「もう九月なのに何でこんな暑いの〜」
「一限目から体育とか本当ふざけてるよね」
「絶対無理、倒れるってマジで。」
「そういえば、数学の課題やった?」
「…やってない、詰んだ。」
夏休みが終わって二学期に入ったというのに、未だ鎮まらない熱を持った容赦の無い日差しがギラギラと照り付ける。そんな中、登校してきた生徒たちは気怠げな表情しながら、暑さから逃げるように校内へと入っていった。
それを横目にしながら額に滲んだ汗を拭って、目の前の花壇に片手に持ったジョウロを傾ける。この暑い中、枯れることなく咲き誇った花々の上にキラキラと輝く雫がシャワーのように降り注いだ。
「お小夜〜、最近ノリ悪くない?」
「また変顔やってよ!今度はもっとバズらせてあげるから〜!」
「えー!絶対やだよ!」
聞き覚えのある声に顔を上げれば、案の定クラスメイトの村上と橋本がキャッキャッと騒ぎながら相川を誂っている。「はーい、変顔撮るからコッチ向いて!」とスマホを構える村上に、思いっきり顔を背けた相川は「やらない!やらないから!」と控えめに手を振って抗議していた。
傍から見れば、その光景は女子高校生が友達同士で戯れているようにしか見えない。けれど、きっと相川はこの狭い学校という世界で、イジられキャラという道化を演じながら、必死に地獄のような日々を生き抜こうとしているのだろう。
相川に煙草を吸った写真をSNSに載せられて、私が煙草を吸っていたことが学校中に知れ渡った。二週間の謹慎処分になった私は家に引き篭もり、そのまま夏休みに突入した。
サキさんと会ったことをきっかけに、少しずつ日常生活を送れるようになった私は、布団の膜の中から出て長い休みの間に父や母とほんの一言、二言だが会話をするようになった。偶に無性に煩わしくなって、また布団の膜の中に籠もることもあるけれど、以前よりも家が息苦しい場所ではなくなった気がする。
ずっと行けていなかった塾は、これをきっかけに辞めた。元々やりたいと思っていなかったし、今は勉強をやる気にはとてもなれなかった。それだけでなく、私は榊大を受験することを完全に辞めたのだ。
煙草の件が大きな理由としてあるけれど、父に義務付けられたレールが意味を成さなくなったからだ。初めて両親に歯向かった日から、父は私に成績や勉強のことについては何も言わなくなった。
高校生三年生の二学期に入ったというのに、真っ白になってしまった私の進路について今だに誰も触れて来ない。榊大の件も父は「そうか」の一言で終わり、担任の萩原も「何かあったら相談してほしい。」としか言わなかった。
正直、何だこんなものかと虚しくなった。私が必死にやってきたことは一体何だったのだろうと、やり場のない怒りが湧いてくる。見放されているのか、また布団の膜に籠もって日常生活を送れなくなったら困ると思われているのか分からないけど、やっぱり大人は勝手だ。
やりきれない気持ちになったのはこれだけじゃない。二週間の謹慎と夏休みが終わって、煙草が皆にバレた時以来初めて登校した時のことだ。どんな言葉をぶつけられるかと恐怖で足が竦みそうになりながら覚悟を決めて教室に入れば、やはりクラスメイトたちは冷たい視線を向けてヒソヒソと話し始めた。
「お前、そんなとこ突っ立ってんなよ。邪魔。」
そんな時、教室の入り口で足を止めてしまった私の背中を物理的に押して、堂々とやって来た佐々野に教室内の空気が変わった。謹慎が終わってからも学校に来なかった佐々野だが、サキさんに高校生だとバレてからはちゃんと学校に通うようになったらしい。
相変わらず、スクールカースト上位集団に所属して以前と変わらない振る舞いをしている佐々野とは、サキさんを通して夏休みの期間も何度か会うことがあった。それ故か、私に対しての対応が以前よりも随分遠慮が無いものになっている。
そんな彼が私に声を掛けたことにより、煙草を吸った犯人だと異質なものを見るクラスメイトの空気が一瞬にして困惑の雰囲気に変わったのだ。そして、佐々野は何事も無かったかのように「やべ、物理の課題やってねぇわ。写させてくれね?」と近くに居た武田に話し掛けている。
武田は私と佐々野を見比べて、少し戸惑ったような表情をしながらも「またかよ〜」と佐々野に数学のノートを渡していた。彼らを筆頭に、教室はいつものような空気感に戻っていく。煙草の罪を擦り付けた佐々野に、まさか助けられる日が来るなんて思わなかった。
そして、二週間程経つと皆の注目は完全に私から逸れて、誰も私を見なくなった。私の存在に慣れたというよりも、単純に興味が無くなったのだ。人の噂も七十五日というが、まさかの二週間で終わるとは余程私はつまらない人間なのだろう。それはそれで助かったけど複雑だ。
噛んで味の無くなったガムは直ぐに吐き捨てるように、人間なんてこんなものなのかもしれない。そう思うと、やっぱりやりきれないような気持ちになった。これまでの事を思い返しながら、無意識に溜息を吐く。
目の前の花壇に水をやっていたジョウロが空になり、ポタポタとジョウロの先から雫が溢れる。それを美しく咲いた花弁が受け止めて、キラキラと輝いていた。
その様子を眺めつつ、花壇の側にしゃがみ込む。そこは以前、蛹を見つけた花が咲いていた場所だ。あの時のように花の葉の裏をそっと覗いてみれば、そこに蛹の存在は無かった。中身が腐っているかのように濁った色をした蛹が消えていたのだ。
あの蛹は、まだ死んでいなかったのか。
その可能性に、一筋の光が胸の奥まで差し込んだような心地になった。私が勝手に死んだと決め付けていた蛹は、もしかしたら生きていたのかもしれない。
煙草を吸ったことが皆にバレて、真面目な優等生『榎本恵』が死んだ日。クラスメイトや教師たち、両親の私への評価は地に落ちただろう。
誰にも合わせる顔を持たない私は、布団の膜の中に逃げ込んで必死に世界を拒絶した。他人と関わらず自分を偽らなくても済むように、蛹のようになりたいと思っていた私にとって、ずっと布団の膜の中に籠もって居られる状況は望んでいたものだった。
それなのに、頭の中の嫌な記憶や悪い妄想、見えない未来は何処までも私を追いかけて来た。その時に気付いたのだ。世界を拒絶して布団の膜の中に逃げ込んでも、自分自身からは逃れることが出来ないのだと。私が私である限りずっと、解決出来ない問題が追いかけて来るのだと。
そして今、葉の裏に居なくなった蛹を見て思ったことがある。
あの蛹も、蛹のように布団の膜の中に籠もって色々な感情に振り回されながらぐちゃぐちゃになっていた私も。自分自身を膜で覆って世界を遮断した私たちは、自分の中にある様々な感情と向き合って、どう生きるのか必死に答えを出そうとしていたのではないかと。
そうだとすれば、いつかサキさんが言ったように、あの苦しい時間にも意味があったのだと思えた。
「…恵、」
そんな事を考えていれば、小さな声で名前を呼ばれた。気の所為じゃないかと思う程に、小さくか細い声に恐る恐る顔を上げれば、真帆と香苗が居た。
私と彼女たちは煙草を吸ったことがバレてから、今まで一度も話をすることが無かった。というのも、私が彼女たちとどう接すれば良いのか分からず、関わることを避けてしまっていたのだ。これまで、勉強ばかりでまともな友達関係を築けたことが無い私は、彼女たちのことをクラスに居る時だけの上辺だけの関わりだと無意識に思っていた。
そう思っていたのに、こんなことが起こって私は彼女たちからの反応が凄く怖くも思うのだ。何故だか分からないけれど、出来れば顔を合わせることなく去ってしまいたいような心境になる。
落ち着きなく視線を彷徨わせていれば、香苗が少し緊張したような声で言った。
「そろそろ、朝のチャイムが鳴るから教室戻った方が
いいよ。」
香苗の言葉にハッとして、校舎の壁に掛かった時計を確認すれば、それなりの時間が経っていて驚く。ジョウロを片手に立ち上がった私に、真帆が不安そうに眉を下げながらもキュッと口角を上げる。
「一緒に、教室行かない?」
その言葉に驚いて私は固まった。まさか、そんな。私が受け入れられなかったのに、彼女たちはそんな私を受け入れてくれるのかと心が震えた。黙ったまま何も言えずに居る私を不安そうに見つめる二人に、私はようやく「…うん、ありがとう。」と伝えることが出来た。
不意に遠くから聞こえてきたチャイムに、私たちは顔を見合わせる。少しだけ微笑みを交わした後、その音に背中を押されるように慌てて走り出した。
ふわりと吹いた夏風にスカートが揺れる。走りながらそっと後ろを振り返れば、花壇に咲いた花々も揺れていた。手を振っているようなそれを可笑しく思いながらも、前を向けばひらひらと目の前を蝶が飛んでいく。
あれは、もしかして。
「恵、遅れるよ!」
そう思った時、前を走る真帆から声を掛けられた。私はそれに自然と笑顔になって答える。
「うん。今行く!」



