日本は明治が大正に移ろうかという時代。
この世に鬼や妖魔といった妖が姿を現すことがあった。
東洋の小国聖吏國の人々は、異能と呼ばれる人智を超えた超能力のようなものを使い、妖から国を守ってきた。
また、日々の生活の中でもその力は大いに役立っている。
とくに帝都には、その力で帝の側仕えをする者、側室となる者、また商売に活かして家名を高めようとする一族など力の強い者が数多集っていた。
つねに妖との戦の火種が燻るこの国では、とくに再生や復元にまつわる力が重宝された。これらの力は女性にしか発現しないといわれ、稀に生まれる力の強い者――たとえば傷の治癒ができる者など――は〝聖女〟と呼ばれる。聖女のいる家は帝からも目をかけられたことから、縁談が引く手数多であった。
▶︎▶︎
「いい加減にしてよ!」
豪奢と言うにふさわしい西洋風の屋敷に、若い女性の声が響く。
この風祀家の十七歳になる次女、風祀翡翠の声だ。
風祀もまた、帝都に居を構える商家である。
「また始まった」
戸を隔てた隣の部屋にいる使用人達がヒソヒソと噂話を始める。
「翡翠お嬢様にも困ったものね」
「仕方ないわよ。翡翠様は風祀の大切な〝聖女様〟なんだもの。それに――」
彼女が言いかけたところで、隣の部屋からバシッとどこかに何かがぶつかる音、そしてガシャンッという床に落ちる音が続く。
使用人達は顔を見合わせて「また」「いつもの」という表情を浮かべる。
「この簪は先週も付けたものでしょう? 急いで別の物を用意してちょうだい! 本当に気が利かないんだから!」
天からまっすぐに降りそそぐ光の筋を思わせるような、長い亜麻色の髪の少女が目尻を吊り上げる。彼女が翡翠だ。浅葱色に白やうす紅の大きな牡丹の柄の入った華麗な着物を身に纏っている。
甘く可愛らしいはずの声も、怒りのせいで甲高くなっている。
「ごめんなさい」
翡翠と瓜二つの顔をした少女が申し訳なさそうに頭を下げ、足元に転がった花の飾りのついた簪を拾い上げる。
「この簪、翡翠によく似合ってい――」
翡翠が彼女の手を虫でも落とすかのように叩いて、簪はまた畳の上に転がった。その拍子に、小さな花飾りが一つ取れてしまった。
「あんたの意見なんか聞いていないって、何度言わせるのよ」
翡翠は痛みに手を押さえる相手のことなどお構いなしになじる。
「……ごめんなさい」
「だいたい、〝翡翠〟なんて馴れ馴れしく呼ばないでちょうだい」
「でも、私たちは――っ」
翡翠は少し身体を屈めると、しゃがんだ彼女の長い髪を一束つかんでぐいと引っ張った。
「その忌々しい言葉を口にしたらただじゃおかないわよ。あんたのこの暗闇みたいな黒い髪も、その陰気臭いやつれた顔も、私にはまるで似ていないでしょう?」
そう言った翡翠の瞳からは侮蔑の情が溢れ出している。
「私は宝石のような美しさで愛される翡翠、あんたは喚くことしかできない雲雀。私たちが双子だなんて何かの間違いよ。本当に忌々しいったらないわ!」
そう、黒髪の少女は風祀雲雀。翡翠の双子の姉である。翡翠とは対照的に、柿渋のような色の地味な絣を着ている。
二人は風祀の遠縁の娘で、三つのときに子どものいなかった風祀の家に引き取られた。
「この間の縁談だって、あんたさえいなければまとまっていたはずなのよ。御厨島家とのせっかくのご縁だったっていうのに」
「…………」
「私一人だったらとっくに良家へお嫁に行っていたはずなのに。この家が傾いたらあんたのせいよ! このお荷物!」
風祀は生糸商人から成り上がった豪商であったが、ここのところどうも商売の雲行きが怪しい。そこで、両親は翡翠の縁談をまとめて政略結婚で家を建て直そうと画策している。
とはいえ十六歳から婚姻が可能なこの国では、十七歳での結婚はとりたてて珍しいことではない。実際、結婚できる年齢を迎えた頃の翡翠には縁談の話が多く舞い込んできていた。
「ねえ雲雀」
翡翠から髪を解放された雲雀は、壊れた簪を手に取り片付けようとしていた。
「縁談のお話が随分減っているそうよ」
「え……」
「何故だかわかる?」
翡翠は彼女の持つ簪に手をかざした。
すると手がボゥ……ッと微かに光を帯び、雲雀の手の中の簪がみるみるうちに修復していく。雲雀はただ、虚空を見つめるかのような生気の無い目でそれを見ている。
「聖女である私に、無能の姉がいると知られてしまったからよ」
翡翠がその手の爪を立て雲雀の手にめり込ませる。プツリと切れた皮膚から赤い血が静かに滴る。
「痛……っ! やめて、翡翠!」
「軽々しく呼ぶなと言っているでしょう!」
翡翠の手が、雲雀の頬めがけて振り下ろされようとしたとき。
「烏頭目先生がお見えです」
来客を知らせる使用人の声に、翡翠がハッと我に返る。そしてまた彼女の手が光を帯び、雲雀の傷を即座に消してしまった。
その直後、二人のいる部屋の入り口から背の高い男性が顔を覗かせる。
「こんにちは」
黒く長い髪を一つに結び、落ち着いた紺色の羽織に袴姿をしている。
「いらっしゃい! 先生」
翡翠の声が明るくなり、子犬のように一段甘くなる。
「待っていたのよ。今日は先生の好きな焼き菓子を用意させたの」
「私はあくまでも勉強を教えに来ているんだよ」
眉を下げ優しげな苦笑いを浮かべる彼は二人の家庭教師、烏頭目実晴。歳は二十代の中頃といったところだが、同年代の者よりずっと落ち着いて見える。
「今日は鳥籠でお勉強しましょ!」
翡翠ははしゃぐようにして、部屋を出ていった。そして使用人を呼びつけ、飲み物と菓子を運ぶように命じるのが聞こえた。
〝鳥籠〟とは、この家の庭にあるガラス張りの温室のことだ。先代当主の趣味で熱帯や亜熱帯の稀少な植物が数多く揃えられ、その中央にはお茶ができるようにと白いテーブルセットが用意されている。
背の高い円屋根に八角形の温室は、まるで鳥籠のようだといわれている。
翡翠がいなくなった部屋の中には雲雀と烏頭目の二人だけが残された。
「こんにちは。雲雀」
彼は雲雀に柔らかな笑顔を向ける。
「こ、こんにちは。いらっしゃいませ」
「大丈夫かい? また翡翠に虐められていたんじゃないのか?」
心配そうな烏頭目の言葉に雲雀はぶんぶんと首を横に振った。
「翡翠はそんなことしないわ」
「優しいな、君は」
そう言って、彼の大きな手が雲雀の頬を撫でる。
烏頭目の慈愛に満ちた瞳で見つめられ、彼女の心臓はトクントクンと微かに早鐘を打ち始める。彼は雲雀の頭を撫でると「温室へ行こうか」と穏やかに雲雀を誘った。
それから半刻ほど、烏頭目を挟んだ雲雀と翡翠の三人で異国語などの勉強をした。
「雲雀、ここもここも違っているよ」
「え? いけない、私ったら本当に」
「いいんだよ。わかるまで何度でも教える」
「ごめんなさい、お勉強の時間になるとなぜだか頭に靄がかかったみたいにぼんやりしてしまって」
困ったような雲雀に烏頭目が目を細めると、翡翠の頬が風船のように膨らんだ。
「先生! 私はこんなに正解しているわ! 前よりずっと丸が増えているのよ」
「ああ、そうだね。翡翠はすごいよ。雲雀よりずっと勉強ができるね」
その言葉に翡翠は鼻を高くする。
「私は誰かさんと違って忙しいのにね。物を直してくれだとか病気を治してくれだなんて人が毎日のように訪ねてくるんだもの」
「翡翠、雲雀が無能なのは雲雀のせいではないだろう? 聖女である君の能力がすごいんだ。雲雀が無能で何もできないのは彼女のせいではない」
「でもぉ異能を期待されて引き取られたっていうのに何もできないのよ。聖女の役目を全部私に押し付けているんだから。私そういうの、何て言うかしっているわ。穀潰しっていうのよね」
「翡翠!」
あまりの言葉に、烏頭目の語気が強くなる。
「いいの! 先生」
「雲雀」
「本当のことだもの……」
雲雀は俯き、声は掠れてしまったが、涙だけは必死に堪えている。
その様子を見た翡翠は嬉しそうに口角を上げた。
「お父様にお願いして、先生を私だけの先生にしてもらおうかしら」
翡翠の言葉に、雲雀は驚いたように顔を上げた。
「そんな……っ」
「あら、口ごたえする気?」
「だって!」
雲雀は珍しく食い下がろうとしている。
「私は君たち二人を見る約束だ」
「あら、お父様に頼めばきっと聞いて下さるわ」
(そんな、先生に会えなくなってしまったら、私……)
雲雀の心臓が、先ほどとは全く別の不安げな脈を打つ。
ちょうどそのときだった。
「翡翠! 翡翠はいるか」
母屋の方から、威厳を感じさせる中年男性の声が聞こえた。
「あら、噂をすればお父様だわ」
翡翠は雲雀を見てニヤリと笑った。雲雀の心臓がまたキュッと縮む。
「お父様! 私はここよ」
その声に二人の養父である鶴司が温室へ顔を出す。
「おお、烏頭目君も来ていたのか。ちょうどいい、君も一緒にこちらへ来なさい」
そう言うと、鶴司は雲雀を苦々しい顔で一瞥した。
「お前も来なさい」
三人が呼ばれたのは、楢の一枚板でできた大きな座卓のある和室であった。
「新しい縁談?」
「そうだ」
翡翠の質問に、鶴司が厳粛な表情で頷いた。隣には妻のシギ乃も座している。
三人は奥から翡翠、雲雀、烏頭目の順に座った。
「お相手は? どこのお家の方なの? いつかみたいな二流のお家は嫌よ。御厨島くらいのお家でなくちゃ」
翡翠が矢継ぎ早に言う。
「ああ、大丈夫だ。これ以上ないくらいの家柄の方だ」
鶴司の言葉に、シギ乃の目がニンマリと弓を描く。
「まあ! どなたなの?」
翡翠の声がわかりやすく跳ねる。
「穂邑家の、穂邑鷲爪殿だ」
「まあ! まあ! 穂邑鷲爪様ですって!? あの穂邑家の!?」
翡翠は信じられないとばかりに紅潮する頬を両手で押さえた。
「穂邑……」
烏頭目がポツリと呟いた。
「先生もご存知なのですか?」
キョトンとした顔で隣の烏頭目に尋ねたのは雲雀だ。
「ああ、穂邑家というのは――」
「そんなことも知らないの?」
翡翠が嘲笑うような声で烏頭目の言葉に被せる。
「穂邑家と羽生院家といえば帝都の二大名家と名高いお家じゃない。強い異能を持つ方も多くて帝室との結びつきも強いのよ。雲雀って無能なだけじゃなくて無知なのね」
翡翠が馬鹿にしたようにクスリと笑うと、シギ乃も袖を口元に当てて吹き出し、鶴司はまた苛立ちの見える渋い顔をした。それを見て、雲雀はしゅんと小さく肩をすぼめる。
「まあ仕方ないわよね、無能の雲雀には縁のない方々なのだもの」
「ああ。穂邑殿も『風祀の最強の聖女をぜひ我が妻に』と申し出て下さっている」
「最強だなんて、うふふ。お噂では鷲爪様って眉目秀麗な美男子なのよね」
「ん? あ、ああ……」
鶴司はなぜか口籠った様子を見せたが、翡翠はあまり気にしていないようだった。
「穂邑は〝破壊〟を司り、羽生院は〝再生〟を司る」
烏頭目が呟くと、鶴司は眉をひそめて彼の顔を見た。
「そう言われていますよね。穂邑は戦場で破壊の限りを尽くし、この国に破滅をもたらすのではないかともっぱらの噂だ。そのような家にお嬢さんを嫁がせるのですか?」
「お父様、どういうこと?」
鶴司はオホンッと気まずそうに咳払いをした。
「穂邑が軍需産業で、羽生院が医術で財を成していることがどこかで捻れてそのような流言になっているだけだ。穂邑が陽、羽生院が陰の気を持つという話もある」
「そうですか」
烏頭目がそれ以上深く追求することはなかった。
「なんでもいいわ。だって私は聖女ですもの。彼が破壊したものだって私が直してしまえばいいんだわ」
財閥と言えるほどの家柄の相手との縁談に、翡翠は明らかに浮き足立っている。もう嫁に行った気分のようだ。
「だけどお父様、私不安だわ」
翡翠は上目遣いに鶴司を見て、それから隣の雲雀に一瞬チラリと視線を送った。
「親族に無能の者がいると知られたら、また破断になってしまうんじゃないかしら」
(親族……)
血を分けた双子の姉妹だというのに、わざとそんな遠回しな言い方をされた雲雀の胸は軋むように締め付けられた。
「そのことなんだがな」
鶴司はまた小さく咳払いをした。
「烏頭目君に雲雀を引き取ってもらおうと思う」
雲雀と翡翠は驚きで同時に目を見開いた。
「先生が、私を引き取る……?」
雲雀は不安げに烏頭目の顔を見上げた。それに気づいた烏頭目が雲雀に微笑みかける。
「私と君が結婚するということだよ」
(え……?)
「どういうこと!?」
思考の追いつかない雲雀よりも先に、翡翠が不快そうな声を上げた。
「先生にうちの負債を押し付けようというの!?」
そう言った翡翠の声に自分への蔑みだけでなく嫉妬の感情があることが雲雀には手に取るようにわかった。
烏頭目は二人が八つの頃から家庭教師としてこの家に出入りしている。切れ長の目、高い身長などの美麗な容姿に加え、穏やかで落ち着いた人柄は幼い娘たちが恋焦がれるのも自然なことであった。
「以前からずっと、私の方から鶴司さんに申し出ていたんだ」
烏頭目の言葉に鶴司が頷く。
「無能で何もできない雲雀はこの先もきっと苦労するだろうし、翡翠の婚姻の障害にもなるだろうから、それなら私が引き取るのが良いだろうと思ってね」
(先生は能の無い私に気を遣ってくださったんだわ)
「だからって……っ」
鶴司はオホンッと一際大きな咳払いをした。
「とにかく、翡翠にはなんとしてでも穂邑殿との縁談をまとめてもらいたい。その為に、雲雀は一刻も早く烏頭目君の家へ嫁がせる」
この国の者は、強い弱いの差はあれど皆異能を持っている。無能の者は数百万、あるいは数千万に一人ほどしか生まれず〝忌み血の者〟と呼ばれている。
遠縁ならまだしも、雲雀と翡翠は双子の姉妹だ。
〝最強の聖女〟を望む穂邑に、忌み血の生まれる家系であることが知られてしまえば即座に破談になりかねない。これまでの縁談も破談の理由はそれだった。
(私を先生に嫁がせて、翡翠に姉妹などいないということにしたいのね)
「いいかい? 雲雀」
「え、えっと……」
「でしたら! 今日から雲雀はこの家の者ではないということよね」
不機嫌さを帯びた翡翠の声が響く。
「この家を出ていくまではただの庶民の居候ということよ」
烏頭目がこの家に出入りして長いとはいえ、家柄の格は穂邑どころか風祀にもまるで及ばない。翡翠の言う通り、庶民の家柄だ。
「この家にいる間は住み込みの女中たちと同じように働いてもらいたいわ」
「そんな……!」
今でさえ雲雀は翡翠の身の回りの世話をさせられては失敗してなじられ、罰を受けている。使用人と同じ扱いになればどうなるか、想像しただけで身震いがする。
「翡翠、君という人は――」
「あら、いいじゃありませんか」
口を開いたのはシギ乃だった。
「花嫁修行にもなりますわよ。烏頭目の家では炊事も洗濯も雲雀さんの仕事になるでしょうし。それに」
シギ乃の口元は笑っているが、その目は刺すように冷たい。
「今までタダで面倒を見て差し上げたんですもの。少しくらいは働いて返していただかなくっちゃ」
絶望の中で幕を下ろした話し合いの後、雲雀は烏頭目に鳥籠へと呼び出されていた。
「すまなかったね、何も言っていなくて」
謝る烏頭目に、雲雀は無言で首を振る。
「私、嬉しいです。先生のところへにお嫁にいけるなんて」
これからしばらくのことを考えると憂鬱になるが、幼少より憧れていた烏頭目と一緒になってこの家を出ていけると思えば、将来への気持ちは明るい。
「では、私と結婚してくれるということかな」
「はい」
雲雀がはにかむと、烏頭目も口角を上げた。
「これで契約は成立だ」
烏頭目は小さな声で呟いた。
「雲雀、いつものだよ」
烏頭目が五センチほどのガラス瓶を取り出した。中には小さな丸い粒が二つ入っている。
「ありがとうございます。だけどごめんなさい、いつも期待に応えられなくて」
「効果を期待するのはゆっくりでいい。いいから早く飲みなさい」
それは烏頭目が用意した薬だった。
――『これは無能の者の能力を開花させると言われる薬だよ』
この家に烏頭目が来て雲雀が無能だと知ったその時から、彼はこの家を訪問する度に薬を用意してくれている。
(私のために、ここまでしてくださるのに……私はいつまで経っても)
そんなことを考えながら、雲雀は薬を口に含んだ。
(身体はこんなに熱くなるというのに……)
その薬を飲むと、いつも身体が熱を持って一瞬意識が朦朧とする。異能を高めようと、身体が反応しているのだと烏頭目は言った。
「あ……」
雲雀がふらりと倒れそうになるといつも烏頭目が抱きとめる。
「いいんだよ雲雀、君は何もできない無能のままでも。何の能も持たなくとも私だけは君の味方だ」
そして耳元で優しい言葉を囁くのもいつものことだ。
(……そうよ。私って本当に無能で何もできないんだわ……だけど先生は……先生だけはそんな私を受け入れてくれる)
「何の力も持たない、弱くてダメな君を離さないと誓うよ。誰にも渡さないと」
雲雀はそっと目を閉じる。
(先生はずっと……きっとあの日から私を助けてくださっているもの)
そして、烏頭目の胸の中で遠い記憶を呼び覚ましていた。
この世に鬼や妖魔といった妖が姿を現すことがあった。
東洋の小国聖吏國の人々は、異能と呼ばれる人智を超えた超能力のようなものを使い、妖から国を守ってきた。
また、日々の生活の中でもその力は大いに役立っている。
とくに帝都には、その力で帝の側仕えをする者、側室となる者、また商売に活かして家名を高めようとする一族など力の強い者が数多集っていた。
つねに妖との戦の火種が燻るこの国では、とくに再生や復元にまつわる力が重宝された。これらの力は女性にしか発現しないといわれ、稀に生まれる力の強い者――たとえば傷の治癒ができる者など――は〝聖女〟と呼ばれる。聖女のいる家は帝からも目をかけられたことから、縁談が引く手数多であった。
▶︎▶︎
「いい加減にしてよ!」
豪奢と言うにふさわしい西洋風の屋敷に、若い女性の声が響く。
この風祀家の十七歳になる次女、風祀翡翠の声だ。
風祀もまた、帝都に居を構える商家である。
「また始まった」
戸を隔てた隣の部屋にいる使用人達がヒソヒソと噂話を始める。
「翡翠お嬢様にも困ったものね」
「仕方ないわよ。翡翠様は風祀の大切な〝聖女様〟なんだもの。それに――」
彼女が言いかけたところで、隣の部屋からバシッとどこかに何かがぶつかる音、そしてガシャンッという床に落ちる音が続く。
使用人達は顔を見合わせて「また」「いつもの」という表情を浮かべる。
「この簪は先週も付けたものでしょう? 急いで別の物を用意してちょうだい! 本当に気が利かないんだから!」
天からまっすぐに降りそそぐ光の筋を思わせるような、長い亜麻色の髪の少女が目尻を吊り上げる。彼女が翡翠だ。浅葱色に白やうす紅の大きな牡丹の柄の入った華麗な着物を身に纏っている。
甘く可愛らしいはずの声も、怒りのせいで甲高くなっている。
「ごめんなさい」
翡翠と瓜二つの顔をした少女が申し訳なさそうに頭を下げ、足元に転がった花の飾りのついた簪を拾い上げる。
「この簪、翡翠によく似合ってい――」
翡翠が彼女の手を虫でも落とすかのように叩いて、簪はまた畳の上に転がった。その拍子に、小さな花飾りが一つ取れてしまった。
「あんたの意見なんか聞いていないって、何度言わせるのよ」
翡翠は痛みに手を押さえる相手のことなどお構いなしになじる。
「……ごめんなさい」
「だいたい、〝翡翠〟なんて馴れ馴れしく呼ばないでちょうだい」
「でも、私たちは――っ」
翡翠は少し身体を屈めると、しゃがんだ彼女の長い髪を一束つかんでぐいと引っ張った。
「その忌々しい言葉を口にしたらただじゃおかないわよ。あんたのこの暗闇みたいな黒い髪も、その陰気臭いやつれた顔も、私にはまるで似ていないでしょう?」
そう言った翡翠の瞳からは侮蔑の情が溢れ出している。
「私は宝石のような美しさで愛される翡翠、あんたは喚くことしかできない雲雀。私たちが双子だなんて何かの間違いよ。本当に忌々しいったらないわ!」
そう、黒髪の少女は風祀雲雀。翡翠の双子の姉である。翡翠とは対照的に、柿渋のような色の地味な絣を着ている。
二人は風祀の遠縁の娘で、三つのときに子どものいなかった風祀の家に引き取られた。
「この間の縁談だって、あんたさえいなければまとまっていたはずなのよ。御厨島家とのせっかくのご縁だったっていうのに」
「…………」
「私一人だったらとっくに良家へお嫁に行っていたはずなのに。この家が傾いたらあんたのせいよ! このお荷物!」
風祀は生糸商人から成り上がった豪商であったが、ここのところどうも商売の雲行きが怪しい。そこで、両親は翡翠の縁談をまとめて政略結婚で家を建て直そうと画策している。
とはいえ十六歳から婚姻が可能なこの国では、十七歳での結婚はとりたてて珍しいことではない。実際、結婚できる年齢を迎えた頃の翡翠には縁談の話が多く舞い込んできていた。
「ねえ雲雀」
翡翠から髪を解放された雲雀は、壊れた簪を手に取り片付けようとしていた。
「縁談のお話が随分減っているそうよ」
「え……」
「何故だかわかる?」
翡翠は彼女の持つ簪に手をかざした。
すると手がボゥ……ッと微かに光を帯び、雲雀の手の中の簪がみるみるうちに修復していく。雲雀はただ、虚空を見つめるかのような生気の無い目でそれを見ている。
「聖女である私に、無能の姉がいると知られてしまったからよ」
翡翠がその手の爪を立て雲雀の手にめり込ませる。プツリと切れた皮膚から赤い血が静かに滴る。
「痛……っ! やめて、翡翠!」
「軽々しく呼ぶなと言っているでしょう!」
翡翠の手が、雲雀の頬めがけて振り下ろされようとしたとき。
「烏頭目先生がお見えです」
来客を知らせる使用人の声に、翡翠がハッと我に返る。そしてまた彼女の手が光を帯び、雲雀の傷を即座に消してしまった。
その直後、二人のいる部屋の入り口から背の高い男性が顔を覗かせる。
「こんにちは」
黒く長い髪を一つに結び、落ち着いた紺色の羽織に袴姿をしている。
「いらっしゃい! 先生」
翡翠の声が明るくなり、子犬のように一段甘くなる。
「待っていたのよ。今日は先生の好きな焼き菓子を用意させたの」
「私はあくまでも勉強を教えに来ているんだよ」
眉を下げ優しげな苦笑いを浮かべる彼は二人の家庭教師、烏頭目実晴。歳は二十代の中頃といったところだが、同年代の者よりずっと落ち着いて見える。
「今日は鳥籠でお勉強しましょ!」
翡翠ははしゃぐようにして、部屋を出ていった。そして使用人を呼びつけ、飲み物と菓子を運ぶように命じるのが聞こえた。
〝鳥籠〟とは、この家の庭にあるガラス張りの温室のことだ。先代当主の趣味で熱帯や亜熱帯の稀少な植物が数多く揃えられ、その中央にはお茶ができるようにと白いテーブルセットが用意されている。
背の高い円屋根に八角形の温室は、まるで鳥籠のようだといわれている。
翡翠がいなくなった部屋の中には雲雀と烏頭目の二人だけが残された。
「こんにちは。雲雀」
彼は雲雀に柔らかな笑顔を向ける。
「こ、こんにちは。いらっしゃいませ」
「大丈夫かい? また翡翠に虐められていたんじゃないのか?」
心配そうな烏頭目の言葉に雲雀はぶんぶんと首を横に振った。
「翡翠はそんなことしないわ」
「優しいな、君は」
そう言って、彼の大きな手が雲雀の頬を撫でる。
烏頭目の慈愛に満ちた瞳で見つめられ、彼女の心臓はトクントクンと微かに早鐘を打ち始める。彼は雲雀の頭を撫でると「温室へ行こうか」と穏やかに雲雀を誘った。
それから半刻ほど、烏頭目を挟んだ雲雀と翡翠の三人で異国語などの勉強をした。
「雲雀、ここもここも違っているよ」
「え? いけない、私ったら本当に」
「いいんだよ。わかるまで何度でも教える」
「ごめんなさい、お勉強の時間になるとなぜだか頭に靄がかかったみたいにぼんやりしてしまって」
困ったような雲雀に烏頭目が目を細めると、翡翠の頬が風船のように膨らんだ。
「先生! 私はこんなに正解しているわ! 前よりずっと丸が増えているのよ」
「ああ、そうだね。翡翠はすごいよ。雲雀よりずっと勉強ができるね」
その言葉に翡翠は鼻を高くする。
「私は誰かさんと違って忙しいのにね。物を直してくれだとか病気を治してくれだなんて人が毎日のように訪ねてくるんだもの」
「翡翠、雲雀が無能なのは雲雀のせいではないだろう? 聖女である君の能力がすごいんだ。雲雀が無能で何もできないのは彼女のせいではない」
「でもぉ異能を期待されて引き取られたっていうのに何もできないのよ。聖女の役目を全部私に押し付けているんだから。私そういうの、何て言うかしっているわ。穀潰しっていうのよね」
「翡翠!」
あまりの言葉に、烏頭目の語気が強くなる。
「いいの! 先生」
「雲雀」
「本当のことだもの……」
雲雀は俯き、声は掠れてしまったが、涙だけは必死に堪えている。
その様子を見た翡翠は嬉しそうに口角を上げた。
「お父様にお願いして、先生を私だけの先生にしてもらおうかしら」
翡翠の言葉に、雲雀は驚いたように顔を上げた。
「そんな……っ」
「あら、口ごたえする気?」
「だって!」
雲雀は珍しく食い下がろうとしている。
「私は君たち二人を見る約束だ」
「あら、お父様に頼めばきっと聞いて下さるわ」
(そんな、先生に会えなくなってしまったら、私……)
雲雀の心臓が、先ほどとは全く別の不安げな脈を打つ。
ちょうどそのときだった。
「翡翠! 翡翠はいるか」
母屋の方から、威厳を感じさせる中年男性の声が聞こえた。
「あら、噂をすればお父様だわ」
翡翠は雲雀を見てニヤリと笑った。雲雀の心臓がまたキュッと縮む。
「お父様! 私はここよ」
その声に二人の養父である鶴司が温室へ顔を出す。
「おお、烏頭目君も来ていたのか。ちょうどいい、君も一緒にこちらへ来なさい」
そう言うと、鶴司は雲雀を苦々しい顔で一瞥した。
「お前も来なさい」
三人が呼ばれたのは、楢の一枚板でできた大きな座卓のある和室であった。
「新しい縁談?」
「そうだ」
翡翠の質問に、鶴司が厳粛な表情で頷いた。隣には妻のシギ乃も座している。
三人は奥から翡翠、雲雀、烏頭目の順に座った。
「お相手は? どこのお家の方なの? いつかみたいな二流のお家は嫌よ。御厨島くらいのお家でなくちゃ」
翡翠が矢継ぎ早に言う。
「ああ、大丈夫だ。これ以上ないくらいの家柄の方だ」
鶴司の言葉に、シギ乃の目がニンマリと弓を描く。
「まあ! どなたなの?」
翡翠の声がわかりやすく跳ねる。
「穂邑家の、穂邑鷲爪殿だ」
「まあ! まあ! 穂邑鷲爪様ですって!? あの穂邑家の!?」
翡翠は信じられないとばかりに紅潮する頬を両手で押さえた。
「穂邑……」
烏頭目がポツリと呟いた。
「先生もご存知なのですか?」
キョトンとした顔で隣の烏頭目に尋ねたのは雲雀だ。
「ああ、穂邑家というのは――」
「そんなことも知らないの?」
翡翠が嘲笑うような声で烏頭目の言葉に被せる。
「穂邑家と羽生院家といえば帝都の二大名家と名高いお家じゃない。強い異能を持つ方も多くて帝室との結びつきも強いのよ。雲雀って無能なだけじゃなくて無知なのね」
翡翠が馬鹿にしたようにクスリと笑うと、シギ乃も袖を口元に当てて吹き出し、鶴司はまた苛立ちの見える渋い顔をした。それを見て、雲雀はしゅんと小さく肩をすぼめる。
「まあ仕方ないわよね、無能の雲雀には縁のない方々なのだもの」
「ああ。穂邑殿も『風祀の最強の聖女をぜひ我が妻に』と申し出て下さっている」
「最強だなんて、うふふ。お噂では鷲爪様って眉目秀麗な美男子なのよね」
「ん? あ、ああ……」
鶴司はなぜか口籠った様子を見せたが、翡翠はあまり気にしていないようだった。
「穂邑は〝破壊〟を司り、羽生院は〝再生〟を司る」
烏頭目が呟くと、鶴司は眉をひそめて彼の顔を見た。
「そう言われていますよね。穂邑は戦場で破壊の限りを尽くし、この国に破滅をもたらすのではないかともっぱらの噂だ。そのような家にお嬢さんを嫁がせるのですか?」
「お父様、どういうこと?」
鶴司はオホンッと気まずそうに咳払いをした。
「穂邑が軍需産業で、羽生院が医術で財を成していることがどこかで捻れてそのような流言になっているだけだ。穂邑が陽、羽生院が陰の気を持つという話もある」
「そうですか」
烏頭目がそれ以上深く追求することはなかった。
「なんでもいいわ。だって私は聖女ですもの。彼が破壊したものだって私が直してしまえばいいんだわ」
財閥と言えるほどの家柄の相手との縁談に、翡翠は明らかに浮き足立っている。もう嫁に行った気分のようだ。
「だけどお父様、私不安だわ」
翡翠は上目遣いに鶴司を見て、それから隣の雲雀に一瞬チラリと視線を送った。
「親族に無能の者がいると知られたら、また破断になってしまうんじゃないかしら」
(親族……)
血を分けた双子の姉妹だというのに、わざとそんな遠回しな言い方をされた雲雀の胸は軋むように締め付けられた。
「そのことなんだがな」
鶴司はまた小さく咳払いをした。
「烏頭目君に雲雀を引き取ってもらおうと思う」
雲雀と翡翠は驚きで同時に目を見開いた。
「先生が、私を引き取る……?」
雲雀は不安げに烏頭目の顔を見上げた。それに気づいた烏頭目が雲雀に微笑みかける。
「私と君が結婚するということだよ」
(え……?)
「どういうこと!?」
思考の追いつかない雲雀よりも先に、翡翠が不快そうな声を上げた。
「先生にうちの負債を押し付けようというの!?」
そう言った翡翠の声に自分への蔑みだけでなく嫉妬の感情があることが雲雀には手に取るようにわかった。
烏頭目は二人が八つの頃から家庭教師としてこの家に出入りしている。切れ長の目、高い身長などの美麗な容姿に加え、穏やかで落ち着いた人柄は幼い娘たちが恋焦がれるのも自然なことであった。
「以前からずっと、私の方から鶴司さんに申し出ていたんだ」
烏頭目の言葉に鶴司が頷く。
「無能で何もできない雲雀はこの先もきっと苦労するだろうし、翡翠の婚姻の障害にもなるだろうから、それなら私が引き取るのが良いだろうと思ってね」
(先生は能の無い私に気を遣ってくださったんだわ)
「だからって……っ」
鶴司はオホンッと一際大きな咳払いをした。
「とにかく、翡翠にはなんとしてでも穂邑殿との縁談をまとめてもらいたい。その為に、雲雀は一刻も早く烏頭目君の家へ嫁がせる」
この国の者は、強い弱いの差はあれど皆異能を持っている。無能の者は数百万、あるいは数千万に一人ほどしか生まれず〝忌み血の者〟と呼ばれている。
遠縁ならまだしも、雲雀と翡翠は双子の姉妹だ。
〝最強の聖女〟を望む穂邑に、忌み血の生まれる家系であることが知られてしまえば即座に破談になりかねない。これまでの縁談も破談の理由はそれだった。
(私を先生に嫁がせて、翡翠に姉妹などいないということにしたいのね)
「いいかい? 雲雀」
「え、えっと……」
「でしたら! 今日から雲雀はこの家の者ではないということよね」
不機嫌さを帯びた翡翠の声が響く。
「この家を出ていくまではただの庶民の居候ということよ」
烏頭目がこの家に出入りして長いとはいえ、家柄の格は穂邑どころか風祀にもまるで及ばない。翡翠の言う通り、庶民の家柄だ。
「この家にいる間は住み込みの女中たちと同じように働いてもらいたいわ」
「そんな……!」
今でさえ雲雀は翡翠の身の回りの世話をさせられては失敗してなじられ、罰を受けている。使用人と同じ扱いになればどうなるか、想像しただけで身震いがする。
「翡翠、君という人は――」
「あら、いいじゃありませんか」
口を開いたのはシギ乃だった。
「花嫁修行にもなりますわよ。烏頭目の家では炊事も洗濯も雲雀さんの仕事になるでしょうし。それに」
シギ乃の口元は笑っているが、その目は刺すように冷たい。
「今までタダで面倒を見て差し上げたんですもの。少しくらいは働いて返していただかなくっちゃ」
絶望の中で幕を下ろした話し合いの後、雲雀は烏頭目に鳥籠へと呼び出されていた。
「すまなかったね、何も言っていなくて」
謝る烏頭目に、雲雀は無言で首を振る。
「私、嬉しいです。先生のところへにお嫁にいけるなんて」
これからしばらくのことを考えると憂鬱になるが、幼少より憧れていた烏頭目と一緒になってこの家を出ていけると思えば、将来への気持ちは明るい。
「では、私と結婚してくれるということかな」
「はい」
雲雀がはにかむと、烏頭目も口角を上げた。
「これで契約は成立だ」
烏頭目は小さな声で呟いた。
「雲雀、いつものだよ」
烏頭目が五センチほどのガラス瓶を取り出した。中には小さな丸い粒が二つ入っている。
「ありがとうございます。だけどごめんなさい、いつも期待に応えられなくて」
「効果を期待するのはゆっくりでいい。いいから早く飲みなさい」
それは烏頭目が用意した薬だった。
――『これは無能の者の能力を開花させると言われる薬だよ』
この家に烏頭目が来て雲雀が無能だと知ったその時から、彼はこの家を訪問する度に薬を用意してくれている。
(私のために、ここまでしてくださるのに……私はいつまで経っても)
そんなことを考えながら、雲雀は薬を口に含んだ。
(身体はこんなに熱くなるというのに……)
その薬を飲むと、いつも身体が熱を持って一瞬意識が朦朧とする。異能を高めようと、身体が反応しているのだと烏頭目は言った。
「あ……」
雲雀がふらりと倒れそうになるといつも烏頭目が抱きとめる。
「いいんだよ雲雀、君は何もできない無能のままでも。何の能も持たなくとも私だけは君の味方だ」
そして耳元で優しい言葉を囁くのもいつものことだ。
(……そうよ。私って本当に無能で何もできないんだわ……だけど先生は……先生だけはそんな私を受け入れてくれる)
「何の力も持たない、弱くてダメな君を離さないと誓うよ。誰にも渡さないと」
雲雀はそっと目を閉じる。
(先生はずっと……きっとあの日から私を助けてくださっているもの)
そして、烏頭目の胸の中で遠い記憶を呼び覚ましていた。

