学校内で煙草が発覚してから三日が経った。あの後、教師たちに連れて行かれた佐々野はあれから教室へ戻っては来なかった。それどころか学校にも来ていないようで、佐々野の席は三日経った今でも空席になっている。
クラスメイトたちは、そんな佐々野のことなんて誰も気にならないようで、いつもと変わらない学校生活を送っていた。私はこの状況に罪悪感を煽られて、居ても立ってもいられないような気持ちになる。けれど、実際には何の行動も出来ずに、ただただ『榎本恵』を守るために私は自白することなく口を固く閉ざし続けていた。
「そういえば、さっき先生たちが話してたんだけど、佐々野のやつ二週間の謹慎らしいよ〜」
「謹慎かぁー、思ったよりも軽いね。どうせなら退学でもしてくれたら良かったのに、佐々野とかこのクラスに要らないでしょ!」
全ての授業を終えた放課後のこと。私が帰り支度をしていると、香苗と真帆がスクールバッグを肩にかけながら佐々野について話をしていた。
「…佐々野って、謹慎になったの?」
「そうみたい。結局、煙草を吸った証拠が無いし本人がずっと否定してるらしくてね。けど、萩原を殴ろうとしたところが問題で謹慎って形になったみたい。萩原も萩原で、佐々野のこと相当煽ってたから自業自得みたいなところあるんだけど〜」
香苗の言葉を聞いて、私は全身の力が抜けていきそうになった。佐々野の処分が退学や停学でも無くて、謹慎であるということに心底安堵したのだ。私が煙草を吸ったことがきっかけに、佐々野が処分を受けている時点で何も良くはないのだけれど。それでも、ここ数日の罪悪感は少しだけマシになったように思えた。
「佐々野の方が自業自得でしょ!?こうなったのはアイツの日頃の行いが問題だし、奴の顔を見なくて本当にせいせいしてる!恵もそう思うよね?」
険しそうに眉間に皺を寄せた真帆は、苛立ちを含ませた声で私に同意を求める。以前、佐々野に酷く当たられていた真帆のことだから、今回の件で謹慎になった佐々野に対して思うところがあるのだろう。確かに、佐々野の日頃の振る舞いに対して問題があるのは事実だ。
「うん、そうだね。」
佐々野への罪悪感に蓋をして、真帆の気持ちを汲み取ると彼女は直ぐに口角を上げて微笑んだ。「だよね!だよね!」と幼稚にはしゃぐ真帆を横目に、なんだか冷めたような気分になる。
「佐々野じゃないとすると、一体誰が煙草なんて吸ったんだろう〜?」
ぼんやりとそう呟いた香苗に、ドクンッと心臓が跳ねる。背筋に冷たい汗が流れるのを感じて、手のひらを強く握り締めた。
「佐々野が嘘付いてるだけじゃない?アイツじゃないなら、ただ不良ぶってるダサい奴だよ!わざわざ学校で煙草吸うとかさ!」
「まぁ、一理あるかもね〜。受験もあるし、バレたらヤバいって思わなかったのか。」
「ね!本当に理解出来ないわ!」
そう話す二人に、私はふつふつと沸き上がる感情をグッと堪えた。私が煙草を吸う気持ちなんて、こんな気楽な奴らに分かる訳がない。不良ぶりたいわけでも無いし、バレたらヤバいって思わなかったわけでも無い。ただ、息苦しくて仕方なかっただけなのだ。『榎本恵』で居ることを辞めたかっただけなのに、何故こんなに馬鹿にされなければいけないのだろう。
未成年で煙草を吸ってしまったことが問題あるにも関わらず、私は二人の言っていることが許せなかった。心の中で蠢く黒い感情に蓋をして、私はスクールバッグを手にして席を立つ。
「ごめん、これから塾があるから先に帰るね。」
そう言い放つ私に二人は一瞬キョトンとしてから「あぁ、」と納得するように頷く。
「そういえば、塾の時間増えたって言ってたよね〜」
「恵の志望校って榊大でしょ!?やっぱり勉強出来る子は違うよね!」
「いや、そんなことないよ。一応、親の希望もあって榊大にしただけだから。」
「それって親も恵に期待してるってことでしょ〜?」
「いいなぁー、恵は!私なんて今だに進路のこと決められなくて悩んでるし、親も適当だから進路が決まらないなら実家の居酒屋で働けって言うんだよ!?」
「真帆、就職先決まって良かったじゃん〜!」
「何も良くない!誂うの止めてよー!」
二人のやり取りを眺めていると、なんだか理由もなく苛々してきた。上手く言い表せないけれど、私と二人との間には埋められない深い溝があるのだ。その深い溝の向こう側で、楽しげに話す二人をただ呆然と眺めているような感覚になる。クラスの中では友達と思っていた彼女たちは、所詮私とは違う向こう側の人間なのだ。
いつの日か、放課後の教室で騒いでいたクラスメイトたちや佐々野たちのことを思い出した。友達同士で遊びに行く計画をしたり、恋の話で盛り上がったり、ふざけ合っていた彼等のことを。高校生らしいその様子は、まさに青春というのだろう。
笑い合って話をする目の前の二人が、それに重なった。この空間に馴染めない私は一体何なのだろう。自分とは全然違う彼女たちのことが理解出来なくて、私はいつものように平然と彼女たちに合わせて笑うことさえ上手くいかない。
「じゃあ、恵!塾頑張ってね〜!」
「また明日ね!」
此方に向けて、ひらひらと手を振る彼女たちを真似をするように手を降ってから背を向けた。居心地の悪さから逃げるように、足早に教室を出て廊下を歩く。無意識に早くなった鼓動を落ち着けようとしても、私の中に蠢く色々な感情が邪魔して全く落ち着かない。
放課後の校舎を出れば、直ぐ側のグラウンドから部活に励む生徒たちの掛け声が聞こえてきた。嫌になるくらいの青空の下で、懸命に汗水垂らしている彼等を横目に淡々と歩く。少し前まで春だったのに、グラウンドから砂埃を上げて吹いた風は生温く既に夏の熱気を孕んでいた。
校門を過ぎても、帰宅する生徒たちの群れは途切れることなく続いていく。友人同士や恋人同士で楽しげに会話しながら、のろのろと歩く彼等を心底鬱陶しく思った。
何故、見るもの全てが私を苛々させるのだろう。その群れを苛立ち混じりにどんどん追い越して歩いていくと、途中で友人たちとキャッキャッと盛り上がる女子の集団に遭遇した。
「えー!カナコ、彼氏出来たの!?」
「ちょっと〜!声デカいんだけど、やめてくんない?」
「いつ!?いつから付き合ってんの!?てか、まさかの後輩!?」
「だから声デカいっての!」
「羨まし〜!今度絶対紹介して!」
「え、やだ。」
「なんで!?意味分かんないんだけど!」
前方から聞こえてくる騒がしい高い声は、彼女たちの興奮を物語っている。話の中心にいる女子は少し照れたように素っ気ない態度を取っていて、周りを取り囲む彼女たちのスカートがひらひらと揺れていた。
「いいなー!私も青春したい!」
「なんか恥ずいからやめて。」
「夏休みどうすんの!?海とか行っちゃう!?」
「 まぁ、そりゃ行きたいけどね。てか、盛り上がりすぎだから!」
「だって、女子高校生最後の夏がこれから来るんだよ!?青春したいじゃん!」
「まぁ、確かに?そうだけど。」
彼女たちの青春という言葉に私は無性に苛々した。何だそれ。理由の分からない不快感が湧き上がり、歩くペースを上げて騒がしい彼女たちを一気に抜き去る。鬱陶しい群れの中を抜けて一人帰宅する私は自由であるはずなのに、青春だと騒ぐ彼女たちの側で一人でポツンと居るのは酷く窮屈に感じた。
なんでこんなにも苛々するの分からなくて、こんな所に居たくないと必死に足を動かす。同じ制服を着て歩いている彼等が全員敵のように思えた。香苗と真帆にしろ、クラスメイトたちにしろ、先程の女子の集団にしろ、何故私はこんなに心を乱されているのだろう。
煙草がバレたわけでもないのに『榎本恵』が全然出来ない。他人に都合良く作り上げた『榎本恵』が、全然世界に馴染めてないのだ。私と彼等の一体何がそんなに違うのだ。こんなのは可笑しいと叫びたいのに、何がどう可笑しいのか私自身よく分からない。
鬱々とした気持ちに振り回されながら、目的の塾まで歩き続ける。また今日も両親に義務付けられた勉強漬けの時間が始まる。そう思うと、煙草の存在が学校に見つかってしまい、佐々野への罪悪感に襲われているのにも関わらず、私は堪らなく煙草が吸いたくなった。
あの不味い煙を吸って、この胸の中に蠢くドス黒い気持ちと共に吐き出してしまいたかった。そして、作り上げた真面目な優等生の『榎本恵』も、苛々してどうにもならない『私』も全て消してしまいたかった。
何が、青春だ。ただの生き地獄じゃないかと、スクールバッグの中に今だに入れている小さなポーチを撫でる。いつか、この存在が『榎本恵』を終わらせるかもしれない。それが怖くて佐々野が無実の罪に疑われても、見捨てることしか出来ないのに、私はどうしてもこの煙草を手放すことが出来なかった。
「何だこのテストの点数は!?」
そう激昂した父の怒鳴り声が、広く静かな家に響き渡った。いつものように塾での勉強を終えて帰宅すると、リビングには仕事を終えてソファで寛ぐ父の姿があった。父は私を見るとすかさず、この前の塾の小テストの点数を聞いてきた。それは以前も父が聞いてきたことで、その時はまだ小テストの結果は返されていないと誤魔化したけれど、これ以上の誤魔化しは効かないと諦めてついに『71点』だった数学の小テストを含めて全ての結果を見せたのだ。
すると、私の小テストの点数を見た父は目を吊り上げて、もの凄い勢いで私を責め立ててきた。
「こんな点数で榊大に進学出来ると思っているのか!?何の為に塾の時間を増やしたか、分かっているのかお前は!」
バンッとダイニングテーブルの上に、私の数学のテストが叩き付けれられる。父の激昂に、キッチンに居た母が心配そうな表情で此方を伺っていた。父は荒ぶった感情を抑えるように「はぁー」と深い溜め息を吐いて、片手で額を抑えている。
ここまで怒られるのはいつ振りだろうか。ずっと、こうならないように親にとって都合の良い娘であり続けたというのに、一体何だこのザマは。
この様子ではつい先程、塾の先生に言われた言葉なんて絶対に父には言えないだろうなと頭に思い浮かべた。塾で授業を終えた時のこと、私を担当してくれている先生から「榊大はもう少し頑張らないと難しいかもしれない」と真剣に告げられたのだ。とは言っても、これから始まる予定の夏期講習や今後の努力しだいではまだ希望はあるとのことで、そこまで深刻な話では無いらしい。
本気で榊大を目指すつもりならば、徹底的にサポートすると塾の先生は頼もしい言葉を掛けてくれたけれど、それでもやはり気分は重くなる一方だった。榊大は両親が希望する大学で、『榎本恵』の進むべき道であるからだ。
そう思っているのに、最近の私は感情がぐちゃぐちゃで少し様子が可笑しい。毎日、朝が来ると布団の中で真面目な優等生『榎本恵』を作り上げているのに、最近は『榎本恵』を上手く作り上げることが出来なくなってしまった。
他人の前に居ると嫌でも良い子ぶって都合の良い存在であろうとするのに、なんだか学校でも周囲から酷く浮いているような気がしてならない。少し前から感じ始めた違和感が大きくなって、以前のような真面目なクラスの委員長『榎本恵』の振る舞い方が分からなくなった。
そればかりか、学校で煙草が見つかってしまったショックが大きくて、今だに謹慎中の佐々野のことや、わざわざ学校で煙草を吸うなんて理解出来ないと言った真帆や香苗のことを無意識に思い返しては気分が滅入ってしまう。
勉強にも全然力が入らなくて、問題の解答を間違えることも多くなり、今までだったら有り得ないようなミスが増えた。気付けば、塾での授業もあまり付いていけなかったりして、そのせいで今日みたいに「榊大は難しいかもしれない」と塾の先生から助言を受けてしまったのだ。
そして今、色々なツケが回って来たかのように隠していたテストの点数で父に激怒されている。情けないこの状況に、心がポキリと折れてしまいそうになった。
「ちゃんと聞いてるのか!?これはお前の進路に関わる話だぞ!」
再び、ダイニングテーブルの上をバンッと威嚇するように父が叩いた。その音に、思わずビクッと肩を上げる。私のテストの点数が父の機嫌に影響するのは、今に始まったことではない。幼い頃から、よくあったことだ。だからこそ、昔から私は父に言われるがまま勉強を続けていきた。
父が言う私の進路とは、即ち父が進みたい進路であって。父に決められたレールの上をただひたすらに進む。少しでも逸れることを許されないそれを、真面目な優等生の『榎本恵』として歩き続けるのが私の義務だった。
それなのに、私が何処かで間違えたのだろうか。テストの解答を間違えたから、今こうなっているのだろうか。今まで必死に作り上げてきたものがどんどん壊れていくような感覚になる。
「明日から期末テストだろ?学年トップの成績以外は認めないからな!分かったら、早く部屋に戻って勉強しなさい!」
父の怒りは頂点を越えて、うんざりしたような表情でそう言うとバンッとリビングのドアを勢い良く閉めて出て行った。怒声が止み、静寂が訪れた空間でキッチンに居た母は、無言のまま私を見ている。何を思っているのか分からないが、その視線がやけに気持ち悪くて私は直ぐに自室に戻ろうと、ダイニングテーブルの上に放置された塾のテスト結果を掴んだ。
不意に、父が座っていたソファのサイドテーブルが視界に入る。そこには、父が新しく買ったのだろうかあまり見覚えのないライターと私が盗み持っている煙草と同じ銘柄の煙草が置かれていた。
きっと、私の盗み持っている煙草がバレなくても、もう『榎本恵』は続けられないかもしれない。そう唐突に湧き上がった絶望に、私は耐えられなくなって逃げるように走って自室に戻った。
何もかもがどうにも上手くいかなくて、どうしたら良いのかも分からなくて。煙草を吸ってまでも『榎本恵』で居たくないのに、『榎本恵』が消えてただの欠陥品になるのも怖いのだ。
矛盾してぐちゃぐちゃになった私は、気が狂ったようにテスト範囲の教材を机に広げる。明日から始まる期末テストで学年トップの成績が取れなかったら、私はどうなってしまうのだろう。
何も考えたくはないのに、色々な感情がぐるぐると頭の中で暴れて、勉強が何一つ頭に入って来ない。今回の塾のテスト結果で、父の私への評価は一気に下がったはずだ。
だからこそ、ここで結果を出せなければ見放されてしまうと頭では分かっているのに、教材を前にしてシャーペンを持つ私の手は何も動かなかった。
放課後を知らせるチャイムが鳴って、教室内に居たクラスメイトたちが一斉に騒がしくなる。それは、窓の外から聞こえてくる蝉の鳴き声に何処か似ているような気がした。
「恵ー、テスト結果どうだった!?」
「てか、まだ帰らないの〜?」
席に座ったままボーッとしていた私に、真帆と香苗は既に帰り支度を終えたのかスクールバッグを持って近寄って来る。真帆が言った「テスト結果」の一言に、私はぼんやりとしていた思考が徐々にはっきりとしていくのを感じた。
つい先程のHRで、一週間程前に行った期末テストの順位結果が渡されたのだ。期末テストの直前に塾の小テストの結果が悪かった事で父の機嫌を損ねてしまい、学年トップ以外は認めないと言われたのにも関わらず、私の今回のテスト順位は学年四位という最悪の結果だった。毎回テストは学年トップの成績を取れていたこともあって、大幅に順位を下げた今回の結果に担任の萩原は分かりやすく微妙な表情をしていた。
渡された結果とその萩原の表情に、私は取り返しのつかない失敗をしてしまったのだと一気に血の気が引く。最近の私は全然勉強に力が入らず、色々な感情に支配されてまともに頭が働かなかったのが原因でもあるだろう。そして、期末テスト前日に父に怒られたの相まって碌な勉強も出来なかった為、テストの出来は散々だった。
だから、きっと良くない結果になってしまうだろうと予想はしていたのだけれど、ここまで酷いと一体どう対処をしたら良いのか全く見当もつかなかった。
「おーい、聞こえてる?」
「恵、大丈夫〜?」
直ぐ近くから、二人の声が聞こえてきてハッとする。思考の渦に呑まれていた私は、目の前に居る二人に向かって曖昧な笑みを浮かべた。
「ごめん。ちょっと、ボーッとしちゃってたみたい。」
「え〜?恵にしたら珍しいね。」
「期末テストも終わって夏休みも近付いて来たし、そりゃ恵だって気が緩んじゃうよね!私もゆるゆるだもん!」
「真帆に比べたら、恵は全然緩んでないよ〜」
「ちょっと、それどうゆう事!?」
いつもと変わらない二人のやりとりに、散らばっていた感情が少しずつ戻って来る。そのまま、実に高校生らしい二人を眺めていると、香苗と言い合っていた真帆が私に向かって「それよりも、早く帰ろうよ!」と笑った。
このまま家に帰ったら、どうなるのだろう。父から言われたことを守れなかっただけでなく、悲惨なテスト結果に担任の萩原からの評価が下がったこと、「榊大は今のままでは難しい」という塾の先生からの言葉も全て『榎本恵』を揺るがすものだ。
スクールバッグにしまった期末テストの順位結果の存在を思い浮かべて、これから先の未来が何も見えなくなった。私はもう、成績優秀で真面目な優等生の『榎本恵』で居られる自信がない。
父に義務付けられたレールの上を言われるがまま進んできたつもりなのに、今更そのレールから弾き落とされたら私は生きて行けるのだろうか。以前から感じていた恐怖が、身体中を這うように沸き上がる。
もう、駄目だ。失敗続きで欠陥品の私に未来はない。今だって、この二人の前で崩れてしまいそうな『榎本恵』を貼り付けた笑みで必死に保っているのだ。
「ごめん。実はこの後、萩原先生に呼ばれてて…」
私と一緒に帰るつもりだったらしい真帆に、そう告げると目の前の二人はギョッと目を見開いた。
「え、また!?アイツどれだけ恵をコキ使えば気が済むんだか…!」
「本当にね、信じられない!大変そうなら、私達も何か手伝おうか〜?」
いつかのように嘘を吐いた。萩原からの呼び出しなんてないのによくある口実を使えば、二人はこぞって萩原の文句を言う。当たり障りなく誘いを断ろうとしただけなのに、無駄に罪悪感が増した。なんだかもう、何もかもが上手くいかない。
「ううん、大したことじゃないから大丈夫だよ。そうゆう事で申し訳ないんだけど、今日は先に帰って?」
そう言うと、二人はあまり納得がいかなそうな顔をしながらも「じゃあ、先に帰るね〜?」「恵も萩原なんてほっといて直ぐに帰るんだよ!」と仲良く肩を並べて帰って行った。
随分とクラスメイトの減った教室内で、私はゆっくりと帰り支度を済ませる。窓の外や校舎のあちこちから聞こえる生徒たちの声が、相変わらず耳障りだ。席から立ち上がり、スクールバッグを肩に掛けて教室を出た。
放課後の賑やかな生徒たちから遠ざかるように、渡り廊下を越えて校舎の別棟にある人気の無い階段を一番上まで上る。屋上へと続く重たいドアを開けると、コンクリートの上に降り注ぐ日差しがやけに眩しくて思わず目を細めた。
その日差しの中に一歩足を踏み出せば、肌に纏わりつくような生温い風がスカートを揺らす。以前来た時よりも、青々とした空には入道雲がそびえ立っていて、もうすっかり夏なのだと感じた。
屋上の奥にある給水塔の側、ちょうど日陰になったところに背中を壁に預けて座り込む。日陰にも関わらず、座ったコンクリートからは生温かい熱を感じた。屋上を囲むフェンスが夏風に吹かれて、ギシッと嫌な音を立てる。背の高いそれは、なんだか檻のように思えた。
抱えたスクールバッグから小さなポーチを取り出して、その中に入っている煙草とライターを手に取る。中身が少なくなって、歪んだ煙草の箱を振ればカタカタと微かに音がした。どうやら、これが最後の一本らしい。
もう本当に、これ以上ないくらいに気分が落ちる。最後の一本を惜しむように口に咥えて、遣る瀬無い思いと共に噛み締める。ライターで煙草の先に火を点けると、口の中に広がった煙は相変わらず不味かった。
学校で煙草が見つかってから、自分が吸ったとバレるのが怖くて一度も煙草を吸わなくなった。それ故にか、この不味い煙の味が随分と久しぶりな気がする。
教壇の上で萩原が私の吸った煙草の吸殻を掲げた時は、
なんて馬鹿なことをしたんだと自分を呪った。私の代わりに疑われた佐々野にも罪悪感を感じて、学校なんて人の目が多い場所では二度と吸わないと決めたのに、私は性懲りも無くまた煙草を吸っている。
この姿が人に見つかってしまったら、今度こそ『榎本恵』は完全に終わる。その事をちゃんと分かっているつもりだ。学校で煙草が見つかった時の消えてしまいたい程の恐怖も忘れていないけれど、どうしても今の私には煙草の存在が必要だった。
不味い煙と共に、身体の中で蠢いているドス黒い感情を何度も吐き出す。白く漂ったそれが風に流されて何処かへ消えていくを眺めながら、気が狂ってしまいそうな精神を必死に保つ。でも、きっとそれも限界だ。『榎本恵』はもうすぐ終わる。
どうにもならない現実から逃れたくて、また煙草に口をつけて不味い煙を吸う。嗅ぎ慣れた煙の匂いを感じながら、フゥーッと煙を吐いたところで「カシャッ」と異質なシャッター音が鳴った。
誰も居ないはずの屋上で、突然聞こえた音にハッとして顔を上げる。私を覆い隠す日陰の向こう側、眩しい太陽の光が降り注ぐコンクリートの上で、此方にスマホを向けて立っていたのは同じクラスでスクールカースト上位集団の武田だった。
武田は私にスマホを向けて、カシャッカシャッと何度かシャッター音を立てると満足したように微笑んだ。佐々野とも仲が良かった彼は、いつもと変わらない表情のまま「あーあ。」と声を上げた。
「まさか煙草を吸ってたのが佐々野じゃなくて、真面目な委員長だったとはね。」
煩く騒ぎ立てるわけでも、仲が良かった佐々野の件を責めるわけでもなく武田は静かにスマホを確認し始めた。その向こうでは、いつの間にか屋上のドアが開けられている。ゆらりと、コンクリートの上で陽炎が揺れた。
この状況は、何だ。今起こっている出来事に思考が置いてけぼりになる。指に挟んだ煙草の先からポロリと灰が溢れた。地面に落ちたそれを、風が一気に運んでいく。
冷たい汗が額から流れて、心臓がドクドクと音を立てる。サァーッと血の気が引いて、手足の先が痺れた。終わった。今この瞬間、『榎本恵』は死んだのだと思った。
「委員長の親ってさ、この辺でちょっと有名な会社の社長なんでしょ?」
「…え、」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。武田は私が煙草を吸っていたのを目撃したのにも関わらず、まるで佐々野と雑談でもするような雰囲気で話し掛けてくる。
上手く動かない頭で何とか武田の言った言葉をなんとか呑み込もうとするも、彼の質問の意図が全く理解出来なかった。何を考えているのか分からない彼の様子に、私は酷く動揺する。
「これ、バレたくないよね?」
何も言えずに唖然と押し黙る私に、武田は自分のスマホの画面を私に向けた。そこには、先程の煙草を吸っていた私の様子がしっかりと収められている。誤魔化しようがない事実を突き付けてきた武田は、「どうなの?」と言いたげに首を傾げていた。突き付けられた写真と感情が読めない武田の仕草に何処か圧力を感じて、私は戸惑いながらも恐る恐る頷く。
「じゃあさ、お金ちょうだい?」
「え?」
それはまるで、「おはよう」とでも言うくらいに自然な響きを持って簡単に武田から言い放たれた。頭をガツンッと殴られたような衝撃が私を襲う。一体、何を言ってるんだコイツは。
目の前に居る武田は、本当にクラスのスクールカースト上位集団の中で騒いでいる武田なのだろうかと疑ってしまう。佐々野に比べたら物腰も口調も柔らかいはずなのに、よっぽど彼の方が恐ろしく感じる。
今まで武田からこれ程までの気味の悪さを感じたことはなかった。佐々野たちとふざけ合ったり、村上や橋本と話したりしている姿とはまるで別人のように思えるくらいに、目の前の彼は得体が知れない。
「…金って、」
「金だよ、金。マネー。」
「な、なんで、」
「えー、脅迫ってやつ?」
意味が分からなくて思わず声を発すると、武田は何てことない様子で淡々と話す。彼の言った『脅迫』なんてものと無縁に生きてきた私は、その言葉が持つ鋭さにゴクリと息を呑んだ。
「お金くれたら黙っててあげるよ。」
トドメでも刺すようにそう言った武田は、悪意なんて微塵も感じさせない程に穏やかな笑みを浮かべていた。あぁ、もう取り返しなんてつかない。
やっぱり私が馬鹿だったんだと、深く絶望する。最後の一本だった煙草は碌に味わうことも出来ず、どんどん灰に変わっていく。震える指先から、短くなって吸殻同然のそれがコンクリートの上に力無く落ちた。
スマホ画面をひらひら振って此方に近付いて来た武田に、私は逃げることなんて出来なくて無言のままスクールバッグの中から財布を取り出す。中に入っていた一万円札を、彼の望む枚数だけ震える手で差し出した。
「てか、佐々野ってまだ謹慎解けないわけ?」
四限目の授業が終わり、ようやく訪れた昼休みのこと。教室で真帆と香苗と適当に机同士をくっつけ合って弁当を食べていると、同じように昼食を取っていたスクールカースト上位集団である村上が唐突に呟いた。村上の呟きに、彼女と共に弁当を広げていた橋本は片手でスマホを弄りながら首を傾げる。
「さぁー?でも、確かにそろそろ二週間近く経つよね?」
昼休みの緩い雰囲気の中で会話する彼女たちの声はやたらと大きくて、私たちの座る席までもよく聞こえてきた。そんな彼女たちに同調するように、教室内に居たスクールカースト上位集団たちも次々に声を上げる。
「じゃあ、学校来ていい頃だよな?」
「なんだよサボりか〜」
「それとも、もう夏休みだと思ってんじゃね?」
ケラケラと笑いながら、謹慎処分になってから未だ学校に姿を現さない佐々野について好き勝手に言い合う。私はその声に釣られるように顔を上げて、少し離れたところにある佐々野の空席を眺めた。
学校で私が吸った煙草が見つかり、佐々野が疑われて謹慎処分になってから既に二週間程が経った。その間に期末テストも終わり、あとは夏休みが来るまでの気怠げな授業が続いている。
噂では、佐々野は二週間の謹慎だったはずだ。しかし、二週間経った今でも学校にやって来る気配がなく、そんな彼と交流のあったスクールカースト上位集団が、今更思い出したかのように話題に挙げているのだ。
「つーか、結局煙草って本当に佐々野じゃねぇのかよ?」
「なんか佐々野のやつ、それは頑なに違ぇって言い張ってたらしいぞ?」
佐々野の話題を話す彼等は、少しずつ事件の発端である煙草のことについて触れ始めた。あの件の後、佐々野が煙草を吸った証拠は勿論一切無くて、散々騒いでいた萩原は何処か不服そうな顔で教壇に上がっていたけれど、これ以上話を大きくしたくなかったのか、煙草の厳重注意だけ告げるとあの件を再び話すことはしなかった。
私はヒヤヒヤしながら日常を送っていたが、期末テストがあったりして、時間と共に煙草が見つかった件は少し落ち着いたかと思われた。けれど、やはり煙草が見つかった件が綺麗さっぱり無くなったわけではない。私の犯した罪はずっと続いているのだ。
「へー、じゃあ誰なんだろ?」
突然上がった声に、ドキッと心臓が嫌な音を立てた。直ぐに、その声が発せられた方に視線を向ける。昼食を取りながら、賑やかな雰囲気で談笑するスクールカースト上位集団の中で態とらしく声を上げたのは武田だ。
武田は少し離れた席に座っているにも関わらず、クラスメイトたちの間から私に視線を向けるとヘラリと意味深な笑みを浮かべた。それにゾッと背筋が震える。
数日前、私は屋上で煙草を吸っているところを武田に見られた。『榎本恵』は終わったと何も考えられなくなる程の絶望の中で、武田は私に証拠の写真を突き付けながら「黙っていてあげるからお金をちょうだい」と堂々と脅迫をしてきたのだ。
私は沸き上がる恐怖から逃れる為に、スクールバッグに仕舞っていた財布から言われるがままに金を差し出した。追い詰められた私に、それ以外の選択肢など存在しなかった。満足そうに金を受け取った武田は「これからも、よろしくね」とわけの分からない挨拶を残して、そのまま屋上を去っていったのだ。
その時のことを思い返しながら、私は後悔と絶望で頭を掻き毟りたくなる。煙草を吸ってから、どんどん進む予定だったレールを外れてしまっていることに、その時初めて気づいたかもしれない。煙草を吸ったことを何度後悔したところで、もう『榎本恵』は元には戻れないのだ。
あれから、『榎本恵』から成り下がった欠陥品の私はとぼとぼと帰宅し、父に期末テストの順位結果を見せて「お前には、心底見損なった」という軽蔑の声をこれでもかって程に浴びせられた。ボロボロと崩れていく『榎本恵』の中から、本来の私の輪郭が見え隠れする。
絶望する私を見る父の目が、手のかからない成績優秀な娘から、どうしようもない欠陥品を見る冷たいものに変わった。もう、全てが終わったと思った。
けれども、それなのに私は何故か普段と変わらない生活を送っている。煙草を吸っている姿を武田に見られても、テストの順位を大きく落として父から見放されても。私は終わらなかった。煙草の件を黙っていてくれるように武田に金を差し出したからか、父は私が思っていた以上に私に期待をしていなかったからなのか分からない。壊れた『榎本恵』の殻を纏った私が、今でも死に向かって流されるように日常を続けていた。
「佐々野以外に、煙草吸いそうな奴いるか?」
「そもそも、本当にこのクラスの奴が煙草吸ったかなんて分かんねぇじゃん?」
教室で談笑するクラスメイトたちの声を聞きながら、武田は「んー、どうだかね?」と再び此方に視線を向けて愉快そうに笑った。
私が煙草を吸った犯人だと知っているのにも関わらず、このような振る舞いをする武田のことが本当に信じられない。金を受け取った武田は宣言どおりに、あの屋上で見た私の秘密を誰にも告げてはいないように見える。
けれど時折、こうやって「弱味を握っているからな」と言わんばかりの態度で私を怯えさせてくるのだ。私の親が会社の社長をやっていると知っていながら、金を要求してくるあたり武田は相当質が悪い奴だと思う。そんな奴に私の命運が握られているなんて、恐ろしくて気が狂いそうになる。
今も目を見開いて動揺する私を見て、武田はクラスメイトの陰に隠れながら「ははっ!」と堪えられないといったように笑い声を上げて肩を震わせていた。あの日から、私はずっと武田に『脅迫』されている。
「恵、食べないの〜?」
不意に、目の前に座った香苗から声を掛けられてハッとする。どうやら、机に広げた弁当を前にして、先程からずっと箸を止めていた私を不思議に思ったらしい。
「夏バテ?大丈夫?」
そんな私を気にしたように、真帆もペットボトルのお茶を片手に此方を伺ってきた。机の上には、母が作ってくれた色とりどりのおかずが入った弁当が手付かず、そのままの形で残されている。
「そうかも、何か食欲無くって…」
正直なところ、食欲どころか何もかもの気力が失せている。武田に煙草がバレて脅迫を受け、父には冷たい目で見放されて、もう『榎本恵』は壊れているのに私は金を払ってまで必死に取り繕って、背後から迫りくるような恐怖に抗い続けている。
ずっと悪い妄想が頭の中で這い回って精神も擦り減り、まともに夜も眠れず食欲も無い。それでも、弁当を残して帰れば母への対応が面倒なので、無理矢理に弁当の中身を口に突っ込んでいく。作業のようにそれを続けていれば、徐々に気分が悪くなってきた。
「ふははははっ!」
そんな時、突然教室内に響き渡った笑い声に何事かと顔を上げる。スクールカースト上位集団の中で、スマホの画面を見ながら腹を抱えていたのは橋本だ。
「ちょっと、何そんな笑ってんの?」
そんな橋本に対して、村上は不思議そうな表情をしながら彼女のスマホ画面を隣から覗き込んだ。
「いや、この前SNSに上げたお小夜の画像がバズっててさ!」
「マジで!?見して!見して!」
「えっ!まだアレ消してくれないの!?」
そう一気に盛り上がった二人に、一人の女子生徒が慌てたように立ち上がった。
「だって、こんなにお小夜の顔が面白いんだよ!消すわけないじゃん!」
『お小夜』と呼ばれているのは、以前も放課後に村上と橋本に揶揄われていた相川小夜だ。橋本は慌てる相川を見て可笑しそうに目を細めると、近くに居たスクールカースト上位集団にスマホの画面を向ける。
「ねぇ、このお小夜の変顔ヤバくない!?」
そう言った橋本に、スクールカースト上位集団はどれどれと画面を覗き込んでからケラケラと笑い声を上げ始めた。
「お小夜、これはヤバすぎ!」
「流石に女捨てすぎでしょ!?」
「しかも、結構バズッてね?有名人じゃん!」
「皆やめてよー!もう、何でこの画像SNSに載せたの!?あんなに駄目って言ったのに!」
いつかの放課後も同じように揶揄われていた相川は、スクールカースト上位集団の中でも分かりやすくイジられキャラだった。ギャーギャー慌てながら騒ぐ相川を中心に、教室内では大きな笑いが起こる。
面白い玩具を見つけた言わんばかりに、スクールカースト上位集団は橋本と村上を筆頭に相川をイジり始めた。
「これ私だったら耐えられないわ!」
「私だって耐えられないよ!勝手にSNSに載せるなんて有り得ない!今直ぐ消してー!」
「お小夜はやっぱ面白いよね!皆拡散よろしく〜!」
「おう、任せろ!」
橋本と村上の言葉に、スクールカースト上位集団は一斉にスマホを手にしてSNSに載せられている相川の写真を拡散し始める。それを「ちょっと、何してんのー!?皆やめてよ!」と叫びながら、相川はクラスメイトたちの肩をバンバンと抵抗するように叩いていた。ケラケラと彼女を馬鹿にする笑いが教室内に渦を巻く。
振り回されている相川を横目に、私は黙々と弁当の中身を口に運んだ。そして、それを水筒のお茶で一気に流し込み、なんとか弁当を食べ終える。空になった弁当を素早く片付けつつも、やはり胃が食べ物を受け付けないのか、若干の気持ち悪さを感じて「ちょっと、お手洗いに行ってくる。」と真帆と香苗に告げて直ぐに席を立った。
スクールカースト上位集団が騒ぐ賑やかな教室を出て、ゆっくりとした足取りでトイレへ向かう。食べ物だけじゃなくて、あの相川を振り回すような教室の雰囲気が私の気分を一層重くさせた。トイレを済ませて洗面台で手を洗い、ふと鏡に映った自分の姿を見る。
目の前に映る自分は何処か顔色が悪く、光の入らない目の下には薄っすらと隈が出来ていた。成績優秀で真面目な委員長である『榎本恵』は、もう壊れているのに未だに動き続けるコレは一体何だ。
毎朝、布団の中で必死に作り上げた『榎本恵』とは何だったのだろう。今も欠陥品の私は馬鹿の一つ覚えのように『榎本恵』を取り繕っている。そんなことをしたくないと心の何処かで叫んでいるのに、そうしないと私は他人の前に怖くて出られない。臆病な私にとって、自分を守るために必要な仮面が真面目な優等生『榎本恵』だったのだ。
もう、何がなんだか自分でもよく分からなくなってきた。私って一体何なのだろうという答えの出ない問いが、じわじわと広がって胸の中を覆う。とても疲れた。何も考えたくない。生きることを休ませてほしい。世界を遮断するように布団の中に潜って、そのままいつかの蛹のように籠もっていたい。自分をドロドロに溶かして、跡形も無いくらいにぐちゃぐちゃになってしまいたい。強く、そう願った。そんなこと叶うはずも無いけれど、私は願わずには居られなかった。
深く息を吐き出して、情けない表情を無理矢理にひきしめる。ボロボロになった『榎本恵』の仮面を着けて、私はトイレを後にした。昼休みの生徒たちが行き交う廊下を歩いていれば、前方からやって来た人影に思わず歩みを止めそうになる。
「あっ、委員長!やっと見つけた〜」
「…何、」
ヘラリと笑みを浮かべて此方に歩いてきたのは、私の秘密を知る唯一の存在、武田だった。この私が一人になったタイミングで、声を掛けられたことに嫌な予感がする。
武田は周囲に人気が少なくなったのを確認してから、私に近付いて口角を上げた。
「今日皆でカラオケ行こうと思っててさ、だからお金くれない?」
「…は?」
目を見開いて武田を見上げれば、彼は以前屋上で見た時のように悪気の無い穏やかな表情をしていた。コイツは、何を言っているのだろうか。パチパチと瞬きをしながら、武田の言葉を理解しようとする。
「な、なんで…?」
「だって黙ってたら、お金くれるって言ったじゃん。」
「だから、前に払ったでしょ!?」
苛立ちと恐怖が入り乱れて、混乱した私は叫んだ。廊下に響いた私の声に、少し離れたところを歩いていた生徒がヒソヒソと此方に視線を向けている。それにハッとしながらも、肩で息をしながら取り乱した私は、もう真面目な委員長『榎本恵』姿ではなかった。
目の前の飄々とした態度の武田が、酷く癪に障る。私のキャパはもう限界を迎えていた。こんな事を後どれだけ繰り返せば楽になれるのか、足掻き続けたところで何か意味があるのだろうか。
自分で撒いた種なのは分かっているけれど、そもそも何で私が煙草を吸わなければならなかったのか、辿っていけばこの世界が悪い。八つ当たりように武田を睨みつける私を、彼は一瞥して無表情に口を開く。
「あれだけの金額で素直に黙ってると思ってんの?そもそも、煙草吸ってたの委員長だよね?俺はそれを教師に言う方が正義だと思うんだけど、わざわざ黙って見逃してやってんの分かってる?何か委員長、勘違いしてない?」
「…っ、」
「それに佐々野だっていい迷惑だよね。あの煙草も、結局委員長が吸ったやつでしょ?クラスで一番の問題児に罪なすり付けて、なかなか性格終わってるよね。」
淡々と話す武田に、私は何も反論出来なかった。全て、彼の言う通りだと思う。私の弱味を握って金を脅迫する武田と、委員長の仮面を着けて煙草を吸っている私のどちらの方が悪かと聞かれたら、きっと私の方が罪が重い。真面目な優等生『榎本恵』を壊したのは、武田でも父でもなくて私自身だ。全部自業自得なのだ。
「で、お金くれないの?」
私を追い詰めた武田は、ひらりと掌を此方に向ける。その掌を振り払える程、私は綺麗な人間じゃない。『榎本恵』で居たくないくせに、必死にそれにしがみついて何処までも逃げようとする。
目の前で脅迫を続ける武田に、「ちょっと待ってて」と告げてから一度教室へ戻る。賑やかな教室では、今だにSNSに載せられた相川の写真の話題で盛り上がっていた。どいつもこいつも何がそんなに面白いのか、苛々して泣きたくなった。
私は自分のスクールバッグから財布を取り出して、廊下で待つ武田の元へ急いで向かう。「もう、やめてよー!」と背後で笑い混じりに叫んだ相川の声が、何処か疲れているような気がした。
「…これ、いつまで続くの?」
放課後、人気の無い校舎の廊下で不安げに呟かれた声に、一万円札をテンポ良く数えていた手を止める。
「いつまでって?」
「だって、もうこれ以上は親にもバレるから…」
そう言って、口を閉ざした委員長に俺は内心舌打ちをした。親にバレるからって、何だ。そんなこと知ったことかよ。沸き上がる苛立ちをニッコリとした笑顔で抑えながら、俺はなるべく穏やかな口調で言った。
「委員長の親って会社の社長でしょ?参考書買いたいから、お金くださいって言ったらくれるんじゃないの?」
クラスの委員長、榎本恵の親はこの辺りで少し有名な会社の社長らしい。彼女と同じ中学だった奴から聞いた情報だが、小さい頃から習い事や塾に大忙しだったらしく、随分と金には恵まれていると近所でも噂されていたようだ。
それに加えて、成績優秀で真面目な優等生の彼女は余程目立つ存在だったのだろう。教師からの評価も良く、面倒な作業も自ら率先して受ける彼女はまさに『委員長』というキャラが板に付いていた。
そんな彼女が煙草を吸っていたなんて、一体誰が思うだろうか。最初にその光景を見た時は驚いたけれど、俺は何かを考える前に無意識にスマホのシャッターを押していた。本能的に、これは大きなネタなると思った。そして、金になると思ったのだ。
「そんなに金が欲しいの?」
「は?」
委員長から巻き上げた金を数えて財布に突っ込んだところで、彼女は無表情のままそう言った。
金が欲しいかって?当たり前じゃないか。会社社長の娘なんかに産まれて、小さい頃から散々金かけてもらえて、今まで金になんて困ったことが無い奴に俺の何が分かる。委員長なんてやってるのは、育ちが良い奴の特権だろうが。
脳裏に浮かんだのは自分が小さい頃、父がやっていた会社が倒産して借金を被り、牢屋のように狭いアパートで母と父と肩を寄せ合いながら暮らしていた時のことだ。
同じ服を着回して、飯もあまり食べられなかった俺たち家族のことを噂好きな近所の大人たちは、こぞって世間話のネタにした。それはあっという間に子供にまで伝わって、学校で俺はアイツらの餌食になった。
『貧乏人』と散々馬鹿にされて、害虫を見るような目で見てきた奴らのことを俺は忘れない。俺を弄んで楽しんでいた奴らに貼られた『貧乏人』のレッテルは何年も続いて、その間俺は窮屈で地獄のような学生生活を送る羽目になった。
月日が経ち、ようやく父の新しい事業が軌道に乗って『貧乏人』を脱却してから、中学卒業と共に地元を離れて、自分の過去ことを知る奴らが居ないこの高校に入学したのだ。青春と呼ばれる学生時代で、一番印象的強く残っている記憶は『貧乏人』のレッテルを貼られて害虫のように甚振られたあの頃だろう。
佐々野とは、その辺りの境遇がよく似ていたように思う。本人から実際に聞いたわけではないけれど、毎日のようにバイトを入れて節約のためか、遊びの誘いも断っている佐々野に共感するところがあった。
だから、クラスメイトの中では良く行動を共にしていたし、そこそこ話が合って一緒に居るのが苦では無かった。
けれど、実際俺たちが友達と呼べるほど信頼関係を築けていたかは分からない。正直、俺は自分以外の存在をそこまで重要に思ったことが無い。昔から周囲の人間に甚振られてきたからだろうか、無意識に自分以外の奴を敵視しているような気がする。
それこそ、佐々野が煙草を疑われた時も特に何も思わず、「面倒なことになってんな〜」と軽い見方しか出来なかった。多分、俺はきっと何か重要なものが大きく欠落しているのかもしれない。まぁ、それはそれでどうでも良かった。
「金に不自由したこと無い奴には分かんねぇよ。」
「…そう。」
俺を見つめる委員長の目が、あの頃俺を甚振って楽しんでいた奴らの害虫を見るような目に思えて無性に苛々する。『貧乏人』から抜け出して、他人の弱味握って金巻き上げている俺を碌でもない奴だと思っているのだろう。上等だ。こんな外面だけ必死に取り繕ってる奴に、何を思われようと構いやしない。
いつものように沸き上がる苛立ちが抑えられず、目の前の委員長を鋭く睨み付けると、委員長は何処か諦めたような表情してこの場から去って行った。
その後ろ姿を眺めながら、スマホを取り出して画面を開く。フォルダーの中、煙草を吸っている委員長の写真に触れる。そこには教室でいつも浮かべている笑みは無く、表情が抜け落ちて、何かの儀式のようにただただ煙を吐き出している彼女が居た。
真面目な委員長が隠れて煙草を吸っているなんて、何か理由があるのかもしれない。けれど、そんな事はどうでも良い。金だけ貰えたら、それでいいのだ。
スマホを片手に歩き出した矢先、廊下の曲がり角でドンッと身体に衝撃が走った。カシャンッと嫌な音を立てて、手に持っていたスマホが床に落下する。
「うわっ、ごめん!」
慌てたように謝ってきたのは同じクラスの『お小夜』こと相川小夜だった。スマホを片手に余所見していたのが仇になったのか、曲がり角で前方から来ていたお小夜に気付かず衝突してしまったようだ。
「いや、こっちこそ。大丈夫?」
そう言いながらも、廊下の上に転がったスマホが気掛かりでしゃがみ込もうとする。最悪、画面にヒビが入ったかもしれない。そう思うと、気分が重くなって動作も鈍った。
そんな俺よりも早く、お小夜は俺のスマホを拾い上げてくれた。お小夜は俺にスマホ画面を「はい、コレ。」と差し出そうとして、不自然に動きを止める。
俺のスマホ画面には、先程眺めていた煙草を吸っている委員長の姿が映っていた。あー、バレた。良い金稼ぎになると思ったのに、これまでか。委員長の秘密がバレたところで俺は痛くも痒くもないし、こんな碌でもない感想しか抱けない。
お小夜は俺のスマホを片手に、委員長の写真を無言のまま見つめている。真面目なクラスの委員長の裏の姿を見ても、驚く程に何の反応も示さないお小夜に俺は内心戸惑った。
「ねぇ、」
静かに写真を眺めていたお小夜が、不意に声を上げる。それにいつもと変わらない表情を装って「ん?」と声を返せば、お小夜はスマホを見ていた顔をようやく上げた。
「この写真くれない?」
そう言ったお小夜に、俺は思わず息を呑む。いつも村上や橋本に容赦なく揶揄われて、ギャーギャー騒いでいる姿は何だったのかと思う程に温度の無い瞳は、俺の中の何かを刺激した。
「んー、いくらで買う?」
これは、まだイケる。そう確信を得て、悪魔のように笑う。クラスのイジられキャラだったお小夜は、こんな冷酷な姿を隠していたのだ。きっと、彼女はこの写真を俺と同じように碌でもないこと使うのだろう。
俺の問い掛けに、お小夜は覚悟を決めたように「いくら欲しいの?」と口を開いた。あー、まだ稼げそうで良かった。
朝、目が覚めてから絶望する。また望んでもない朝がやって来たのだと布団の中で、身体を小さくして丸まった。このまま、世界を遮断する布団の中で誰にも会わずに生きていく方法はないか私はずっと夢見ている。この空間で私は私のまま、何も気を遣わず誰にも傷付けられずに沈んだように眠っていたい。
けれど、そんな私の夢はいつだって叶わない。過ぎていく時間に抗うことも出来ず、私は鬱々とした感情のまま人の前に出られるように『榎本恵』を作り上げる。もう誰も『榎本恵』を必要なんてしていなくとも、私だけがそれにしがみついている。
そんな事を後どれだけ続けたら、私は楽になれるのだろうか。なんか、もう面倒くさい。色々と考えるだけ無駄なのだ。ドロドロになって消えてしまいたい。蛹が蛹のままで死ねたのなら、どれだけ良いか。布団の膜を破り、私は誰にでも都合の良い『榎本恵』になって、ようやく立ち上がった。
身支度を整えて自室を出ると、タイミング悪く会社に行く父に遭遇する。父は私を一瞥すると、何の言葉も交わさずに家を出て行った。まるで存在そのものを無視するような父の態度に、ヒュッと喉が貼り付いたように呼吸がしづらくなる。
もう私を守る外面の『榎本恵』は機能していない。そんな事は分かっている。塾の小テストも、期末テストでも良い結果を残せなかったのだから仕方ない。いつも成績優秀で完璧な優等生でなければ、『榎本恵』に価値は無くなる。それでも、私は父の望むレールの上を進む以外に生きていく方法は無いのだ。
諦めと絶望が私の中で這い回り、重たい気分のまま家を出る。まだ朝だというのに、降り注ぐ日差しは既に熱を持っていてじんわりと汗を掻く。街路樹にとまる蝉たちの死に抗う声を聞きながら、学校までの道のりを歩き始めた。
今日も武田から脅迫を受けて、萩原含めた教師たちに媚び売って、クラスの委員長らしい振る舞いをして憂鬱な一日が終わるのだろう。これ以上、『榎本恵』を脅かすような失敗は許されない。
通学路を歩きながら、見上げた空は嫌になるくらいに青かった。学校が近付くにつれて、同じ制服を着た生徒たちの群れで溢れていく。朝から友達同士や恋人同士で楽しげに会話する彼等に、無理矢理混ざるように歩いていると、何だか自分だけが酷く浮いてるような気がして勝手に惨めな気持ちになってくる。
何で私は彼等のようになれないのだろうか。いつだって自分と周囲の間に埋まらない溝があって、自分とは反対側に居る彼等は常に楽しそうでキラキラとしている。私はそれをただただ薄暗い気持ちで眺めている。どう足掻いても馴染めないと分かっていながら、自分の異質さが露見しないように『榎本恵』で必死に取り繕っている。誰だって、自分の都合の良い存在に牙は剥かないだろうから。
そんな事を考えていれば、不意に周囲から視線を感じ始めた。
「委員長って…」
「マジかよ?ヤバくね?」
生徒たちの群れの中で私の方を見ながら、コソコソと話しているのは同じクラスの男子だった。何、だろう。彼等の私を見る目は、何処か冷たくて不自然だ。
「ねぇ、SNSに載せられたやつ見た!?」
「あれって委員長だよね?」
私に向けられる視線は徐々に増えていき、校門を通り抜けたところで今度は同じクラスの女子に冷笑を浴びせられた。可笑しい。これは私の知らないところで、確実に何かが起こっている。
一気に得体の知れない恐怖に襲われて、校舎に向かう足が竦む。一体何が起こっているんだと、焦る気持ちでどうしようもなくなる。今までに無いくらいに、嫌な予感がする。それでも、どれだけ逃げたくても何処に逃げたらいいのか分からない私は、全ての感情を抑え込んでいつものように教室に行くしかなかった。
ガヤガヤといつも以上に騒がしい教室を前にして、ドクドクと心臓の音が激しく打ち付ける。
「SNSに載せられた委員長の写真ってガチなの!?」
「煙草吸ってるやつでしょ!?ヤバいよね!」
あっ。
そう思った時には、呼吸が上手く出来なくなっていた。全身の血の気が引いて、自分が何処に立っているかも分からない程に視界が揺れる。ふらついた足は、もはや地面についている感覚がない。
「うわ、よく平気な顔して学校来れるよね〜?」
教室のドアの前に立ち竦んでいた私に気付いたのか、スクールカースト上位集団と共にスマホを覗き込んでいた村上が声を上げる。
「委員長さー、煙草吸ってたんだって?」
村上に続くように橋本が、手元のスマホの画面を私に突き付けた。目の前に晒されたのは、あの日屋上で煙草を吸っていた私の姿だった。混乱する頭で、SNSに私の秘密が暴かれたのだと理解する。どうして、これが。誰が。誰、誰、誰、誰。誰って、一人しか居ない。武田が?武田がやったのか。金払ったのに。金を渡したのに武田が、武田がやった。アイツが。
気が狂いそうになりながら視線を教室内に向けると、クラスメイトたちの軽蔑の視線が私に容赦無くブッ刺さる。
「いつも良い子ぶって教師に媚び売ってる真面目な委員長が、裏でこんな事してるなんて本当に吃驚しちゃった〜!」
目の前でケラケラ笑いながらそう言った村上に、私はグッと首を絞められたかのように息苦しくなる。教室に居るラスメイトたちは、まるで断罪させれているような私を遠巻きに見てはヒソヒソと面白そうに噂している。なんで、こうなった。なんで、私がこんな目に。バグったように同じことばかり繰り返す頭は、全く働かない。
「てか、このクラスで見つかった煙草って委員長が吸ったやつなんじゃないの?」
スクールカースト上位集団の中から、一人の男子が声を上げた。それを筆頭に「あれ委員長だったの?」「うわ、信じられない」と教室内に私を批難する声が次々に飛び交っていく。
「佐々野に煙草の罪擦り付けて、どんな気分?真面目そうな顔して、やってること汚いよね〜!」
村上に並んで橋本も、私の罪を暴いていく。「佐々野」という名前に、スクールカースト上位集団も今更のように反応した。
「問題児に罪押し付ければ、自分がやったことバレないとでも思ったのかよ!」
「流石に酷すぎる!性格悪っ!」
「委員長の化けの皮が剥がれたね!元々、態とらしい優等生キャラ苦手だったけど!」
「委員長って榊大志望でしょ?これマズイよね。」
「煙草が学校でバレたら、進学は確実に無理だろ。就職も厳しいんじゃね?」
「人生終わったな〜」
私はサンドバッグのように好き勝手に言う彼等の言葉を受ける。人生終わり。本当にその通りだ。私が必死に作り上げてきた真面目な優等生『榎本恵』は、もう何処にも存在しない。いや、初めからそんなものは居なかった。誰かが言ったように、化けの皮が剥がれただけだ。
SNSに載せられた煙草を吸う私の姿は、凄い勢いで拡散されていく。大人たちの目にも、直ぐに届くはずだ。父にも母にも、萩原たち教師にも。今のクラスメイトたちのように、きっと大人たちは揃って私を悪だと罰するだろう。
そして、私はこれ以上父が望むレールの上を進めなくなる。産まれてからずっと義務付けられていたレールを大きく外れて、私の価値は完全に無くなるのだ。大人たちが望む『榎本恵』は、今ここで死んだ。もう何度も死にかけていたのに、しぶとく足掻いた結果がコレだ。
手の震えが止まらなくて、心が張り裂けそうになった。ずっと恐れていたことが、私の想像よりも酷い形で目の前に現れてしまった。クラスメイトの声に視線に存在に、私の惨めな姿が晒される。情けなくて恥ずかしくて、死にたくなる程の絶望に泣きそうになるのを必死に堪えていた。
何もかも、煙草を吸った私が悪い。そう頭では分かっている。でも、私はこんなに必死に生きてるのに、自分が分からなくなるくらいに苦しいのに。なんでこんな奴らに、私を否定されなければいけないのだろう。何も知らないくせに。毎朝、どんな思いで『榎本恵』をここまで作り上げてきたか。私がどんな思いで煙草を吸っていたか、知らないくせに。
悔しくて悔しくて堪らなくなった私は、その衝動のまま気付けば叫んでいた。
「うるさい!」
教室内に私の声が響いて、騒いでいたクラスメイトたちは一瞬静まる。けれど、次の瞬間には「は?」と険しく顔を歪めて彼等は私を睨み付けた。それに怯みそうになる自分をグッと堪えて、目に力を入れて反抗する。
私を悪だと言うなら、寄って集って絶望している私を嘲笑っているコイツらは一体何だ。一人じゃ、何も出来ないくせに。偉そうに口で言うほどの正義なんて持って無いくせに。絶望している私の姿がそんなに面白いか。退屈な学校生活で、さぞ良いネタになっただろう。どいつもこいつもくだらない。皆死ね。こんな世界なんて死んでしまえ。
沸き上がる感情のまま、教室を出て行こうとすると廊下で私を見つめている真帆と香苗の姿があった。「恵…」と小さく私を呼んで、信じられないと言いたげな二人に苛々して泣きたくなる。
そのまま何も言わない二人を無視して、私は教室を飛び出した。投げつけられる視線や言葉から逃げるようにひたすらに走って、校舎の階段を全て降りたところで私の秘密を唯一知っていた武田が現れた。
「…武田」
私の呼び掛けに「あっ、」と反応した武田が、なんとも面倒くさそうな表情する。
「一応言っとくけど、SNSに写真上げたの俺じゃないよ。」
そう言った武田に、私の苛立ちは頂点に達した。
「じゃあ、誰なの!?」
飛び掛かる勢いで武田に向かっていくと、彼は焦ったように身構えて口を開いた。
「誰って、お小夜だよ!」
「は?」
武田の言った言葉に、私は大きく目を見開いた。『お小夜』と言われて頭に思い浮かべるのは、いつも村上や橋本に散々イジられている相川小夜のことだ。同じクラスとはいえ、これまで何の接点も無い彼女が何故そんなことをするのだろうか。
予想外の人物に、私は思わず言葉を失った。そもそも、
武田は金を払えば黙っていると言ったのに、何故相川に私の秘密を明かしたのだろう。自分にはまるで関係無いと言うように、のうのうとしている武田が心底憎かった。
「あ、お小夜。」
不意に、武田が問題の彼女を呼ぶ。その声に釣られるように、視線を向ければ登校してきたばかりの相川小夜が居た。相川は私を見ると、立ち止まって何処か戸惑うように視線を泳がせる。あっ、コイツ。
その瞬間、私は何かを考える前に身体が動いていた。彼女の胸倉を掴み上げてすぐ側の壁にに思いっきり押し付けた。「痛っ、」という悲鳴が彼女から上がっても、決して手の力を緩めることはしない。私の突然の行動に、近くに居た武田が慌てる素振りを見せる。
「ねぇ、なんで?」
私はあくまで冷静なフリをして、目の前の相川を問い詰めた。
「なんで私の写真、SNSに載せたりしたの?」
相川は私の言葉に、グッと眉間に皺を寄せて口を噤んだ。けれど、私はそれを許さない。私が守り続けてたものをめちゃくちゃに壊して、黙ったままではいさせない。「答えろ!」と胸倉を掴む手に力を込めて問いただすと、相川は泣きそうに顔を歪めて私を睨み付けた。
「だって、こうでもしなきゃ、私はずっと皆の笑われ者だから!」
相川の言った言葉が、一瞬理解出来なかった。「は?」と自分とは思えない程に低い声が溢れる。そんな、クソみたいな理由があるだろうか。
「私の変顔、SNSに載せられて消せないの!皆面白がって拡散して、馬鹿にして!でも、それでもハブられない為にイジられキャラで居るしかない気持ちがアンタに分かる!?皆から、一目置かれるような委員長には分かるわけないでしょ!」
胸倉を掴み上げている私の手を、相川は抵抗するように握った。廊下で掴み合う私と相川を、登校してきた生徒たちは遠巻きに見ている。直ぐ側に居た武田は、相変わらず傍観者を決め込んでいるようだった。
「どうにも出来ないなら、私の変顔よりも皆が食い付くような写真上げるしかないじゃん!アイツら馬鹿だから、新しい話題を提供すれば、こぞって食い付いてくるに決まってる!アンタと違って、私は何も悪いことしてないしね!煙草吸ってる委員長なんて、最高のネタだったよ!」
肩で息をしながら、相川はそう強く言い放った。
「ははっ、」
静まり返った廊下で、私の乾いた笑いが響く。情けない。こんな事でしか、彼等に抗うことも出来ない相川も。そんな理由で『榎本恵』を殺す私も。
「本当、馬鹿みたい。」
全ての気力が抜けていき、相川の胸倉を掴み上げていた手をダラリと離す。その時、校内に朝のHRを告げるチャイムが響き渡った。
私は何も考えることをやめて、その場から離れるように歩き出す。「委員長」と背後から武田に呼び掛けられたけど、心底気持ちが悪くて無視した。
静かになった校舎を出て、平衡感覚が上手く掴めないまま、容赦無く日差しが照り付ける中をふらふらと歩く。地面に足が着いてるのか、何処を歩いるのか分からないままにひたすらに足を動かしていると、小さな段差を踏み外し、呆気なくコンクリートの上に倒れ込んだ。
じわじわと広がっていく痛みに、視界が歪んでいく。自分が酷く惨めで仕方なかった。もう無理だ。生きられない。途方もない絶望が私を襲って、情けなく倒れ込んだまま立ち上がれなくなる。
硬い地面に痛む頬を押し付けて、そのままの姿勢で視線を宙に這わせると、風に吹かれて揺れる花が視界に入ってきた。直ぐ側の花壇で、手入れされた花々が綺麗に咲き誇っている。無感情のまま、それを眺めていると一枚の葉に少しの違和感を感じた。
重たい身体を持ち上げるようにのそりと起き上がると、思ったよりも勢い良く転んだのか、肘や膝からは血が滲んでいた。怪我を認識すると、途端にじくじくと痛みが強くなったような気がする。肌を汚す赤色を冷めた視線で眺めてから、目の前の花壇を覗き込む。
違和感を感じた葉の下、そこには以前この花壇に水をやっていた際に見つけた蛹があった。あの頃は春だったというのに、未だに蛹のまま葉に付いているそれは、蛹本来の綺麗な緑色ではなく、中身が腐っているかのように濁った色をしていた。
あの蛹は、蝶になれなかったのか。
そう思ったら、ずっと我慢していた涙がポロッと地面に溢れ落ちた。誰も知らない葉の下で世界を遮断する膜に包まれて、この空を羽ばたくこと無く死んだ蛹。
その存在はいつかの私が願った姿で、今の私にとっては理想そのものだ。それなのに、何故こんなにも遣る瀬無い気持ちになるんだろう。
蝶にならず、蛹のままひっそりと死にたい。この世界で上手く振る舞えなくとも、自分を無理に偽らなくても、私が私のまま終われたならと思った。嫌いな自分を誰にも見られること無く、全てドロドロに溶けてしまえばいいとも思った。
きっと、煙草のことが無くたって私は終わっていたのだ。思い描いていた蝶の姿には、どうしたってなれない。私には、この世界が驚く程に向いていなかった。
死んだ蛹を眺めてから、ゆらりと立ち上がる。夏風に吹かれるまま、私は行く宛もなく走り出した。転んで怪我をした肘も膝も痛いけれど、全部どうでも良かった。私は蛹になるべく、走り出したのだ。



