▶︎▶︎
翌、祝言の当日。
姉妹で同時ということで、鷲爪が風祀家での式を提案した。母屋として使用している洋館ではなく、離れの日本風の平屋が会場だ。
雲雀たち姉妹は早朝から身を清め、慌ただしく婚礼の衣装に着替えていく。
二人には色違いの打ち掛けが用意され、同じ部屋で二つ並んだ姿見を前に使用人たちが次々と着物を重ねていく。
そんな中、雲雀は特別な日である事以上に違和感を覚えていた。
(いつもの翡翠なら「あんたなんかと同じ衣装は嫌!」だとか「同じ部屋の空気を吸うのも嫌だわ!」なんて言ってきそうなものなのに)
チラリと隣を見れば、翡翠はぼんやりとした表情でされるがまま衣装を着せられている。
(お相手が穂邑様なんですもの、緊張しているのね)
心の中で口にした鷲爪の名前に、また胸が軋む。
そうこうしている間に、聖吏國伝統の婚礼の形に結われた髪に角隠しを被され、二人の着替えが完了した。
「控えの間へお連れいたします。雲雀様はこちらへ」
こんな風にこの家の令嬢としての扱いを受けるのはどれくらいぶりだろうか。
(あの男の子に会った頃以来かしら)
幸せだった頃の中でも、特に幸せを感じた日の記憶。
今日、その彼と結婚するのだ。
(私は幸せ者だわ――なのに)
何故か晴れない気持ちを抱えて、俯き気味に廊下を歩く。
「失礼」
控の間への角を曲がろうとした時、誰かとぶつかりそうになり頭上から声が聞こえた。
顔を上げなくともそれが誰なのかわかってしまう。
「も、申し訳ありません」
「いや、私がよそ見をしていたのが悪いんだ」
雲雀の頭の中に浮かんでいた人物――穂邑鷲爪その人だ。晴れの日に相応しい軍服を纏っている。
「お綺麗ですね」
鷲爪に優しく微笑まれ、雲雀は自分の頬が熱くなっているのを感じた。
(顔が赤くなってしまうのは白粉で誤魔化せているのかしら)
口を結んで、言うことをきかない心臓を何とか押さえつける。
「そ、そのようなことは、ご自分のお相手に言うものですよ」
「それもそうか」
鷲爪はまた微笑むと、その場から去って行った。
雲雀は緊張した面持ちで控えの間の椅子に座って大きなガラス戸から庭を眺めていた。すると今度は烏頭目が姿を見せた。彼は紋付袴姿だ。
「先生? 祝言の席でお待ちいただいているのかと」
「ああ、そのつもりだったんだが」
烏頭目は部屋に誰もいないのを確認して雲雀に近づいた。
「君にこれを渡しに来たんだ」
そう言って彼は着物の袖口からいつもの小瓶を取り出した。
「ダメな君のことだ、どうせ緊張して失敗してしまうだろう? 今日の薬には心を落ち着ける成分も入れてある」
「え……」
〝ダメ〟〝どうせ〟〝失敗〟。
晴れの日だというのに烏頭目が口にしたのはそんな言葉だった。
――『お綺麗ですね』
「先生、私……今日は薬なんて飲みたくないわ」
それは雲雀が初めて烏頭目に逆らおうとした言葉だった。
「失敗して翡翠に虐められるのは君なんだぞ」
「でも……その薬を飲むと自分が自分ではないみたいに朦朧としてしまうし」
「馬鹿だな。君は何も考えずに薬を飲んで座っていた方が幸せなんだ。無能なのだから」
「先生、どうして――」
どうして烏頭目は自分を否定するような言葉ばかりを投げかけるのか?
雲雀は今まさにそんな疑問を口に出そうとしていた。
「なるほど。そうやって何年も薬と言葉で彼女の自尊心を破壊してきたのか」
雲雀と烏頭目は驚いて部屋の入り口に視線を走らせた。
「穂邑様……?」
「穂邑鷲爪……」
「あなたが烏頭目殿ですか。初めまして、穂邑です……いや、初めてではないのかな。先日は手荒い歓迎をありがとうございました」
鷲爪が不敵な笑みを浮かべると、烏頭目は苦々しそうに唇を噛んだ。
「自尊心? 先生が……? どういうことですか?」
「この薬を調べさせてもらった」
何故か鷲爪の手に薬の瓶が握られている。
「何故それを」
烏頭目が眉間に皺を入れる。
「部下の式神が失礼した」
「まさか、あのフクロウが」
「屋外で薬の受け渡しが行われるのを待っていた甲斐がありました」
鷲爪は静かに笑った。
フクロウは飯豊の式神だったのだ。
風祀の事を調べる中で、当然のように烏頭目が雲雀に投薬している事にも至っていた。
雲雀には何が起こっているのかわからず戸惑うことしかできない。
「君は薬のせいで無能だと思い込まされていたんだ」
「雲雀、聞く必要のない話だ。部屋を出よう」
雲雀の手を引こうとする烏頭目の手を振り払う。
「どういうことですか?」
雲雀は鷲爪の目を見据えた。
「この薬には、意識を混濁させる成分と微量の媚薬成分が含まれていた。それに――異能を抑制する呪術がかけられている」
(え……!?)
「異能を抑制? 呪術……?」
あまりの事に話に全くついていけない雲雀は、思わず烏頭目の顔を見た。
「先生……? その目……」
本能的に身体がぞわりと総毛立つ。
烏頭目の目が妖しげな紫色に光る。そしてその中央にはまるでヘビのように恐ろしい縦長の筋が入っている。
「貴様、やはり羽生院の者だな。まさか羽生院がこの家に入り込んでいるとは」
鷲爪が口にした〝羽生院〟。それはいつか翡翠が言っていた、穂邑と双璧を成すといわれる家の名だ。
「いかにも。私は羽生院だ」
烏頭目はクックッと笑う。
「先生が……羽生院家?」
「君は聖女なんだ、最強の。羽生院は君の力を手に入れようとこの家で君の能力を弱体化させ洗脳していた」
「そんな……まさか」
鷲爪の目も声も真剣だが、にわかには信じ難い。
「雲雀、こんな男の話は信じるな。羽生院は再生を、穂邑は破壊を司ると教えただろう? 邪悪な家系の戯言だ」
「その都合の良い噂も羽生院が流したのだろう? 何が〝再生〟だ。羽生院が行っているのは医術ではなく妖しい呪術だと調べはついている」
烏頭目は舌打ちをして、また笑った。
「まあそんな事はどうだっていい。私の正体が暴かれようと、彼女と私の契約は成立しているのだから」
「何?」
鷲爪は訝しそうな顔をする。
「私と雲雀の間では、もうとっくに婚姻が成立しているんだ」
烏頭目が言い放つ。
「君は烏頭目と婚姻契約を交わしたのか?」
鷲爪の問いに雲雀はぶんぶんと首を振りかけて、烏頭目のある言葉に思い至る。
――『これで契約は成立だ』
「あ……」
「交わしたのか」
「く、口約束です! ただの」
「口約束だろうと契約は契約だ。穂邑、貴様は知っているだろう? 異能を使う者同士の契約は絶対だ。聖女はもう羽生院の者だ」
雲雀の首にボウッと紫色の輪が光る。
「やはりお前は無能で弱い馬鹿だな、雲雀」
「そんな……う……」
雲雀の首の輪が、彼女を服従させようと締め付ける。
鷲爪は苦々しそうに舌打ちをして見せた。
「残念だったな、穂邑」
「ああ、残念だ。一時でもお前のようなものが彼女の夫でいたとは」
「一時だと?」
鷲爪はニヤリと笑った。
「穂邑が破壊を司っているというのは、あながち間違いではない」
そしてその両の瞳に赤い炎を灯らせる。
「穂邑は本来〝解放〟を司る一族だ」
鷲爪は腰のサーベルを抜くと、即座に宙に何かの文字を書くように切って見せた。
「黒い契約を破壊し、彼女を羽生院から解放する」
再び鷲爪の瞳が赤く光ると、雲雀の首の輪は霧散するように消え去った。
烏頭目は「チッ」と舌打ちをした。打ち掛け姿の雲雀を軽々と抱き寄せ持ち上げると、ガラス戸を割って外に出た。その拍子に、割れたガラスで烏頭目の髪を結んでいた紐が切れ、長い髪がはらりと広がる。
「待て!」
「死ね! 穂邑鷲爪!」
二人を追おうとする鷲爪の背後から、刃を向けた人影が飛び出してきた。
(翡翠!? どうして!?)
雲雀の目の端に、短刀で鷲爪を襲う翡翠が映る
「貴様との結婚が死ぬほど嫌なんだそうだ。望み通り殺してやればいい」
翡翠の目は何も映さないほど光がなく真っ黒だ。
「羽生院に操られているのか。君はつくづく利己的な人間なんだな」
羽生院のかけた呪術は欲望に忠実で自己中心的な人間ほどかかりやすいものだった。
「申し訳ないが、君に付き合っている暇はない」
鷲爪はサーベルを畳に突き刺し、その柄頭に両手のひらを重ねた。
そしてまた瞳に炎が見えたかと思うと、今度は彼の全身から風が起こったようだった。
(気……なのかしら)
遠くてよく見えないのか、それとも無能故に見えないのか定かではないが、雲雀からは鷲爪の髪が逆立っているのだけが見えた。
一瞬にして翡翠は気絶したようにその場に倒れてしまった。
「鷲爪様、遅くなりました! ここは私が」
部屋の奥から飯豊が姿を現し、翡翠を介抱するようだった。
安堵する雲雀とは対照的に烏頭目は歯軋りをした。
「あんな雑魚では時間稼ぎにもならないな。来い」
「きゃっ」
烏頭目は再び雲雀を引っ張るように抱き寄せ、どこかに連れて行く。
ふわりと宙に浮かんだかと思えば、雲雀は高さ十メートルはあろうかという鳥籠の円屋根の上に連れ去られていた。
追ってきた鷲爪が下から飛び乗ろうとしているのが見える。
「おっと、貴様は近づくなよ」
烏頭目が鷲爪に忠告する。
「お前がここに登ろうとした瞬間に、この女を突き落とす」
「え……!?」
「十年かけて異能を封印したんだ。羽生院の力で術を解かない限り今のこいつには何の力もない」
つまり、突き落とされれば死ぬということだ。
「死にたくなければ雲雀、お前はもう一度私と婚姻契約を結ぶんだ」
烏頭目は雲雀の首を背後から抱え込むようにして、耳元で囁いた。
「せ、先生……どうして? 先生はあの日の男の子なのでしょう?」
雲雀の言葉に烏頭目は「ハハハ」と高笑いをした。
「まったく、都合良く勘違いしてくれて本当にありがたかったよ」
そう言った烏頭目の黒かった髪が、真珠色にも見える銀色へと変化した。
雲雀にはこの色に見覚えがある。
「まさか……まさかあの時のヘビ……?」
あの日瀕死の傷を負っていたヘビの鱗と同じ色をしている。
「あの日、最強の聖女の力が解放されるというから駆けつけてみれば、この温室はお前の気が充満していて危うく殺されかけた」
烏頭目はクッと笑いを堪える。
あの頃、雲雀は鳥籠で過ごすうちに無意識に気で結界を作り上げていたのだ。
「自分で排除しておいて穂邑と一緒に助けるとは、間抜けな聖女様だ」
「そんな……あの子だと信じていたのに」
だからこそ、薬も受け入れていたのだ。
(先生は今……『穂邑と一緒に』と言った?)
あの少年は鷲爪だったのだ、とようやく確信が持てた。
(それなのに……)
今、自分は烏頭目の腕の中で彼のものになろうとしている。
(本当に大馬鹿者だわ)
頬に涙を伝えながら下を見ると、鷲爪と目が合った。
「雲雀、飛び降りろ! 君は死んだりしない」
「馬鹿が! 今のこいつは無能中の無能だ」
烏頭目の言葉が胸を刺すが、鷲爪の目は〝信じろ〟と言っていた。
「たとえ君が無能でも、俺が受け止める」
――『僕を、それから君自身を信じて』
それは、十年前から変わらない。雲雀に勇気をくれる眼差し。
「さあ、契約を交わすと言え」
雲雀は烏頭目に気づかれないよう、頭の簪を一本抜き取った。そして思いきり烏頭目の腕に突き立てた。
「うっ……こいつ……!」
痛みに彼の腕の力が弱まったところで雲雀はするりとそこから抜け出した。
目を閉じてぐっと力を入れる。
(穂邑様を信じたい……)
そして、思い切って鷲爪の方へ飛び降りた。
鷲爪は雲雀を軽々と受け止めると、愛しむように力強く抱きしめる。
「無事で良かった」
安堵に満ちた声色で彼が溢す。
人の温もりに触れるのも久しぶりだ。
鷲爪の胸の温かさに雲雀の頬に止めどなく涙が流れる。
「感動の再会か。呑気なものだな」
鳥籠の上の烏頭目は笑っている。
「穂邑、貴様にはわかっているよな? 今の貴様では私には勝てないと」
烏頭目の言葉に、鷲爪は顔を歪める。
「どういうことですか」
「……鵺の傷だ」
「え……?」
「鵺は羽生院と同じ陰の気を持つ妖魔だ。羽生院が近くにいれば鵺の陰の気が増幅し、その分俺の陽の気は減衰する」
つまり鷲爪の気が吸い取られて、本来の力が出せないということだ。
「そ、そんな……」
「どちらにしろ、貴様は聖女を渡すしかないという事だ」
烏頭目は勝ち誇ったように笑った。
「雲雀、君なら消せるはずだ。この傷を」
「で、でも……私の力は封印されて」
鷲爪は首を横に振った。
「君の気を見るに、君の力は外に出たがっている。最強の聖女の力は……羽生院だろうが穂邑だろうが、封印できるはずがないんだ」
「で、でも」
「自分を信じるんだ」
鷲爪の目は、あの日と同じように雲雀を捉える。
「では穂邑様、あの日の金平糖のように……解放の力を宿らせたものを私にくださいませんか?」
穂邑が解放を司ると知り、雲雀はすぐに金平糖に思い至った。あの金平糖には解放の力が込められていたのだと。それが自分の力を解放したのだと。
懇願するような雲雀を見て、鷲爪は眉を下げて微笑んだ。
「あの日の金平糖は、特別な物などではなかった」
「え……」
「君が自信を持つきっかけになるように渡しただけなんだ。ただの砂糖の塊だ」
「嘘です! そんな……」
「嘘ではないよ。あの日起きた事は全て君の力だ」
そう言われ、雲雀はこの十年のことを思い返した。
あの日の後、彼女は再び力が使えなくなった。
力が幻だったとか、特別な金平糖がなければ使えないだとか、色々な理由を考えた。
しかし今にして思えば『あんたなんかに力が使えるはずがない』『無能』という翡翠や鶴司たちの言葉に負けたのだ。
その弱さが、烏頭目につけ入る隙を与えてしまった。
「自信を持てば大丈夫なのでしょうか……?」
鷲爪はコクリと頷く。
「絶対に大丈夫だ」
雲雀は鷲爪の蠢く傷に、そっと手を当てた。
そして、鵺がつけた傷が消え去るよう強く念じた。
(お願い……)
その瞬間、あの日金平糖を食べた時のように身体中にポカポカと熱がめぐる。そして雲雀の身体は白い光に包まれた。
蠢いていた鷲爪の顔の傷がだんだんと動きを弱らせ薄くなり、消えていく。
「まさか……」
鳥籠の上の烏頭目は驚愕している。そしてハッと我に返る。
「死ね! 穂邑!」
烏頭目は焦ったように、紫のヘビのようなものをいくつも鷲爪目がけて放った。
「悪いな、羽生院。天はこちらに味方したようだ」
鷲爪はまた不敵に口角を上げた。
今は雲雀にも彼の気が見える。
(全てを覆い尽くす真っ赤な炎のような気だわ)
鷲爪はサーベルに赤い炎を纏わせ、ヘビを撃ち返すように切り刻んだ。ヘビは炎に姿を変える。
それは風よりも光よりも速く、烏頭目に襲いかかる。
「うわぁああぁ」
「ひっ……」
鷲爪の攻撃を受け断末魔の叫びを上げながら塵のように消えゆく烏頭目に、雲雀は思わず声を上げて目を背けた。
鷲爪はそっと雲雀を抱き寄せ、頭を撫でた。
翌、祝言の当日。
姉妹で同時ということで、鷲爪が風祀家での式を提案した。母屋として使用している洋館ではなく、離れの日本風の平屋が会場だ。
雲雀たち姉妹は早朝から身を清め、慌ただしく婚礼の衣装に着替えていく。
二人には色違いの打ち掛けが用意され、同じ部屋で二つ並んだ姿見を前に使用人たちが次々と着物を重ねていく。
そんな中、雲雀は特別な日である事以上に違和感を覚えていた。
(いつもの翡翠なら「あんたなんかと同じ衣装は嫌!」だとか「同じ部屋の空気を吸うのも嫌だわ!」なんて言ってきそうなものなのに)
チラリと隣を見れば、翡翠はぼんやりとした表情でされるがまま衣装を着せられている。
(お相手が穂邑様なんですもの、緊張しているのね)
心の中で口にした鷲爪の名前に、また胸が軋む。
そうこうしている間に、聖吏國伝統の婚礼の形に結われた髪に角隠しを被され、二人の着替えが完了した。
「控えの間へお連れいたします。雲雀様はこちらへ」
こんな風にこの家の令嬢としての扱いを受けるのはどれくらいぶりだろうか。
(あの男の子に会った頃以来かしら)
幸せだった頃の中でも、特に幸せを感じた日の記憶。
今日、その彼と結婚するのだ。
(私は幸せ者だわ――なのに)
何故か晴れない気持ちを抱えて、俯き気味に廊下を歩く。
「失礼」
控の間への角を曲がろうとした時、誰かとぶつかりそうになり頭上から声が聞こえた。
顔を上げなくともそれが誰なのかわかってしまう。
「も、申し訳ありません」
「いや、私がよそ見をしていたのが悪いんだ」
雲雀の頭の中に浮かんでいた人物――穂邑鷲爪その人だ。晴れの日に相応しい軍服を纏っている。
「お綺麗ですね」
鷲爪に優しく微笑まれ、雲雀は自分の頬が熱くなっているのを感じた。
(顔が赤くなってしまうのは白粉で誤魔化せているのかしら)
口を結んで、言うことをきかない心臓を何とか押さえつける。
「そ、そのようなことは、ご自分のお相手に言うものですよ」
「それもそうか」
鷲爪はまた微笑むと、その場から去って行った。
雲雀は緊張した面持ちで控えの間の椅子に座って大きなガラス戸から庭を眺めていた。すると今度は烏頭目が姿を見せた。彼は紋付袴姿だ。
「先生? 祝言の席でお待ちいただいているのかと」
「ああ、そのつもりだったんだが」
烏頭目は部屋に誰もいないのを確認して雲雀に近づいた。
「君にこれを渡しに来たんだ」
そう言って彼は着物の袖口からいつもの小瓶を取り出した。
「ダメな君のことだ、どうせ緊張して失敗してしまうだろう? 今日の薬には心を落ち着ける成分も入れてある」
「え……」
〝ダメ〟〝どうせ〟〝失敗〟。
晴れの日だというのに烏頭目が口にしたのはそんな言葉だった。
――『お綺麗ですね』
「先生、私……今日は薬なんて飲みたくないわ」
それは雲雀が初めて烏頭目に逆らおうとした言葉だった。
「失敗して翡翠に虐められるのは君なんだぞ」
「でも……その薬を飲むと自分が自分ではないみたいに朦朧としてしまうし」
「馬鹿だな。君は何も考えずに薬を飲んで座っていた方が幸せなんだ。無能なのだから」
「先生、どうして――」
どうして烏頭目は自分を否定するような言葉ばかりを投げかけるのか?
雲雀は今まさにそんな疑問を口に出そうとしていた。
「なるほど。そうやって何年も薬と言葉で彼女の自尊心を破壊してきたのか」
雲雀と烏頭目は驚いて部屋の入り口に視線を走らせた。
「穂邑様……?」
「穂邑鷲爪……」
「あなたが烏頭目殿ですか。初めまして、穂邑です……いや、初めてではないのかな。先日は手荒い歓迎をありがとうございました」
鷲爪が不敵な笑みを浮かべると、烏頭目は苦々しそうに唇を噛んだ。
「自尊心? 先生が……? どういうことですか?」
「この薬を調べさせてもらった」
何故か鷲爪の手に薬の瓶が握られている。
「何故それを」
烏頭目が眉間に皺を入れる。
「部下の式神が失礼した」
「まさか、あのフクロウが」
「屋外で薬の受け渡しが行われるのを待っていた甲斐がありました」
鷲爪は静かに笑った。
フクロウは飯豊の式神だったのだ。
風祀の事を調べる中で、当然のように烏頭目が雲雀に投薬している事にも至っていた。
雲雀には何が起こっているのかわからず戸惑うことしかできない。
「君は薬のせいで無能だと思い込まされていたんだ」
「雲雀、聞く必要のない話だ。部屋を出よう」
雲雀の手を引こうとする烏頭目の手を振り払う。
「どういうことですか?」
雲雀は鷲爪の目を見据えた。
「この薬には、意識を混濁させる成分と微量の媚薬成分が含まれていた。それに――異能を抑制する呪術がかけられている」
(え……!?)
「異能を抑制? 呪術……?」
あまりの事に話に全くついていけない雲雀は、思わず烏頭目の顔を見た。
「先生……? その目……」
本能的に身体がぞわりと総毛立つ。
烏頭目の目が妖しげな紫色に光る。そしてその中央にはまるでヘビのように恐ろしい縦長の筋が入っている。
「貴様、やはり羽生院の者だな。まさか羽生院がこの家に入り込んでいるとは」
鷲爪が口にした〝羽生院〟。それはいつか翡翠が言っていた、穂邑と双璧を成すといわれる家の名だ。
「いかにも。私は羽生院だ」
烏頭目はクックッと笑う。
「先生が……羽生院家?」
「君は聖女なんだ、最強の。羽生院は君の力を手に入れようとこの家で君の能力を弱体化させ洗脳していた」
「そんな……まさか」
鷲爪の目も声も真剣だが、にわかには信じ難い。
「雲雀、こんな男の話は信じるな。羽生院は再生を、穂邑は破壊を司ると教えただろう? 邪悪な家系の戯言だ」
「その都合の良い噂も羽生院が流したのだろう? 何が〝再生〟だ。羽生院が行っているのは医術ではなく妖しい呪術だと調べはついている」
烏頭目は舌打ちをして、また笑った。
「まあそんな事はどうだっていい。私の正体が暴かれようと、彼女と私の契約は成立しているのだから」
「何?」
鷲爪は訝しそうな顔をする。
「私と雲雀の間では、もうとっくに婚姻が成立しているんだ」
烏頭目が言い放つ。
「君は烏頭目と婚姻契約を交わしたのか?」
鷲爪の問いに雲雀はぶんぶんと首を振りかけて、烏頭目のある言葉に思い至る。
――『これで契約は成立だ』
「あ……」
「交わしたのか」
「く、口約束です! ただの」
「口約束だろうと契約は契約だ。穂邑、貴様は知っているだろう? 異能を使う者同士の契約は絶対だ。聖女はもう羽生院の者だ」
雲雀の首にボウッと紫色の輪が光る。
「やはりお前は無能で弱い馬鹿だな、雲雀」
「そんな……う……」
雲雀の首の輪が、彼女を服従させようと締め付ける。
鷲爪は苦々しそうに舌打ちをして見せた。
「残念だったな、穂邑」
「ああ、残念だ。一時でもお前のようなものが彼女の夫でいたとは」
「一時だと?」
鷲爪はニヤリと笑った。
「穂邑が破壊を司っているというのは、あながち間違いではない」
そしてその両の瞳に赤い炎を灯らせる。
「穂邑は本来〝解放〟を司る一族だ」
鷲爪は腰のサーベルを抜くと、即座に宙に何かの文字を書くように切って見せた。
「黒い契約を破壊し、彼女を羽生院から解放する」
再び鷲爪の瞳が赤く光ると、雲雀の首の輪は霧散するように消え去った。
烏頭目は「チッ」と舌打ちをした。打ち掛け姿の雲雀を軽々と抱き寄せ持ち上げると、ガラス戸を割って外に出た。その拍子に、割れたガラスで烏頭目の髪を結んでいた紐が切れ、長い髪がはらりと広がる。
「待て!」
「死ね! 穂邑鷲爪!」
二人を追おうとする鷲爪の背後から、刃を向けた人影が飛び出してきた。
(翡翠!? どうして!?)
雲雀の目の端に、短刀で鷲爪を襲う翡翠が映る
「貴様との結婚が死ぬほど嫌なんだそうだ。望み通り殺してやればいい」
翡翠の目は何も映さないほど光がなく真っ黒だ。
「羽生院に操られているのか。君はつくづく利己的な人間なんだな」
羽生院のかけた呪術は欲望に忠実で自己中心的な人間ほどかかりやすいものだった。
「申し訳ないが、君に付き合っている暇はない」
鷲爪はサーベルを畳に突き刺し、その柄頭に両手のひらを重ねた。
そしてまた瞳に炎が見えたかと思うと、今度は彼の全身から風が起こったようだった。
(気……なのかしら)
遠くてよく見えないのか、それとも無能故に見えないのか定かではないが、雲雀からは鷲爪の髪が逆立っているのだけが見えた。
一瞬にして翡翠は気絶したようにその場に倒れてしまった。
「鷲爪様、遅くなりました! ここは私が」
部屋の奥から飯豊が姿を現し、翡翠を介抱するようだった。
安堵する雲雀とは対照的に烏頭目は歯軋りをした。
「あんな雑魚では時間稼ぎにもならないな。来い」
「きゃっ」
烏頭目は再び雲雀を引っ張るように抱き寄せ、どこかに連れて行く。
ふわりと宙に浮かんだかと思えば、雲雀は高さ十メートルはあろうかという鳥籠の円屋根の上に連れ去られていた。
追ってきた鷲爪が下から飛び乗ろうとしているのが見える。
「おっと、貴様は近づくなよ」
烏頭目が鷲爪に忠告する。
「お前がここに登ろうとした瞬間に、この女を突き落とす」
「え……!?」
「十年かけて異能を封印したんだ。羽生院の力で術を解かない限り今のこいつには何の力もない」
つまり、突き落とされれば死ぬということだ。
「死にたくなければ雲雀、お前はもう一度私と婚姻契約を結ぶんだ」
烏頭目は雲雀の首を背後から抱え込むようにして、耳元で囁いた。
「せ、先生……どうして? 先生はあの日の男の子なのでしょう?」
雲雀の言葉に烏頭目は「ハハハ」と高笑いをした。
「まったく、都合良く勘違いしてくれて本当にありがたかったよ」
そう言った烏頭目の黒かった髪が、真珠色にも見える銀色へと変化した。
雲雀にはこの色に見覚えがある。
「まさか……まさかあの時のヘビ……?」
あの日瀕死の傷を負っていたヘビの鱗と同じ色をしている。
「あの日、最強の聖女の力が解放されるというから駆けつけてみれば、この温室はお前の気が充満していて危うく殺されかけた」
烏頭目はクッと笑いを堪える。
あの頃、雲雀は鳥籠で過ごすうちに無意識に気で結界を作り上げていたのだ。
「自分で排除しておいて穂邑と一緒に助けるとは、間抜けな聖女様だ」
「そんな……あの子だと信じていたのに」
だからこそ、薬も受け入れていたのだ。
(先生は今……『穂邑と一緒に』と言った?)
あの少年は鷲爪だったのだ、とようやく確信が持てた。
(それなのに……)
今、自分は烏頭目の腕の中で彼のものになろうとしている。
(本当に大馬鹿者だわ)
頬に涙を伝えながら下を見ると、鷲爪と目が合った。
「雲雀、飛び降りろ! 君は死んだりしない」
「馬鹿が! 今のこいつは無能中の無能だ」
烏頭目の言葉が胸を刺すが、鷲爪の目は〝信じろ〟と言っていた。
「たとえ君が無能でも、俺が受け止める」
――『僕を、それから君自身を信じて』
それは、十年前から変わらない。雲雀に勇気をくれる眼差し。
「さあ、契約を交わすと言え」
雲雀は烏頭目に気づかれないよう、頭の簪を一本抜き取った。そして思いきり烏頭目の腕に突き立てた。
「うっ……こいつ……!」
痛みに彼の腕の力が弱まったところで雲雀はするりとそこから抜け出した。
目を閉じてぐっと力を入れる。
(穂邑様を信じたい……)
そして、思い切って鷲爪の方へ飛び降りた。
鷲爪は雲雀を軽々と受け止めると、愛しむように力強く抱きしめる。
「無事で良かった」
安堵に満ちた声色で彼が溢す。
人の温もりに触れるのも久しぶりだ。
鷲爪の胸の温かさに雲雀の頬に止めどなく涙が流れる。
「感動の再会か。呑気なものだな」
鳥籠の上の烏頭目は笑っている。
「穂邑、貴様にはわかっているよな? 今の貴様では私には勝てないと」
烏頭目の言葉に、鷲爪は顔を歪める。
「どういうことですか」
「……鵺の傷だ」
「え……?」
「鵺は羽生院と同じ陰の気を持つ妖魔だ。羽生院が近くにいれば鵺の陰の気が増幅し、その分俺の陽の気は減衰する」
つまり鷲爪の気が吸い取られて、本来の力が出せないということだ。
「そ、そんな……」
「どちらにしろ、貴様は聖女を渡すしかないという事だ」
烏頭目は勝ち誇ったように笑った。
「雲雀、君なら消せるはずだ。この傷を」
「で、でも……私の力は封印されて」
鷲爪は首を横に振った。
「君の気を見るに、君の力は外に出たがっている。最強の聖女の力は……羽生院だろうが穂邑だろうが、封印できるはずがないんだ」
「で、でも」
「自分を信じるんだ」
鷲爪の目は、あの日と同じように雲雀を捉える。
「では穂邑様、あの日の金平糖のように……解放の力を宿らせたものを私にくださいませんか?」
穂邑が解放を司ると知り、雲雀はすぐに金平糖に思い至った。あの金平糖には解放の力が込められていたのだと。それが自分の力を解放したのだと。
懇願するような雲雀を見て、鷲爪は眉を下げて微笑んだ。
「あの日の金平糖は、特別な物などではなかった」
「え……」
「君が自信を持つきっかけになるように渡しただけなんだ。ただの砂糖の塊だ」
「嘘です! そんな……」
「嘘ではないよ。あの日起きた事は全て君の力だ」
そう言われ、雲雀はこの十年のことを思い返した。
あの日の後、彼女は再び力が使えなくなった。
力が幻だったとか、特別な金平糖がなければ使えないだとか、色々な理由を考えた。
しかし今にして思えば『あんたなんかに力が使えるはずがない』『無能』という翡翠や鶴司たちの言葉に負けたのだ。
その弱さが、烏頭目につけ入る隙を与えてしまった。
「自信を持てば大丈夫なのでしょうか……?」
鷲爪はコクリと頷く。
「絶対に大丈夫だ」
雲雀は鷲爪の蠢く傷に、そっと手を当てた。
そして、鵺がつけた傷が消え去るよう強く念じた。
(お願い……)
その瞬間、あの日金平糖を食べた時のように身体中にポカポカと熱がめぐる。そして雲雀の身体は白い光に包まれた。
蠢いていた鷲爪の顔の傷がだんだんと動きを弱らせ薄くなり、消えていく。
「まさか……」
鳥籠の上の烏頭目は驚愕している。そしてハッと我に返る。
「死ね! 穂邑!」
烏頭目は焦ったように、紫のヘビのようなものをいくつも鷲爪目がけて放った。
「悪いな、羽生院。天はこちらに味方したようだ」
鷲爪はまた不敵に口角を上げた。
今は雲雀にも彼の気が見える。
(全てを覆い尽くす真っ赤な炎のような気だわ)
鷲爪はサーベルに赤い炎を纏わせ、ヘビを撃ち返すように切り刻んだ。ヘビは炎に姿を変える。
それは風よりも光よりも速く、烏頭目に襲いかかる。
「うわぁああぁ」
「ひっ……」
鷲爪の攻撃を受け断末魔の叫びを上げながら塵のように消えゆく烏頭目に、雲雀は思わず声を上げて目を背けた。
鷲爪はそっと雲雀を抱き寄せ、頭を撫でた。

