◀︎◀︎
それは、もう十年も昔の記憶。雲雀たち姉妹の七つの誕生日のことであった。
幼かった雲雀は一人で鳥籠を訪れた。そこは彼女のお気に入りの場所で、日によっては何時間も植物を見て過ごしていた。
その日はなぜか、鳥籠に見知らぬ少年が立っていた。足元にいる小さな一匹のヘビを見つめて。
『ねえ、この子はどうしてケガをしているの?』
この頃の雲雀は肩まで伸びた黒い髪に、今と違って白い小花が舞い散る緋い色の着物を身につけていた。
『あなたがやったの?』
雲雀より四つ五つ年上だろうかという少年は否定するように首を横に振った。
彼は雲雀と違い、白い半袖のシャツにリネンのサスペンダー付きの半ズボンという洋装だ。
『ここにはなんだか強い結界があるみたいだ。このヘビはそれに拒絶された』
優しく言われたが、雲雀にはその意味がわからない。
『苦しそうよ』
足元のヘビは、のたうちまわっていたかと思うと、弱々しく動きを止めた。胴には赤い血が滴るような大きく深い傷がある。
『女の子はヘビなんて気持ち悪がるものだろ?』
『生き物はみんな大切にしなくちゃダメよ。放っておけないわ』
雲雀は口をへの字に結んだ。
『君はとても優しいんだね』
少年は笑いかける。
『……君にはこのヘビを治す力があるんじゃないかな』
彼は、雲雀の目を見て言った。
『そんな気がする』
雲雀は咄嗟に目を逸らすように俯いて首を横に振る。
『そんなの嘘よ』
『どうして?』
『わたしは……翡翠じゃないもの』
雲雀は消え入りそうな声でその名を口にした。
翡翠は一年ほど前に初めて異能を使ってみせた。
その瞬間から、両親の関心が翡翠に注がれるようになった。そして翡翠は自分が可愛がられることで雲雀に対して優越感を覚え始めたようだった。
『なんて言ったの?』
彼には聞こえなかったようだ。
『わたしには力なんてない』
雲雀は毎日のように『お前の力はまだ発現しないのか』と問われ続けている。それでも身体には何の変化もないのだ。
細い涙の糸が伝う雲雀の頬に、彼の温かい手が触れる。
『君は気づいていないんだね。僕には君の気が見えるよ。見たこともないくらい真っ白で綺麗な気をしている』
雲雀には、彼が何を言っているのかよくわからなかった。
『いい物をあげるよ。手を出して』
言われるまま雲雀が両手のひらを彼に差し出しすと、そこに小さなガラス瓶を乗せた。
『……お星さま?』
瓶の中で蜂蜜色をした、星のようなツノのある小さな粒がキラキラと輝く。本当に光を放っているかのようにどこか神々しい色をしていた。
『金平糖って言うんだよ。飴のようなものだ』
『こんぺいとー……?』
『君には特別な力があるはずだ。その金平糖はその力を使うことを助けてくれる』
『で、でも……っ』
『僕を、それから君自身を信じて』
彼はまたまっすぐ雲雀の目を見つめた。
――『信じて』
身なりから良家の子なのだということは察せられたが、それだけだ。初対面の彼が何者なのかを知っているわけではない。
けれど、その雲雀を引き込むような漆黒の瞳が嘘をついていないことは幼い彼女にも伝わってくる。
雲雀は双子である翡翠が異能を使う姿を思い浮かべた。
(……もしかしたら)
自分にも異能が使えるのではないか。彼の言葉が現実味を帯びて耳に響く。
雲雀は瓶の中の三粒ほどのコンペイトウをパクりと一度に頬張った。
優しい甘さのそれは、すぐに口の中で溶けてしまった。
『ふぁ……』
頬がじんわりと熱くなり、それを起点にして身体中がポカポカと温かくなるような感覚が一気にめぐる。
『ど、どうするの……?』
彼は戸惑い狼狽える雲雀の両手を優しく包んだ。
『力は君の中にある。このヘビを助けたいと心から願えば、自ずと解放される』
幼い雲雀にはよくわからない部分もあったが、願えば良いのだということは理解できた。
雲雀はしゃがんで、そっとヘビに手を当てる。
(お願い、治って!)
雲雀が強く願った瞬間、彼女の手のひらがポゥッと円を描くように柔らかな光を帯びた。
『え……嘘……』
ヘビの胴にあった傷が一瞬にして小さく薄くなるように消えていく。固まっていた血液も消え去り、真珠のようで銀色のようでもある妖艶な輝きを持つ鱗が姿を現した。
『やはりね』
傷が消えていくのを見て、彼は満足げに笑った。
『わ、わたし……初めて』
『もっと自分に自信を持てば、君はこれからずっと力を使えるよ』
『本当?』
彼はコクリと頷いた。
彼の言う通り自分に自信のない雲雀には、そんな彼の言葉すら半信半疑だ。
(でも……)
眼前で傷の癒えたヘビが自分の方を不思議そうに見上げている。
『よかったね』
雲雀がヘビを撫でようとすると、元気を取り戻したヘビはシュルシュルと地面を滑るかのように鳥籠の外へと消えていった。
『治し甲斐のない奴』
眉を八の字に曲げる彼に、雲雀は首を横に振る。
『いいの。わたしはとっても嬉しいもの。ありがとう』
顔をほころばせて満面の笑みを見せる雲雀に彼は照れ臭そうな顔をした。
『あなたもケガをしているの?』
見れば、少年の指先にも小さな傷があった。
『ここに入る時に、少し……』
(ガラスで切ってしまったのかしら)
『かして』
雲雀は彼の手を取ると、先ほどヘビにしたように(治って)と強く願った。
『すごい! 本当に力が使えるわ!』
手をぎゅっと握ったまま嬉しそうに笑いかける彼女に、彼の頬や耳が微かに赤く染まる。
『お耳、赤い? お熱?』
雲雀は咄嗟に彼の額にコツンと額を合わせた。
『ち、ちがうよ!』
彼は慌てて雲雀から離れた。
その姿を見て、雲雀は今度はくすくすとおかしそうに笑った。
『ヘビさんが助かったのは、こんぺいとーのおかげね。ありがとう』
『君の力だよ』
『……でも、わたし』
『さっきも言ったけど、もっと自信を持って。君の力はそんなものではないはずだから。だって君は――』
続く一言は、また雲雀には理解し難い言葉だった。
『君はこの国で最も強い力を持つ聖女なんだから』
雲雀はキョトンとして言葉を発せない。
『君、風祀の娘だろ?』
彼の質問に、雲雀は間を空ける。
名家である風祀の子女が簡単に身分を明かしてはいけないと、常日頃、母からも乳母からも口酸っぱく言われているからだ。
『風祀の敷地で仕立ての良い着物姿、それにその力。名乗らなくてもわかるよ』
母の言いつけを守りたいのに相手に身分がバレている気まずさで、雲雀の眉が寄り、目が宙を泳ぐ。
その様子を見て、今度は彼がおかしそうに笑った。
『ごめんごめん。困らせたかったわけじゃない』
その優しい表情に、雲雀の胸がキュ……と生まれたばかりの子猫のように鳴いた。
『あなたは誰?』
『僕? 僕は――』
言いかけたところで彼女を探す使用人の声が聞こえた。
『いつも内緒でここに来てるから』
雲雀はバツが悪そうに笑った。
『ねえ、また会えるかしら。こんぺいとーのお返しにお菓子をあげたいわ』
雲雀の言葉に、彼はまた優しく微笑んだ。
『お礼だというのなら、いつか君を迎えに来てもいいかな』
雲雀はまたキョトンとする。
『え? いつか……迎え? よくわからないけれど、いいわ』
その言葉を聞いてまた微笑むと、彼は鳥籠から出て行ってしまった。
▶︎▶︎
(もう随分と朧げだけれど、今にして思えばあの日の胸が高鳴った瞬間が私にとっての初恋だったのだわ)
それ以来、彼が鳥籠に来ることはなかった。
(あの時力が使えたのは幻だったとしか思えない)
結局それから一度も異能を上手く使えず、すっかり自信を失ってしまった雲雀は徐々に家族から虐げられるようになっていった。
それから一年ほどが経ったある日、父が家庭教師として烏頭目を連れてきた。
彼を見た瞬間、雲雀はどこかで会ったような懐かしさを覚えた。
艶やかな黒い髪と優しい笑顔はすぐにあの日の記憶を呼び起こす。
『以前にお会いしたことがありませんか?』
雲雀の問いに、烏頭目は『覚えていてくれたのですか』と嬉しそうに答えた。
『あれからうまく異能が使えなくて』
そう悩みを打ち明けると、烏頭目はあの時とよく似た小瓶を差し出した。
『あの日のように、私が君の力を引き出してあげるよ』
そう言って、彼は微笑んだ。
それからいつもこうして密かに薬を貰っている。
(迎えに来るというのは、今日この日のことを言っていたのかしら)
薬で朦朧とする意識の中で、雲雀は幼い日の思い出に胸を熱くした。
▶︎▶︎
それからの日々は、想像以上に厳しいものであった。
雲雀の部屋は他の女中と同室となり、「お嫁に行くまでの短い間よ」と誰よりも粗末な着物を着せられた。
「こんなもの食べられないわ!」
翡翠は雲雀に朝食を用意させ、味噌汁がぬるいと言って雲雀に投げつけた。
全くぬるいなどという温度ではなく、熱が雲雀を襲う。
そんなことが毎朝、料理の味が悪いだとか具材の切り方が気に食わないだとか、ありとあらゆる理由で繰り返された。
広い屋敷中の廊下を雑巾で拭かせれば「埃が残っている」と罵り、「拭かなければいけないのはあんたのその頭かしら?」と言って、床を拭き終えた雑巾で雲雀の顔を拭った。
「熱すぎる」と、わざと温度を上げた浴槽に顔を沈められる日もあった。
「……っ、やめて! 翡翠! 許して」
熱さと苦しさに朦朧としながら懇願する。
「翡翠様だと、何度言ったらわかるの? 何一つまともにできないあんたが悪いのよ」
雲雀の後頭部を掴む翡翠の手にグッと力が込められ、また浴槽に沈められる。
翡翠の折檻で切り傷や火傷を負っても、しばらくすると異能で治されてしまい、その形跡は残らない。
それでも雲雀の恐怖心や痛みは棘のように記憶に刺さり続ける。
当然烏頭目との勉強にも同席は許されなくなった。
「何かされていないかい?」
薬を受け取るために鳥籠で密会する度、烏頭目は声をかけた。
その度に無言で首を横に振る。
助けを求めたところで証拠が無い上に、烏頭目との婚約を破断にされかねない。
「何もできない君に、私との結婚のために辛い思いをさせてすまない」
薬を飲んだ雲雀を烏頭目が優しく抱きしめる。
「私が無能で何もできないのが悪いんだもの」
(何もできない私自身のせい……)
雲雀は朦朧とする意識の中で、うわごとのように呟いた。
(だけど先生、どうして……)
そんな生活は二週間ほど続いた。
「とうとう明日は鷲爪様との顔合わせだわ」
夕食をとる翡翠は上機嫌だ。
「雲雀、わかっているでしょうね?」
翡翠の後ろ、壁際に立つ雲雀の方を見ずに声をかける。
「はい。〝決して縁談の席には近づかないこと〟。翡翠様のお言い付け通りにいたします」
雲雀のオドオドと怯えた態度をシギ乃はくすくすと笑い、鶴司は苛立ったように顔を顰めた。
この頃にはもう、雲雀は折檻への恐怖心で翡翠の顔色をうかがうことしかできなくなっていた。
それでも穂邑と翡翠の縁談の話が進めば、折を見て自分もこの家から出ていけるのだ。烏頭目と一緒に。
それは、もう十年も昔の記憶。雲雀たち姉妹の七つの誕生日のことであった。
幼かった雲雀は一人で鳥籠を訪れた。そこは彼女のお気に入りの場所で、日によっては何時間も植物を見て過ごしていた。
その日はなぜか、鳥籠に見知らぬ少年が立っていた。足元にいる小さな一匹のヘビを見つめて。
『ねえ、この子はどうしてケガをしているの?』
この頃の雲雀は肩まで伸びた黒い髪に、今と違って白い小花が舞い散る緋い色の着物を身につけていた。
『あなたがやったの?』
雲雀より四つ五つ年上だろうかという少年は否定するように首を横に振った。
彼は雲雀と違い、白い半袖のシャツにリネンのサスペンダー付きの半ズボンという洋装だ。
『ここにはなんだか強い結界があるみたいだ。このヘビはそれに拒絶された』
優しく言われたが、雲雀にはその意味がわからない。
『苦しそうよ』
足元のヘビは、のたうちまわっていたかと思うと、弱々しく動きを止めた。胴には赤い血が滴るような大きく深い傷がある。
『女の子はヘビなんて気持ち悪がるものだろ?』
『生き物はみんな大切にしなくちゃダメよ。放っておけないわ』
雲雀は口をへの字に結んだ。
『君はとても優しいんだね』
少年は笑いかける。
『……君にはこのヘビを治す力があるんじゃないかな』
彼は、雲雀の目を見て言った。
『そんな気がする』
雲雀は咄嗟に目を逸らすように俯いて首を横に振る。
『そんなの嘘よ』
『どうして?』
『わたしは……翡翠じゃないもの』
雲雀は消え入りそうな声でその名を口にした。
翡翠は一年ほど前に初めて異能を使ってみせた。
その瞬間から、両親の関心が翡翠に注がれるようになった。そして翡翠は自分が可愛がられることで雲雀に対して優越感を覚え始めたようだった。
『なんて言ったの?』
彼には聞こえなかったようだ。
『わたしには力なんてない』
雲雀は毎日のように『お前の力はまだ発現しないのか』と問われ続けている。それでも身体には何の変化もないのだ。
細い涙の糸が伝う雲雀の頬に、彼の温かい手が触れる。
『君は気づいていないんだね。僕には君の気が見えるよ。見たこともないくらい真っ白で綺麗な気をしている』
雲雀には、彼が何を言っているのかよくわからなかった。
『いい物をあげるよ。手を出して』
言われるまま雲雀が両手のひらを彼に差し出しすと、そこに小さなガラス瓶を乗せた。
『……お星さま?』
瓶の中で蜂蜜色をした、星のようなツノのある小さな粒がキラキラと輝く。本当に光を放っているかのようにどこか神々しい色をしていた。
『金平糖って言うんだよ。飴のようなものだ』
『こんぺいとー……?』
『君には特別な力があるはずだ。その金平糖はその力を使うことを助けてくれる』
『で、でも……っ』
『僕を、それから君自身を信じて』
彼はまたまっすぐ雲雀の目を見つめた。
――『信じて』
身なりから良家の子なのだということは察せられたが、それだけだ。初対面の彼が何者なのかを知っているわけではない。
けれど、その雲雀を引き込むような漆黒の瞳が嘘をついていないことは幼い彼女にも伝わってくる。
雲雀は双子である翡翠が異能を使う姿を思い浮かべた。
(……もしかしたら)
自分にも異能が使えるのではないか。彼の言葉が現実味を帯びて耳に響く。
雲雀は瓶の中の三粒ほどのコンペイトウをパクりと一度に頬張った。
優しい甘さのそれは、すぐに口の中で溶けてしまった。
『ふぁ……』
頬がじんわりと熱くなり、それを起点にして身体中がポカポカと温かくなるような感覚が一気にめぐる。
『ど、どうするの……?』
彼は戸惑い狼狽える雲雀の両手を優しく包んだ。
『力は君の中にある。このヘビを助けたいと心から願えば、自ずと解放される』
幼い雲雀にはよくわからない部分もあったが、願えば良いのだということは理解できた。
雲雀はしゃがんで、そっとヘビに手を当てる。
(お願い、治って!)
雲雀が強く願った瞬間、彼女の手のひらがポゥッと円を描くように柔らかな光を帯びた。
『え……嘘……』
ヘビの胴にあった傷が一瞬にして小さく薄くなるように消えていく。固まっていた血液も消え去り、真珠のようで銀色のようでもある妖艶な輝きを持つ鱗が姿を現した。
『やはりね』
傷が消えていくのを見て、彼は満足げに笑った。
『わ、わたし……初めて』
『もっと自分に自信を持てば、君はこれからずっと力を使えるよ』
『本当?』
彼はコクリと頷いた。
彼の言う通り自分に自信のない雲雀には、そんな彼の言葉すら半信半疑だ。
(でも……)
眼前で傷の癒えたヘビが自分の方を不思議そうに見上げている。
『よかったね』
雲雀がヘビを撫でようとすると、元気を取り戻したヘビはシュルシュルと地面を滑るかのように鳥籠の外へと消えていった。
『治し甲斐のない奴』
眉を八の字に曲げる彼に、雲雀は首を横に振る。
『いいの。わたしはとっても嬉しいもの。ありがとう』
顔をほころばせて満面の笑みを見せる雲雀に彼は照れ臭そうな顔をした。
『あなたもケガをしているの?』
見れば、少年の指先にも小さな傷があった。
『ここに入る時に、少し……』
(ガラスで切ってしまったのかしら)
『かして』
雲雀は彼の手を取ると、先ほどヘビにしたように(治って)と強く願った。
『すごい! 本当に力が使えるわ!』
手をぎゅっと握ったまま嬉しそうに笑いかける彼女に、彼の頬や耳が微かに赤く染まる。
『お耳、赤い? お熱?』
雲雀は咄嗟に彼の額にコツンと額を合わせた。
『ち、ちがうよ!』
彼は慌てて雲雀から離れた。
その姿を見て、雲雀は今度はくすくすとおかしそうに笑った。
『ヘビさんが助かったのは、こんぺいとーのおかげね。ありがとう』
『君の力だよ』
『……でも、わたし』
『さっきも言ったけど、もっと自信を持って。君の力はそんなものではないはずだから。だって君は――』
続く一言は、また雲雀には理解し難い言葉だった。
『君はこの国で最も強い力を持つ聖女なんだから』
雲雀はキョトンとして言葉を発せない。
『君、風祀の娘だろ?』
彼の質問に、雲雀は間を空ける。
名家である風祀の子女が簡単に身分を明かしてはいけないと、常日頃、母からも乳母からも口酸っぱく言われているからだ。
『風祀の敷地で仕立ての良い着物姿、それにその力。名乗らなくてもわかるよ』
母の言いつけを守りたいのに相手に身分がバレている気まずさで、雲雀の眉が寄り、目が宙を泳ぐ。
その様子を見て、今度は彼がおかしそうに笑った。
『ごめんごめん。困らせたかったわけじゃない』
その優しい表情に、雲雀の胸がキュ……と生まれたばかりの子猫のように鳴いた。
『あなたは誰?』
『僕? 僕は――』
言いかけたところで彼女を探す使用人の声が聞こえた。
『いつも内緒でここに来てるから』
雲雀はバツが悪そうに笑った。
『ねえ、また会えるかしら。こんぺいとーのお返しにお菓子をあげたいわ』
雲雀の言葉に、彼はまた優しく微笑んだ。
『お礼だというのなら、いつか君を迎えに来てもいいかな』
雲雀はまたキョトンとする。
『え? いつか……迎え? よくわからないけれど、いいわ』
その言葉を聞いてまた微笑むと、彼は鳥籠から出て行ってしまった。
▶︎▶︎
(もう随分と朧げだけれど、今にして思えばあの日の胸が高鳴った瞬間が私にとっての初恋だったのだわ)
それ以来、彼が鳥籠に来ることはなかった。
(あの時力が使えたのは幻だったとしか思えない)
結局それから一度も異能を上手く使えず、すっかり自信を失ってしまった雲雀は徐々に家族から虐げられるようになっていった。
それから一年ほどが経ったある日、父が家庭教師として烏頭目を連れてきた。
彼を見た瞬間、雲雀はどこかで会ったような懐かしさを覚えた。
艶やかな黒い髪と優しい笑顔はすぐにあの日の記憶を呼び起こす。
『以前にお会いしたことがありませんか?』
雲雀の問いに、烏頭目は『覚えていてくれたのですか』と嬉しそうに答えた。
『あれからうまく異能が使えなくて』
そう悩みを打ち明けると、烏頭目はあの時とよく似た小瓶を差し出した。
『あの日のように、私が君の力を引き出してあげるよ』
そう言って、彼は微笑んだ。
それからいつもこうして密かに薬を貰っている。
(迎えに来るというのは、今日この日のことを言っていたのかしら)
薬で朦朧とする意識の中で、雲雀は幼い日の思い出に胸を熱くした。
▶︎▶︎
それからの日々は、想像以上に厳しいものであった。
雲雀の部屋は他の女中と同室となり、「お嫁に行くまでの短い間よ」と誰よりも粗末な着物を着せられた。
「こんなもの食べられないわ!」
翡翠は雲雀に朝食を用意させ、味噌汁がぬるいと言って雲雀に投げつけた。
全くぬるいなどという温度ではなく、熱が雲雀を襲う。
そんなことが毎朝、料理の味が悪いだとか具材の切り方が気に食わないだとか、ありとあらゆる理由で繰り返された。
広い屋敷中の廊下を雑巾で拭かせれば「埃が残っている」と罵り、「拭かなければいけないのはあんたのその頭かしら?」と言って、床を拭き終えた雑巾で雲雀の顔を拭った。
「熱すぎる」と、わざと温度を上げた浴槽に顔を沈められる日もあった。
「……っ、やめて! 翡翠! 許して」
熱さと苦しさに朦朧としながら懇願する。
「翡翠様だと、何度言ったらわかるの? 何一つまともにできないあんたが悪いのよ」
雲雀の後頭部を掴む翡翠の手にグッと力が込められ、また浴槽に沈められる。
翡翠の折檻で切り傷や火傷を負っても、しばらくすると異能で治されてしまい、その形跡は残らない。
それでも雲雀の恐怖心や痛みは棘のように記憶に刺さり続ける。
当然烏頭目との勉強にも同席は許されなくなった。
「何かされていないかい?」
薬を受け取るために鳥籠で密会する度、烏頭目は声をかけた。
その度に無言で首を横に振る。
助けを求めたところで証拠が無い上に、烏頭目との婚約を破断にされかねない。
「何もできない君に、私との結婚のために辛い思いをさせてすまない」
薬を飲んだ雲雀を烏頭目が優しく抱きしめる。
「私が無能で何もできないのが悪いんだもの」
(何もできない私自身のせい……)
雲雀は朦朧とする意識の中で、うわごとのように呟いた。
(だけど先生、どうして……)
そんな生活は二週間ほど続いた。
「とうとう明日は鷲爪様との顔合わせだわ」
夕食をとる翡翠は上機嫌だ。
「雲雀、わかっているでしょうね?」
翡翠の後ろ、壁際に立つ雲雀の方を見ずに声をかける。
「はい。〝決して縁談の席には近づかないこと〟。翡翠様のお言い付け通りにいたします」
雲雀のオドオドと怯えた態度をシギ乃はくすくすと笑い、鶴司は苛立ったように顔を顰めた。
この頃にはもう、雲雀は折檻への恐怖心で翡翠の顔色をうかがうことしかできなくなっていた。
それでも穂邑と翡翠の縁談の話が進めば、折を見て自分もこの家から出ていけるのだ。烏頭目と一緒に。

