「あんた、また少し痩せたんじゃないの?」
 壮馬の顔を覗き込むようにして美咲が言った。眉間に皺が寄っている。
「いや、最近体重計に乗ってないから分かんないや。それより美咲、動かないでくれよ」
 壮馬は顔も上げず、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。描いているのは美咲の顔だった。


 壮馬が、無理な生活スケジュールで疲弊していることは、誰の目にも明らかだった。壮馬の一日は絵を描くことに終始していた。朝起きて、学校に向かう電車の中で乗車客を先ずスケッチする。その後学校でも、授業中休み時間問わずスケッチを続けた。
 最初は怒る教師も多かったのだが、どんなに言っても辞めないので、やがて黙認されるようになっていった。唯一手を休めるのは雫と居る時だけで……その時間も絵は描いているが……塾に行ってもこってり絞られながら絵を描き、夜帰って、徳田講師から課題として読むように命じられた難解な哲学の本を読みながら絵を描き、気絶するように眠る。そして朝が来るとまたスケッチ、スケッチ、スケッチ……。そんな生活を繰り返していたら、壮馬の体重は、塾に通い始めてから7キロも減った。未だに身長の伸びている、育ち盛りの少年が。


「痩せたのもそうだけど、目のクマもすごいぞ。壮馬、お前ちゃんと寝てんのか」
 前の席に座っている青山が言った。壮馬の目の下には黒々としたクマが浮かんでいた。
「寝てるよ。まあ毎日5時間弱はな」
「少なっ。おいおい、夜遅くまで何やってんだよ」
「すごいAV見てたら眠れなくなっただけだよ」
「お前、真剣な話してるときに何言ってんだよ……」
 青山はため息をついた。そして片肘を壮馬の机について続けた。
「明日俺にも貸せよ」
 ポコン、と乾いた音がした。美咲が青山の側頭部にデコピンしたのだ。
「痛ったぁ! 今すごい良い音した!」
「加藤、あんたさ」
 側頭部をさすっている青山など気にも留めず美咲はじっと壮馬の顔を見ていた。

「ちょっとオーバーワーク過ぎるんじゃないの? そんなことしてたらいつか潰れるよ?」
 壮馬が鉛筆を止める気配はない。
「潰れるかよ。サッカー部万年補欠のこの俺が」

「真面目な話してるんだけど。軽口叩くの辞めてくれない?」
 にわかに美咲の声が低くなった。空気が不穏に気付いたのか、青山がのけぞるように壮馬の机から離れる。
「じゃ、代わりにドラムでも叩いてれば良いのか」
「そんな痩せ方普通じゃない。そんなになってまで絵を描く理由って何なの」
「今絵描いてるんだから静かにしろよ。あんまりうるさいと今描いてるお前の鼻だけ抽象画にするぞ」
「真面目に聞いてよ!」
 美咲は両手で壮馬の机を押しつぶすように叩いた。
 昼休み中で騒がしかった教室中が一気に沈黙する。クラス中の注目が美咲に集まっていた。 
 驚いて壮馬も手を止めた。美咲のそんな大声を出すところも、本気で怒った表情を見せることも初めてだった。
 流石に美咲自身も、そんな大きな声が出るとは想定外だったのか、周囲を見回した後、手を壮馬の机から退けながら言った。
「そんなに、その約束って、大事なの?」

 美咲は壮馬と雫が交わした「世界的な画家になる」という約束については聞いていた。そのために壮馬が身を削って努力をしていることも。
 突然怒られて固まっていた壮馬は、一度咳払いをして美咲の顔を見つめた。
「大事だ。俺にとって、世界で一番大事な人との約束だから」
 壮馬の視線はひたすらに真っすぐだった。美咲は目をそらした。



 瞼が重い。壮馬の視界はぼんやりと霞んでいた。鉛筆を握る手が震えているのが分かる。手元がぶれる。
 意識が遠のきながらも壮馬は筆を動かしていた。
 手に力が入っているのか、抜けているのかも曖昧だった。
 講師の徳田が自分のすぐ横で足を止め、デッサンを観察していた。
 しかし壮馬の心は虚ろだった。集中しなければ、と常に思い続けていなければ、鉛筆を動かし続けることさえ出来ないようにさえ感じた。
 断片的な思考が浮かんでは消えていく。そのぼやける思考の片隅で考えていたのは雫との約束のことだった。


 昼間、学校で美咲に怒られた際、実は壮馬の心はかなり揺れ動いていた。いや、実はその前から今の生活を続けても良いのか、という不安は感じていた。いつか限界を迎えると気付いていた。
 それでも描くしかなかった。受験に受かるだけの画力が身についていなかった。絵で抱える問題は、絵の中でしか解決できない。しかし描けば描くほど、そこに浮き彫りになる自分の実力不足。
 抑えようのない不安と怒りが常に壮馬を満たしていた。それを発散させようとデッサンに力を込めれば込めるほど、また手元が狂い、そこにまた劣等感を感じると言う負のループが出来ていた。分かっていても、壮馬はその螺旋から抜け出せなかった。

 そして壮馬を支えているのが雫、そして雫との「世界的な画家になる」という約束。
 彼女との約束を果たすためにはどんな努力もいとわないつもりだった。どんな犠牲でも払うつもりだった。しかし、本当にそれが雫のためになっているのか、壮馬は疑問に感じるようになっていた。

 生活の中心が絵になってから、壮馬が日々雫を思う時間は明らかに減っていた。雫と会っている時は雫のことだけを考えているつもりだが、積み重なった疲労から、その時間も意識がぼんやりとしていることが増えた。
 雫と会う時はもっと明るく振舞いたかった。雫にとって、自分が居ることで少しでも楽しい時間を過ごして欲しい思っていた。
 そうして、雫に対して義務感のように感じている自分のことにまた腹が立ち、自己嫌悪に陥った。
 こうやって雫との約束について考えると、壮馬はいうも一つの結論にたどり着いた。いつも同じだった。

 もっと雫と一緒に居たい。
 もっと彼女との時間を大切にしたい。
 残り少ない彼女との時間を……いや、違う。
 雫はもっと生きるはずだ。ニ十歳を超えて生きて、いや、三十歳を超え、四十歳を超え、寿命まで。

 壮馬は再び、鉛筆を握る手に握力を増し加えた。