▶︎▶︎
翌日の昼過ぎ。
風祀家の門前に黒い車が横付けされる。少し前にそのエンジン音が聞こえた瞬間から、風祀の屋敷内は慌ただしい空気に包まれていた。
「穂邑鷲爪様、いらっしゃいました」
和室の戸を開け、使用人が翡翠や鶴司に告げる。
「いよいよね。どんな方なのかしら」
翡翠は美男子を想像し、期待に胸を躍らせる。
「失礼します」
冷静さを感じさせる低音の声だ。
部屋の入り口でお辞儀をした軍服姿の鷲爪が顔を上げる。
「ひっ」
思わず声を上げたのは翡翠だった。
「どうかされましたか?」
「え……い、いえ……」
鷲爪はたしかに美男子なのだろうという端整な顔立ちをしていた。扁桃形の瞳、キリリとした眉、鼻筋も通っている。短く切り揃えられた髪は漆黒のように艶やかだ。
しかし彼の顔には額から左頬にかけて、鼻と眼の間を通るように大きな傷がついていた。まだ新しい傷のようで、閉じてはいるが赤いみみず腫れのようになっていて生々しい。そして気のせいか、ボコボコと動いているようにも見える。
鷲爪は何事もなかったかのように部屋へ入ると、翡翠たち親子三人と向かい合うように座った。斜め後ろには、側近と思しき男性が座る。鷲爪も彼も、二十代の前半といった風貌だ。
「サーベル……ですか?」
側近の男の傍に剣のようなものが置かれたのを見て鶴司が怪訝な表情を浮かべた。
「ああ、お気になさらず。これは護符のようなものです。妖魔でも現れない限り抜刀することはありません」
鷲爪は何でもないように落ち着いた口調で答えた。
「はじめまして、穂邑鷲爪です」
「は、はじめまして、風祀ヒ翠です」
翡翠の声が裏返り、鷲爪の眉間に浅く線が入る。
「……先ほどの態度といいそのご様子、もしかして鶴司殿からお伝えいただいていなかったのですか? 私のこの傷の事を」
鷲爪は鶴司に視線を送る。そのつもりがあるのかないのか、睨みつけるような強い眼光に鶴司は一瞬慄いたようだった。
「い、いやそのぉ」
鶴司の態度に鷲爪は「ハァ」と呆れたようなため息を漏らす。
「まあいいでしょう。どちらにしろこの傷は今日消えるものだ」
「え?」
不思議そうな顔をする翡翠を鷲爪はチラリと見た。
「これは先だって討伐した鵺という妖魔につけられた傷です」
「まあなんと恐ろしい」
シギ乃は着物の袖を口に当て、顔を引き攣らせて恐ろしがった。
この国に伝わる鵺は蛇や虎、猿の妖怪が一体となった凶悪な妖魔であった。
「初めのうちは妖気を帯びていて医者が触ることすらできなかった。傷口が何度もひとりでに開いては、私の力で押さえ込んでいるような状態でした。なんとか傷は塞がりましたが、今も中から疼いています」
中で何かが蠢く傷跡を見た三人は恐怖で息を飲む。
「それが、今日消えるというのは……?」
鶴司が恐る恐る尋ねる。
「決まっているでしょう。翡翠さんに消していただくのです」
「え!?」
「この国で最も強い力を持つ聖女だ。そのくらいのことはできるでしょう?」
「む、無理です、私……妖魔だなんて」
「あなたならできるはずだ」
鷲爪は確信したように言うが、翡翠は恐れ戸惑うばかりだ。その様子を見て、彼はまたため息をついた。
「最強とは、どうやら私の見込み違いだったようですね。このお話は――」
「ま、待ってください!」
立ち上がろうとする鷲爪に鶴司が縋るような声を出した。
「ほら、翡翠! できるだろう」
鶴司が翡翠の背中を叩き、鷲爪の方にいくように促す。その目は「何としても縁談を纏めろ」と言っている。
気圧された翡翠は渋々、そして恐る恐る鷲爪の元に行く。
「ではお願いします」
鷲爪は礼儀正しく頭を下げると正座したまま目を閉じた。
顔の傷は近くで見るとより痛々しく気味が悪い。
翡翠は嫌悪感を顔に出しながら、そっと手を近づけた。
「う……」
「ひぃっ」
鷲爪が小さく呻くと同時に傷がまた蠢いた。
「あなたの気に反応しているのです。気にせず続けてください」
目を閉じたまま平然とした鷲爪に言われ、翡翠は傷を癒そうと異能を使う。
彼女の手がいつものように小さく光った。
しかしそれから小半刻ほど異能を使い続けても、傷が消えることはなかった。
「わずかに消えたようにも、変わらないようにも見えます」
側近の男が鷲爪に伝える。
「そうか……」
幾分落胆したように呟くと、鷲爪は何かを考えるように押し黙った。
「お嬢さんは緊張で本来の力が出せていないようですね」
しばらくすると鷲爪が口を開いた。
「今日のところは失礼させていただきます」
「え、縁談は……?」
鶴司が尋ねる。
「ひとまず進める方向で。また出直します」
そう言って立ち上がると、鷲爪は側近を促して退室していった。
「お父様、私嫌よ! 妖魔だなんて」
「わがままを言うんじゃない! この縁談には風祀の命運がかかっているんだ」
鷲爪の去った部屋で、鶴司は翡翠を厳しく嗜めた。
▶︎▶︎
「なあ飯豊、どう思う?」
尋ねたのはまだ風祀の敷地内にいる鷲爪だ。
「どう、といいますと?」
側近の飯豊が聞き返す。
「風祀の娘だ。最強の聖女に見えたか?」
「いいえ。確かに聖女の能力はお持ちのようでしたが、鷲爪様のおっしゃるような強い力とも思えませんでした」
「俺の見込み違いだというのか?」
鷲爪の問いに、飯豊は答えづらそうに目を逸らす。
「じゃあ何か? 俺はこの先、この気味の悪い傷を顔に宿したまま生きていくのか? 勘弁してくれ」
鷲爪は絶望したように顔を歪めた。
「だからそこまでする必要はないと申し上げたのに。わざと傷を負って」
「このくらいしなければ〝最強〟かどうかを確かめられないだろう?」
鷲爪はため息をついた。
「しかし平凡な聖女だということは歴然としていたのに、なぜ縁談を断らなかったんですか?」
「あの聖女からは、弱々しくはあるが確かにあの日とよく似た気を感じたんだ。……それに、お前にもわかるだろ?」
飯豊の目を見た。
「この家の敷地に入った瞬間から、鵺の傷が喜んでいるように活発に蠢いている」
鷲爪の声が一段低くなり、飯豊を見た瞳は緊張を孕む。
「この家には、何かがいる。邪悪な――」
「鷲爪様!」
飯豊の声が聞こえるより一瞬早く、鷲爪は腰のサーベルを抜いた。
刀は風のような速さで空を切った。
バシンッと何かが割れるような音だけが響く。
辺りに何かの欠片があるわけでもない、空中で爆発が起きたわけでもない。
それでも確かに鷲爪のサーベルは彼を目がけて飛んできた何かを切り、消し去った。
それを知らせるかのように刃からシュウシュウと、半色と言われるような紫色の蒸気のようなものが立ちのぼっている。
「これはこれは。大層歓迎してくれているようだ」
鷲爪はニヤリと口角を上げ不敵な笑みを浮かべた。
黒目がちな目が妖艶に光り、飯豊はぞくりと肌が粟立つのを感じた。
二人の耳にキィと戸の開くような音が届く。
「あれは……?」
鷲爪の視線の先にあったのは鳥籠だ。
「温室のようですね」
「……そうだ。あの日、あそこで」
鷲爪が昔のことを思い出しかけているところで、開いたガラス扉から少女がこわごわと顔を出す。音に驚いた雲雀だ。
縁談の席に近づくなと命じられていた彼女はひとり、鳥籠で時間を潰していた。
「え? 鷲爪様?」
「先に車に戻っていてくれ」
鷲爪はつかつかと脇目もふらずまっすぐ鳥籠に向かった。
それに気づいた雲雀は、知らない男が近づいてくることに焦って顔を引っ込めた。
「失礼」
雲雀が閉じようとした扉に鷲爪は革靴を履いた足を挟み、こじ開けるように手をかけた。
「あ、あの……?」
突然目の前に軍服を着た背の高い、それも顔面に大きな傷のある男性が現れて、雲雀は驚きと恐怖を感じていた。
「驚かせて申し訳ない。こちらの温室の中を見せていただけませんか」
「え……は、はい……」
温室は雲雀の所有物ではない。丁寧な口調で見せてくれと頼まれればとくに断る理由もなかった。
「お怪我……なさっているのですか?」
「え?」
雲雀に指摘され、鷲爪は傷口が開いていることに初めて気づいた。頬を血が伝っている。
「あ、あの……少し待っていてください」
そう言うと雲雀は温室の奥へと駆けて行った。
不思議に思いながらも待つことにした鷲爪は、円屋根を見上げ、ぐるりと温室の中を見回した。
「あの、これ」
雲雀が植物の葉のような物を持って戻ってきた。
「異国の植物で、葉に止血の作用があるそうです。よろしかったら、傷口に当ててください」
「怖くないのか? この傷は妖魔のつけた傷だ。蠢いているのがわかるだろう?」
先ほどの何者からかの攻撃で、傷が妖気に反応して開いたのだった。
(妖魔……?)
雲雀にはよくわからなかったが、傷が蠢いているのは確かに見て取れた。
「怖くないと言ったら嘘になりますが、傷ついた方を放っておくことはできません」
そう言って、彼女は背伸びをして傷口に葉を当てた。
「〝放っておけない〟……か。優しいんだな」
雲雀の言葉が鷲爪の古い記憶をかすめた。
「この家の方ですか?」
問われた彼女は困ったように目を逸らす。
「違うのですか?」
何も考えずに傷口に触れたが、今日この日に風祀の家にいる身分の高そうな見知らぬ男性が、穂邑鷲爪であることに雲雀も思い至っていた。
縁談の席に顔を出すなと言われていたのに、意図せず姿を見せてしまったのだ。
「私の古い知り合いによく似ているようだ」
顔に葉を当てながら、鷲爪は雲雀を見下ろした。葉は傷にしみるようで、瞼がピクリと動く。
「え……?」
「傷ついた者を『放っておけない』という台詞、それにその黒い髪」
雲雀の胸が一瞬ドキリと音を鳴らす。
しかし続く言葉に、今度は胸が抉られる。
「あなたは聖女ではないのか? 翡翠さんと似て見えるが」
(この方は、きっと翡翠の昔からの知り合いだったのだわ)
幼い頃は翡翠の髪も雲雀のように黒かった。それが成長とともに亜麻色に変化していったのだ。
「わ、私なんかに聖女の力があれば……あなたの傷を癒して差し上げています」
「……それもそうか」
鷲爪はどこか懐疑的な目をして呟いた。
「失礼を承知でお聞きするが、あなたはもしかして……異能が使えないのではないですか?」
「え……」
聖女ではないと言っただけで、なぜ無能であることがバレてしまったのか。雲雀には理由がわからない。
「私には他人の気が見えるんだ。あなたの気は、なんというか――」
「ち、違います! いい加減なことを言わないでください!」
『翡翠さんと似て見える』目の前の男は先ほど確かにそう言った。つまり翡翠の血縁だと疑われているのだ。双子でなくとも翡翠の血縁である事、無能である事がバレてしまえば縁談が立ち消えてしまう。
「わ、私は、無能では……ないですし、こ、この家のただの使用人です」
「いやしかし――」
「鷲爪様。そろそろお時間が」
扉が開き、車に戻ったはずの飯豊が顔を見せた。
(やはりこの方が穂邑様……)
「あ、わ、私もそろそろ行かなくては……」
「ではせめて、名を教えていただけませんか?」
「私の名などお伝えしたところで……」
雲雀の心臓がバクバクと不安げな音を鳴らす。
「これの礼をしたい」
鷲爪は傷口の葉をチラつかせた。
「お礼などしていただくほどのことでは」
「傷を癒していただいたのに礼の一つもしないとは、穂邑の名折れです。名を教えてください」
強引とも思える鷲爪の頼みに雲雀は観念して名を名乗ることにした。
「烏頭目雲雀と申します」
「ウズメ?」
雲雀はコクリと頷いた。
「この家の使用人をしております。もうすぐお暇をいただく身ですので、本当に礼になど及びません」
そう言って頭を下げると、雲雀は飯豊の脇を抜けて鳥籠から抜け出た。
鷲爪と飯豊は雲雀の後ろ姿を見送ると顔を見合わせた。
その日、女中部屋に戻ってからも鷲爪の言葉が胸に引っかかり続けていた。
――『私には他人の気が見えるんだ』
(気……? あの子も言っていた)
――『僕には君の気が見えるよ』
布団の中で十年前のことを思い出す。
けれど、あの少年は烏頭目だったはずだ。
(異能のある方なら誰でも見られるものなのかしら)
――『見たこともないくらい真っ白で綺麗な気をしている』
(きっと私の気は、一目で無能だとわかるほど汚いものになってしまったのね)
雲雀は薄い布団を被り、こっそりと涙を流した。
◀︎◀︎
穂邑の邸に戻った鷲爪と飯豊は、風祀家で見た事について意見を交わしていた。
重厚な雰囲気のある洋室でマホガニー製の低いテーブルを挟んで向かい合い、ビロード張りのソファに座る。
「十年前、俺が聖女に会ったのは確かにあの温室だ。間違いない」
「だからといって、先ほどの女性がその聖女だとは思えませんが」
二人が会った〝烏頭目雲雀〟は、確かに使用人らしい格好をしていた。手も荒れていたし、顔はやつれているようだった。
「風祀鶴司から提出された書面では、風祀の娘は一人ということになっています」
「そんなものはいくらだって嘘が書ける。しかし、何故娘を隠す必要があるんだ? 聖女だというのに」
鷲爪は眉根を寄せた。
「彼女の気は、聖女のそれだったのでしょうか? 私には鷲爪様ほどはっきりと気を見ることはできませんので」
飯豊は言葉を濁したが、明らかに雲雀の無能を疑っていた。
「今の彼女は恐らく異能が使えない」
「それはつまり無能で、忌み血を隠すために嘘をついたと考えるのが自然では?」
「俺は今までに何度か無能の人間を見たことがあるが、彼らは皆、気が無いんだ」
鷲爪は温室で見た雲雀の気を思い浮かべた。
「彼女の気は……なんというか、何かに覆い隠されているようだった」
「何か、とは?」
「禍々しい……そうだな妖気のようなものだ。その内側から、ほんの微量の白い気が見えた。それにあの家のあの妖気……」
十年前にはそのようなものは無く、あの温室には清白な結界が張られていて忍び込むのに怪我をしたほどだった。
鷲爪は深いため息をついた。
「わけがわからない。だいたい〝烏頭目〟というのは?」
「お調べしてみましょうか?」
「ああ、頼む」
鷲爪の言葉に飯豊はニヤリと笑う。
「何だ?」
「鷲爪様の初恋を叶えるお手伝いができて光栄の至りです」
鷲爪の眉間に深い皺が寄る。
「俺は別に……」
「異国へのご遊学中も、討伐での遠征中もお忘れにならなかった聖女様ではないですか」
「ああそうだ。最強の聖女だから手に入れたいだけだ。穂邑家のためにな」
鷲爪が不機嫌そうに言っても、飯豊は「はいはい」と笑って取り合わない。
呆れたようにため息をついた彼は、テーブルの上の葉っぱを見つめた。先ほど雲雀に渡されたものだ。
顔の傷が消えることはなかったが、それでも妖気で開いた傷口はもう塞がっていた。これまでは鷲爪の異能を使って押さえつけなければ閉じなかったというのに。
「だいたいあの日、最強の聖女の力は目覚めているはずだろう? この目でその一端を見ているし、天がそう告げたのだから」
十年前、鷲爪は夢を見た。
〝風祀の家で最強の聖女の力が解放される〟
夢はそう告げていた。
強い異能を持つ者がそんな風にお告げのような夢を見ることは珍しくない。
それは神託だとされ、必ずその通りになる。だから鷲爪はあの温室に向かったのだ。
「それなのに何故だ?」
鷲爪はまた、悩ましげにため息をついた。
翌日の昼過ぎ。
風祀家の門前に黒い車が横付けされる。少し前にそのエンジン音が聞こえた瞬間から、風祀の屋敷内は慌ただしい空気に包まれていた。
「穂邑鷲爪様、いらっしゃいました」
和室の戸を開け、使用人が翡翠や鶴司に告げる。
「いよいよね。どんな方なのかしら」
翡翠は美男子を想像し、期待に胸を躍らせる。
「失礼します」
冷静さを感じさせる低音の声だ。
部屋の入り口でお辞儀をした軍服姿の鷲爪が顔を上げる。
「ひっ」
思わず声を上げたのは翡翠だった。
「どうかされましたか?」
「え……い、いえ……」
鷲爪はたしかに美男子なのだろうという端整な顔立ちをしていた。扁桃形の瞳、キリリとした眉、鼻筋も通っている。短く切り揃えられた髪は漆黒のように艶やかだ。
しかし彼の顔には額から左頬にかけて、鼻と眼の間を通るように大きな傷がついていた。まだ新しい傷のようで、閉じてはいるが赤いみみず腫れのようになっていて生々しい。そして気のせいか、ボコボコと動いているようにも見える。
鷲爪は何事もなかったかのように部屋へ入ると、翡翠たち親子三人と向かい合うように座った。斜め後ろには、側近と思しき男性が座る。鷲爪も彼も、二十代の前半といった風貌だ。
「サーベル……ですか?」
側近の男の傍に剣のようなものが置かれたのを見て鶴司が怪訝な表情を浮かべた。
「ああ、お気になさらず。これは護符のようなものです。妖魔でも現れない限り抜刀することはありません」
鷲爪は何でもないように落ち着いた口調で答えた。
「はじめまして、穂邑鷲爪です」
「は、はじめまして、風祀ヒ翠です」
翡翠の声が裏返り、鷲爪の眉間に浅く線が入る。
「……先ほどの態度といいそのご様子、もしかして鶴司殿からお伝えいただいていなかったのですか? 私のこの傷の事を」
鷲爪は鶴司に視線を送る。そのつもりがあるのかないのか、睨みつけるような強い眼光に鶴司は一瞬慄いたようだった。
「い、いやそのぉ」
鶴司の態度に鷲爪は「ハァ」と呆れたようなため息を漏らす。
「まあいいでしょう。どちらにしろこの傷は今日消えるものだ」
「え?」
不思議そうな顔をする翡翠を鷲爪はチラリと見た。
「これは先だって討伐した鵺という妖魔につけられた傷です」
「まあなんと恐ろしい」
シギ乃は着物の袖を口に当て、顔を引き攣らせて恐ろしがった。
この国に伝わる鵺は蛇や虎、猿の妖怪が一体となった凶悪な妖魔であった。
「初めのうちは妖気を帯びていて医者が触ることすらできなかった。傷口が何度もひとりでに開いては、私の力で押さえ込んでいるような状態でした。なんとか傷は塞がりましたが、今も中から疼いています」
中で何かが蠢く傷跡を見た三人は恐怖で息を飲む。
「それが、今日消えるというのは……?」
鶴司が恐る恐る尋ねる。
「決まっているでしょう。翡翠さんに消していただくのです」
「え!?」
「この国で最も強い力を持つ聖女だ。そのくらいのことはできるでしょう?」
「む、無理です、私……妖魔だなんて」
「あなたならできるはずだ」
鷲爪は確信したように言うが、翡翠は恐れ戸惑うばかりだ。その様子を見て、彼はまたため息をついた。
「最強とは、どうやら私の見込み違いだったようですね。このお話は――」
「ま、待ってください!」
立ち上がろうとする鷲爪に鶴司が縋るような声を出した。
「ほら、翡翠! できるだろう」
鶴司が翡翠の背中を叩き、鷲爪の方にいくように促す。その目は「何としても縁談を纏めろ」と言っている。
気圧された翡翠は渋々、そして恐る恐る鷲爪の元に行く。
「ではお願いします」
鷲爪は礼儀正しく頭を下げると正座したまま目を閉じた。
顔の傷は近くで見るとより痛々しく気味が悪い。
翡翠は嫌悪感を顔に出しながら、そっと手を近づけた。
「う……」
「ひぃっ」
鷲爪が小さく呻くと同時に傷がまた蠢いた。
「あなたの気に反応しているのです。気にせず続けてください」
目を閉じたまま平然とした鷲爪に言われ、翡翠は傷を癒そうと異能を使う。
彼女の手がいつものように小さく光った。
しかしそれから小半刻ほど異能を使い続けても、傷が消えることはなかった。
「わずかに消えたようにも、変わらないようにも見えます」
側近の男が鷲爪に伝える。
「そうか……」
幾分落胆したように呟くと、鷲爪は何かを考えるように押し黙った。
「お嬢さんは緊張で本来の力が出せていないようですね」
しばらくすると鷲爪が口を開いた。
「今日のところは失礼させていただきます」
「え、縁談は……?」
鶴司が尋ねる。
「ひとまず進める方向で。また出直します」
そう言って立ち上がると、鷲爪は側近を促して退室していった。
「お父様、私嫌よ! 妖魔だなんて」
「わがままを言うんじゃない! この縁談には風祀の命運がかかっているんだ」
鷲爪の去った部屋で、鶴司は翡翠を厳しく嗜めた。
▶︎▶︎
「なあ飯豊、どう思う?」
尋ねたのはまだ風祀の敷地内にいる鷲爪だ。
「どう、といいますと?」
側近の飯豊が聞き返す。
「風祀の娘だ。最強の聖女に見えたか?」
「いいえ。確かに聖女の能力はお持ちのようでしたが、鷲爪様のおっしゃるような強い力とも思えませんでした」
「俺の見込み違いだというのか?」
鷲爪の問いに、飯豊は答えづらそうに目を逸らす。
「じゃあ何か? 俺はこの先、この気味の悪い傷を顔に宿したまま生きていくのか? 勘弁してくれ」
鷲爪は絶望したように顔を歪めた。
「だからそこまでする必要はないと申し上げたのに。わざと傷を負って」
「このくらいしなければ〝最強〟かどうかを確かめられないだろう?」
鷲爪はため息をついた。
「しかし平凡な聖女だということは歴然としていたのに、なぜ縁談を断らなかったんですか?」
「あの聖女からは、弱々しくはあるが確かにあの日とよく似た気を感じたんだ。……それに、お前にもわかるだろ?」
飯豊の目を見た。
「この家の敷地に入った瞬間から、鵺の傷が喜んでいるように活発に蠢いている」
鷲爪の声が一段低くなり、飯豊を見た瞳は緊張を孕む。
「この家には、何かがいる。邪悪な――」
「鷲爪様!」
飯豊の声が聞こえるより一瞬早く、鷲爪は腰のサーベルを抜いた。
刀は風のような速さで空を切った。
バシンッと何かが割れるような音だけが響く。
辺りに何かの欠片があるわけでもない、空中で爆発が起きたわけでもない。
それでも確かに鷲爪のサーベルは彼を目がけて飛んできた何かを切り、消し去った。
それを知らせるかのように刃からシュウシュウと、半色と言われるような紫色の蒸気のようなものが立ちのぼっている。
「これはこれは。大層歓迎してくれているようだ」
鷲爪はニヤリと口角を上げ不敵な笑みを浮かべた。
黒目がちな目が妖艶に光り、飯豊はぞくりと肌が粟立つのを感じた。
二人の耳にキィと戸の開くような音が届く。
「あれは……?」
鷲爪の視線の先にあったのは鳥籠だ。
「温室のようですね」
「……そうだ。あの日、あそこで」
鷲爪が昔のことを思い出しかけているところで、開いたガラス扉から少女がこわごわと顔を出す。音に驚いた雲雀だ。
縁談の席に近づくなと命じられていた彼女はひとり、鳥籠で時間を潰していた。
「え? 鷲爪様?」
「先に車に戻っていてくれ」
鷲爪はつかつかと脇目もふらずまっすぐ鳥籠に向かった。
それに気づいた雲雀は、知らない男が近づいてくることに焦って顔を引っ込めた。
「失礼」
雲雀が閉じようとした扉に鷲爪は革靴を履いた足を挟み、こじ開けるように手をかけた。
「あ、あの……?」
突然目の前に軍服を着た背の高い、それも顔面に大きな傷のある男性が現れて、雲雀は驚きと恐怖を感じていた。
「驚かせて申し訳ない。こちらの温室の中を見せていただけませんか」
「え……は、はい……」
温室は雲雀の所有物ではない。丁寧な口調で見せてくれと頼まれればとくに断る理由もなかった。
「お怪我……なさっているのですか?」
「え?」
雲雀に指摘され、鷲爪は傷口が開いていることに初めて気づいた。頬を血が伝っている。
「あ、あの……少し待っていてください」
そう言うと雲雀は温室の奥へと駆けて行った。
不思議に思いながらも待つことにした鷲爪は、円屋根を見上げ、ぐるりと温室の中を見回した。
「あの、これ」
雲雀が植物の葉のような物を持って戻ってきた。
「異国の植物で、葉に止血の作用があるそうです。よろしかったら、傷口に当ててください」
「怖くないのか? この傷は妖魔のつけた傷だ。蠢いているのがわかるだろう?」
先ほどの何者からかの攻撃で、傷が妖気に反応して開いたのだった。
(妖魔……?)
雲雀にはよくわからなかったが、傷が蠢いているのは確かに見て取れた。
「怖くないと言ったら嘘になりますが、傷ついた方を放っておくことはできません」
そう言って、彼女は背伸びをして傷口に葉を当てた。
「〝放っておけない〟……か。優しいんだな」
雲雀の言葉が鷲爪の古い記憶をかすめた。
「この家の方ですか?」
問われた彼女は困ったように目を逸らす。
「違うのですか?」
何も考えずに傷口に触れたが、今日この日に風祀の家にいる身分の高そうな見知らぬ男性が、穂邑鷲爪であることに雲雀も思い至っていた。
縁談の席に顔を出すなと言われていたのに、意図せず姿を見せてしまったのだ。
「私の古い知り合いによく似ているようだ」
顔に葉を当てながら、鷲爪は雲雀を見下ろした。葉は傷にしみるようで、瞼がピクリと動く。
「え……?」
「傷ついた者を『放っておけない』という台詞、それにその黒い髪」
雲雀の胸が一瞬ドキリと音を鳴らす。
しかし続く言葉に、今度は胸が抉られる。
「あなたは聖女ではないのか? 翡翠さんと似て見えるが」
(この方は、きっと翡翠の昔からの知り合いだったのだわ)
幼い頃は翡翠の髪も雲雀のように黒かった。それが成長とともに亜麻色に変化していったのだ。
「わ、私なんかに聖女の力があれば……あなたの傷を癒して差し上げています」
「……それもそうか」
鷲爪はどこか懐疑的な目をして呟いた。
「失礼を承知でお聞きするが、あなたはもしかして……異能が使えないのではないですか?」
「え……」
聖女ではないと言っただけで、なぜ無能であることがバレてしまったのか。雲雀には理由がわからない。
「私には他人の気が見えるんだ。あなたの気は、なんというか――」
「ち、違います! いい加減なことを言わないでください!」
『翡翠さんと似て見える』目の前の男は先ほど確かにそう言った。つまり翡翠の血縁だと疑われているのだ。双子でなくとも翡翠の血縁である事、無能である事がバレてしまえば縁談が立ち消えてしまう。
「わ、私は、無能では……ないですし、こ、この家のただの使用人です」
「いやしかし――」
「鷲爪様。そろそろお時間が」
扉が開き、車に戻ったはずの飯豊が顔を見せた。
(やはりこの方が穂邑様……)
「あ、わ、私もそろそろ行かなくては……」
「ではせめて、名を教えていただけませんか?」
「私の名などお伝えしたところで……」
雲雀の心臓がバクバクと不安げな音を鳴らす。
「これの礼をしたい」
鷲爪は傷口の葉をチラつかせた。
「お礼などしていただくほどのことでは」
「傷を癒していただいたのに礼の一つもしないとは、穂邑の名折れです。名を教えてください」
強引とも思える鷲爪の頼みに雲雀は観念して名を名乗ることにした。
「烏頭目雲雀と申します」
「ウズメ?」
雲雀はコクリと頷いた。
「この家の使用人をしております。もうすぐお暇をいただく身ですので、本当に礼になど及びません」
そう言って頭を下げると、雲雀は飯豊の脇を抜けて鳥籠から抜け出た。
鷲爪と飯豊は雲雀の後ろ姿を見送ると顔を見合わせた。
その日、女中部屋に戻ってからも鷲爪の言葉が胸に引っかかり続けていた。
――『私には他人の気が見えるんだ』
(気……? あの子も言っていた)
――『僕には君の気が見えるよ』
布団の中で十年前のことを思い出す。
けれど、あの少年は烏頭目だったはずだ。
(異能のある方なら誰でも見られるものなのかしら)
――『見たこともないくらい真っ白で綺麗な気をしている』
(きっと私の気は、一目で無能だとわかるほど汚いものになってしまったのね)
雲雀は薄い布団を被り、こっそりと涙を流した。
◀︎◀︎
穂邑の邸に戻った鷲爪と飯豊は、風祀家で見た事について意見を交わしていた。
重厚な雰囲気のある洋室でマホガニー製の低いテーブルを挟んで向かい合い、ビロード張りのソファに座る。
「十年前、俺が聖女に会ったのは確かにあの温室だ。間違いない」
「だからといって、先ほどの女性がその聖女だとは思えませんが」
二人が会った〝烏頭目雲雀〟は、確かに使用人らしい格好をしていた。手も荒れていたし、顔はやつれているようだった。
「風祀鶴司から提出された書面では、風祀の娘は一人ということになっています」
「そんなものはいくらだって嘘が書ける。しかし、何故娘を隠す必要があるんだ? 聖女だというのに」
鷲爪は眉根を寄せた。
「彼女の気は、聖女のそれだったのでしょうか? 私には鷲爪様ほどはっきりと気を見ることはできませんので」
飯豊は言葉を濁したが、明らかに雲雀の無能を疑っていた。
「今の彼女は恐らく異能が使えない」
「それはつまり無能で、忌み血を隠すために嘘をついたと考えるのが自然では?」
「俺は今までに何度か無能の人間を見たことがあるが、彼らは皆、気が無いんだ」
鷲爪は温室で見た雲雀の気を思い浮かべた。
「彼女の気は……なんというか、何かに覆い隠されているようだった」
「何か、とは?」
「禍々しい……そうだな妖気のようなものだ。その内側から、ほんの微量の白い気が見えた。それにあの家のあの妖気……」
十年前にはそのようなものは無く、あの温室には清白な結界が張られていて忍び込むのに怪我をしたほどだった。
鷲爪は深いため息をついた。
「わけがわからない。だいたい〝烏頭目〟というのは?」
「お調べしてみましょうか?」
「ああ、頼む」
鷲爪の言葉に飯豊はニヤリと笑う。
「何だ?」
「鷲爪様の初恋を叶えるお手伝いができて光栄の至りです」
鷲爪の眉間に深い皺が寄る。
「俺は別に……」
「異国へのご遊学中も、討伐での遠征中もお忘れにならなかった聖女様ではないですか」
「ああそうだ。最強の聖女だから手に入れたいだけだ。穂邑家のためにな」
鷲爪が不機嫌そうに言っても、飯豊は「はいはい」と笑って取り合わない。
呆れたようにため息をついた彼は、テーブルの上の葉っぱを見つめた。先ほど雲雀に渡されたものだ。
顔の傷が消えることはなかったが、それでも妖気で開いた傷口はもう塞がっていた。これまでは鷲爪の異能を使って押さえつけなければ閉じなかったというのに。
「だいたいあの日、最強の聖女の力は目覚めているはずだろう? この目でその一端を見ているし、天がそう告げたのだから」
十年前、鷲爪は夢を見た。
〝風祀の家で最強の聖女の力が解放される〟
夢はそう告げていた。
強い異能を持つ者がそんな風にお告げのような夢を見ることは珍しくない。
それは神託だとされ、必ずその通りになる。だから鷲爪はあの温室に向かったのだ。
「それなのに何故だ?」
鷲爪はまた、悩ましげにため息をついた。

