「疲れたぁ!」
 休憩室の机に突っ伏しながら壮馬は言った。
 「大丈夫?」
 壮馬を心配する雫の声は優しかった。湯呑が机に置かれる音がする。壮馬が起き上がって見ると、雫がお茶を入れてくれていた。
 この休憩室にはお茶の葉とかがあってセルフで入れられるようになっていて、最近は壮馬が来る時間に雫がお茶を入れて待ってくれているのだ。
 「ありがとう」
 壮馬はお茶を一口啜った。雫の顔を見ながら、雫が病気であることを伏せて、クラスメイトに来場を頼んだ自分の判断は正しかっただろうか、と思った。

 もし共同開催者である雫が深刻な病気を抱えていると言えば、同情してきてくれたクラスメイトも居たはずだった。それでも敢えて病気を引き合いに出さなかったのは、同情で自分たちの絵を見て欲しくないと思ったからだった。例え多少の人が集まったとしても、その人達はボランティア感覚で見に来ている。それが嫌だった。
 それならば、約束を守り通すことによって、しぶしぶ見に来たクラスメイトの方がまだ納得できると壮馬は考えていた。
 それは壮馬に芽生えた絵描きとしての意地のようなものだったのかもしれない。
 ただこの『意地』は、後に折らざるを得なくなるのだが……。

 「最近、すごく疲れてるみたいだけど……やっぱり準備とか大変なんじゃない? 私に手伝えることある?」
 「いやいや、大丈夫だよ。それより今は展示用の絵を揃えることに集中しよう」
 壮馬ははぐらかしたが、大変なのは雫の言う通りだった。
 勿論、掃除を一人でやって疲れるのもあるが、壮馬は市立美術館に問い合わせてギャラリーを抑えたり、絵を印刷するために業者と連絡を取り合ったりと、毎日動いていた。
 本来なら大人がするような、慣れない交渉などをして疲れていたのもある。

 壮馬が疲労している原因はそれだけではなかった。
 一番の問題は無論、金である。

 市立美術館のギャラリー代は、1日使って三万円ほどと、そこまで高額ではない。しかし問題は自分たちが描いた絵をプリントしてもらうサービスの代金だった。
 壮馬たちは普段からデジタル絵しか描いていないので、これを印刷するには金が掛かる。しかも美術館に飾るとなると、やはりキャンバスにプリントして飾るべきだと壮馬は思った。

 しかし業者から、一枚あたりの値段を聞いて目が飛び出るかと思った。
 価格はB1サイズ(72.8×103センチ)一枚あたり、1万5千円。

 展示場の広さから計算すると、一面につき5枚は飾らないとスカスカに見えてしまう。
 これを全面でやると……入口のドアがあることを加味しても20枚弱は必要だ。
 そして配送料が一枚につき660円。これを20枚分で考えると13200円。
 一枚15000円で20枚印刷すると仮定して30万円もかかる。展示室のレンタル料と合計34万3200円。

 どう考えても一高校生が払える金額では無かった。
 壮馬はふと、遠い目で外を見つめた。
 どうにもならなくなって、家族に金の相談をした時のことを思い出していた。


 *****



 彼が相談したのは父親の良治だった。
 良治は、壮馬から「30万円以上の金が必要だ」と最初に言われた時は、怪しい宗教にでもハマったのかと思ったらしい。しかし壮馬が事情を話すと表情が和らいだ。
 「事情は分かった。分かったが、うちの家計が苦しいことはお前も知っているだろう」
 と良治は諭すように言った。壮馬は中高一貫の私立に通っているのに加え、壮馬の姉、澄香は私立大学の薬学部に通っている。
 良治の給料も決して高いわけでは無いため、ただでさえ家計が苦しいのは壮馬もよく分かっていた。

 「父さんはな、破れても新しい靴下を買う金も無いんだ。申し訳ないが、うちからお金を出すことは出来ない。そういうことは、しっかり絵の自力をつけて、また次の機会にやったらどうだ」
 「次なんか無い」
 壮馬の硬い口調は硬かった。良治は思わず息子の顔をまじまじと見た。
 「次なんか無いんだ。雫はいつまで生きられるか分からない。今この瞬間、雫の寿命は減ってる。俺は今、雫の願いを叶えてあげたい。そのためなら何だってやる」

 良治は壮馬の見開いた眼と強い口調に驚きを隠せなかった。いつも明るくお調子者だった息子が、こんな顔をするところを見たことが無かった。
 「父さん、一つ、言いたいことがあるんだ」
 「どうした」
 壮馬は一つの名刺をスッと父親の前に出した。

 良治は最初、それを無表情のまま眺めていたが、やがてカッと目を見開き、身体中から滝のように汗を流し始めた。冷凍倉庫に放り込まれたかのように、身体をガタガタ震わせている。
 「ど、どどど、どうしてこれを……」
 「アヤちゃん」
 壮馬がその名前を口にした途端、良治の身体が魚のようにビクンと跳ねた。
 その名刺はキャバクラ・ナイトクイーンのホステスの名刺で、アヤは良治のお気に入りのキャバ嬢だった。
 「アヤちゃん、知ってるよね?」
 「さ、さあ、何の事かな?」

 良治は目を回遊魚のように泳がせながら、額の汗を拭う。
 「おい壮馬、名刺があったから何だ! 俺はそんなキャバクラ知らないしそんな名前のキャバ嬢も知らん!」
 「あれ? アヤちゃんがキャバ嬢だなんて、俺一言も言ってないけど?」
 「うぁい!」
 意味不明の声で誤魔化そうとしたが無駄だった。

 「じゃあ今から俺がこの名刺の番号に父さんの名前で電話して『加藤良治の家の者なんですが、この一年で店に通った分の領収書が必要なんで送ってください』って言っても大丈夫だよね?」

 良治の目が一瞬で何度も白黒した。機敏に膝立ちになり、壮馬の方へずいっと寄って来る。
 「壮馬! お前はなんて友達思いな男なんだ。絵画展の費用を少しは父さんが負担しようじゃないか。いや、負担させて欲しい!」

 良治は滝のように汗をかきながら、壮馬の肩に手を置いた。
 「父さんはお前を自慢に思うぞ!」
 「ありがとう、父さん」
 「気にするな、親子じゃないか」
 「で、幾ら?」
 「え?」
 「幾ら貸してくれるの?」
 壮馬の目は、あくまでも冷徹に、父親に向けられている。まるで借金を取りに来た闇金業者のようだった。壮馬が握った「アヤ」の情報は、完全に攻守を逆転させていた。

 「じゅ、十万円くらいなら……」
 「そっかそっか、十万円か」
 「な、何が言いたいんだ」
 壮馬の不自然な笑みに、良治は不気味さを覚えた。
 こいつ、まさか……まだ隠し玉を持っているというのか?

 「ネットゲーム『クロノ・ファンタジー』」
 「そ、それは!」

 再び目を見開き、ガタガタ震え始める良治。一度は収まっていた汗も再度決壊したダムのように溢れて出していた。口の中はカラカラだった。これ以上流れたら体内が水不足になってしまう。
 クロノ・ファンタジーは良治がいつもプレイしているネットゲームだった。

 「リリィって名前のプレイヤー、知ってるよね」
 その言葉が出た途端、良治は下唇をぱくりと噛み締めた。壮馬はその表情で笑いそうになり、慌てて顔を横に向ける。
 「そ、そんな、そんな白魔導士俺は知らんぞ!」
 「あれ? 俺がいつリリィが白魔導士なんて言ったかな?」
 「うぁう!」
 人は同じ過ちを繰り返す生き物だと壮馬は思った。

 「現実世界では25歳OLで、趣味はカフェ巡り、今は彼氏が居なくて毎晩寂しい思いを紛らわすためにネットゲームをしている」
 「な、なななななななななな何故お前がリリィの個人情報を!?」
 「だって、その白魔導士リリィというのは俺だったんだよ。光の戦士・リョーG」
 「嘘だああああ!」
 良治は叫びながら後ろに引っ繰り返った。5秒ほど経ち、ばねのように反動をつけて戻って来た。
 「嘘だ! お前がりりぽよだったなんて!」
 「りりぽよ」

 目に見えるものが全てではないんだよ父さん。と壮馬は心の中で呟いた。ちなみにリョーGというのは良治のハンドルネームだった。
 「ねえリョーG、私ぃ、新しく出た魔法の杖が欲しぃなぁ」
 「やめろ! りりぽよを汚すな!」
 壮馬がりりぽよの真似をして喋ると、良治は血相を変えた。
 彼は愛する者のために戦っているのだ。例えそれが偽りの愛だとしても

 「だ、だいたい、お前がりりぽよだから何だと言うんだ! ネカマなんかして、人生楽しいのか!」
 「えー、リョーGがりりぽよに貢いでくれたレアアイテム、いっぱいあるけどあれ殆ど課金アイテムだよぉ。あれ、現金に換算したら何万円、いや、何十万円くらいになるのかなぁ。お母さんに報告しよっかなぁ」
 「壮馬、お前は良い子だよな。父さん分かってるよ。そしてそんな息子のためには金なんて惜しくない。父さんはいつだってお前の夢を応援している」
 良治の両目の端から、だくだくと涙が流れていった。
 「幾ら?」
 「え?」
 「幾ら貸してくれるの?」
 「に、20万円でどうだ?」
 「おかまバー・ひげ女の」
 「全額貸します! 全額貸しますからぁ!」
 良治は突っ伏して両手で畳を叩いていた。
 「ありがとう、俺、父さんの子に産まれて良かったよ」
 「やかましいわ!」

 この日、壮馬は父親に対して持っている手札を全て切った。
 これらは新しいゲーム機が出た時などに、買ってもらうために取っておいた取って置きのジョーカーだった。
 だが、雫のためなら惜しくはないと思った。



 *****