばさ」
壮馬は涙を袖で擦って、無理やり話題を変えることにした。
「今日面白いことがあったんだ。授業中に寝てた青山がさ、突然立ち上がって『フッ素!』って叫んだんだよ。どんな夢見てたんだろうな。大爆笑だったよ。まあ笑ってたの俺だけだったけど」
こうして学校のであった話を語るのはいつものことだった。雫と会うようになって最初の方は、一発ギャグやコントなども披露していたが、普通に話していた方が雫の反応が良いことに気付いたのは半年を過ぎてからだった。
「フッ素って、本当にどんな夢を見てたんだろうね。青山くん」
雫は口に手を当てて笑う。壮馬が雫と出会ってから、ずっと変わらない笑い方だった。そのどこか上品な笑い方がやはり好きだった。
ちなみに雫と青山は展示会で少し顔を合わせただけで、それ以降は会話をしていないが、壮馬が頻繁に話に出すので認識はしている。
「壮馬くんがいつも面白い話をしてくれるから、たまには私も何か病院であった話をしようかな」
「お、雫さんの面白トークが聞けるのか。楽しみだな」
「ハードル上げないでよ」
そう言って雫は眉間に手を当てた。記憶を探っているようだったが、やがて首を傾げた。
「私は……何も無いや」
雫は笑った。どうにか作ったような、悲しい笑顔だった。
壮馬にとっては学校で起こる様々なことは日常だった。特別ではなく、貴重にも感じず、過ぎていくだけの毎日だった。しかしそれは雫にとって決して訪れることのない、特別な、手の届かない、非日常だった。
彼女にとっての日常は病院での生活だった。病院での生活では人間関係が限られていて、単調で、色の希薄な、灰色の毎日だったのかもしれない。だからこそ「何も無い」という表現になったのだろう。
暫しの沈黙が降りた。
「あ、でも今日は一つ、良いことがあったよ」
沈黙を破った雫の明るい声に、壮馬は顔を上げた。
「何?」
「壮馬くんが来てくれたの」
雫は目を細め、本当に嬉しそうに笑った。
「俺は毎日のように来てるじゃん」
雫は首を振った。
「壮馬くんが会いに来てくれる一日一日が、私の人生にとって、この上なく特別だから」
眩しかった。夕日にも負けないくらい、雫の笑顔は何よりも輝いて見えた。この輝きを一生失いたくないと壮馬は思った。
「さ、今日も応募の絵を進めないとね」
雫は照れ隠しをするように、タブレットのタブを切り替えてペイントソフトを立ち上げていた。
応募用の絵はいつものように、背景は壮馬が描いて、人物は雫が描くことになっていた。壮馬の方が作業量は多かったが、順調に進んでいた。いつもよりレイヤーの枚数を増やし、丁寧に描くように心がけていたが、それでも期限には間に合うだろう。
しかし雫は苦戦しているようだった。
「うーん、どうしても、違和感があるんだよね」
「まだ表情が決まらないのか?」
雫は中央に配置する少女キャラクターの表情で悩んでいると以前から言っていた。絵から浮いてしまうような気がするのだと。
「俺はこの表情で良いと思うけどなあ」
壮馬は雫の絵を覗き込んだ。背中越しに振り返った少女が笑っている。確かにどこか違和感があるのも事実だったが、それは表情に感じるものではなかった。
「影の付け方かなあ」
壮馬はキャラクターの顔部分を拡大しながら言った。
「あ、そう言えば影も気になってた! ほら、背景が夜じゃない? 夜の絵だと、いつもどこから光が当たってることにするか迷っちゃうんだよね」
「確かに、光源で影の角度が変わるもんな……ちょっと貸して」
そう言いながら、壮馬は雫のタブレットとペンを受取った。そして、互いに押し合うくらいまで雫と近づいた。静かな雫の吐息が聞こえる。温もりが伝わる。体温が分かる。
また、雫が小さくなっている気がした。あれから三年以上経ち、壮馬の身長は175センチを超えていたが、雫は150センチちょっとのままだった。
壮馬はこのまま雫が居なくなってしまうような予感がして、それを振り払うように、繋ぎ止めるように、肩に当たる雫の感触に、必死に注意を向けていた。
壮馬は目をタブレットに移した。レイヤーを選び、雫の付けた影を観察する。
「そうだなあ、例えばここの影は角度的に、こっちに光源があるはずだから……もう少し斜めにするかな、俺なら。あとこの腕の影だけど、もう少しブラシを使って、ぼかし気味にすると……ほら、良い感じじゃね?」
壮馬はその後も次々に影を観察してアドバイスをしていった。
「壮馬くんすごいね。何だか見違えるように良くなった気がするよ」
雫はタブレットの中の少女を拡大したり縮小したりしながら言った。
「まあ、俺も東方芸大を受験する身だからな。まだまだだけど」
壮馬は何気なく答えたつもりだった。
「いつの間にか、壮馬くんに追い越されちゃったな」
雫の声色はいつも通りだった。しかしどこか悲しみを含んでいる。
彼女の絵を始めて見た時、壮馬は「同年代にこんなに絵の上手いやつがいるのか」と驚いた。その雫より、壮馬の方が上手くなっていた。それは決して壮馬の方が才能があったというわけではない。
雫には受験のチャンスもない。塾に通うこともできない。もし彼女が健康で、本気で絵に取り組めていたならば、壮馬など到底及ばないレベルまで達していたかもしれなかった。
「そういえば、絵が私達を繋いでくれたんだよね。感謝しなきゃ」
しばしの沈黙の後、雫が呟くように言った。
「そうだなあ、俺、どうしようもない奴だったけど今はこうして目標があって、努力してられる。それは全部、雫と絵のお陰だと思うんだよ」
「うん。最初壮馬くんって、すごい変な人だと思ってたけど、一緒に居たら楽しくて、面白くて、本当に好きになって良かったなって思う」
「そう?」
「それに壮馬くんって私が頼んだこと何でもやってくれるでしょ? こんな言い方はおかしいかもしれないけど、何でも願いを叶えてくれる、スーパーマンみたいだな、て思ってた」
「いやいや、それは流石に褒めすぎだろ」
壮馬は頭を掻いた。暖かい心地が胸に広がっている感覚だった。壮馬はずっと、雫との約束を守るために動いてきたと言っても過言ではない。そのために様々な障害も乗り越えたし、今も生活のすべてを捧げている。
雫に認められて嬉しかった。
「褒めすぎなんてこと無いよ。壮馬くん、展示会の時すごい方法で人を集めたんだよね。あの話を後から聞いて、あまりの節操の無さにちょっと笑っちゃったもん」
「まあ必死だったしな。『何とかする』っていう能力はあそこで獲得した気がするな。今も何だかんだあの経験が生きてる気がするよ」
「お母さんから守ってくれたこともあったよね」
「あったなあ。俺、実はあの時めちゃくちゃ震えてたんだよ?」
「そうだったの? 私にはすごく堂々としてるように見えたよ」
「まあ今なら、何の迷いもなく雫を助けてあげられると思うけどな」
そこで再び、二人とも沈黙した。
今に目を向けている壮馬と過去を追走する雫。大きくなっていく壮馬と変わらない雫。健康な壮馬と、病気の雫。生を謳歌する壮馬と、死の隣に座る雫。
こんなに毎日一緒に居て、一緒に絵を描いているのに、どこまでも、雫の人生は壮馬とは違っていた。
愛し合っているのに、思いは同じはずなのに、どこまでも埋まらない溝が、二人の間に横たわっているようだった。
壮馬は強く雫を抱きしめたい感情に駆られたが留まった。雫が壊れてしまう気がした。
強く抱きしめる代わりに、壮馬は優しく、包むように抱き締めた。もう二度と離したくなかった。
「雫、大好きだ」
壮馬は絞り出すように言った。
「私も大好き」
雫は壮馬の右手に自分の左手を重ねた。
***
絵は無事完成し、期日間近に送ることが出来た。ギリギリになった分、完成度には満足していた。直前まで何度も何度も手直しを重ね、ようやく納得のいく形に仕上げることが出来た。
「あとは、果報は寝て待て。だね」
雫が笑う。
「まあ、そううまくはいかないとは思うけどな。ライバルが多いし強すぎる」
「まだ分からないよ? 大賞は無理でも、佳作に選ばれるだけでも美術館展示の資格が得られたりするんだから」
「佳作かあ。あ、佳作って聞いたら何か行ける気がしてきたぞ」
「でしょ?」
二人で見つめて笑った。薄い雲が流れていく。季節は冬になろうとしていた。結果が出る頃には年が明けている。
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