学校を出てて、何処へ向かったら良いのか分からないまま私は走り続けた。あの花壇の蛹ように、誰にも見つからない場所でひっそりと死んでしまいたかった。髪を振り乱して、夏服のスカートが激しく揺れるのも構わずに走り続けて、一体どれくらい経ったのか。気付けば、殆ど来たことが無い駅前の繁華街の方までやって来てしまったらしい。
 落書きの目立つコンクリートの壁に、ハッとして足を止める。先程までの穏やかな街並みは一変して、辺りにはゴミが散乱し、酔っ払いだろうか道端で蹲る若い男も居る。平日の昼前だというのに、薄暗い雰囲気が漂うこの街の繁華街は少し治安が悪いことで有名だ。
 昔からこの場所には近寄らないように親から口煩く言われてきたし、周りの子たちもこの繁華街は通らずになるべく違う道を使っているらしい。
 そんな繁華街を前に足を止めていると、スクールバッグの中からスマホの通知音が聞こえてきた。先程から止まらないそれを仕方なく開けば、また新たなメッセージが届く。
 スマホの通知は主に母からでメッセージの内容を見るに、おそらく今朝の出来事が学校から連絡されたんだろう。SNSに載せられた煙草のことも、今学校をサボっていることも伝えられたのか「今どこにいるの?」「学校から連絡来たんだけど」「返事をして」「どうしてこんな事になってるの?」と、ひっきりなし送られてくる文章にうんざりした。
 私を責め立てているような言葉に、沸き上がる感情が抑えられなくなる。私はもう大人に都合の良い『榎本恵』にはなれないのだ。苛立ちや悲しみがごちゃごちゃになって、泣きそうになりながらスマホの電源を落とす。真っ暗な画面に安堵し、不要になったスマホをスクールバッグに仕舞った。
 私はもう何処にも戻らない覚悟を決めて、その治安が悪いと言われている未知の繁華街へと足を踏み出す。雑居ビルが立ち並び、キャバクラや飲み屋の看板が張り付けられた中を歩く制服姿の私はやたらと浮いていて、通りすがりの人々からの視線をちらほらと感じる。
 それでも、今の私には全部どうでも良かった。何も気にならないと言ったら嘘になるけれど、直に誰にも見つけられない所に行くと思えば、治安が悪い繁華街でも堂々と歩いていけた。
「てめぇ、何処見て歩いてんだよ!」
 そんな時、落書きやステッカーだらけの路地裏から物騒な声が聞こえてきた。反射的に声の方へと視線を向ければ、ガラの悪そうな輩に囲まれて一人の男が胸倉を掴み上げられている。
 胸倉を掴まれながらも、心底面倒くさそうに顔を顰めた茶髪の男には見覚えがあった。
「ぶつかっといて、何だよその態度は!」
「…」
「あぁ?何睨んでんだよ!」
「…チッ」
「何だこのクソガキ!」
 今にも殴りかかりそうな男を前にして、胸倉を掴まれたソイツは相変わらず飄々とした態度をしていた。痺れを切らした男は「やっちまおうぜ!」と声を掛けて、囲んでいた数人が嫌な笑みを浮かべる。グッと拳に力を込める集団に、私はとてつもない恐怖を覚えた。
 このままだと、とんでもない事が起こる。そう思った瞬間、私は震える身体で必死に声を上げた。
「おっ、お巡りさん!こっちです!」
 咄嗟に出た言葉は情けなく裏返りながらも周囲に響き渡り、茶髪の男を囲んでいたガラの悪そう輩は私の声を聞くと、舌打ちと共に直ぐに去って行った。どうやら、嘘が上手く効いたようだ。ガクガクと震える足で踏ん張りながらも、居なくなった男たちに安堵する。
 男たちから解放されたソイツは、私を見るや否や大きく目を見開いた。
「何でお前が、こんな所に居る?」
 ガラの悪そうな輩に絡まれていた茶髪の男、佐々野は驚いたようにそう言いながらも眉間に皺を寄せている。謹慎を終えても学校へ現れなかった佐々野と、まさかこんな所で遭遇するとは思わなかった。
 佐々野の問い掛けに、私は何と答えたらいいのか分からなくて押し黙る。無害だと思っていた相川に、煙草を吸っている写真をSNSにばら撒かれたこと。クラスメイトたちを含め、既に教師や親にもそのことを知られているだろうこと。今の私には、どれも上手く説明が出来る気がしなかった。
 そして、作り上げてきた真面目な優等生『榎本恵』を殺してしまった私が出来ることは、もう誰も自分を見つけられない場所まで逃げるしかないのだ。その逃げた先でひっそりと死んでいくことしか考えられなかった。あの花壇の蛹のように、私は世界から外れた己だけの世界で二度と醒めない眠りにつきたいのだ。
 暫く経っても何も話せずに無言を貫く私を見て、佐々野は呆れたように吐き捨てた。
「真面目な委員長がサボりかよ、ウケる。」
 皮肉が込められた言葉に、心の中で同意する。大人たちの都合の良いように生きてきた私が、学校を抜け出してこんな所までやって来るなんて思わなかった。
 目の前の佐々野は、顔を歪めて「なんか言えよ、きめぇな。」と私を睨み付ける。以前と変わらない佐々野の態度の悪さに何故か安堵した。
「此処はお前みたいな奴が来るとこじゃねぇから、さっさと帰れ。」
 佐々野が私に追い打ちをかけるようにそう言い放ったその時、薄暗い路地裏に「浩ー!」と騒がしい声が響き渡った。
「アンタ、遅いから何やってるかと思えば!…その子、どうしたの?」
 突然、掛けれた声に驚きながら視線を向けると、金色に近いくらい色素の薄い茶髪の髪を大ぶりに巻いた女の人が、ヒールのサンダルを履いた細い足でズカズカと此方に近付いて来る。
 一体どうゆう状況だとポカンとしながら眺めていると、佐々野が苛立ったように髪を掻き分けて「チッ…!」と舌打ちをした。
「やだ、貴女怪我してるじゃない!大丈夫?」
「…えっ、」
 女の人は大きな瞳で、私を覗き込みながら心配そうに言った。その言葉に思い出したかのように、学校で転んで擦り剥いた肘や膝がじくじくと痛みだす。血が乾き始めた傷口の皮膚が引き攣ったような感じに、思わず眉を寄せた。
「おいで、手当してあげるよ。」
「え?」
 綺麗にネイルが施された手で私の腕を掴んだ女の人は、混乱する私を連れて歩き出す。路地裏を出たところで、佐々野が機嫌悪そうに声を上げた。
「おい、コイツ連れてくのかよ!」
「いいでしょ!私の店なんだから文句ある?」
 どうやら佐々野とこの女の人は知り合いのようで、私を連れて行く女の人に文句を言いながらも、佐々野は道端に散乱するゴミを蹴飛ばして付いてきた。
 暫く歩いて、一つの雑居ビルの中に女の人に連れられて入っていく。そのままビルの階段を上って二階に上がると、お洒落な薄ピンク色の看板が設置された店に辿り着いた。看板には『Girls Bar』の表記があって、一気に夜の店を連想させる。
 少し緊張しながらも店内に入ると広いカウンター席があり、壁にはたくさんのお酒が並べられていた。初めてガールズバーと思われる店に入ったけれど、営業時間外だからか当たり前にゴージャスな装飾の店内には誰も居らず静かだった。
 女の人は私をカウンター席に座らせると、店の奥から救急箱を持って来る。なんでも、よく酔っ払って怪我する人も居るようで店には救急箱を常備しているらしい。そんな聞いてもいない話をペラペラと話す女の人に圧倒されているうちに、彼女は慣れたように傷口を手当してくれた。
 あっという間に、ガーゼで覆われた膝を見つめながら「…ありがとうございます。」と小さくお礼を言うと、「いいえ!女の子なんだから気を付けないと!」と明るい声で言われる。そんな私たちの様子を少し離れた所に座った佐々野は、心底面倒くさそうに眺めていた。
 未だに、この女の人と佐々野の関係性が分からなくて少し戸惑う。ガールズバーと佐々野の組み合わせが意外すぎるし、これは一体どうゆう状況なんだと落ち着かずに視線を彷徨わせていると、女の人は私に視線を向けてニッコリと微笑んだ。
「私はサキ。この店の店長やってんの。それで、浩は私の店でバイトしてくれてる。」
 そう言ったサキさんは離れた所に座っている佐々野に近寄ると、その目立つ茶髪をわしゃわしゃと強引に撫でた。あのクラスで一番の問題児である佐々野に向かって、そんな雑な対応をするサキさんに内心驚く。佐々野は苛立ちを全く隠すこと無く「触んな!」と険しい表情をして、サキさんの細い手を振り払っていた。
 佐々野がバイトをしていることは、学校でのクラスメイトたちとのやり取りで知っていたけれど、まさかガールズバーで働いているとは思いもしなかった。よくバイトがあると言って急いで帰ったり、寝坊で遅刻して来たりする佐々野の事が少しだけ分かったような気がする。
「で、貴女は?何チャン?」
「…恵です。」
 機嫌悪そうな佐々野を無視して話を続けるサキさんに、顔が引き攣りそうになりながらも答えれば、「恵チャンね。」と柔らかな声で呼ばれる。
 サキさんは私の隣の席に座って足を組み、金色に近い茶髪をサラリと耳に掛けた。何でもない仕草なのにサキさんがやると、女性らしい色気を感じて思わず見惚れる。
「それで、アンタたち知り合いなの?どうゆう関係?」
 サキさんは佐々野と私を交互に見ながら、不思議そうな表情で言った。
「…こんな奴、知らねぇよ。」
「いや、どんな言い訳よ。無理があるでしょ。」
 佐々野とはただのクラスメイトだが、彼は何故か頑なに話そうとしなかった。それを不自然に思っていれば、サキさんは「まぁ、いいわ。」と呆れたように首を振る。
「こんな真面目そうな子が浩と一緒に居るから、アンタが何かしたんじゃないかって驚いただけだし。」
「うっせぇな。」
「恵ちゃんは高校生よね?」
「えっ、はい。」
「学校は?」
 サキさんの問いに私は何も話せなくなる。こんな平日の昼間に、制服姿で繁華街をうろうろしてたら誰だって気になるだろう。学校から逃げ出しても結局何処に行ったらいいかも分からず、とにかく誰にも見つからない場所まで行きたくて、今まで来たことが無かったこの繁華街までやって来てしまった。
 学校からも親からも逃げ出して、居場所も無い情けない自分が恥ずかしく感じて顔を上げられなくなる。黙っている私を見てサキさんは「そう。」と一言納得したように呟く。
「行く場所無いんだったら、此処に居ていいよ。」
「えっ、」
 そう、何てこと無いように言ったサキさんに、私は驚いて俯いていた顔を上げる。何も言えなかったのに、サキさんは何故私のことを理解出来たのだろう。目を見開いた私を見て、サキさんは口角を上げて笑った。
「外フラフラされる方が心配だからさ。恵チャン、可愛いから絡まれそうだし。」
 その言葉はスッと胸の内側に入ってきて、私を酷く安堵させる。隣に座っていたサキさんは椅子からゆっくりと立ち上がると、ふわぁと欠伸を一つした。
「じゃあ、ちょっと私仮眠とるから、浩が恵チャンの面倒みてやって。」
「はぁ!?ふざけんな!何で俺が…!」
「煩い煩い、おやすみー」
 騒ぐ佐々野を軽くあしらいながら、サキさんは店の奥にあるドアの向こうへと姿を消した。唐突に訪れた静寂に、私は動揺を隠せなくなる。大して仲良くもない佐々野と、こんな所で二人きりという前代未聞の事態に私は頭を抱えそうになった。
 サキさんが言った仮眠というのは、きっと夜の仕事に向けての準備だろう。此処に居てもいいというサキさんの言葉は嬉しかったけれど、正直佐々野と二人きりというのは気まず過ぎて居心地が悪い。
 チラリと視線を佐々野に向ければ、彼は鋭い視線で私を睨み付けていた。不機嫌なオーラを隠しもしない佐々野にゴクリと息を呑む。
「…てめぇ、アイツに俺と同年代って言うんじゃねぇぞ。」
「は?」
「一応、大学生って言って働いてんだよ。」
 私を睨み付けながらそう言った佐々野に、思考の動きが鈍る。
「無理あるでしょ…」
「あ?」
 思わず呟いた言葉は佐々野の耳までしっかりと届いてしまったらしく、彼は眉間の皺を深くした。それを眺めながら、先程サキさんに私と佐々野の関係を聞かれた時に頑なに説明しようとしなかった彼の態度に納得がいく。ガールズバーなんて夜の店で働くためには、自分が高校生だと知られたくなかったのだろう。
 そんな年齢を偽ってまでして、佐々野が働こうとする理由が私には分からなかった。
「そんなに金が欲しいの?」
 何気なく声に出てしまった言葉は「…何、」と佐々野を苛立たせるのに充分な威力を持っていた。年齢を偽ってこんな所で働く佐々野しかり、私の写真をネタに金を要求してきた武田しかり。そんなにも金が欲しいと思うコイツらの気持ちが分からない。
「お前みたいな金持ちの娘なんかには、分かんねぇだろうな。」
 ハッと馬鹿にしたように笑って吐き捨て佐々野は、苛立ちを抑えられないように私を睨み付けている。いつもだったら、そんな佐々野に怯んで何も言えなくなる所だが、今の私は恐怖よりも沸き上がる怒りの方が勝っていた。
「…逆に金持ちの娘の気持ちなんて、アンタに分かる訳ないでしょ?」
「知るかよ!」
「私だって知らない!」
 衝動のまま、ガタッとカウンター席から立ち上がって声を上げる。こんな風に、好き勝手にやってる奴のことなんて分かるわけがない。クラスの問題児で校則違反の茶髪に遅刻は当たり前、更には年齢偽ってバイトに明け暮れて。いつだって自己中心的な振る舞いをしている佐々野は、きっと他人の評価なんて気にしたことなど無いのだろう。
 他人の目を気にして親の前でも良い子ぶって、必死に真面目な委員長『榎本恵』を作り上げている私とは、まるで正反対な佐々野を見ていると無性に苛々してくる。こんな奴に、何故私が馬鹿にされなければいけないのだろうか。
 叫ぶように反論した私に、佐々野は若干驚いような表情をしながらも「ヒステリーかよ、怖。」と呟いた。そのあからさまに馬鹿にしている態度に更に腹が立つ。
「てか、お前みたいな真面目チャンがいきなりサボりとか何なの?初めての反抗期とか?慣れないことして空回ってんなダッセェ!」
 今朝の学校での出来事もあり、平常心ではいられない私の心に、佐々野に言われた言葉は容赦無くズサズサと突き刺さる。目の前が歪んで、ずっと我慢していた何かが私の中で切れた。
「うるさい!アンタだって学校サボってるじゃない!私がやって何が悪いの!?真面目って馬鹿にして、自分の方が立場が上だとか思ってるわけ!?」
「あぁ!?」
「いつも偉そうな態度で振る舞って何様のつもり!?だから、煙草のこと誰も庇ってくれないんでしょ!本当は煙草なんか吸ってないのに!皆、馬鹿みたいにアンタが吸ったって思い込んでてさ!人望無さすぎ!日頃の行いが悪すぎるのよ!」
「…なんで、てめぇがそんな事知ってんだよ。」
「だって、煙草吸ったの私だから!」
 叫んだ声は情けない程に震えて、店内に響き渡った。肩で息をしながら、力が上手く入らない手を握り締める。泣きそうになるのを必死に耐えるために、佐々野を強く睨み付けた。
「は?」
 先程まで、私を馬鹿にしたような笑みを浮かべていた佐々野は低い声と共に表情を無くした。
「…お前が?」
「そうだよ!私があの吸殻を教室のベランダに捨てたの!アンタが、散々疑われてたのに黙って見てた!バレずに済んで良かったって思ってた!でも、煙草吸ってる写真撮られて、SNSにばら撒かれたからもう皆に知られてる!もう誰も私のこと、真面目な委員長だなんて思ってない!そんな私、最初から存在してない!ずっと、誰にとっても都合の良い存在を作ってただけ!」
 ずっと溜め込んでいた感情が腹の底で蠢いている。私はこれ以上に無いくらいに、必死になって佐々野に言葉をぶつけた。強烈な苛立ちも途方もない虚しさも、私を惨めにさせてぐちゃぐちゃにしていく。
「とんだクソ女じゃねぇかよ、ふざけやがって。」
 佐々野は怒りを滲ませながら、立ち上がって私を見下ろしてきた。
「てめぇは、結局何がしたかったんだよ!」
 その言葉に、グッと心臓を掴まれたような気持ちになる。ずっと小さい頃から、成績優秀であるように親に厳しく言いつけられて勉強を続けてきた。大人の都合の良い存在であるように必死に言う事を聞いていたら、「良い子ぶってる」と周囲の奴らから反感を買った。それでも、それ以外の生き方が分からなくて、長い間ずっと真面目な優等生『榎本恵』を続けてきた。
 そうやって生きていくうちに、自分を偽っているように思えてきてしんどくなった。何の不自由も無く楽しげに学校生活を送っている奴らが、気付いたら妬ましく感じていた。
 何でこんなに苦しいのだろうと、本来の自分で生きれたら良いのに、私はどうしても他人の前に立つと真面目な優等生『榎本恵』になろうとしてしまうのだ。そうしないと、朝布団から出られない。この世界に適応出来なかった。
 誰かの目を気にして、自信が持てない本来の自分を隠して、誰にでも都合の良い存在でいれば私は大丈夫だと思った。苦しくても偽ることをやめられなくて、どうにかなってしまいそうな時に煙草を吸った。
「…私はっ、」
 目の前の佐々野を強く睨み付けて、胸の中で蠢いていたドス黒い感情と共に吐き出した。
「私じゃ、なくなりたかったのよ!」
 煙草を吸うことでしか自分を壊すことが出来なかった私の気持ちなど、蝶にならず蛹のまま死にたいと願った私のことなど、きっと誰にも理解されない。
 そんな思いが胸の中から沸き上がって、濁流のように溢れ出す。私は、もう自分の感情をコントロールすることが難しくなっていた。ドクドクと心臓が速くなっていくのを他人事のように感じていると、不意に店内の奥のドアがガチャッと勢い良く開いた。
「ちょっと、アンタたちが煩くて寝てられないじゃない。」
 乱れた髪を掻き分けながら、不機嫌そうに言ったサキさんにハッとする。狭まっていた視野が広くなっていくように、少しだけ呼吸がしやすくなった。
 サキさんは私と佐々野を見比べてから、額に手を当てて「まさか二人一緒に居て、喧嘩し始めるとは思いもしなかったわ。」と呆れたように呟いた。
「喧嘩なんかじゃねぇよ!キモいこと言うな。」
「あー、そう。」
 反論した佐々野を軽くあしらって、サキさんは私に視線を向ける。大きな瞳でジッと此方を見つめてくるサキさんに、私の中に蠢いているドス黒い感情まで見透かされてそうで怖い。
 サキさんは不安気に視線を泳がせた私に、ニッコリと口角を上げて微笑んだ。
「浩と一緒だと喧嘩しちゃうから、恵チャンは私と一緒に寝よう。」
「へっ?」
 そう言って私の手を引っ張っていくサキさんに呆気にとられていると、背後から佐々野が「だから喧嘩じゃねぇわ!」と怒りの声を上げる。
 何がなんだか分からないうちに、店内の奥にあるドアの向こうへと連れていかれた。従業員用の部屋なのだろうか、いくつかのロッカーが壁に並び、部屋の中央にはローテーブルを挟むように二人掛けのソファーが二つ設置されている。
 先程出逢ったばかりのサキさんと、唐突に二人きりになった私は思考が追いつかなくて緊張で肩が強張った。
「ソッチのソファー使っていいよ。」
 サキさんは私の背中を軽く押すと、もう一つのソファーに身体を丸めるようにして寝転ぶ。金色に近い色素の薄いサキさんの茶髪が、ソファーの上に散らばった。ヒールのサンダルを寝転んだまま脱ぎ捨てて、細い足の指先が揺れる。その無防備さに何故だか感じていた緊張は薄れて、私は自然と言葉を発した。
「…あの、」
「ん?」
「何で私に、こんな良くしてくれるんですか?」
 初対面にも関わらず、サキさんは私の事情を一切聞かずにこの店に連れて来てくれた。私が知る大人はもっと融通が利かなくて、面倒なことを嫌うものだと思っていた。
 私の言葉にサキさんは「そんな大層なことしてないけどなー、」と不思議そうな顔をしながら、ソファーに寝転んでいた身体を起こす。
「強いて言うなら、恵チャンが昔の私に似てる気がしたのかも。」
「えっ?」
 予想外の言葉に、思わず顔上げて動きを止める。
「何て言えばいいのか分からないんだけど、こんな場所に制服姿で居た恵チャンを見てほっとけなかったんだよ。」
 サキさんは、此処ではない何処か遠くを見ながら言葉を紡ぐ。
「さっき色々と聞こえてちゃったんだけど『私じゃなくなりたい』ってやつ、私も昔はずっとそう思ってたなって。歳を取るにつれて、そうゆう気持ちは徐々に薄れていったんだけど、でもまだこの身体の何処かにその気持ちは残っている気がするんだ。」
 静かな部屋に落とされるサキさんの声は、水面に小さく波紋を描く雫のようにとても穏やかなものだった。
「でも『私じゃなくなりたい』って気持ちも含めて、それが自分なんだと思う。それが恵チャンなんだと思うから、きっと大丈夫。」
「…大丈夫?」
 こんな私の、一体何処が大丈夫なのだろうか。サキさんの言葉の意味が知りたくて首を傾げる。
「うん。きっと、恵チャンは苦しかったから変わろうとしたんだよ。そうやって、自分の中で色々な感情に向き合ったり逃げたりして藻掻いているうちは大丈夫。時間は掛かるかも知れないけど、そうやって藻掻いている人は、いつか自分のことを少しずつ認められる時が来るから。」
 サキさんの言っていることを、私はまだ全て理解することが出来なかった。けれど、ずっと忙しなく蠢いていたどうしようもない感情が落ち着きを取り戻していく。何が大丈夫のか、今の私にはまだ分からないけど、サキさんの言葉には何故か強い説得力があって安心した。
「…私、どうすればいいですか。」
 だから、これからの自分に対しての不安が素直に溢れてしまったのだろう。もう作り上げてきた『榎本恵』が消えて、花壇の蛹のように死ぬことしか考えられなかった私は、これから先どうしたら良いのか。いくら考えても分からないのだ。
 サキさんは軽く首を傾げながらも、私を真っ直ぐに見つめている。
「どうにかしたくて、どうにか出来るものじゃないんじゃない?そんな簡単じゃないって、恵チャンも分かってるから苦しいんでしょ?」
 その言葉にハッとさせれる。何が苦しいのか分からない苦しさの輪郭が、少しずつ見えていくような心地になった。それと同時に、どうにもならないから私はあの時、煙草を吸ってしまったのかもしれないと思った。私が抱えている苦しみは、直ぐに解決が出来るほど簡単なものではないのだ。
「どうにも出来なければ、それでも良いんだよ。疲れたら休めばいいし、それに飽きたら立ち上がればいい。自分と社会に振り回されているのも大事な時間なんだ。どうすれば良いのか、もう自分で考えて良いんだよ。未来なんて、割とどうとでもなるもんだからさ。」
 サキさんはそう言って「なるようになる!」と拳を見せて笑った。それは、これから先のことに怯えていた私の背中を押すのに充分な言葉だった。
 煙草を吸ったことがバレて、人生が終わったと思っていた。真面目な優等生『榎本恵』を作れない私に価値なんて無くて、クラスメイトたちや教師、両親の反応が怖くて仕方なかった。
 それに向き合える気がしなくて、この場所まで逃げて来たのだ。こんな欠陥品の私を誰にも見つからない場所で静かに終わらせたかった。けれど、煙草のことがバレなくても、私はいつか限界を迎えていたのだと思う。煙草がバレる前だって、ずっとギリギリで自分を保っていただけだ。
「もう寝よう。考えるのは後でいいよ。」
 サキさんの言葉の意味を噛み締めるように思考を巡らせていると、彼女はそんな私を見て笑った。仕事のこともあるから、相当眠たかったのだろう。欠伸をしながら瞼を擦ると、サキさんは再びソファーの上に寝転んだ。私よりも年上でちゃんとした大人なのに、子供のように小さく丸まったサキさんにとても救われたような気持ちになった。
 訪れた静寂に誘われるように、私はもう一つのソファーの上にゆっくりと横たわる。気を張っていた心が、一気に緩んでいくようにぐったりと身体がソファーに沈んだ。見上げた部屋の天井を眺めていると、直ぐ側からサキさんの寝息が聞こえてきてなんだか妙に落ち着く。随分と久しぶりに、心が安らいでいくような感覚になった。
 この世の終わりのように考えていたけれど、私が何かをしなくても時間は流れていくのかもしれない。そっと目を閉じれば、私は朝布団の中で『榎本恵』を作り上げる前の自分に戻る。
 頭の中で無意識に繰り返されるのは、今朝の学校での出来事だ。クラスメイトに向けられた軽蔑の視線や冷笑、私に対する悪口が嫌でも思い出されていく。それだけでなく、テストの結果が悪くて失望したと私を見放す父や母、
テスト順位を落として微妙な表情をした萩原、私を金蔓としか見てない武田に、ネタの的として私を陥れた相川、何を考えているのか分からない香苗と真帆。そして、佐々野との言い合い。
 嫌な記憶が蘇る中で、一番私の深い部分に差し込んできたのは先程のサキさんの言葉だった。私がこれまで考えてきたことを覆すような、目の前に引かれていたレールとは何か別の道が初めて見えたような気がした。
 もしかしたら私は、ずっと誰かにこう言われたかったのかもしれない。どうにも出来ない感情や状況を前にして、焦ったり取り繕ったり絶望したりして必死に足掻いている私を肯定してくれるような言葉に救われたのだ。
 だからと言って、私はまだ私自身のことを完全に肯定出来ないけれど、少し気持ちが軽くなったのは確かだ。目を瞑って瞼の裏を見ているうちに、私を包む闇が深くなっていく。
 煙草を吸った事実は消えないし、元の真面目な優等生の『榎本恵』にはもう二度と戻れない。それでも、私は私を許せるだろうか。例え自分を許せなくても、私は生きていけるのだろうか。
 ぼんやりとしていく思考の中で最後に浮かんだのは、あの花壇の蝶になれない蛹だった。










「恵チャン!恵チャン、起きて!」
 肩を揺さぶる振動と声に、一瞬何がなんだか分からなくなって飛び起きる。慌てて見渡した見慣れない部屋に、思考が止まりかけたところで「めっちゃぐっすり寝てたね。」とサキさんのケラケラとした笑い声が聞こえて来た。
 サキさんと話した後、このガールズバーの部屋で眠ってしまったのだと、じわじわと記憶が思い出されていく。あれから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。ここの所、精神的に負担が多くてあまり寝られていなかったからか、随分と深く眠ってしまったようで身体が重たい。
 時間を確認しようと顔を上げたところで、不意にサキさんと視線が合った。これから始まる夜の仕事に向けてだろうか、サキさんはきっちりとメイクを施していて、乱れていた髪は綺麗に巻かれて女性らしさが増している。更にはボディラインが目立つタイトなワンピースを着ていて、凄まじい色気を感じた。
「綺麗…!」
 思わずそう声が溢れる程に、サキさんは美しくて見惚れてしまった。目を輝かせてまじまじと見つめる私に、サキさんは「もう、何て良い子なんだ!」と照れたように笑って私の髪をわしゃわしゃと撫でる。
 香水の良い匂いがして、まさに夜のお姉さんという格好のサキさんはぷっくりとした唇を開いた。
「恵チャン、もう少ししたらお店の子たちも来るし、開店準備もあるから忙しくなっちゃうんだけど、どうする?」
 その問い掛けには、私の意思を尊重しようとしてくれているサキさんの優しさを感じた。本当のことを言うと、家に帰りたくなんてないけれど、これ以上サキさんを困らせることもしたくない。
 きっと、いつ家に帰っても私を待ち受けている結果はそんなに変わらないのだ。
「もう、帰ります。」
 そう言った私を見て、サキさんは少し考えるような素振りをするとバッグから一枚の紙を取り出して何かを書き込み始めた。
「これ、私の連絡先。何かあったら連絡して。」
「…ありがとうございます。」
 サキさんから受け取ったのは、お店の名刺だった。手書きで書き込まれた連絡先に、少しだけ勇気を貰う。きっと、これから私に起こる出来事は良い事では無いだろうと内心諦めている。それでも、どうにも出来なくとも大丈夫だと言ってくれたサキさんの言葉を信じてみたかった。
 スクールバッグを持ってソファーから立ち上がった私は、サキさんに連れられて従業員用の部屋を出た。照明が灯された店内は昼間見た時よりも、きらびやかで大人な雰囲気に包まれている。
 その中でカウンターに立ち丁寧にグラスを磨きながら、眉間に皺を寄せた険しい表情の佐々野が此方に視線を向けた。
「浩、恵チャンのこと家まで送ってあげて。」
「はぁ?何で俺がそんな事しなきゃいけねぇんだよ!」
「ちゃんと、その時間給料出すから。」
「…チッ!」
 サキさんと佐々野のやり取りに、慌てて「いや、私一人で帰れますよ。」と声を上げる。いつも夜遅くまで塾に通っている私は、夜道を歩くことにそこそこに慣れていた。それに繁華街を出て駅前でタクシーを拾えば、何も問題は無い。
 サキさんにそう説明すれば、彼女は一つ頷いて「じゃあ、せめて繁華街を出るまでは浩に送ってもらって。危ないから。」とカウンターに立つ佐々野の肩を軽く叩いた。
 それを鬱陶しそうに振り払う佐々野に内心苦笑しながらも、私はなるべく彼と一緒の時間は避けたいと思っていた。昼間あれだけ言い合った佐々野と、どんな顔をして居れば良いのか分からなかったのだ。
「じゃあね、また連絡して。」
「はい。ありがとうございました。」
 そんな私の心境を知ってか知らずか、サキさんは私達の背中を押しながらガールズバーを出て、雑居ビルの外まで見送ってくれた。暗くなった空の下、派手なネオンが輝く街の中で細い手を振るサキさんに、小さく頭を下げてから私は佐々野の横に並ぶ。
 佐々野は相変わらず不機嫌なオーラを全開に出して、「何で俺が」と言いたげな視線を寄越し来る。それをなるべく見ないようにしながら、すっかり夜になった繁華街を歩いた。
 スーツ姿のサラリーマンや、綺麗にヘアメイクした女性たち、キャッチらしき男性にチンピラのような風貌の男集団。色々な人たちが、夜になって騒がしくなったこの繁華街を行き交っている。普段、学校と塾しか行ったことがない私にとって、それはあまりにも未知の世界で圧倒される。
 昼間、この繁華街に来た時はもう何処にも戻らない覚悟でいた。それなのに、まさかこんな短時間で帰ることになるなんて、全く想像もしていなかったなと擦れ違う人たちを眺めながら記憶を振り返る。
 学校から逃げ出したあの時、私は人生終わったと思っていた。今まで必死に作り上げてきた『榎本恵』が死んで、私を見るクラスメイトたちの軽蔑の視線や言葉が忘れられない。強烈に痛くて辛くて、私が煙草を吸ったことを知った両親や教師たちの反応を考えるだけで怖くて仕方なかった。
 これから先、私はどうなってしまうのだろうか。きっと碌な事にはならないと、何度も考えては死んでしまいたくなった。こんな息苦しい世界では、とても生きていけない。どうせ私はまともに生きられないのだから、誰にも見つからない場所まで逃げて、あの花壇の蛹のように静かに死んでしまおうと思ったのだ。
 けれど、今は忙しない人混みの中を歩いている。隣にはポケットに手を突っ込んで、ズカズカと機嫌悪そうに歩くクラス一の問題児、佐々野も居る。今考えると本当に意味の分からない状況だと思った。
 人の言う事なんて聞くようなタイプには思えないのに、サキさんの言ったことに従ってわざわざ私を送ってくれている佐々野に少なからず驚いた。昼間にガールズバーで言い合ったこともあり、私と佐々野の間には一切会話も無くてなんとも微妙な空気が流れている。
 元々、周りを気にせずに自分勝手な振る舞いをする佐々野のことが苦手だったし、彼も大人や周囲に対して良い子ぶっている私を馬鹿にしている素振りをみせていた。校則違反ばかりで問題児の佐々野と真面目な優等生として振る舞っている私。全く違う人種の私達が、分かり合えるはずがない。
 チラリと視線を向ければ、隣を歩く佐々野の茶髪がふわりと夜風に靡いている。学校では悪目立ちする派手な茶髪は、この繁華街によく馴染んでいた。むしろ、きっちりと制服を着ている私の方が浮いているように感じた。
「…アンタ、学校行かないの?」
「あ?」
「私が言えたことじゃないけど、もう謹慎終わってるんでしょ?」
 ガヤガヤと騒がしい人波の中で、私の言葉を聞き取った佐々野は眉間の皺をより一層深くした。私の煙草がきっかけに、謹慎処分を受けた佐々野。彼が謹慎期間が終わっても学校に姿を現さず、年齢を偽ってサキさんのガールズバーで働いているのにはそれなりに理由があるのだと思う。
 昼間の言い合いは、私が佐々野にそこまでして金が欲しいのか聞いたことから始まった。佐々野のことは苦手だけど、私の吸った煙草が原因で謹慎になったことに関してはやはり少しだけ罪悪感を感じている。
「別に俺が学校行かなくても、お前に関係ねぇだろうが。」
 視線は真っ直ぐ前を向けたまま、突き放すように言った佐々野に「…まぁ、それはそうなんだけど。」と小さく呟く。
 騒がしい繁華街を抜けて、駅前の交差点が見えた。帰宅する人々や繁華街を目指す大人たち横目にしながら、交差点の信号に足を止める。
「お前みたいな金持ちの娘には、分かんねぇかもしんねぇけど。金稼がなきゃなんねぇんだよ。」
 そう言い放った佐々野の声は、昼間に言い合った時のような苛立ちや嘲笑を含んだものではなく、何処までも落ち着いている。だからだろうか、『金持ちの娘』と言われても今度は素直に受け取ることが出来た。
「周りの奴らも、別に俺が居なくたってどうも思わねぇよ。どっちでも変わんねぇし、むしろ居ない方が周りの奴らは都合良かったりするんじゃね?」
 自虐を込めたようにハッと笑った佐々野に、私は何も言えなくなった。佐々野の言う通り、クラスメイトたちは彼が居なくても以前と変わらない日常を送っている。時折、思い出したかのように彼の名前は上がるけれど、実際に佐々野と連絡をとったり、彼に会いに行ったりした人は居たのだろうか。
「俺が煙草吸ってないって言ったところで、誰も信じなかったし?まぁ、俺の日頃の行いが悪いって言われたらそれまでだけど、そんなもんだろ。」
 他人事のように軽く言った佐々野は、いつものように苛立ったりしている様子はなく驚く程に無表情だった。それはまるで、あんな場所に自分の居場所なんて無いと言っているようにも聞えて、私は初めて佐々野に共感出来たような気がする。
「お前こそ、もう学校なんて行けねぇだろ?SNSで煙草吸ってる写真拡散されて、全員にバレたんだっけ?進学も就職も終わったな。それに、これから家に帰るんだろ?親も
相当キレてるだろ。」
 自分の話は終わったとばかりに私に視線を向けると、佐々野は嫌らしい笑みを浮かべて攻撃してきた。人を見下しているその態度は相変わらず腹が立つ。
 目の前を走り去っていく車を眺めながら、湧き上がった苛立ちを抑えた。視界を横切るテールランプの光に瞬きをして、ガールズバーでサキさんに言われたことを思い出す。どうにも出来なければ、それでいいのだと彼女は言った。
 佐々野が言ったことは全部事実で、今の私の状況そのものだ。これから、家に帰らなきゃいけないことを考えると途方もない恐怖で足が竦む。家と言っても、あの場所にもはや私の居場所なんて無い。両親は私を許さないだろうし、学校からはそれなりの罰が下るだろう。私をもう真面目な優等生『榎本恵』とは誰も見ない。優等生の化けの皮が剥がれた惨めな欠陥品だ。
 この事実に抗いようがなくて、逃げることしか出来なかった。私を否定する世界から逃げ出して、誰も存在しない場所に行きたかった。けれど、どれだけ逃げたところで、きっと私はどうにもならないだろう。
 ガールズバーの従業員用の部屋で、サキさんと一緒に寝た時に私は諦めと共に何かを受け入れたのかもしれない。   
 黙ったままでいる私を見て、眉を顰めた佐々野に「そうだね。」と呟いた瞬間、赤だった信号が青に変わった。
 歩み始めた人たちに混ざりながら、駅前の交差点を渡って最寄りの駅に着く。振り返った繁華街のネオンが遠くに見えて、なんだか無性に煙草が吸いたくなった。
「此処で、もう大丈夫。」
 駅前に駐車するタクシーの群れを見ながら、送ってくれた佐々野にそう声を掛ける。すると、彼は「あっそう。」と吐き捨ててポケットに手を突っ込んだまま足を止めた。
 煩わしそうに目立つ茶髪を掻き分けて、私を一瞥すると何も言わずに背中を向けて来た道を戻って行く。そんな佐々野に、私は慌てて声を上げた。
「あの、送ってくれてありがとう!」
 人々のざわめきの中で私の声が聞こえたのか、佐々野は背中を向けたまま軽く手を上げる。今までずっと苦手に思っていた佐々野に、こんな事を言う日が来るなんて思わなかった。
 私はグッと両手を握り締めて、震えそうになる声を必死に抑える。
「それと、煙草のこと言えなくてごめん。」
 歩みを止めなかった佐々野の足が止まる。動きを止めた私と佐々野の間を、行き交う人々が通り抜けていった。少しの時間を経てから、此方を振り返った佐々野は「今更だな。」と呆れたように鼻で笑う。
 その表情は予想していた怒りを含んだものではなくて、何か憑き物が取れたように穏やかなものだった。初めて見る佐々野の表情に呆気にとられていると、そのまま彼は何かを言うことなくネオンが輝く繁華街へと戻っていく。徐々に、遠ざかっていく佐々野の背中を私は暫くの間眺めていた。
 交差点の向こう、繁華街のネオンに集まる人混み。昼間、現実に向き合った人々が彷徨うようにそこへ引き寄せられている。その様子は光に集まる羽虫によく似ていた。あの場所で働くサキさんや佐々野を思い浮かべながら、私は駐車するタクシーに乗り込む。
 運転手に行き先を淡々と告げて、流れ始めた窓の外の景色に虚しくなった。たったの数時間だ。私が覚悟を決めた必死の逃避行は、たったの数時間で終わりを告げた。情けなく、蛹にもなれなかった私は大きな絶望と、サキさんからの言葉を胸一杯に抱えて居場所無き家へと帰るのだ。









 ガチャッとドア開けて家に帰ると、リビングからバタバタと勢い良く足音を立てて母が現れた。母は私の姿を見るや否や、私の両肩を強く掴み「もう!何で連絡に出ないの!今まで何してたの!貴女は何てことをしたと思っているの!」と捲し立てて、うわぁぁと哀れっぽく泣いた。
 それを他人事のように眺めながら煩わしく思っていると、廊下の奥から父が此方に向かって来る。眉間に深い皺を寄せて口を固く結んだ父は、私に掴み掛かる母を手荒く退かすと思いっきり私の頬を平手で殴った。
 パァンッという破裂音が耳元で聞こえて、痛みで頬がジンジンと痺れる。無意識に、熱を持ったそこに触れる手が震えていた。
「お前には、失望した!」
 父の低い声がこの広い家に響き渡る。シンッと訪れた静寂の中で、哀れっぽく泣いている母の鼻を啜る音だけが聞こえていた。
「ははっ、」
 予想していた通りの展開に思わず笑いが溢れる。私がずっと恐れていたものは、所詮この程度のものなのだ。「ふざけているのか!」と、激昂した父の叫びを遮るように私は声を上げる。
「私は、とっくに失望してる!」
 胸の底に溜め込んだ怒りや悲しみ、悔しさがぐちゃぐちゃなったドス黒い感情が一気に弾け出す。目の前の父を刺し殺す勢いで鋭く睨み付けた。
 産まれてから今まで一度も親に反抗することなく育った『良い子』の私が、口答えするとは思っていなかったのか父は目を見開いて怯んだ。母は泣くのを止めて、信じられないと言った表情で私を見つめている。
「私が煙草を吸ったのは、こんなくだらない日々を生きてる私の為だ!お父さんとお母さんには一生かかっても、理解出来るわけない!」
 そう強く言い放った私は、感情に震える身体でローファーを脱ぎ捨てて目の前の父を押し退けた。父は以外にもあっさり退いて、私はその勢いのまま廊下に足を叩き付けて自室まで駆け出す。
 バタンッと自室のドアを閉めて、静かになった空間に私は身体中の力が抜けて座り込んだ。色々なことが一気に起こり過ぎて、私のキャパは限界を既に通り越している。
 この身体には留めておけない程の感情が、蠢いて暴れ出す。ガタガタと身体は震えているのに額を流れる冷や汗が止まらなかった。呼吸は荒くなり、手足は痺れていく。このまま、死ねたら楽だろうに私は想像以上に図太かった。
 床にだらしなく倒れ込んで、少しずつ落ち着きを取り戻そうとする。理由も分からずに止め処なく涙が流れて、頭が痛くなった。ボーっとする頭で、真っ暗な天井を眺めながら作業のように呼吸する。
 私は、こうやって生きていくのか。
 とてつもない孤独を感じながらそう悟った。そして、そう思うと同時に何故か身体が軽くなる。流れていく涙と時間が重なって、私は長いこと死んだように倒れ続けた。
 真っ暗な部屋の中でぼんやりと目を開けたまま、私はサキさんが言っていたようにどうにもならない状況を受け入れていた。そして、一体どれぐらいの間そうしていたのだろうか、やがて窓の外が明るくなり始めた。ぼんやりとした光が暗かった部屋の輪郭を段々と露わにしていく。
 死体のように転がった私にも、また変わらない朝がやって来たのだと実感する。もうどうでも良かった。私は何も無い『榎本恵』になったのだ。
 乾いた瞳には痛みが走り、硬い床に倒れ込んでいた身体はガチガチに固まっていた。制服は皺だらけで、手当を施された傷口も地味に痛い。
 徐々に明るくなっていく窓の外から、聞こえる鳥の声が自分以外の唯一の存在になる。私はゆっくりと起き上がって、立ち上がった。ゆらゆらと部屋の中を徘徊して、ベッドの布団の中に潜り込む。全身を布団の膜に包まれて丸まった私は、世界を遮断するように目を閉じて頭の中で這い回る思考をドロドロと溶かし始めた。
 



 



 コンコンと控えめにドアをノックされた音に、薄暗い布団の中で目が覚める。
「恵、ご飯置いておくから食べてね。」
 随分と柔らかな声を装った母の気配を、部屋のドアの向こうから感じた。母は決してこの部屋の中には入って来ようとせずに、暫くするとパタパタと足音を鳴らしながら立ち去っていく。
 私はそれを、布団の中で聞きながら再び目を閉じる。世界から遮断された布団の膜の中は、何処よりも居心地が良くて全ての気力を失わせた。誰にも会わず自分を偽る必要が無く、このまま死んだように生きていけたら良いのにと心底思う。エアコンが効いた部屋で布団に包まって、あの時に願った蛹のようになった私は、この膜の中でどれだけの時間を過ごしたのだろう。
 煙草がバレて学校を飛び出したあの日から、今日で一週間ほどが経過した。繁華街のガールズバーから家に戻った後、私は生まれて初めて親に歯向かった。幼い頃からずっと親の言うことに従い続けたこの私が。これまで作り上げてきた『榎本恵』を殺して、心の奥底で藻掻いていた私がようやく産声を上げたかのように強烈な瞬間だった。
 逃げるように自室に籠もった私は、とてつとない無気力に襲われて身体が動かなくなった。視点を一点に集中したまま周りを見ようとしているように、思考がぼんやりとして何も分からないのだ。 
 朝が来ても起き上がれず、自室から一歩も出て来れない私を母が心配して一度だけ部屋に来たけれど、私はまともな会話も出来なかった。ぐったりと布団の膜に包まったまま、呼び掛けられる声にも反応せずにドロドロと思考を溶かしていた。
 日常生活でさえままならない私は、布団に倒れ込んだまま数日を過ごした。あの日以来、父とは会っておらず、部屋から一歩も出て来なくなった私をどう思っているかは知らない。母はこんな脱け殻のようになった私に戸惑っているのか、極めて優しく接しているけれど深くは関わって来なかった。
 それ加えてタイミングが良いのか悪いのか、私が煙草を吸っている写真がSNSで拡散された件が教師に伝わり、以前にベランダで吸殻を捨てたことも発覚して、私は学校から二週間の謹慎処分を下された。
 部屋に籠もったままの私に代わって母が学校とのやり取りを行っているらしく、二週間の謹慎については私の普段の生活態度や成績が考慮されて、学校内で煙草を吸ったのにも関わらず軽めの処分になっていると部屋のドア越しに母が言っていた。煙草を吸っていない佐々野と同じ処分になったのは内心驚いたけれど、私に言えることは何も無かった。
 学校からの処分を受け入れて、私はもうすぐ夏休みに入るというのに学校には行かずに自室に籠もって過ごしている。例え、この件で謹慎処分にならなくても、私はきっと学校に行けなかっただろう。
 思考がまともに動かない今の私は布団の外に出ることも難しく、普段通りの振る舞いが出来るわけなかった。それに真面目な優等生の『榎本恵』が死んで、何も無くなった私は他人の前に出られる自信が無い。クラスメイトや教師、親からの評価が地に落ちた私に、周りがどんな対応を取るかなんて大体察しが付いた。
 あの日、学校で向けられたクラスメイトからの軽蔑の視線や浴びせられた冷笑、私を否定する言葉が鮮明に思い出される。もう一週間も経つというのに、脳裏にこびり付いた悪夢のような光景が消えない。母の涙も父に打たれた頬の痛みも、じわじわと私の首を絞めていく。
 布団の膜の中で絶望に溺れそうになりながら、丸まって荒くなる呼吸を必死に整える。目を瞑って瞼の裏に見えたのは、あの花壇の蛹だ。
 いつかの日に願ったように、私は布団の膜に包まれて自分のことが分からない程にぐちゃぐちゃになっている。世界を拒絶して自分を傷つけるものを誰一人近寄らせない、私はまるであの蛹のようだ。
 作り上げていた偽りの姿を無くして、外にも出れず誰にも会えないこの状況はずっと願っていたはず。それなのにどうして今、私はこんなにも苦しいのだろう。
 布団の膜に閉じ込められた空間には誰も居ないのに、頭の中を蠢く人々の顔が消えない。私を否定する存在が、私を覆い尽くす程に強く私の中に存在している。世界を拒絶すれば楽になれると思っていたのに、蛹になっても苦しみからは逃れられなかった。
 生きている限り、私は自由にはなれないのかもしれない。知らないうちに頬を流れていた涙が、布団に染み込んでいく。私は一体何だ。もう分からない。私は私じゃなくなりたい。消してほしい。この不要な存在を誰か消してほしい。楽になりたい。はやく楽になりたい。布団の膜の中で、ぐちゃぐちゃにドロドロになっていく自分が叫んでいる。誰にも聞こえない声で、ずっと叫んでいた。
 不意に、サキさんの言葉が頭に浮かぶ。「私じゃなくなりたい」という気持ちを含めて自分なのだと、だから大丈夫だと言った彼女のことを。
 こんな私の、一体何処が大丈夫だと言うのだ。苦しくて死んでしまいそうなのに、このまま布団の膜に包まれていても私は楽になれない。自分を偽ることを辞めたところで私は結局、私が嫌いなのだ。
 あぁ、煙草が吸いたい。
 こんな私を壊してほしい。もうとっくに真面目な優等生『榎本恵』は壊れてるのに、今度は何も無い『榎本恵』を存在ごと終わらせて欲しくなった。どうにもこうにも生きづらくて、また理由のわからない涙が止まらなくなる。
 その時、誰かが階段を上ってくる足音がした。どんどん部屋に近付いて来るそれに、恐怖を感じて心臓の動きが速くなる。
「恵、」
 足音が止んで、ドアの向こうから掛けられた低い声に小さく息を呑んだ。誰も入って来ないようにと、身体を覆った布団を掴む両手に無意識に力を込める。
「此処から出て来ないか?母さんも心配している。」
 いつもノックの一つもせずに、私の部屋へズカズカと入り込んで来る父がドアを開けることなく廊下で佇んでいる。その様子に私は密かに驚いた。
「お前だって、ずっとこのままって訳にはいかないだろう?」
 父は唐突に、布団の膜に閉じ籠もる私に向かって現実を突き付けてきた。一気に酸素が薄くなったように苦しくなって、ヒュッと喉が乾いて張り付く。
「私たちも、お前をずっとこのままにしておく訳にはいかない。遅かれ早かれ、この部屋に立ち入るつもりだ。」
「…っ!」
「でも、そんな事をお前は許さないだろうし、私たちも避けたい。出来れば、お前の意思でこの部屋から出て来て欲しいんだ。」
 布団の膜の中で父の言葉を聞きながら、ざわざわと心が落ち着かなくなって暴れ出したくなる。私の意思とは何だ。今更何を言っている。
 布団を握り締めた両手は震えていた。湧き上がった恐怖と怒りが身体の中で蠢いている。私の意思なんてものは、とうの昔に父が摘み取っていったはずだ。
 それなのに今、父は自分の意思を示せと言っている。勝手じゃないか。いつだって、そうだ。父は自分にとって都合の良いことを私に押し付けてくる。私はそれに反抗することを許されず、聞き分け良く従って来た結果がこれなのだ。
 私だって、ずっとこのままで居られない事くらい分かってる。今の布団の膜に包まれた蛹生活は直に終わって、いつか外に出なければいけない時が来るだろう。そのことを考えると、私は絶望で可笑しくなりそうだった。
 父は言いたい事を言い終えたのか、暫くすると部屋の前から立ち去って行った。他人の気配が消えたのに私は全然落ち着かない。布団の膜の中で、頭を蠢く感情が抑えられない。
 この蛹生活が終わったら、私はどうなってしまうのだろう。真面目な優等生『榎本恵』は死んだ。父から義務付けられたレールを大きく脱線した。煙草を吸った事実で、クラスメイトや教師に親からの印象は地に落ちた。再起不能なまでにボロボロになっているのに、私はまだ立ち上がらなければいけないのか。逃げることも許されないのか。
 もう嫌だ。何もかもが嫌だ。蛹になっても、私は世界に他人に囚われ続けている。不安が不安を呼び、耐えられなくなった私は布団の中で暴れ始めた。ベッドの上で布団に包まれたまま、うわぁぁぁ!と叫び声を上げて、バタバタと手足をばたつかせる。布団に何度も頭を打ち付けて、埃がどれだけ舞っても構わない。ぐちゃぐちゃになった私は、どうにもならない状況に暴れ続けた。
 不意に、視界が揺れてドンッと背中に激痛が走る。その衝撃で、被っていた布団の膜が剥けた。少しだけ明るくなった視界にギュッと目を瞑る。硬い床に打ち付けた背中に、ベッドから落ちたことを悟った。
 部屋の中は暗く、時間の感覚が分からない。痛みで暴れていた脳内が正常になったのか、落ち着きを取り戻した私はのそりと起き上がった。その際に、身体に纏わりついていた布団がハラリと床に落ちていく。
 それを視線で辿っていくと、同じように床に落ちていたスクールバッグが目に留まった。なんとなく、それを手に取ってみる。中身を確認すれば、サイドポケットに入れた一枚の紙の存在を思い出した。
 以前、繁華街のガールズバーでサキさんから貰った連絡先の名刺だ。そこに手書きで書き込まれていたのは、サキさん個人のメッセージアプリのIDだろう。英数字の羅列を視線でなぞりながら、私は片手でスマホを探す。
 この一週間、あまり記憶が無くて最後にスマホを触ったのもいつの事だか思い出せない。部屋中をうろうろ徘徊しながら、ようやく見つけたスマホは充電が切れていた。慌てて充電器に繋いでスマホを復活させてから、サキさんのメッセージアプリのIDを検索する。
 すると、サキさんらしき人のアカウントが出てきた。私は震える指先でメッセージを作成する。長いこと布団の膜の中に居たからか、スマホ画面が眩しくて目に染みる。カーテンも閉め切り電気も付けてない部屋で、それは一層眩しかった。
 私は何も考えられないまま、「今、お店に居ますか?」と何とも一方的なメッセージを送った。あれだけ蛹になりたいと願ったはずなのに、これ以上布団の膜の中に居たら狂ってしまいそうだった。だからと言って、この蛹生活を終わらせたいわけでもない。此処から出たくないと叫んでいる私が確かに居る。矛盾した気持ちが混ざり合っていて身動きが取れない私は、どうしようもないからこそ、何かに縋りたかった。
 暫くして、暗い部屋の中で手元のスマホが光る。サキさんから「居るよ。来るなら待ってるね。」と返信が来て、私は立ち上がった。
 スマホを片手に、よろよろと歩いて部屋のドアをガチャッと開ける。この一週間、私が部屋の外に出たのはトイレの時とシャワーを浴びた時だけだ。足早に階段を降りて玄関に向かったところで、私の足音に気付いた母がリビングから飛び出して来た。
「恵!何処へ行くの!?」
 そう叫ぶと母は、靴を履いていた私の手を掴んでくる。細い腕のくせに、案外力強いそれを振り払おうとするけれど上手くいかない。
「いきなりどうしたの!?ずっと寝たきりだったのに!」
 あの日から、布団に潜り込んで日常生活もままならないほどに寝たきりだった私が、突然動き出したのだから驚くのも無理ないだろう。けれど、今の私にはそれに対応する余裕が無い。
 とにかく早くサキさんのお店に行かなければ、私は正気を失ってしまう。そんな根拠の無い強迫観念に駆られていた。もう何をしても生きづらくて、苦しくて仕方ないのだ。
 母のしつこい手を離そうと躍起になる私に、一歩も引かない母のやり取りを聞き付けた父が慌てたようにやって来て「何をしてるんだ!」と声を上げる。父は揉めている私と母を無理矢理に離して、少し落ち着くように諭した。 いつもだったら父は一人で激昂しているのに、そんな似合わないことをしているのが妙にムカつく。
「恵が、何処かへ行こうとしてるんです!何処に行くのか聞いても何も答えてくれない!きっと、この家から出て行く気なんだわ!」
 母は私を睨み付けて、興奮気味に父に訴える。私はそんな母の姿を冷たい視線で眺めていた。父は私へ視線を向けると、ゴクリと息を呑む。何を考えているのか知らないけど、この人達は基本的に私の話を聞く気がない。私の返答などはどうでも良くて、自分の都合の良い言葉しか受け入れないのだ。だから、私はいつからか両親に対して何も言わなくなった。何か言ったところで、意味なんて無いからだ。
 父が何かを言葉を発する前に、私は素早く玄関のドアを開ける。「恵!待ちなさい!」と悲鳴のような母の叫びを無視して、一歩外へ踏み出した。一週間ぶりに感じる外の空気が私を包む。
「恵、これだけは答えてくれ。」
 不意に、黙ったままだった父が落ち着いた声が背後から聞こえた。それに少しだけ振り向くと、父は真っ直ぐに私を見つめている。今まで見たことが無いくらいに真剣な表情をしている父は、言葉を選ぶように慎重に口を開いた。
「ちゃんと帰って来るか?」
 まさか、そんなことを父から言われるとは思ってもいなかった私は、驚きのあまりに目を見開いた。一体何なんだと戸惑いながらも頷くと、父は「そうか。」と言って隣で私に掴み掛かって来そうな母の肩を支える。
「行ってきなさい。」
 今まで私の成績や世間体以外のことに興味が無かった父が、この状況で素直に私を送り出したことが信じられなかった。思わず「えっ」と声を漏らせば、父は眉間に皺を寄せて一つ頷いた。何だその反応は。
 衝撃を受けて暫く固まっていた私は、隣に立つ母も口をポカンと開けて父を見上げているのを見てハッとする。やはり、誰が聞いてもその反応になるだろう。今まで散々、成績優秀であるためにと私に厳しく指導してきた父が、私のことを尊重するなんて何の冗談かと思う。
 こんな状況になって、今更そんな接し方をしたところで…やっぱり何処までも勝手だ。そう思うのに、ずっと胸につっかえていた何が取れたような心地になった。
 グッと手元のスマホを握り締めて、玄関のドアをこじ開けると今度こそ私は自宅を出て行く。外は真っ暗で、スマホの画面を確認すると既に二十時を過ぎていた。以前だったら塾に通っていたりしていたが、この一週間は部屋に籠もっていたからか、夜道を歩くのは随分と久しぶりな感覚になる。
 夏の夜の匂いが鼻を掠めた。街灯の明かりを頼りに駅前の繁華街を目指して歩いていると、不思議なことに凝り固まっていた思考が徐々に解れていく。布団の膜の中に居た時は、嫌なことが延々と頭の中を這い回って暴れていたのに、今の私は少し落ち着いていた。
 それはこれからサキさんに会えるからか、あの父が慣れないことを言ったからかは分からない。偽りの自分を作り上げること無く、偶然にも蛹のように籠もっていた布団の膜が剥がれた私には直ぐにでも会いたい人が居た。








 帰宅する人や夜の街を彷徨う人たちの波を掻き分けて、繁華街の入り口までやって来た。ネオンが輝くそこは、相変わらずたくさんの人が行き交っている。
 わいわいと騒ぐ派手な若者集団に、共通点が見当たらない可愛らしい女の子と太ったおじさんの二組。虚ろな表情で何やらブツブツ一人で話している男に、疲れ切って覇気を感じないサラリーマン。
 自分とは全く異なる人達を眺めながら、騒がしい夜の街に圧倒される。繁華街の通りを人々は、血液の如く流れていた。私もそれに加わるように、以前佐々野と歩いた道を思い返しながら、私はサキさんのガールズバーに向かって足を進める。
「おい!」
 フラフラと人混みの中を歩いていると、突然肩を掴まれる。驚いて振り返れば、目立つ茶髪を揺らした佐々野が居た。
「…佐々野?」
 人通りの多い繁華街は決して治安が良いとは言えず、そんな場所で声を掛けられたものだから一瞬焦ったけれど、佐々野だと分かって内心ホッとする。彼は相変わらず、不機嫌そうに眉を寄せて此方を睨んでいた。
「お前が来るっていうから、アイツに迎えに行けって言われたんだよ。」
「サキさんが?」
「あぁ。一応、今日は定休日だけど、アイツは用事があって店に居る。俺だけは買い出しのバイトで出勤中。」
 そう面倒くさそうに言って、片手にぶら下げたビニール袋を突き出した佐々野に「なるほど」と頷く。
 考えてみれば、普段だったらこの時間帯はガールズバーの営業時間内だろう。そうなれば未成年、しかも高校生の私が店に入るのはどう考えても良くない。サキさんだって仕事があるだろうし、他のお客さんも居る中で私の相手など出来る筈もない。
 そんな当たり前のことも考えられない程に、衝動的にメッセージを送ってしまった自分に驚いた。一週間布団の膜の中で思考を溶かしていた私は、余程視野が狭くなっていたらしい。
 布団の膜の中に居た時は、とにかく苦しくて早く楽になりたい一心だった。初めて両親に歯向かったことで、身体の中には収まらない程の感情が、一気に押し寄せてパニックになったのだ。とても疲れていた記憶が薄っすらと残っている。
 先程まで、ずっと色々な感情に振り回されて布団の膜の中でぐちゃぐちゃになっていた私が、外に出て来れたのはきっと、サキさんがくれた『きっかけ』があったからだ。その『きっかけ』が、私を幾らか正常に戻してくれたのかもしれない。
 随分と落ち着いた思考になって、散らばっていた頭の中を整理していく。そんな私を何処か呆れたように見ていた佐々野が「早く行くぞ。」と背を向けて歩き出した。
「あっ、待って!」
 人混みに消えていく佐々野を慌てて追いかける。ぼんやりとしていた私を、容赦無く置いていく佐々野にイラッとする。そうだ。佐々野は元々こうゆう奴だった。
 スクールカースト上位集団に所属して、他人を気にせずに好き勝手な振る舞いをする佐々野と私は真逆の人種だ。けれど、もう以前ほど佐々野のことを何も知らないわけではない。佐々野を通してサキさんに出逢い、サキさんを通して佐々野と関わるようになった何とも不思議な関係だと思う。
 佐々野を追いかけて、サキさんのガールズバーが入った雑居ビルに辿り着き階段を上がる。以前来た時に見たお洒落な薄ピンク色の看板はそのままで、定休日の今日は『CLOSED』の看板が分かりやすくドアに掛けられていた。そのドアを、佐々野は遠慮無しにこじ開ける。
 佐々野に続いて店内に入ると、店内の広いカウンター席の一つにサキさんが腰掛けて書類を片手に作業していた。
「あっ、恵チャン!こんばんわ!待ってたよ。」
 私と佐々野に気付くと、サキさんは作業していた手を止めてにこやかに迎えてくれる。それに私は心底安心して「こんばんは。」と震えそうになった声を抑えて返した。「これ、買ってきた。」
 佐々野は早速持っていたビニール袋を突き出して、サキさんに渡す。それを受け取って、何やら中身を色々確認したサキさんは「ご苦労!今日はこれで帰っていいよ。」と言って佐々野の肩を労うように叩いた。そのサキさんの手を嫌そうに払うと、佐々野は「んじゃ、お先。」と告げて店内のソファに置いていた荷物を持ち、忙しくなくガールズバーを出て行った。
 佐々野が出て行って、静かになった店内でサキさんと二人きりになる。それは、この店の従業員用の部屋で一緒に眠ったあの日を思い出させた。
「あの、サキさん」
「ん?」
 私の声にサキさんは、首を傾げて振り向いた。
「こんな突然来てしまって、すいません。」
「全然いいよ。定休日だったし、恵チャンからの連絡嬉しかった!」
 布団の膜の中でぐちゃぐちゃになっていた私が、縋るように送ったメッセージをサキさんはちゃんと受け取ってくれた。まだ出逢って間もないけれど、家族でも学校関係の人でもないサキさんは私にとってとても貴重な人だ。
「一人作業にも飽きたから、ちょうど話し相手が出来て良かった〜」
 サキさんはそう言ってカウンターの中へ入ると「何か飲みたいのある?あっ、お酒は駄目だけどね!」と慣れた手付きで飲み物を用意してくれる。そんな彼女に促されるようにカウンター席に座わると、同じように隣に座ったサキさんがグラスに口を付けながら聞いた。
「それで、恵チャンはどうしたの?浩から聞いたけど、謹慎中なんだって?」
「…佐々野が?」
 サキさんの話に、思わず顔を上げる。
「うん。十八歳の大学生って聞いてたんだけど、アイツ高校生だったんだね。制服姿の恵チャンに会ってから確信してさ。」
 以前佐々野は私に、サキさんには自分が同級生だとは言うなと注告してきた。年齢を偽って働いていた佐々野の秘密が、私をきっかけにサキさんに知られてしまったらしい。なんだか複雑な気持ちになった。
「実は浩とは近所に住んでてさ、少し前にお母さん倒れちゃったみたいで。母子家庭だし収入源無くなって、お金が要るからって此処でバイトしてくれてるんだけど、高校生はちょっとマズイじゃん?」
 そう話をするサキさんに、私は小さく息を呑む。以前から佐々野がバイトばかりしていた理由が、まさかこんなことだったとは思いもしなかった。
「けど、アイツも結構大変みたいで、他にもバイト何個も掛け持ちしてるって。流石に今クビにしたら碌でもない仕事にまで手出しそうで怖くてさ…だから、さっきみたいに買い出しとか、あんまお店に出ないような細々とした仕事任せてんの。」
 散々、「金持ちの娘には分からねぇよ」と言っていた佐々野を思い出して、私は胸が締め付けられるような気持ちになった。確かに、親が会社の社長をしていて金に困ったことがない私には絶対に分からなかった悩みだろう。
「アイツも色々あるんだよ。まぁ、だけど流石に学校には行ける時に行っとけってこの前言ったけどね!」
 ずっと佐々野のことが気に入らなかった。私が周囲を気にして、真面目な優等生『榎本恵』を必死に作り上げて窮屈に生きていた頃、いつも周囲の目なんて気にもせず、好き勝手に堂々と振る舞っている佐々野が、苦手で目障りに思っていた。生きづらさを感じる自分とは正反対の佐々野ことを、私は心の何処かで羨ましく思っていたのかもしれない。
 けれど、サキさんが言ったように、佐々野にも色々あるのだ。その色々を他人に見られないように、違う自分の姿を表面的に見せていたのかもしれない。強くあろうとしていたのかもしれない。
 私が真面目な優等生『榎本恵』を作り上げて、誰にとっても都合の良い存在になろうとしていたように。心に秘めた感情を必死に隠して、周囲に求められる偽りの自分で日々をやり過ごそうとしていた。
 きっと、そうやって生きてるのは私だけじゃない。あの佐々野だって、私の知らないところで同じように息苦しく感じているのかもしれない。
 今思えば、煙草を吸っている私の写真を撮って脅迫してきた武田だって、私の写真をSNSに載せた相川だって、普段クラスで振る舞っている姿とは全然違う一面を秘めていた。今更、仲良くなんてなれないけれど、皆のことを知らないだけで色々あるのかもしれない。
「サキさん」
「ん?」
「私、さっきまで布団の中に籠もってて、どうにも出来なくて暴れてたんですけど、それでも大丈夫ですか?」
 そう吐き出した私の声は少しだけ震えていた。脈絡のない言葉にも関わらず、サキさんは真っ直ぐに私を見つめて静かに聞いてくれる。
「これから先、何とかなりますか?」
 ずっと誰にも言えなかった不安を、サキさんだけには素直に伝えることが出来た。あの時に言ってくれた言葉を、もう一度この人に言って貰いたかった。
 布団の膜の中で、全てを失ったと恐怖に震えていた。真面目な優等生『榎本恵』を殺してしまった。クラスメイトや教師からの評価も落ちて、両親からの期待に応えることが出来なくなった。榊大にはきっと進学出来ないし、就職もどうなるか分からない。
 煙草を吸って、自分を壊してしまいたいと思ったのに。本当に壊れてどうにもならない状況になって、唯一縋れるものがサキさんの言葉だったのだ。
 こんな私でも大丈夫だろうか。もう、どうやって生きていけばいいのか分からなくて、頭を這い回る悪い妄想に怯えてぐちゃぐちゃになった私でも。それでも未来はどうとでもなるだろうか。何とか、生きていけるだろうか。
「うん、きっと大丈夫だよ。」
 私の言葉をゆっくりと汲み取ったサキさんは、大きな瞳を細めて微笑む。金色に近い色素の薄い彼女の茶髪がさらりと揺れて、その優しい光景に鼻の奥がツーンと痛んだ。