バスを降りると壮馬は病室まで一目散に走った。受付を駆け抜け、入院塔に入り、エレベーターを待ったが、じれったくなって階段を駆け上がった。
「雫!」
 壮馬は扉を開けるなり叫んだ。
 病室の中の誰もが壮馬の方を向いた。その中には一番手前の左側にいる雫の顔もあった。
 彼女は呼吸器を装着されていたが、壮馬を見つけると手を振ってくれた。

「雫、大丈夫なのか、ああ喋らなくていい。俺が自分で看護師さんに聞いてくるから」
 壮馬はほっとして、ベッドの横にある丸椅子に腰かけた。雫は頷いた。どうやら、そこまで事態が悪化していたわけではないようだ。もし悪化していたら雫はICUに移されているし、こうして意思の疎通だって取れない。

 実際、後から仲村さんに聞いた話では、一時的に心臓の動きが悪くなったが、すぐに持ち直したという。

 壮馬は改めて雫の姿を眺めて、その小ささを実感した。初めて会った時、壮馬と雫の身長差は10センチも無かった。しかしそれからほとんど背の変わっていない雫に比べ、壮馬は更に10センチ以上大きくなっていた。
 それに雫はこの1年でまた痩せた。病院で出される分の食事は何とか食べられているが、それ以上の食欲が湧かないらしく、体重を増やそうと無理に食べようとすると気分が悪くなるという。

 しかし雫は悲観しているようには、少なくとも壮馬からは見えなかった。むしろ、壮馬と過ごす時間が長くなるにつれ、以前より笑うようになった。
 だがその声も少しづつか細くなっている気がして苦しかった。壮馬から目に見えて分かる以上に、彼女の身体の弱り方は雫が一番分かっていたはずだった。
 壮馬はやるせない気持ちになって、視線を床に落とした。


 次の日、壮馬はある決意と共に雫の病室に向かっていた。雫が辛い時こそ、自分が明るくいなければならない。決して、雫に悲しい顔を向けないようにしようと思った。
 壮馬は一度深呼吸をしてから、病室の扉を開いた。
 一番手前、左側に雫が、居なかった。ベッドが空になっていた。私物も無くなっていた。



 *****




 壮馬は一瞬で血の気が引いていくのを感じた。
 部屋番号を間違えたのかと確認したが、間違っていない。同室の人たちの顔も全員一致している。
「雫?」
 壮馬は居ても立っても居られなくなって、ナースステーションに走った。無事でいてくれ、と何度も心の中で祈った。
「あの! 705号室の水瀬雫さんが病室に居ないんですけど!」
 近くにいた看護師さんが、「ああ」と表情も変えずに振り向くと
「水瀬さんなら個室に移られましたよ」
 と言った。

「個室に移るなら言ってくれよぉ、びっくりして、ありとあらゆる物が身体から零れ落ちるかと思ったわぁ」
 壮馬は雫の個室に入るなり膝から床に崩れ落ちた。全身の力が一気に抜けた。
「ご、ごめんね。実は急に決まったんだ」
 既に雫の口からは呼吸器が取れていた。
「急に?」

 壮馬は顔を起こした。
 雫の話によると、昨日、壮馬と入れ違いで雫の母親がやって来たという。彼女は
「個室に移りたいでしょ」
 と言った。突然のことに雫は戸惑っていたが、勿論個室の方が良かったので頷いた。
「へー、あの冷酷そうな人がねえ」
「私も最初、何か裏があるのかと思ったけど、全然そんな風じゃなかったよ。あと最近は結構お見舞いに来てくれる回数も増えたし」

 壮馬は雫の母親と初めて出会った時のことを思い出した。あの冷たく鋭い視線を我が子に向けていた彼女に、どういう心境の変化があったのだろうと考えたが、答えは出なかった。

「私、もうあんまり生きられないかも」
 壮馬の心を鋭く突き刺すような言葉だった。壮馬は雫の顔を見た。彼女はこちらを見て、微笑んでいた。あまりにも悲しい微笑みだった。
 唐突な雫の弱音に、壮馬は一瞬言葉に窮したが、すぐに笑顔を作った。
「そんなわけないだろ」

 壮馬は立ち上がっていた。深呼吸をして、椅子に座る。
「そんなわけないだろ」
 今度は優しく諭すように言った。
「俺達は世界中を旅しながら作品展を開く。もっともっといろんな人に絵を見てもらうんだって約束しただろ」
 雫は無言で頷く。
「雫は絵の仕事も受けてるし、これからどんどん画家として知名度も上がっていくだろ」
 事実、雫は展示会に来た一人から絵の依頼を受けていた。
 依頼者は個人的にゲームを制作しているクリエイターで、その中に登場するキャラクターの立ち絵を制作する必要があった。色々ネット上で人材を探していたが決まらず、従妹の誘いで立ち寄った展示会の絵をすっかり気に入ってしまった。
 飯田さんは主催者だった壮馬に声をかけ、そこから雫に話が繋がったのだ。
 そして彼を介して、雫は少しづつだが仕事を請け負うようになった。

 勿論病気のこともあるので受けられる量には限りもあるが、雫は着実に絵描きとしての道を歩んでいた。

「壮馬くん」
 雫は外を見上げていた。真っ青な空に入道雲がどこまでも高い。壮馬も同じように空を眺めていた。しかし、一向に雫が続きを喋らない。
 しびれを切らして壮馬が先を促そうとした時。彼の方にゆっくり向き直った雫の顔は、心なしか赤かった。
「壮馬くん」
 もう一度呼びかけて彼女は小声で囁いた。
「私と結婚、して、くれませんか?」