ガチャンッと玄関のドアが閉まる重たい音が響き、父が帰って来たのだと悟る。一気に周辺の酸素が減ったように、呼吸が苦しくなった気がした。
それを誤魔化すように大きく息を吐き出していれば、階段を上ってくる足音が聞こえて無意識に肩に力が入る。私はいつものように何でも無いフリをして、目の前に広げた参考書の問題を解いていく。淡々と作業のようにそれを続けていれば足音は次第に近付いてきて、ついにはガチャッと勢い良く部屋のドアを開けられた。
「どうだ、勉強は進んでいるか?」
ノックも無く開けられたそれに虚無感を覚えながら「…まぁ、ぼちぼち。」と、いつもと同じように返事をする。机に向う私に、父は得意気に腕を組んだ。
「もう高校三年生になったんだから受験もあるんだし、しっかりと勉強しなさい。」
「はい。」
「そういえば、この前の塾での小テストはどうだったんだ?」
そう聞いてきた父に、密かに心臓が跳ねる。「結果はもう戻って来たのか?」と逃げ道を塞ぐように早口に続けられるのを、私は「…まだ。」と小さく躱す。
「そうか、結果が返ってきたら直ぐに見せなさい。」
「はい。」
私の返事に満足したのか、父は勉強のことだけ聞くと早々に部屋を出て行った。父も担任の萩野も、私が勉強をして良い成績をとる事以外は興味が無いのだろう。
毎回言われる内容は同じで、私は何度もこの会話を繰り返しては、「はい」としか言えないロボットに成り下がる。もはや内容なんて聞いていなくても「はい」さえ言えば、直ぐにこの会話は終わりを迎えるのだ。
父の足音が遠退いていき、私は肩の力を抜く。そして、塾の鞄からこの前やった小テストの結果を取り出した。いくつかのテスト用紙の中で、数学だけ『71点』と書かれたそれはとても父に見せられるものではない。見せたらどうなるか、想像するだけでも億劫だ。
父の家系は代々会社を経営していて、父はそこの三代目社長で地元では少々名の知れた人物だった。高校卒業後、直ぐに身内だらけの会社で次期社長として働き始めた故か、大学進学経験が無い父は、やたらと私を有名大学へと行かせたがった。
幼い頃から数々の習い事を義務づけられて、常に良い成績をとれるようにと厳しく勉強を教えられてきた。きっと、父は私を使って自分がやりたかった事を発散させているだけなのだと思う。
生まれた時から、こうあるべきだと教育されてきた私は自分の意思というものが、人と比べて酷くあやふやなのかもしれない。だから、やりたくないと思った『学級委員長』も誰かに言われたら、それに従う事しか出来なかった。
面倒だとか嫌だとか自分の感情は、全て捨てるようにして生きてきた私は常に父の言いなりで反抗する事を知らない。誰かにとって、都合の良い人間でしかない。
そう、分かっている。歳を重ねる度に増えていく違和感が、心の中で叫んでいるのを聞こえないフリをする。毎日、自分が何処へ向かっているのか、何のために生きているのか分からない無限に続くループのような日々は、段々と自分の首を絞めていくようで息苦しい。
頭が痛い。喉が渇いた。終わらない思考の渦に呑み込まれそうになりながらも、重たい足取りで部屋を出る。両親と私の三人暮らしだとは思えない程、見栄ばかりの大きな家の中は静かで空っぽだ。
階段を降りて廊下を進み向かった広いリビングには、タイミング良く誰も居なくて安心する。自分の家なのに何故こんなにも肩に力が入るのだろうかと、無意識に上がっていた肩を下ろした。キッチンにある冷蔵庫から飲み物を取り出して、一気に飲み干す。渇いていた喉は潤したはずなのに、どうにも何かが満たされない心地がした。
ふと、見渡すようにリビングへと視線を向けると、中心にある大きなダイニングテーブルに父が忘れて行ったであろう煙草とライターが置いてあった。ポツンと淋しげに置かれたそれが、なんとなく気になって手に取る。
以前にも見かけたことがある光景にも関わらず、父の所有物に触れたのはこの時が始めてだった。いつも咎められることが怖くて仕方なく、興味も無かったのに何故煙草を手に取ったのか自分でも分からない。本当になんとなくだ。
煙草は父がよく吸っているので、箱の中は既に半分ほど減っていた。私は何も考えずに、その箱から一本煙草を取り出す。普段手にする機会の無いそれをまじまじと観察した後、見様見真似で口に咥えてみた。
そして、煙草と共にテーブルへ置かれていたライターで咥えた先に火を点けた。しかし、何故だか上手く火が点かなくて思わず眉間に皺を寄せる。初めての行為に変な緊張を感じながらも煙の匂いが微かに漂った瞬間、何故だか今まで作り上げていた自分の存在が消えていくような気がした。
その瞬間、ガタンッと隣の部屋から物音がしてビクッと肩が跳ね上がる。焦る気持ちのまま慌てて、父が使っている灰皿を見つけて咥えていた煙草の先を押し付けた。
まだ全然火が点いていない煙草は、吸殻と呼ぶにはあまりにも不自然で殆ど元の形を残している。それを片手に隠すように持ったまま、酷く焦った私は何を考えたのかデーブルに置かれたままの煙草とライターを持って急いでリビングを飛び出した。
バクバクと心臓の音が、太鼓のように身体中に響く。頭が何も考えられなくなって、ただただリビングから逃げるように足を動かした。その際に、手に握り締めた煙草の箱がクシャッと凹む。
なるべく足音を立てないように急いで階段を上がり自室へ戻ると、一気に脱力感に襲われた。ここまで来れば大丈夫だろうと少し冷静になったところで、焦った勢いで持ってきてしまった煙草とライターを見比べる。何で、こんなものを持ってきてしまったんだろう。煙草を吸おうとしていた所を父に見つかったらまずいとはいえ、流石に混乱しすぎだ。
それにこれは父のものだし、無くなった事に気付かれて探されたら面倒だ。早くリビングに戻しに行かなければと思うも、下の階から物音が聞こえて思わず部屋に留まる。恐る恐る部屋のドアを少し開けて耳をすませば、父と母の会話が聞こえて来る。再びリビングに戻るのは危険だと思い、とりあえず全然吸えてない煙草を箱に戻した。
煙草とライターをそれぞれ手に持って、こんな事をするつもりではなかったのにと頭を抱える。未成年であるにも関わらず、急に煙草を吸ってしまうなんて本当にどうかしていた。
頭ではそう思っているのに、私はその時に何処か胸がすくような気持ちになっていた。初めて犯してしまった罪を誇らしく思ってしまうような、本来の自分というものが芽生え始めたような不思議な感覚が確かにあった。
手に持った煙草を眺めつつ、私は口の中に一瞬だけ漂った煙の味を舌で撫でる。その時、ずっと偽物の振る舞いに包まれていた本来在るべき己の姿が、少しずつ膜を破ろうとしているのを感じたのだ。
キーンコーンカーンコーンと、四時限目終了のチャイムが鳴り響いて一気に教室内の空気が緩む。その空気を感じとった数学担当で担任の萩原は、眉間に皺を寄せてクラスメイトの浮き立ちを抑えるように口調を強めて授業内容の公式を告げていった。
萩原は言いたい事だけ言って「起立、礼」と慌ただしく授業を終える。それと同時に、ガラッと教室のドアを開けて校内のざわめきと共に目を引く茶髪がズカズカと入って来た。
「佐々野、お前また遅刻か!」
唐突に現れた茶髪に、萩原が眼鏡を片手で上げて呆れたように怒鳴る。
制服をだらしなく着崩して、校則違反の茶色に染められた髪にピアスを着けた男子生徒。佐々野浩は、このクラスで一番の問題児だ。佐々野は目を吊り上げる萩原の言葉を大して気にもせず、「サーセン、寝坊っす。」と欠伸しながら返している。
佐々野はそのままスタスタと自分の席に向かうと、「佐々野遅ぇよ!サボり魔〜!」と仲の良いクラスメイトたちにイジられていた。
「だって起きれなかったんだから、仕方なくね?」
「うわ〜、悪ぃ奴だな!てか、今日放課後カラオケ行かね?西校の奴ら誘ってさ!」
「あー、バイトあんだよな〜」
「お前いつもバイトばっかじゃん!」
ケラケラと楽しげに話す佐々野たちを、担任の萩原は忌々しげに睨み付けて「委員長、職員室まで次の授業で使う資料を取りに来てくれ。」と不機嫌のまま私に告げる。八つ当たりもいいとこだ。佐々野に相手にされなかったからといって、此方に当たるのはやめてほしい。
諦めの気持ちと共に「はい…」と答えながら席を立ち上がり、苛立ちを隠さないまま歩き始める萩原の後に続き教室を出る。チラリと一度だけ視線を教室の中心にいる佐々野に向ければ、彼はクラスメイトとふざけ合いながら笑っていた。その様子に、やり場のない苛立ちがゆらゆらと胸のうちで浮かぶ。
昼休みを迎えた校内は、授業から解放された生徒たちが行き交っていて騒がしかった。前を歩く萩原の背中は、その騒がしい雰囲気の中で刺々しいオーラを放っている。
「全く佐々野には困ったものだ。なんで、あんな奴がこの学校に居るんだか…」
「…はぁ、」
「君みたいな優秀な生徒からしたら、佐々野なんて風紀を乱す奴が居たら迷惑だろ。」
萩原は廊下を淡々と歩きながら、此方を振り向くことも無く話し掛けてくる。先程の佐々野の態度が、よっぽど許せなかったのだろう。憂さ晴らしのつもりか、あたかも私の事を気にかけているように萩原は、気に入らない佐々野の文句を延々と続けた。「遅刻して来てまともな謝罪もないなんて、教師を舐めていると思わないか。」「本当に学校を何だと思っているんだ。」と何て答えれば良いのか分からない言葉に「…どう、ですかね?」と意味の分からない言葉を返す。そんなもの全て佐々野に言えばいいのに、何故私に言うのだろうか。
暫くして職員室に着くと、萩原は佐々野への文句を私で発散できたから少しだけピリピリとした雰囲気がマシになっていた。そして、私に向って書類の束を渡してくる。
「すまんが、これ教室まで頼むな。」
「はい。」
萩原から受け取った書類は割と量があり、内心「お前が持って行けよ」と悪態をつく。多分、次の授業で使う書類なんてどうでも良くて、コイツは言えなかった佐々野への文句を誰か都合の良い人間に吐き出したかっただけなのだろう。
萩原は私に書類を渡して、一仕事終えたと言わんばかりに時計を確認すると、自分のデスクを簡単に片付けてさっさと昼食の準備を始めていた。随分と自分勝手な行動に心底幻滅する。
こうゆう場面を見る度に、父も萩原も大人なんて枠組で囲っているけど、所詮子供の延長線に過ぎないのだなと実感する。ただの大きな子供だ。
自分の我儘を押し通すために、都合良く他人を使う。それを悪いことだなんて思わないで、その図々しさを自分の中で正当化させているのだから子供よりも質が悪い。
佐々野のことだって自分の言う事を聞かない彼が、単純に気に入らないだけだ。けれど、髪を染めてガタイも良く如何にも不良ですと言わんばかりの風貌の佐々野に、強く当たる事も出来ない臆病者なのだろう。
私は丁寧に書類を受け取りながら、萩原へ軽蔑の視線を送ると「失礼しました。」と職員室を後にした。昼休みの騒がしい廊下を歩きながらも、腕の中の書類の重さに思わず眉間に皺を寄せる。じわじわと胸に広がっていく不快感とこの世界への苛立ちで、腕の中の書類をぶち撒けたくなった。
どうにもならない不満を胸に教室に戻って来ると、「恵ー!」と名前を呼ばれる。その声に顔を上げれば、友達である香苗と真帆が教室の隅で机同士をくっつけてお弁当を広げていた。
「もう先に食べてる〜!」
「恵も早くお弁当食べよ!」
香苗は卵焼きを頬張りながらモゴモゴと声を上げて、真帆はそんな香苗に倣うようにサンドウィッチを片手に持ち、私を手招きしていた。二人に「うん。」と返事をして、萩野に持たされた書類を教卓に置く。書類の重みで手が少しだけ赤くなっていて、なんだか余計に苛々した。
それを胸の中でコントロールしながら、自分の席のスクールバッグから弁当を取り出して、机同士をくっつけて弁当を食べている二人の元へ向かう。近くの椅子を借りて二人の机に運ぶと、二人は既にお弁当を半分程食べ終えていた。それを横目に、私もお弁当を広げて食べ始める。
「萩原の奴、恵が委員長だからってコキ使いすぎだよね!」
「ホント有り得ない!恵、早くご飯食べな〜!コレあげる。」
「あっ、ありがとう。」
真帆を発端に萩原への愚痴を吐く香苗から、デザートにとチョコを貰った。
「てか、前から萩原って何かと恵に面倒事押し付けたがるよね〜」
「マジ最低!私が委員長だったら絶対無理!恵は良い子だから出来るんだろうけどさ!」
極めて日常的な彼女たちの会話。それなのに真帆の言う『良い子』という言葉がやけに耳に付いた。昔から周囲に言われ続けてもう慣れているはずの言葉なのに、心臓が一気に冷えていくような感覚になる。
そんな違和感を誤魔化すように、無心で弁当の中身を突いた。
「…いや、そんな事ないよ。」
「あるって!成績もトップだし、絵に描いたような優等生なんだもん!」
「そうそう〜、もう少し手抜きなって思っちゃうくらいに真面目だよね〜!」
二人は私への評価をつらつらと述べながらも、どんどん目の前のお弁当を空にしていく。『優等生』というのは昔から私にとっての義務だというのに、それを今更息苦しく感じるなんて変だ。友達であるはずの二人が話すたび、なんだか酷く煩わしく思えてくる。
「というか!話変わるんだけど二人共に進路とか決まってる?」
続けられる二人の会話を適当に聞き流していれば、弁当を食べ終えた真帆が唐突にそう言った。
「ん〜、私はとりあえず看護系の専門かな?」
「え、香苗もう決まってんの!?」
「まぁ、なんとなくって感じだけどね〜」
「うわー!先越された!」
「先越しちゃった〜!あれでしょ?昨日の進路希望のプリント。」
「そうそう!あれ今週中に提出でしょ?まだ決定じゃなくていいって言ってたけどさ、それっぽいの書かなきゃいけないじゃんね。テストもあるし、考える事ありすぎだよ〜!」
真帆と香苗が話しているのは、昨日配られた進路希望調査のプリントのことだ。担任の萩原が言うには今回の内容は進路を決定するものではなく、あくまでも進学や就職の方向性を担任に報告することが重要になるらしい。そして、それを元に今後どのような進路計画を立てていくのか参考にするようだ。
配られた進路希望調査のプリントの存在を思い出すと、どうにも重たい気持ちになる。私の進路は最初から父に決められている為、特に悩む必要はない。けれど、このまま父が決めた人生を歩んでいかなければいけない事に誤魔化しようのない違和感を感じる。
自分は一体なんで生きてるのだろうという途方もない絶望が常に私の中に広がっていて、全てのことがどうでも良く感じて気力が湧かないのだ。
そんな私を知らない香苗は何てことのないように「恵は、どうするか決めてるの?」と聞いてきた。香苗に続くように、真帆も興味津々といった視線を向けてくる。
「そうだよ!恵はー!?恵なら有名大学進学でしょ!?やっぱ榊大とか!?」
そう興奮したように真帆がガタッと椅子を鳴らして勢い良く立ち上がったその時、直ぐ後ろを通った佐々野に思いっきりぶつかった。
「痛てぇな。」
「あっ、ごめんなさい!」
真帆が運悪くぶつかった佐々野は、不快そうに眉間に皺を寄せて「チッ…!」と舌打ちを落とす。クラス一の問題児である佐々野のあからさまに不機嫌な態度に、真帆の顔色が徐々に悪くなった。
先程まで私達の間に流れていた和やかな雰囲気は、佐々野のせいで一気に冷え切っている。しかし、真帆からされた進路の話はなるべく避けたいと思っていた為、このタイミングで会話が続かなかった事に私は密かに安堵した。
「もっと周り見て動けよ、ブス」
「…っ、」
佐々野はこの学校では目立つ茶色の髪を掻き上げて、苛々とした口調で真帆に言い放つ。元々、佐々野という人間はとても自己中心的で常に他人を見下しているような奴だ。この酷い発言さえも彼の通常運転なのだけど、やはり人を傷付けるには十分な威力がある。佐々野の言葉を真正面から受けた真帆は、眉間に皺を寄せて泣きそうな顔をしていた。
ただぶつかっただけなのに、これ程キレる佐々野の堪え性の無さには流石に怒りを覚える。
「おい佐々野、早く行くぞー」
そこへクラスの陽キャ集団の一人であり、佐々野とも仲が良い武田が数人の陽キャ達と共に教室のドアから顔を出して佐々野を呼んだ。真帆を睨み付けていたはずの佐々野は、武田の声に「うっせぇよ。」と直ぐに反応する。
武田の近くに居た同じ集団の村上と橋本の女子二人も、此方を見ながらニヤニヤと女子特有の高い声を上げた。
「佐々野、そんな奴ほっときなよ〜!」
「真面目チャンと佐々野の絡みとか似合わな過ぎてウケる!」
佐々野に睨み付けられていた真帆を、二人は何処か馬鹿にするように笑っている。その声に元々泣き出しそうに唇を噛み締めていた真帆は、より一層顔色を青くして俯いた。彼女たちにとって『委員長』の私と仲良くしていて、クラス内でも物静かなタイプの真帆や香苗は『真面目』な括りに入るのだろう。
私は目の前で繰り広げれるやり取りを眺めながら、胸の奥でムカムカした思いが溜まっていくのを感じる。担任の萩原じゃないけれど、私は佐々野を含めたクラスの陽キャ集団が以前からずっと気に入らなかった。勿論、萩原も気に食わないけれど。
佐々野含めたコイツら陽キャ集団は、毎回のように何故か私達よりも自分達の方が上だと思い上がった振る舞いをするのだ。昔から、学校にはこのような思い上がりが一定数居る。主に顔が整っているかどうかが一番重要で、俗に言う可愛い女子やカッコいい男子が陽キャと呼ばれ群れる集団になる。他にもコミュニケーションが得意な奴やムードメーカー気質な奴だったりが大して面白くもない内輪ネタでギャーギャー毎日それはそれは楽しげにはしゃぐのだ。反吐が出る。
そして奴らは、自分達のようにクラスの中心で騒ぐ事が出来ない私達のような害の無い人間に対して『真面目』と心底馬鹿にした褒め言葉を投げ掛けてくるのだ。生まれた時からずっとそうあるべきだと義務づけられてきた私は、彼等にとってまさにその対象であった。それはきっと自分たちの地位を確立したいがための区別のようなもので、他人を馬鹿にして自分をよく見せようと必死に騒ぐ彼等と私は簡単に言ってしまえば人間性がまるで合わないのだ。
真帆の事をブスだと言った佐々野は、武田たちの呼び掛けに彼女の事などどうでも良くなったのか、彼等と共に目立つ茶髪を靡かせながら教室を去って行く。佐々野の鋭い視線からようやく解放された真帆は、ヨロヨロと椅子に腰掛けると無言のまま深く俯いてしまった。
なんて災難だろうと真帆に同情しつつも、先程真帆が私に向かって言った言葉をふと思い出す。彼女から言われた『良い子』や『優等生』という言葉は、村上や橋本が真帆に言った『真面目チャン』とそう大差無いような気がするのは何故だろう。悪気があったわけじゃないと思うけれど、少なからず私はあまり良い気はしなかった。
泣きそうな表情で俯いて座る真帆を、弁当を食べ終えた香苗が「あんな奴らなんて気にしない方が良いよ〜!」と宥めている。それを横目に私は、少しだけ胸のすくような思いを抱いてしまった自分に嫌気が差した。
真帆の事が嫌いなわけじゃないはずなのに、いい気味だと心の何処かで確かに思ってしまったのだ。それと同時に、彼女や私達を馬鹿にした佐々野や村上と橋本にもふつふつと怒りが沸く。このクラスでスクールカースト上位に居ると自覚している彼等が本当に嫌いだ。結局、私はどいつもこいつも気に入らないのかもしれない。
自分のやりたい事を押し付けてくる父とそれを尊重する母も、自分の評価を気にして私に期待をする萩原も、自己中心的な振る舞いをする佐々野も、他人を見下して自分の地位を誇らしげに思っている馬鹿な村上と橋本も、悪気なく私を馬鹿にしている真帆も。
あぁ、こんな奴らの中で私は一体何のために『榎本恵』を作り上げているのだろう。毎日毎日おままごとの繰り返しのようで、馬鹿馬鹿しくなる。幼い頃から自分の意思というものを捨てる事しか出来なかったというのに、その生き方しか知らないというのに、私はどうしてこんなにも絶望感を抱いているのだろう。
何もかもを投げ出して誰も知らない遠い場所で、ひっそりと生きていきたいような気持ちになって、私はお弁当を素早く片付けると「ごめん、ちょっと用事思い出した。」と落ち込む真帆と優しく宥める香苗に声を掛けた。
チラリと私を見上げた真帆の戸惑った表情が「どうして声を掛けてくれないの?」と訴えているように思えて、なんだか居心地が悪く感じて二人の机から静かに離れる。空になったお弁当をスクールバッグへ戻すついでに、その中から小さなポーチを人目を気にしながら取り出して、こっそりと制服のポケットにしまった。
制服のポケットの上から手のひらで撫でて、取り出したポーチの存在を確認する。そして、私は真帆と香苗が居る机から離れるように教室を出た。
生徒たちが騒がしい廊下を縫うように歩き、渡り廊下を越えて校舎の別棟にあたる階段を淡々と上がっていく。一番上の階に上がる頃には、人気はだいぶ少なくなり、静けさに包まれていた。目的の屋上へと繋がる重たいドアを開けて外に出る。
コンクリートの上を歩けば、吹き付けた風が額にかかる前髪を押し上げた。広い屋上を見渡せば、私以外に誰も居なくてホッとする。誰も居ない空間は、今の私にとってとても都合が良かった。
季節は春とは言えまだ風は冷たいけれど、屋上全体に降り注ぐ日差しは暖かくて過ごしやすい気候だ。頬に風を受けながら、屋上の奥にある給水塔の裏に向かう。フェンスに囲まれて死角になったそこは、人一人が座れるくらいのスペースが空いていた。給水塔の壁に寄り掛かって、フェンスを前に隠れるようにしゃがみ込む。目の前のフェンス越しには、穏やかな青空が広がっていた。
騒がしいクラスメイトたちの声から離れて、私を誰も認識しない空間でこの世界からシャットダウンするように深く項垂れる。胸の中で黒く蠢いている感情を宥めるように、深く息を吐いた。
そして、制服のポケットに入れていた小さなポーチを取り出す。その小さなポーチを開けると中には、昨夜何気なく手に取ってしまった父の煙草とライターが入っている。
煙草を吸おうとして吸えなかった後、両親に見つかるのが怖くて慌てて持ち出してしまった父の煙草とライターをどうしたらよいか処分に困っていた。何度か元の場所に戻そうとするも、両親たちはタイミング悪くリビングで寛ぎ始めてしまったため、結局煙草もライターも戻すことが出来なかったのだ。
今朝もリビングのあの広いダイニングテーブルで食事をとっていた父は、「煙草を見かけなかったか?」と執拗に母に聞いていた。昨夜から消えた煙草とライターを探しているような口振りで話す父の様子に、今更持ち出した煙草を戻すにも戻せなくなってしまったのだ。
そして、そんな父の煙草とライターを持っていることが、両親に見つかりでもしたら面倒では済まされない。私の部屋に入る時も、ノックの一つも呼び掛けもしない父の事だ。学校に行っている間や私の知らない所で、勝手に部屋に入られている可能性も全然ある。母だって同じだ。私を自分たちの所有物だと思っている彼らの事だから、勝手に私の部屋に入って隠していた煙草とライターの存在を見つけてしまうかもしれない。
悪い妄想が止まらなくなった私は、煙草とライターを何処に隠しても心配で部屋に置いておくことも出来ず、ついには学校までこっそりと持って来てしまったのだ。普段ならば持つ事の無いそれは、私の印象を底辺に落とすものだ。いっそのことコンビニや駅のゴミ箱に捨て去ってしまえばいいのではとも思ったが、どうしてか私はこれを捨てる事が出来なかった。
昨夜、この煙草を口に咥えて火を付けた時に一瞬感じた私が消えていくような感覚が忘れられないのだ。それをもう一度確かめたくて、今この煙草を手放すには惜しいと思ってしまった。
給水塔の裏から少し顔を出して、屋上に誰も居ないことを再度確認する。細心の注意を払いながら煙草の箱から、昨夜火を点けようとして先が少し燃えてしまった一本を取り出した。ドキドキと高鳴る鼓動を抑えながら、それを咥えて少しだけ吸う。
昨夜、あの何気なくやってしまった行動の後、私はスマホで煙草の吸い方について調べた。何でも初めてやる事は知識が無いと不安だし、思っていたよりも上手く火が点けられなかった事が気になって正しい吸い方というものを知っておきたかったのだ。
上手く火が点かず少しだけしか燃えていない煙草の先に、父のライターでカチッと恐る恐る火を付ける。学校でこんな禁忌を犯している自分に、ドクンッと心臓が大きく脈打つ。こんな場面を誰にも見られてはいけないと分かっているのに、私は昨夜のようにこの行為を止めることが出来なかった。
暫くすると煙草のフィルターを通して、口の中に煙の味が広がった。想像していたよりも不味いそれに驚いて、思わず眉間に皺を寄せる。急いで咥えていた煙草から口を離し、口の中に広がった不味い煙を呑み込む事はせずに慎重に吐き出した。
フーッと吐き出された煙は春風に漂って、何処かに消えていく。それをぼんやりと見つめていると、先程まで自分の中に渦巻いていたドス黒い何かがマシになったような気がした。指の間で挟んだ煙草の先から、ゆらゆらと煙が空へ流れていく。
何だ、こんなものか。大人や悪ぶった不良たちが吸う煙草はこんなものだったのかと意味も無く納得した。勝手に煙草というものは未成年で周囲から『真面目』と呼ばれる私からは程遠く、経験を重ねた大人たちだけの特別な嗜みだと大袈裟に思っていた。初めてまともに煙草吸って、こんなものだったのかという何とも言えない感情に浸る。誰かの言いなりになって何の信念も持っていない私でも、これ程簡単に吸えてしまうのだ。
もう一度、煙草を咥えて慣れないながらに少し吸ってみる。口の中に広がる煙はやはり不味かった。眉を寄せながら、少しだけ口内にそれを留まらせてゆっくりと吐き出す。全然美味しいとは思えないコレを中毒的に吸う大人たちの気持ちが全く理解出来ない。
けれど、屋上で一人、密かに煙草を吸った私は朝布団の中で必死に作り上げた私では無い。両親の都合の良い娘でも、真面目な学級委員長でも無くて、法律を犯した悪い学生だ。
その事実が何故か清々しく思えて、作り上げた私が消えていくのを感じる。そして、ようやく私は正気になれたような気がするのだ。誰かの指示ではなく、ただ自分の意思で煙草を吸っている状況が居心地良くて。『真面目』や『優等生』というレッテルからかけ離れたこの行為は、私を幾らか自由にした。
コンクリートに落ちた煙草の灰を視線で追いながら、また煙草を吸った。不味い煙が広がって何の美味しさも分からないのに、満たされていく何かを感じる。心の奥底でどうにも出来なかった感情が、少しだけ落ち着きを取り戻していくように。もしかしたら、私はまだ生きてるのかもしれないと。自分自身、何故そんな事を思うのか意味が分からない。けれど、己の口から吐き出された煙を眺めながら確かにそう感じたのだ。
時間と共に徐々に短くなっていく煙草をコンクリートに押し付けた時、昼休みの終了を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。
「恵、今回のテストはどう?ちゃんと勉強しているの?」
いつものように塾で何時間も勉強を終えた後に帰宅すると、母はこの前の父と同じように勉強の事について声を掛けてきた。
「…まぁ、ぼちぼち。」
「ぼちぼちって、もう高校三年生になったんだからしっかりしなさいよ。お父さんだって、凄く期待しているんだからね。」
それ以外に言う事は無いんだろうか、父も母も担任の萩原も毎回同じような事しか言わない。昔から彼等が気にするのはコレだけだ。勉強の良し悪しや世間体、私が優等生であるか否かが最も重要であるのだろう。私の存在意義はそれだけだと言われている気がして、酷く憂鬱な気分になる。
「そういえば、進路希望調査のプリント配られたんですってね。同じ学校の真帆ちゃんのお母さんから聞いたわ。」
そう言った母に私は思わず顔を上げた。進路希望調査のプリントの存在が、母に知られてしまったのは実に面倒だ。
「勿論、恵は榊大にしたのよね?」
当たり前と言わんばかりに放たれた言葉には、従わなければいけないような圧力を感じる。昔から私を有名大学に進学させたがっていた父の希望は榊大だった。榊大は県内一偏差値が高い大学で、全国的に見てもレベルの高いカリキュラムが組まれている。
榊大はもともと父が憧れていた大学でもあった為、以前から進学先の候補に上がっていたし、毎回勉強の話になると榊大の名前は刷り込みのように何度も言われてきた。配られた進路希望調査のプリントにもそう書く予定でいたのだが、どうしてか榊大の名前を書くのが億劫に感じて今だにプリントは空欄のままだった。
「…うん、そうだけど。」
空欄である事は決して言わずに肯定すれば、母は直ぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そうよね、良かったわ。お父さんが行きたかった大学だし、恵の将来の幸せを考えたら絶対に榊大にするべきよ。」
そう母は得意気に私に告げると、そそくさとキッチンへ向かった。その後ろ姿を見ながら、私は母の言った言葉を頭の中で繰り返す。彼女の言う幸せとは、一体なんだろう。榊大へ進学すれば、私は幸せになれるのだろうか。胸の中で、煙ように広がったモヤモヤとした感情が晴れない。
それを無理矢理呑み込んで、キッチンへ向かった母に「明日、進路希望調査のプリント提出するから。」と先程の言葉を素直に受け取ったフリをすれば、彼女は気が済んだのかそれ以上何かを言うことはなかった。毎回のやり取りなのに、日に日に何かが溢れ出しそうになる。
母から遠ざかるように、私は急ぎ足でリビングから自室に戻った。電気を点けることはせずに暗い部屋を彷徨って、息を殺すように布団の中に潜り込む。一層暗く閉ざされた空間に、少しだけ心が落ち着いた。なんだか酷く疲れた。
世界と自分を遮断するこの布団の膜の中で、私は毎朝『榎本恵』を作り上げている。この布団から出る時は、誰がどう見ても完全な『榎本恵』でいなければいけないのだけれど、誰の目もないこの布団の中で私は私であることを許されている。
こんな事をして一体何になるんだろう。唐突にそう思った。この狭い世界でしか生きられない本当の私が思考を荒らして、途方もない問いを私に突き付ける。
嫌だ。もう嫌だとドス黒く蠢いて、今にもコントロールが出来なくなりそうなそれを得意な見て見ぬフリをして必死に抑える。このまま、後どれだけの日々を乗り越えたら私は楽になれるのだろう。いつか見た蛹のように世界から外れた膜の中で、ドロドロと溶けて何も分からないまま終われる日は来るのだろうか。
そんな事を延々と布団の中で考えていれば、ガチャンッと遠くから玄関のドアが閉まる音が聞こえてきた。その音に父が帰って来たのかと悟り、キュッと心臓が縮む。もともと沈んでいた気分が、より一層深く沈み込んで全く浮上出来る気がしない。
父が帰って来たとあれば、また監視のように部屋に来て勉強の進行を聞いてくるかもしれない。そう思うと布団の中に居ることも出来ず、私は私であることを諦めて必死に『榎本恵』を作り上げてからヨロヨロと布団から起き上がる。部屋の電気を点け、机の上に参考書や塾の宿題などを適当に並べてあたかも勉強しているように装った。それを目の前にして椅子に座ると何とも言えない虚しさが込み上げてくる。本当に、私は一体何をやっているんだろう。
そのまま暫く待っても、父が私の部屋にやって来る気配は無かった。それに少しだけ安堵して、部屋の隅に放置されたスクールバックの中から進路希望調査のプリントを取り出す。その際に煙草を入れている小さなポーチが、スクールバッグの中からカシャンッと音を立てて床に転がり落ちた。
それを拾い上げて、ポーチの中に仕舞っていた煙草とライターを取り出す。手持ち無沙汰にカチッと意味もなくライターで火を付けて、直ぐに消す。それを何度か繰り返しながら、箱から煙草を一本取り出して口に咥えた。
部屋の窓を開けてベランダに出ると、夜風がふわりと入頬を撫でる。目の前に広がる夜空はどんよりと曇っていて星の一つも見えなかった。なんだか全てが遣る瀬無い気持ちになって、無意識に口に咥えた煙草のフィルターを噛む。
最初に煙草を吸った日から、私はこうして人の目を盗んでは度々煙草を吸うようになった。煙草を吸うたびに今まで見て見ぬふりをしてきた感情が、以前よりも強く自分の中で主張し始めたように感じる。真面目な優等生の委員長の姿が崩れて、法を犯した未成年になるたびに私は少しずつ息がしやすくなっていく。作り上げた『榎本恵』の中で、その感覚が徐々に広がって皮膚の下で蠢き今にも突き破って出てきそうだった。それくらい私は煙草に魅入られている。気付けば、半分ほどあった父の煙草はもうすぐ無くなってしまいそうな程だ。
ライターに灯した火を煙草の先に近付けたところで、遠くから階段を上ってくる足音がした。ヤバいと思って急いでベランダから部屋に戻り、口に咥えた煙草を戻してライターと共にポーチの中に仕舞う。唐突に訪れた緊張感に心臓が大きく打ちつけるが、私は何でもないような顔をして机に広げた教材の前に座った。
火を点ける前で良かったと密かに安堵しながら、素早くポーチを机の引き出しに入れて完全に隠し終えたところで、自室のドアがガチャッと開けられた。
「恵、来週あたりから塾の時間を増やしなさい。」
「…え、」
突然、自室にやって来た父は私に視線を向けると早々に言い放った。
「さっき母さんとも話したが、榊大の受験に向けて勉強時間を増やした方がいいだろう。それに、お前の受験生としての緊張感が足りないって母さんが言っていてな。気持ちを引き締める為にも、ちょうど良いじゃないか。」
「…」
「今頃、母さんが塾の先生に連絡して授業時間を調整してもらっているから、今後そのつもりでな。」
「…はい。」
相変わらず、私の意思なんて何処にも存在しない一方的な言葉に呆れる。父は言いたい事だけ言い終わると、満足したように私の部屋を後にした。
父の足音が遠ざかり聞こえなくなったところで、ようやく肩の力が抜ける。急に塾の授業時間を増やすなんて言い出した父の態度を見るに、きっと母から進路希望調査のプリントの話を聞いたのだろう。余計な事を知られた。
榊大へ進学に向けて私よりもよっぽど意欲的な父は、思い付いたら他人の事なんて気にせずに自分勝手なことばかり言うのだ。いっそのこと父が大学受験すれば良いのに。大人というのは皆、こんなに面倒な生き物なのだろうか。そんな父に従って、父の意思を援護射撃のようにぶつけてくる母にもうんざりする。
机の上に広げた教材を感情のまま、全て投げ捨ててしまいたくなった。それを自分の中で抑えながら、深い溜息を吐く。父の話を思い返し、これから塾の授業時間が増えるのかと思うとどうしようもない感情が湧き上がる。むしゃくしゃする気持ちを上手く消化出来ずに、先程急いで机の引き出しに仕舞った小さなポーチを取り出した。
再び、部屋の窓を開けてベランダに出る。やはり頭上に広がる空は何処までも暗かった。少し慣れてきた手付きで煙草を咥えると、ライターをカチッと鳴らして火を点ける。蠢く感情と共に吐き出した紫煙が、ぼんやりと夜に溶けていくのを視線で追いかけた。
帰りのホームルームを終えた教室内の空気は緩んでいて、慌ただしく部活に行く生徒やのんびりと帰り支度をする生徒で賑やかだ。
「恵ー、まだ帰らないの?」
「ちょっと、委員会の用事があって。」
スクールバッグを持った真帆にそう告げれば、彼女は顔を顰めて「うわ、それは面倒くさいね!」と私の労わるように言う。ちなみにもう一人の友人である香苗は写真部に所属していて、今日はその活動日らしく既に教室を出ていた。以前、彼女は週に二回しか活動が無いところが写真部の魅力だと間延びした声で話していたのを思い出す。
「そっか〜、じゃあ私先に帰るよ!委員会頑張ってね。」
「うん、また明日。」
真帆が手を振りながら教室を出ていくのを私は席に座ったまま、それを無感情に見送った。委員会があるなんて嘘だ。本当は何も予定なんて無い。
机の上に突っ伏して、深く息を吐く。真帆と一緒に帰らなかったのは、単純に私が家に帰りたくなかったからだ。学校に居ることも嫌だけれど、放課後になった今は校内から人が減っていくので少しマシに思えた。
それに明日から、塾の授業時間が長くなることが決まっている。父が勝手に決めて、母が塾に交渉した結果だ。これからは毎日夜遅くまで塾に通わなければいけないと思うと、今日が自由な時間を過ごせる最後の日になるような気がしていた。
だからこそ、余計に一人で居たかったのかもしれない。誰かと一緒に居ると酷く憂鬱で、『榎本恵』という存在を作らなくても許される時間が欲しかった。暗くなった視界に、ほんの少し安心感を覚えながら身体の力を抜く。
教室内にはまだ何人か人の気配があって、ベラベラと友達同士で会話するクラスメイトたちの声が聞こえる。早く帰ってしまえば良いのに、彼らは高校生らしく恋の話や遊びに行く計画などで盛り上がり、放課後の充実した時間を過ごしていた。
机に突っ伏しているのをいい事に、自分とはあまりにも無縁な会話に鼻で嗤う。なんでこうも人間って違うのだろう。チラリと突っ伏した腕の中から教室内を覗けば、数人の女子たちが集まって、楽しそうにキャッキャッとはしゃいでいる。あれが所謂、青春というやつなのだろうか。
同じクラスメイトなのに、何故私はあのように生きれないんだろうか。まるで別世界を生きているように笑い合う彼らが、酷く疎ましく思えた。やけに苛々する。
そんな事を思っていれば、不意に机がガタッと大きく揺れた。その振動に驚いて突っ伏していた顔を上げれば、「あ?」と佐々野がいつもと変わらず不機嫌そうな表情で此方を見下ろしている。
「何やってんだよ、佐々野〜」
「うるせぇ!コイツの机にぶつかったんだよ!」
「委員長とばっちり過ぎるだろ!佐々野ダッセェ〜!」
彼等のやり取りを見るに先程のクラスメイトしかり、佐々野も放課後の解放的な雰囲気に釣られたのか友人の武田とふざけあっていたようだ。その際に佐々野は私の机にぶつかってしまったらしく、こちらとしては本当にいい迷惑であった。
ぶつかって来たのは佐々野の方なのに、視線が合った彼は特に謝ることも無く眉を寄せて鋭く睨んでくる。それはまるで、「何か文句あるかよ?」と言わんばかりの図々しさを孕んでいて内心ムッとした。スクールカースト上位だと自覚しているからこそ出来る傲慢な振る舞いに苛立ちながらも、佐々野の強気な視線に怯み何一つ文句をぶつける事が出来ない。
そんな情けない私を相手にする価値も無いと判断したのか、佐々野は睨み付けていた視線を外すと時計を見てハッとしたように声を上げる。
「てか、こんな事してる場合じゃねぇ!バイト遅れる!」
そう言い放つや否や、慌ただしくスクールバッグを背負った佐々野に武田は「またバイトかよ〜!どんだけ金欲しいわけ?」と呆れたように両手を上げた。
確かに以前から、佐々野は何かと「バイト」と言って武田たちの遊びを断っているイメージがあった。校則違反の茶髪にピアスをして、遅刻は当たり前。クラス一の問題児である佐々野でも、既に社会で働ける能力があるのだという事実が何とも癪に障る。それと同時に、自分の意思で好き勝手に行動できる佐々野が羨ましく思えた。
佐々野は「じゃ、俺行くわ。」と教室を飛び出して行き、それを見た武田は「ちょっと待てよ!」と佐々野を追いかけながら走っていく。ただのよくある学校の風景なのに、何故こんなにも重たい気分になるのだろう。
先程から無意識に自分とクラスメイトを比べては、自分の中で永遠に繰り返されていく疑問。それが蠢いて広がって私を黒く犯していく。
再び机の上に顔を突っ伏して、世界から私を遮断するように目を閉じる。教室に今だに居座っているクラスメイトに煩わしさを感じて、徐々に苛立ちが募る。どいつもこいつも早く帰れよ。
早く私を一人にして欲しい。誰も居ないところで、静かに死んだように休みたいのだ。朝、目が覚める前の布団の中で意識の無い私になりたい。何も義務を課せられていないありのままの私で、眠っていたい。何も考えたくない。何もしたくない。
ドロドロを手足が溶けていくように身体が重く感じて、私というものが徐々に薄くなる。光の届かない暗闇の中で、ようやく目が開けられるような気がする。
何処まで広がっているのか分からないくらいに真っ暗な空間の中、この世界から置き去りにされたみたいに小さく蹲っていたい。楽になりたい。それだけなのに、どうして私は叶えられないんだろう。「何で」「どうして」「何故」こんな数え切れない疑問を一体どれだけ繰り返すのだろう。
私はもう、日常をやりこなすだけで一杯一杯なのだ。幼い頃の何の疑問も持たずに両親に言われるがまま、必死に勉強していた優等生の私にはもうなれない。親が金持ちで勉強も出来て大人の言う事は積極的に聞いて、同級生からは「良い子ぶってる」とあまり良く思われない事もたくさんあった。それでも「良い子ぶる」生き方しか、都合の良い誰かを演じる事しか出来ない情けない私は、大人から求められる『榎本恵』で居続けた。そんな私を同級生は次第に「真面目」と馬鹿にし始めた。私も馬鹿だと思う。馬鹿馬鹿しくて、やってられない。
首を絞められたように呼吸が上手く出来なくなって、勢い良く顔を上げる。バクバクと鳴る心臓に、額から一筋の汗が流れた。
あれからどれだけの時間が経ったのだろうか、いつの間にか楽しげに話していたクラスメイトたちは既に帰ったようで教室には誰も居なくなっていた。開けっ放しの窓からは、茜色の日差しが差し込んで教室内を染め上げている。
その眩しさに目を細めながら、そろそろ帰らなければと重たい気持ちで時間を確認した。スクールバッグを持って立ち上がり、開けっ放しだった教室の窓を閉めようとしたところで、外から聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「ねぇ、お小夜のこの顔マジ信じらんなーい!」
「面白すぎでしょ!これSNSに上げて良い?」
「ちょっと止めてよ!そんなに変なの!?」
騒がしいその声に釣られるようにベランダに出て外を覗き込むと、部活があったのか村上と橋本の二人が一人の女子生徒を誂っていた。
「えー!お小夜ノリノリだったじゃん〜!」
「てか、もう上げちゃったし!」
「う、嘘でしょ!?」
「ホントお小夜って面白いよね〜!ヤバすぎ!」
『お小夜』と呼ばれているのは、同じクラスで村上や橋本と共にスクールカースト上位グループにいる相川紗夜だ。相川がよく二人に揶揄われているのは、教室でもよく見かけたことがある。常に他人を馬鹿にしたような態度の村上と橋本の会話を聞くに、相川は彼女たちの要望を応えるべく変顔の写真でも撮られたのだろう。
焦る素振りをする相川を、村上と橋本は追い詰めるように笑っている。二人の良い玩具になっている相川に、何故か自分の姿が重なった。こんな事ばっかりだ。
ケラケラと響き渡る笑い声になんだか遣る瀬無い気持ちになって、スクールバッグから肌見放さず持ち歩いている小さなポーチを取り出す。
父の煙草とライターが入ったこのポーチは、いつからか私の御守りのようになっていた。誰にもバレないように注意しながらも、ポーチの中から煙草を一本だけ手にして口に咥える。ガジガジとフィルターを噛んで、吸いながらライターで火を付けた。この行為にも随分と慣れたものだ。
煙がゆらりと揺れて、風に流されていく。消えていったそれを視線で追いながら、口に広がる不味い煙を吐き出す。募り募った虚しさは消えないけれど、私を悪者にしてくれる煙草が好きだと思った。この瞬間、私はようやく私でいられるような気がするのだ。
煙草の灰をベランダに落としながら、大事な何かが壊れてしまいそうなのをなんとか保つ。広がる煙の匂いが鼻を掠めた。慣れない手付きで煙草を吸っては吐き出し、思考を空にする。何か酷い出来事があった訳では無い。ただ、毎日が息苦しいだけだ。もう私が、『榎本恵』でいたくないのだ。
煙が目に染みて、視界が歪んだ。それでも私は煙草を吸い続けた。燃えて灰になって短くなっていく煙草を吸って、吐いて、吸って。ポロポロと灰をベランダに落として、煙の匂いが漂った。
このドス黒く蠢いている感情がなんなのか自分でもよく分からない。どうしたら良いのかも分からないから、私は煙草を吸っている。必死に何かを紛らわして、保っているのだ。
「恵?」
不意に、背後から私を呼ぶ声が聞こえた。ハッとして、自分の状況を瞬時に理解する。ヤバいと思って直ぐに目の前にあるベランダの手摺に、吸っていた煙草の火を押し付けた。
流れていく春風が煙を消し去ってくれたのだと信じて、ゆっくりと首だけで振り返ると、そこには写真部の活動を終えたのだろかスクールバッグを持った香苗が居た。
「まだ帰ってなかったの?」
香苗は私を見て、少し戸惑ったようにそう言った。それに何でもないフリをしながら、彼女にバレないように手に持っていた吸殻をベランダに投げ捨てる。転がった吸殻をなるべく視界に入れないようにして、私は香苗に微笑んだ。
「うん。これから帰ろうと思って。」
「そっか、じゃあ一緒に帰ろ〜」
いつものように語尾を伸ばしながらヘラッと笑った香苗に、変わった様子は見えない。バレて、いなかっただろうか。ドクドクと速くなった鼓動を悟られないように教室に戻って、ベランダに続く窓をきっちり施錠する。
「教室に忘れ物しちゃって、恵が居たから驚いた〜」
「委員会の用事で、ちょっとね。」
煙草臭くないだろうかと、香苗にバレないように自分の制服の肩口を嗅いだ。そんな私を気にする事もなく、香苗は自分の机を漁って「あった、あった」と忘れ物らしきファイルをスクールバッグへ仕舞う。
「よし、行こ〜」
気の抜けた香苗の声に少し安堵しつつも、私はベランダに捨てたままの煙草の吸殻が気がかりで仕方ない。香苗はそんな私の背中を押して、足取り軽く教室の外に出た。
廊下を歩きながら会話を続ける香苗に適当に相槌を打ちながらも、私は酷く焦っていた。スクールバッグの中に入っている小さなポーチを思い出して、スクールバッグ越しにその存在を撫でる。
明日の朝、誰よりも早く学校に登校して、ベランダに捨てた煙草の吸殻を回収しなければならない。それだけを考えていた。こんな誰が来るかも分からない教室のベランダで、人目も気にせず煙草を吸ってしまうなんて私は一体何をやっているんだろう。バレたら終わりなのに、危機感無くやってしまった自分の行為が信じられない。そんな判断が出来ない程に、私はもう可笑しくなっているのだろうか。
煙草が見つかった時は、作り上げた『榎本恵』が終わる時だ。その瞬間を想像して、ゾッとする。それは私が一番恐れていることで、それと同時に私が心の何処かでずっと望んでいたことのような気がした。『榎本恵』で居たくないのに、私はどうしてここまで必死に『榎本恵』を作り上げているのだろう。
隣を歩く香苗の会話が、段々と煩わしく感じてくる。彼女の話なんて、心底どうでも良かった。この時の私はベランダに捨てた煙草の吸殻が、これまで作り上げてきた私を壊してしまうのではないかという不安で頭が一杯だったのだ。
「昨夜、このクラスのベランダで煙草が見つかった。」
翌日、朝のホームルームで担任の萩原が実に不快そうな顔で言った。鋭く教室中を睨み付けながら放たれていく萩原の低い声に、私は恐怖で心臓が止まりそうになった。ついに恐れていた事が起こってしまったのだと、私は荒振る胸のうちを抑えて表情を固める。それでも、額から流れた冷たい汗が自分の隠しきれない動揺を表していた。
今朝、いつもよりも早く家を出て学校に来た。昨日、教室のベランダに捨てた煙草の吸殻を回収しに来たのだ。誰にも見つかっていませんようにと何度も願いながら、人気の無い校舎の静かな廊下を歩き、辿り着いた教室に誰も居ないことを確認する。そして、素早く窓を開けてベランダに出た。しかし、そこには昨日捨てたはずの煙草の吸殻は何処にも無かったのだ。
もしかしたら風で転がってしまったのだろうかとコンクリートの隅々まで探したけれど見つけられず、手摺に煙草の火を押し付けた汚れも綺麗に落とされていた。まるで、昨日の放課後の出来事が何も無かったかのように煙草の痕跡が何一つ残されていないベランダに思考が止まる。
可笑しい。私はこの異変に、心臓が凍るような思いでしゃがみ込んだ。もう煙草は誰かに見つかってしまったのかもしれないと焦りに焦る。私の、作り上げた私が、今日で終わってしまうかもしれない。『榎本恵』は今日で死ぬのだと、その恐怖に耐え切れずにガタガタと身体が震えた。
あの時、香苗が教室に来なければ。そう八つ当たりのように何の罪の無い彼女を恨んだ。そうでもしなければ、情けない私は正気を保つことも出来なかったのだ。
どうしようどうしようどうしようと混乱する頭を必死に落ち着けながら、私はそれでもベランダに這いつくばるようにして何処にもない煙草の吸殻を探した。どのくらいそうしていたのか、次第に校内に人の気配が増えてきて騒がしくなった。
訪れてしまったタイムリミットに私は酷く落ち込んで、仕方なく這いつくばっていたベランダから教室に戻る。『委員長』で『優等生』の私が、朝からベランダに這いつくばっている姿をクラスメイトに見られたら、何て噂されるか堪ったものではない。
煙草の吸殻が回収できなかった絶望感を胸に自分の席に座れば、登校してきたクラスメイトがガヤガヤと教室に入って来る。それを横目に焦る気持ちを、どうにか落ち着かせようとしていた。何で、学校なんかで煙草を吸ってしまったんだろう。バレたら終わると分かっていたのに、私はどうして煙草を…終わりのない後悔を繰り返しながら、ただ時間が過ぎていくのを待った。
そして、今。朝のホームルームで、担任の萩原のは深刻そうに眉を寄せている。
「放課後から夜間に掛けて、用務員の方が掃除をしている際にこの煙草の吸殻を見つけたそうだ。」
そう淡々と告げた萩原は、ビニール袋に入った煙草の吸殻を教室にいる全員に見せつけると目の前の教卓にバンッと勢い良く叩き付けた。怒りが込められたその大きな音に、思わず肩がビクッと上がる。怯える私の心臓がヒュンッと一瞬止まった。
「このクラスに煙草を吸った奴が居るなんて事を考えたくはない。もしかしたら、他のクラスの奴かもしれない。だが、この煙草に誰か心当たりのある奴はいるか?」
怒りを抑えながらも、此方を睨み付けてくる萩原の視線から逃れたくて深く俯いた。心当りしかない私と違って、心当たりなんてあるはずもないクラスメイトたちは、萩原の話に「怠くね?」と小さく吐き捨てて無視を決め込んでいる。本当に気楽なものだ。
当然、私も馬鹿正直に自らの罪を認めるわけにいかない。何が何でも、絶対に知らないフリを貫き通さなければならないのだ。最後の足掻きだと言わんばかりに、私は頑なに口を閉ざす。
今まで大人の都合の良いように生きてきた私にとって、今回の失敗はあり得ないものだ。目の前で起ってしまった出来事への対処も分からず、ただただ恐ろしくてどうにかなってしまいそうになるを必死に耐えた。
萩原の言葉に誰一人反応する事が無く、教室内には暫く無言の時間が漂った。そして、居心地の悪い静寂を掻き消すように、突然ガラッと教室のドアが開けられる。
「サーセン、寝坊っす。」
教室内の空気が全く読めないのか、いつもと変わらず堂々とした足取りで現れたのは佐々野だ。佐々野は目立つ茶髪を気怠げに掻き上げながら、ノロノロと自分の席に着く。何度目かも分からない寝坊を理由に図々しく遅刻して来た佐々野の様子に、教壇に立つ萩原が我慢ならないといった表情で声を掛けた。
「佐々野、お前コレに見覚えはあるか?」
「なんすか、それ。」
「煙草だ。昨日の放課後、このクラスのベランダで見つかった。」
萩原のそう言って、手元の煙草の吸殻が入ったビニール袋をヒラヒラと揺らす。それを一瞥した佐々野は、「知らねぇな。」と軽く首を傾げた。その瞬間、分かりやすくピリついた萩原の雰囲気が変わった。
「惚けんなよ、このクラスで煙草なんて吸うとしたらお前しか居ないだろう!」
堪忍袋の尾が切れたように叫んだ、萩原の声が教室内に響き渡り酷く耳障りだ。突然キレ始めた萩原の様子に、佐々野は「はぁ?」と煩わしそうに眉を顰めた。
「茶髪、ピアス、制服、遅刻、何度言っても直さない。校則違反を挙げたらキリがないお前の事だ。どうせ煙草も吸ってるんだろ!」
日頃から佐々野のことが気に入らなかった萩原は、手に持った煙草をネタにして攻撃するように言い放つ。煙草を吸った犯人があたかも佐々野のように決め付けている萩原の物言いに、私は思わず俯いていた顔を上げた。
「ふざけんな!違ぇよ!」
ガシャンッと机を蹴った佐々野は、教卓の上で好き勝手な事を言った萩原に反論する。突如始まった二人の口論に、クラスメイトたちの動揺が波紋のように教室内に広がった。
「証拠は何処にあるんだよ!昨日の放課後、俺はバイトで直ぐに帰ってんだ!煙草なんて吸ってる暇ねぇんだよ!」
佐々野の言い分に、確かに昨日彼はバイトがあると言って、武田とふざけ合っていたにも関わらず、慌てて帰って行った姿を思い出した。ちゃんとアリバイはあるし、佐々野と共に帰った武田もきっと彼の無実を証言するはずだ。
何より、煙草を吸った犯人は私なのだ。身に覚えのない罪を萩原に無理矢理押し付けられているのだから、佐々野のが怒るのは当然のことだろう。
「そんな言い訳は要らない!お前みたいな勝手な奴がこのクラスに居るなんて、皆の迷惑だと思わないのか?今回ばかりは見過ごせないからな!」
「てめぇ、さっきから好き勝手言いやがって!」
「教師に向かってなんだその口の聞き方は!」
激しくなる口論にとうとう佐々野の限界が迎えたのか、彼は勢い良く萩原に向かって飛び掛かっていく。この状況は流石に不味いと思って、座っていた椅子から腰を浮かせた。
しかし、乱暴に萩原の胸倉を掴み上げた佐々野が、怒りのままに拳を振り上げようとしたその時。
「おい!何をやってんだ!?」
騒ぎを聞きつけたのか、隣クラスの教師が教室に駆け込んで来て振り上げていた佐々野の拳を止めた。隣クラス教師を筆頭に、そのまま雪崩込むように数人の教師が暴れる佐々野を抑え込み教室から出て行く。
「俺は何もしてねぇよ!」
教師たちに連れて行かれる佐々野の声に、罪悪感で強く胸が締め付けられた。私はもうどうしたら良いのか分からなくて、呆然と座っている事しか出来ない。
静まり返る教室を見渡した萩原は、佐々野に胸倉を掴まれた際に乱れたスーツを直してズレた眼鏡を指で上げる。今だに収まらない怒りが収まらない様子の萩原は、肩で息を整えながら「…一限目の数学の授業は自習にする。各自、テスト勉強を進めなさい。」と告げて、先程連れて行かれた佐々野を追いかけて教室を後にした。
萩原と佐々野が消えて静かになった教室に、クラスメイトたちは直ぐさま顔を見合わせてヒソヒソと会話をし始める。
「何あれ流石にヤバくない!?」
「てか、煙草とかどうでも良くね?怠いって。」
「まぁ、多分吸ったの佐々野でしょ。」
「ぶっちゃけ、誰でもいい〜」
「それな。面倒だから佐々野が吸ったって事で」
クラスメイトたちは誰が煙草を吸った犯人かなんてどうでも良いといった雰囲気で、自習になった一限目の時間を各々過ごし始める。先程の張り詰めた空気からは考えられない程に緩くなった空気感に、一人騒いでいた萩原の滑稽さが浮かび上がるような気がした。
「煙草吸ったか吸ってないかとかどうでも良いけど、佐々野ちょっと良い気味だよね〜!」
「ねー!いつも何様だよ?って感じだったし。」
ケラケラと笑って自分の席を立ち上がった村上は、教師の目が無いことを良いことに離れた橋本の席に向かって仲良く談笑していた。時折、教師たちに連れて行かれた佐々野を馬鹿にするように話をする彼女たちに、他のスクールカースト上位集団の奴らも少し同調しながら会話に加わっていく。
「まぁ、佐々野の事だから煙草くらい吸ってたって可笑しくねぇよな。むしろ納得するわ〜」
「それにアイツさ、前からウザいところあったじゃん?しかも最近ノリ悪すぎて、遊び誘っても全然来ないしな!」
「そもそもバイトって何やってんだか。もしかして闇バイトだったりして!」
いつも佐々野の金魚の糞のように彼とつるんでいた奴らは、ここぞとばかりに佐々野のことを悪く言った。佐々野の事は正直嫌いだけど、散々仲良くしておいて裏では彼の悪口を楽しげに話すなんてあんまりだ。
けれど、彼が疑われているのに煙草を吸ったことを自白出来ない私が、そんなことを思うなんて可笑しいにも程がある。佐々野の無実を誰よりも知っているのに、何もしない私が一番酷い。罪悪感と絶望感をジクジクと痛い程に感じた。
「そういえば、武田って昨日佐々野と一緒に帰ってたよね?」
スクールカースト上位集団の一人が、そう思い出しように声を上げた。各々自由に自習時間を過ごしていたクラスメイトたちの視線が、一気に武田に向かう。
「え、じゃあ煙草のこととか何か知ってるんじゃない?」
「武田ー、どうなの?」
村上と橋本が畳み掛けるように武田に聞く。
「さぁー?確かに昨日一緒に帰ったけど、佐々野が煙草を吸ったか吸ってないかなんて知ったこっちゃないし。そもそも俺、佐々野のこと良く知らねぇしな。」
スクールカースト上位集団の中に居た武田は二人に対して、軽い笑みを浮かべてながら両手をゆるゆると上げ首を振った。佐々野のことなんて知らないと突き放すような武田の口調に、周囲は少しだけ驚いたような表情を浮かべる。
「マジで?武田がその程度だったら、誰も佐々野のことなんて分かんないよ?ウケるんだけど!」
「佐々野の人望無さすぎ〜!」
武田の反応に村上と橋本は手を叩きながら、ケラケラと笑い声を上げる。佐々野と一番仲良く見えた武田でさえ、これ程までに彼に関心が無いのだ。この教室内に誰一人として、佐々野の味方なんて居ないのだと感じる。
私が煙草を吸ったと自白しなかったから、佐々野が疑われて連れて行かれた。それを良い事にクラスメイトたちは、佐々野のことを悪く言うばかりだ。彼等にとっては煙草を吸ったのが誰だろうと関係ないし、さほど興味も無い。学校という狭い世界で、ネタに尽きた彼等は新規の話題に食い付きたがり、皆であーだのこーだの言い合ってして共感するのが楽しいのだ。
煙草で深刻になっていたのは担任の萩原だけで、そんなもので騒いでいるのが馬鹿馬鹿しく思えてくるくらいクラスメイトたちは皆シビアだった。
「てか、佐々野これからどーなるんだろ?」
「んー、停学とかじゃね?」
「いや、佐々野の場合悪くて退学だろ。」
「さっき萩原殴ろうとしてたし、退学待ったナシって感じ?」
クラスメイトたちが話す内容に、私は心臓を容赦なく掴まれたような心地になる。彼等が言った『退学』という言葉に、恐怖で頭がいっぱいになった。この件でそうなった場合、私どうやって佐々野に償っていけば良いのだろう。
元々、校則違反が絶えない佐々野のことだ。萩原はそんな佐々野のことをあからさまに嫌っていたし、何なら退学を後押ししそうだ。煙草をネタにして、日頃の生活態度や注意しても直さない校則違反のことをネチネチと執念深く告げてくるだろう。私のせいで佐々野が退学になるかもしれない。
そう思うのに、佐々野の無実を晴らすために私は立ち上がることが出来なかった。仮に私が煙草を吸ったと自白したら、退学までいかなくてもきっと停学処分くらいにはなるだろう。そしたら、以前配られた進路希望調査のプリントに書いた榊大への進学は確実に難しくなる。最悪、進学も就職も出来なくなるかもしれない。きっと大人たちは激昂して、私が作り上げた『榎本恵』は完全なる終わりを迎えるのだ。
サァッと血の気が引いた。目の前がくらりと歪んで、呼吸がしづらくなる。そんなことになったら、私は一体どうやって生きていくのだろうか。小さい頃から両親に言われるまま、勉強を続けてきた。常に成績優秀であるようにと、将来有名大学に進学するようにと義務付けられてきた。本来の私を殺して、皆が求める『榎本恵』として生きていくことしか出来ないのに、その道が閉ざされたら私はどうなるのか。世界が全て変わってしまうかのような途方もない恐怖感に襲われる。
「恵…?」
突然掛けられた声に、ハッとして顔を上げる。近くの席である香苗が心配そうな表情で私を見ていた。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
その声に私は思わず自分の顔に手を触れる。こんな大罪を犯して動揺している姿なんて他人に見せてはいけないし、今は誰の目にも見られたくなかった。
「うん、大丈夫。昨日、少し寝るのが遅かっただけだから。」
「そっか、気を付けて。テストもあるだし、あんま無理しないようにね〜」
「ありがとう。」
香苗の目を欺くために、私は平気な顔をしていつも通りに微笑んだ。緊張で固まった身体を動かして、テスト範囲の教材を広げる。シャーペンを持って目の前の問題を作業のように解いていくも、頭は煙草のことや佐々野こと、そして私のこれからについて不安と恐怖で一杯だった。
それを誤魔化すように大きく息を吐き出していれば、階段を上ってくる足音が聞こえて無意識に肩に力が入る。私はいつものように何でも無いフリをして、目の前に広げた参考書の問題を解いていく。淡々と作業のようにそれを続けていれば足音は次第に近付いてきて、ついにはガチャッと勢い良く部屋のドアを開けられた。
「どうだ、勉強は進んでいるか?」
ノックも無く開けられたそれに虚無感を覚えながら「…まぁ、ぼちぼち。」と、いつもと同じように返事をする。机に向う私に、父は得意気に腕を組んだ。
「もう高校三年生になったんだから受験もあるんだし、しっかりと勉強しなさい。」
「はい。」
「そういえば、この前の塾での小テストはどうだったんだ?」
そう聞いてきた父に、密かに心臓が跳ねる。「結果はもう戻って来たのか?」と逃げ道を塞ぐように早口に続けられるのを、私は「…まだ。」と小さく躱す。
「そうか、結果が返ってきたら直ぐに見せなさい。」
「はい。」
私の返事に満足したのか、父は勉強のことだけ聞くと早々に部屋を出て行った。父も担任の萩野も、私が勉強をして良い成績をとる事以外は興味が無いのだろう。
毎回言われる内容は同じで、私は何度もこの会話を繰り返しては、「はい」としか言えないロボットに成り下がる。もはや内容なんて聞いていなくても「はい」さえ言えば、直ぐにこの会話は終わりを迎えるのだ。
父の足音が遠退いていき、私は肩の力を抜く。そして、塾の鞄からこの前やった小テストの結果を取り出した。いくつかのテスト用紙の中で、数学だけ『71点』と書かれたそれはとても父に見せられるものではない。見せたらどうなるか、想像するだけでも億劫だ。
父の家系は代々会社を経営していて、父はそこの三代目社長で地元では少々名の知れた人物だった。高校卒業後、直ぐに身内だらけの会社で次期社長として働き始めた故か、大学進学経験が無い父は、やたらと私を有名大学へと行かせたがった。
幼い頃から数々の習い事を義務づけられて、常に良い成績をとれるようにと厳しく勉強を教えられてきた。きっと、父は私を使って自分がやりたかった事を発散させているだけなのだと思う。
生まれた時から、こうあるべきだと教育されてきた私は自分の意思というものが、人と比べて酷くあやふやなのかもしれない。だから、やりたくないと思った『学級委員長』も誰かに言われたら、それに従う事しか出来なかった。
面倒だとか嫌だとか自分の感情は、全て捨てるようにして生きてきた私は常に父の言いなりで反抗する事を知らない。誰かにとって、都合の良い人間でしかない。
そう、分かっている。歳を重ねる度に増えていく違和感が、心の中で叫んでいるのを聞こえないフリをする。毎日、自分が何処へ向かっているのか、何のために生きているのか分からない無限に続くループのような日々は、段々と自分の首を絞めていくようで息苦しい。
頭が痛い。喉が渇いた。終わらない思考の渦に呑み込まれそうになりながらも、重たい足取りで部屋を出る。両親と私の三人暮らしだとは思えない程、見栄ばかりの大きな家の中は静かで空っぽだ。
階段を降りて廊下を進み向かった広いリビングには、タイミング良く誰も居なくて安心する。自分の家なのに何故こんなにも肩に力が入るのだろうかと、無意識に上がっていた肩を下ろした。キッチンにある冷蔵庫から飲み物を取り出して、一気に飲み干す。渇いていた喉は潤したはずなのに、どうにも何かが満たされない心地がした。
ふと、見渡すようにリビングへと視線を向けると、中心にある大きなダイニングテーブルに父が忘れて行ったであろう煙草とライターが置いてあった。ポツンと淋しげに置かれたそれが、なんとなく気になって手に取る。
以前にも見かけたことがある光景にも関わらず、父の所有物に触れたのはこの時が始めてだった。いつも咎められることが怖くて仕方なく、興味も無かったのに何故煙草を手に取ったのか自分でも分からない。本当になんとなくだ。
煙草は父がよく吸っているので、箱の中は既に半分ほど減っていた。私は何も考えずに、その箱から一本煙草を取り出す。普段手にする機会の無いそれをまじまじと観察した後、見様見真似で口に咥えてみた。
そして、煙草と共にテーブルへ置かれていたライターで咥えた先に火を点けた。しかし、何故だか上手く火が点かなくて思わず眉間に皺を寄せる。初めての行為に変な緊張を感じながらも煙の匂いが微かに漂った瞬間、何故だか今まで作り上げていた自分の存在が消えていくような気がした。
その瞬間、ガタンッと隣の部屋から物音がしてビクッと肩が跳ね上がる。焦る気持ちのまま慌てて、父が使っている灰皿を見つけて咥えていた煙草の先を押し付けた。
まだ全然火が点いていない煙草は、吸殻と呼ぶにはあまりにも不自然で殆ど元の形を残している。それを片手に隠すように持ったまま、酷く焦った私は何を考えたのかデーブルに置かれたままの煙草とライターを持って急いでリビングを飛び出した。
バクバクと心臓の音が、太鼓のように身体中に響く。頭が何も考えられなくなって、ただただリビングから逃げるように足を動かした。その際に、手に握り締めた煙草の箱がクシャッと凹む。
なるべく足音を立てないように急いで階段を上がり自室へ戻ると、一気に脱力感に襲われた。ここまで来れば大丈夫だろうと少し冷静になったところで、焦った勢いで持ってきてしまった煙草とライターを見比べる。何で、こんなものを持ってきてしまったんだろう。煙草を吸おうとしていた所を父に見つかったらまずいとはいえ、流石に混乱しすぎだ。
それにこれは父のものだし、無くなった事に気付かれて探されたら面倒だ。早くリビングに戻しに行かなければと思うも、下の階から物音が聞こえて思わず部屋に留まる。恐る恐る部屋のドアを少し開けて耳をすませば、父と母の会話が聞こえて来る。再びリビングに戻るのは危険だと思い、とりあえず全然吸えてない煙草を箱に戻した。
煙草とライターをそれぞれ手に持って、こんな事をするつもりではなかったのにと頭を抱える。未成年であるにも関わらず、急に煙草を吸ってしまうなんて本当にどうかしていた。
頭ではそう思っているのに、私はその時に何処か胸がすくような気持ちになっていた。初めて犯してしまった罪を誇らしく思ってしまうような、本来の自分というものが芽生え始めたような不思議な感覚が確かにあった。
手に持った煙草を眺めつつ、私は口の中に一瞬だけ漂った煙の味を舌で撫でる。その時、ずっと偽物の振る舞いに包まれていた本来在るべき己の姿が、少しずつ膜を破ろうとしているのを感じたのだ。
キーンコーンカーンコーンと、四時限目終了のチャイムが鳴り響いて一気に教室内の空気が緩む。その空気を感じとった数学担当で担任の萩原は、眉間に皺を寄せてクラスメイトの浮き立ちを抑えるように口調を強めて授業内容の公式を告げていった。
萩原は言いたい事だけ言って「起立、礼」と慌ただしく授業を終える。それと同時に、ガラッと教室のドアを開けて校内のざわめきと共に目を引く茶髪がズカズカと入って来た。
「佐々野、お前また遅刻か!」
唐突に現れた茶髪に、萩原が眼鏡を片手で上げて呆れたように怒鳴る。
制服をだらしなく着崩して、校則違反の茶色に染められた髪にピアスを着けた男子生徒。佐々野浩は、このクラスで一番の問題児だ。佐々野は目を吊り上げる萩原の言葉を大して気にもせず、「サーセン、寝坊っす。」と欠伸しながら返している。
佐々野はそのままスタスタと自分の席に向かうと、「佐々野遅ぇよ!サボり魔〜!」と仲の良いクラスメイトたちにイジられていた。
「だって起きれなかったんだから、仕方なくね?」
「うわ〜、悪ぃ奴だな!てか、今日放課後カラオケ行かね?西校の奴ら誘ってさ!」
「あー、バイトあんだよな〜」
「お前いつもバイトばっかじゃん!」
ケラケラと楽しげに話す佐々野たちを、担任の萩原は忌々しげに睨み付けて「委員長、職員室まで次の授業で使う資料を取りに来てくれ。」と不機嫌のまま私に告げる。八つ当たりもいいとこだ。佐々野に相手にされなかったからといって、此方に当たるのはやめてほしい。
諦めの気持ちと共に「はい…」と答えながら席を立ち上がり、苛立ちを隠さないまま歩き始める萩原の後に続き教室を出る。チラリと一度だけ視線を教室の中心にいる佐々野に向ければ、彼はクラスメイトとふざけ合いながら笑っていた。その様子に、やり場のない苛立ちがゆらゆらと胸のうちで浮かぶ。
昼休みを迎えた校内は、授業から解放された生徒たちが行き交っていて騒がしかった。前を歩く萩原の背中は、その騒がしい雰囲気の中で刺々しいオーラを放っている。
「全く佐々野には困ったものだ。なんで、あんな奴がこの学校に居るんだか…」
「…はぁ、」
「君みたいな優秀な生徒からしたら、佐々野なんて風紀を乱す奴が居たら迷惑だろ。」
萩原は廊下を淡々と歩きながら、此方を振り向くことも無く話し掛けてくる。先程の佐々野の態度が、よっぽど許せなかったのだろう。憂さ晴らしのつもりか、あたかも私の事を気にかけているように萩原は、気に入らない佐々野の文句を延々と続けた。「遅刻して来てまともな謝罪もないなんて、教師を舐めていると思わないか。」「本当に学校を何だと思っているんだ。」と何て答えれば良いのか分からない言葉に「…どう、ですかね?」と意味の分からない言葉を返す。そんなもの全て佐々野に言えばいいのに、何故私に言うのだろうか。
暫くして職員室に着くと、萩原は佐々野への文句を私で発散できたから少しだけピリピリとした雰囲気がマシになっていた。そして、私に向って書類の束を渡してくる。
「すまんが、これ教室まで頼むな。」
「はい。」
萩原から受け取った書類は割と量があり、内心「お前が持って行けよ」と悪態をつく。多分、次の授業で使う書類なんてどうでも良くて、コイツは言えなかった佐々野への文句を誰か都合の良い人間に吐き出したかっただけなのだろう。
萩原は私に書類を渡して、一仕事終えたと言わんばかりに時計を確認すると、自分のデスクを簡単に片付けてさっさと昼食の準備を始めていた。随分と自分勝手な行動に心底幻滅する。
こうゆう場面を見る度に、父も萩原も大人なんて枠組で囲っているけど、所詮子供の延長線に過ぎないのだなと実感する。ただの大きな子供だ。
自分の我儘を押し通すために、都合良く他人を使う。それを悪いことだなんて思わないで、その図々しさを自分の中で正当化させているのだから子供よりも質が悪い。
佐々野のことだって自分の言う事を聞かない彼が、単純に気に入らないだけだ。けれど、髪を染めてガタイも良く如何にも不良ですと言わんばかりの風貌の佐々野に、強く当たる事も出来ない臆病者なのだろう。
私は丁寧に書類を受け取りながら、萩原へ軽蔑の視線を送ると「失礼しました。」と職員室を後にした。昼休みの騒がしい廊下を歩きながらも、腕の中の書類の重さに思わず眉間に皺を寄せる。じわじわと胸に広がっていく不快感とこの世界への苛立ちで、腕の中の書類をぶち撒けたくなった。
どうにもならない不満を胸に教室に戻って来ると、「恵ー!」と名前を呼ばれる。その声に顔を上げれば、友達である香苗と真帆が教室の隅で机同士をくっつけてお弁当を広げていた。
「もう先に食べてる〜!」
「恵も早くお弁当食べよ!」
香苗は卵焼きを頬張りながらモゴモゴと声を上げて、真帆はそんな香苗に倣うようにサンドウィッチを片手に持ち、私を手招きしていた。二人に「うん。」と返事をして、萩野に持たされた書類を教卓に置く。書類の重みで手が少しだけ赤くなっていて、なんだか余計に苛々した。
それを胸の中でコントロールしながら、自分の席のスクールバッグから弁当を取り出して、机同士をくっつけて弁当を食べている二人の元へ向かう。近くの椅子を借りて二人の机に運ぶと、二人は既にお弁当を半分程食べ終えていた。それを横目に、私もお弁当を広げて食べ始める。
「萩原の奴、恵が委員長だからってコキ使いすぎだよね!」
「ホント有り得ない!恵、早くご飯食べな〜!コレあげる。」
「あっ、ありがとう。」
真帆を発端に萩原への愚痴を吐く香苗から、デザートにとチョコを貰った。
「てか、前から萩原って何かと恵に面倒事押し付けたがるよね〜」
「マジ最低!私が委員長だったら絶対無理!恵は良い子だから出来るんだろうけどさ!」
極めて日常的な彼女たちの会話。それなのに真帆の言う『良い子』という言葉がやけに耳に付いた。昔から周囲に言われ続けてもう慣れているはずの言葉なのに、心臓が一気に冷えていくような感覚になる。
そんな違和感を誤魔化すように、無心で弁当の中身を突いた。
「…いや、そんな事ないよ。」
「あるって!成績もトップだし、絵に描いたような優等生なんだもん!」
「そうそう〜、もう少し手抜きなって思っちゃうくらいに真面目だよね〜!」
二人は私への評価をつらつらと述べながらも、どんどん目の前のお弁当を空にしていく。『優等生』というのは昔から私にとっての義務だというのに、それを今更息苦しく感じるなんて変だ。友達であるはずの二人が話すたび、なんだか酷く煩わしく思えてくる。
「というか!話変わるんだけど二人共に進路とか決まってる?」
続けられる二人の会話を適当に聞き流していれば、弁当を食べ終えた真帆が唐突にそう言った。
「ん〜、私はとりあえず看護系の専門かな?」
「え、香苗もう決まってんの!?」
「まぁ、なんとなくって感じだけどね〜」
「うわー!先越された!」
「先越しちゃった〜!あれでしょ?昨日の進路希望のプリント。」
「そうそう!あれ今週中に提出でしょ?まだ決定じゃなくていいって言ってたけどさ、それっぽいの書かなきゃいけないじゃんね。テストもあるし、考える事ありすぎだよ〜!」
真帆と香苗が話しているのは、昨日配られた進路希望調査のプリントのことだ。担任の萩原が言うには今回の内容は進路を決定するものではなく、あくまでも進学や就職の方向性を担任に報告することが重要になるらしい。そして、それを元に今後どのような進路計画を立てていくのか参考にするようだ。
配られた進路希望調査のプリントの存在を思い出すと、どうにも重たい気持ちになる。私の進路は最初から父に決められている為、特に悩む必要はない。けれど、このまま父が決めた人生を歩んでいかなければいけない事に誤魔化しようのない違和感を感じる。
自分は一体なんで生きてるのだろうという途方もない絶望が常に私の中に広がっていて、全てのことがどうでも良く感じて気力が湧かないのだ。
そんな私を知らない香苗は何てことのないように「恵は、どうするか決めてるの?」と聞いてきた。香苗に続くように、真帆も興味津々といった視線を向けてくる。
「そうだよ!恵はー!?恵なら有名大学進学でしょ!?やっぱ榊大とか!?」
そう興奮したように真帆がガタッと椅子を鳴らして勢い良く立ち上がったその時、直ぐ後ろを通った佐々野に思いっきりぶつかった。
「痛てぇな。」
「あっ、ごめんなさい!」
真帆が運悪くぶつかった佐々野は、不快そうに眉間に皺を寄せて「チッ…!」と舌打ちを落とす。クラス一の問題児である佐々野のあからさまに不機嫌な態度に、真帆の顔色が徐々に悪くなった。
先程まで私達の間に流れていた和やかな雰囲気は、佐々野のせいで一気に冷え切っている。しかし、真帆からされた進路の話はなるべく避けたいと思っていた為、このタイミングで会話が続かなかった事に私は密かに安堵した。
「もっと周り見て動けよ、ブス」
「…っ、」
佐々野はこの学校では目立つ茶色の髪を掻き上げて、苛々とした口調で真帆に言い放つ。元々、佐々野という人間はとても自己中心的で常に他人を見下しているような奴だ。この酷い発言さえも彼の通常運転なのだけど、やはり人を傷付けるには十分な威力がある。佐々野の言葉を真正面から受けた真帆は、眉間に皺を寄せて泣きそうな顔をしていた。
ただぶつかっただけなのに、これ程キレる佐々野の堪え性の無さには流石に怒りを覚える。
「おい佐々野、早く行くぞー」
そこへクラスの陽キャ集団の一人であり、佐々野とも仲が良い武田が数人の陽キャ達と共に教室のドアから顔を出して佐々野を呼んだ。真帆を睨み付けていたはずの佐々野は、武田の声に「うっせぇよ。」と直ぐに反応する。
武田の近くに居た同じ集団の村上と橋本の女子二人も、此方を見ながらニヤニヤと女子特有の高い声を上げた。
「佐々野、そんな奴ほっときなよ〜!」
「真面目チャンと佐々野の絡みとか似合わな過ぎてウケる!」
佐々野に睨み付けられていた真帆を、二人は何処か馬鹿にするように笑っている。その声に元々泣き出しそうに唇を噛み締めていた真帆は、より一層顔色を青くして俯いた。彼女たちにとって『委員長』の私と仲良くしていて、クラス内でも物静かなタイプの真帆や香苗は『真面目』な括りに入るのだろう。
私は目の前で繰り広げれるやり取りを眺めながら、胸の奥でムカムカした思いが溜まっていくのを感じる。担任の萩原じゃないけれど、私は佐々野を含めたクラスの陽キャ集団が以前からずっと気に入らなかった。勿論、萩原も気に食わないけれど。
佐々野含めたコイツら陽キャ集団は、毎回のように何故か私達よりも自分達の方が上だと思い上がった振る舞いをするのだ。昔から、学校にはこのような思い上がりが一定数居る。主に顔が整っているかどうかが一番重要で、俗に言う可愛い女子やカッコいい男子が陽キャと呼ばれ群れる集団になる。他にもコミュニケーションが得意な奴やムードメーカー気質な奴だったりが大して面白くもない内輪ネタでギャーギャー毎日それはそれは楽しげにはしゃぐのだ。反吐が出る。
そして奴らは、自分達のようにクラスの中心で騒ぐ事が出来ない私達のような害の無い人間に対して『真面目』と心底馬鹿にした褒め言葉を投げ掛けてくるのだ。生まれた時からずっとそうあるべきだと義務づけられてきた私は、彼等にとってまさにその対象であった。それはきっと自分たちの地位を確立したいがための区別のようなもので、他人を馬鹿にして自分をよく見せようと必死に騒ぐ彼等と私は簡単に言ってしまえば人間性がまるで合わないのだ。
真帆の事をブスだと言った佐々野は、武田たちの呼び掛けに彼女の事などどうでも良くなったのか、彼等と共に目立つ茶髪を靡かせながら教室を去って行く。佐々野の鋭い視線からようやく解放された真帆は、ヨロヨロと椅子に腰掛けると無言のまま深く俯いてしまった。
なんて災難だろうと真帆に同情しつつも、先程真帆が私に向かって言った言葉をふと思い出す。彼女から言われた『良い子』や『優等生』という言葉は、村上や橋本が真帆に言った『真面目チャン』とそう大差無いような気がするのは何故だろう。悪気があったわけじゃないと思うけれど、少なからず私はあまり良い気はしなかった。
泣きそうな表情で俯いて座る真帆を、弁当を食べ終えた香苗が「あんな奴らなんて気にしない方が良いよ〜!」と宥めている。それを横目に私は、少しだけ胸のすくような思いを抱いてしまった自分に嫌気が差した。
真帆の事が嫌いなわけじゃないはずなのに、いい気味だと心の何処かで確かに思ってしまったのだ。それと同時に、彼女や私達を馬鹿にした佐々野や村上と橋本にもふつふつと怒りが沸く。このクラスでスクールカースト上位に居ると自覚している彼等が本当に嫌いだ。結局、私はどいつもこいつも気に入らないのかもしれない。
自分のやりたい事を押し付けてくる父とそれを尊重する母も、自分の評価を気にして私に期待をする萩原も、自己中心的な振る舞いをする佐々野も、他人を見下して自分の地位を誇らしげに思っている馬鹿な村上と橋本も、悪気なく私を馬鹿にしている真帆も。
あぁ、こんな奴らの中で私は一体何のために『榎本恵』を作り上げているのだろう。毎日毎日おままごとの繰り返しのようで、馬鹿馬鹿しくなる。幼い頃から自分の意思というものを捨てる事しか出来なかったというのに、その生き方しか知らないというのに、私はどうしてこんなにも絶望感を抱いているのだろう。
何もかもを投げ出して誰も知らない遠い場所で、ひっそりと生きていきたいような気持ちになって、私はお弁当を素早く片付けると「ごめん、ちょっと用事思い出した。」と落ち込む真帆と優しく宥める香苗に声を掛けた。
チラリと私を見上げた真帆の戸惑った表情が「どうして声を掛けてくれないの?」と訴えているように思えて、なんだか居心地が悪く感じて二人の机から静かに離れる。空になったお弁当をスクールバッグへ戻すついでに、その中から小さなポーチを人目を気にしながら取り出して、こっそりと制服のポケットにしまった。
制服のポケットの上から手のひらで撫でて、取り出したポーチの存在を確認する。そして、私は真帆と香苗が居る机から離れるように教室を出た。
生徒たちが騒がしい廊下を縫うように歩き、渡り廊下を越えて校舎の別棟にあたる階段を淡々と上がっていく。一番上の階に上がる頃には、人気はだいぶ少なくなり、静けさに包まれていた。目的の屋上へと繋がる重たいドアを開けて外に出る。
コンクリートの上を歩けば、吹き付けた風が額にかかる前髪を押し上げた。広い屋上を見渡せば、私以外に誰も居なくてホッとする。誰も居ない空間は、今の私にとってとても都合が良かった。
季節は春とは言えまだ風は冷たいけれど、屋上全体に降り注ぐ日差しは暖かくて過ごしやすい気候だ。頬に風を受けながら、屋上の奥にある給水塔の裏に向かう。フェンスに囲まれて死角になったそこは、人一人が座れるくらいのスペースが空いていた。給水塔の壁に寄り掛かって、フェンスを前に隠れるようにしゃがみ込む。目の前のフェンス越しには、穏やかな青空が広がっていた。
騒がしいクラスメイトたちの声から離れて、私を誰も認識しない空間でこの世界からシャットダウンするように深く項垂れる。胸の中で黒く蠢いている感情を宥めるように、深く息を吐いた。
そして、制服のポケットに入れていた小さなポーチを取り出す。その小さなポーチを開けると中には、昨夜何気なく手に取ってしまった父の煙草とライターが入っている。
煙草を吸おうとして吸えなかった後、両親に見つかるのが怖くて慌てて持ち出してしまった父の煙草とライターをどうしたらよいか処分に困っていた。何度か元の場所に戻そうとするも、両親たちはタイミング悪くリビングで寛ぎ始めてしまったため、結局煙草もライターも戻すことが出来なかったのだ。
今朝もリビングのあの広いダイニングテーブルで食事をとっていた父は、「煙草を見かけなかったか?」と執拗に母に聞いていた。昨夜から消えた煙草とライターを探しているような口振りで話す父の様子に、今更持ち出した煙草を戻すにも戻せなくなってしまったのだ。
そして、そんな父の煙草とライターを持っていることが、両親に見つかりでもしたら面倒では済まされない。私の部屋に入る時も、ノックの一つも呼び掛けもしない父の事だ。学校に行っている間や私の知らない所で、勝手に部屋に入られている可能性も全然ある。母だって同じだ。私を自分たちの所有物だと思っている彼らの事だから、勝手に私の部屋に入って隠していた煙草とライターの存在を見つけてしまうかもしれない。
悪い妄想が止まらなくなった私は、煙草とライターを何処に隠しても心配で部屋に置いておくことも出来ず、ついには学校までこっそりと持って来てしまったのだ。普段ならば持つ事の無いそれは、私の印象を底辺に落とすものだ。いっそのことコンビニや駅のゴミ箱に捨て去ってしまえばいいのではとも思ったが、どうしてか私はこれを捨てる事が出来なかった。
昨夜、この煙草を口に咥えて火を付けた時に一瞬感じた私が消えていくような感覚が忘れられないのだ。それをもう一度確かめたくて、今この煙草を手放すには惜しいと思ってしまった。
給水塔の裏から少し顔を出して、屋上に誰も居ないことを再度確認する。細心の注意を払いながら煙草の箱から、昨夜火を点けようとして先が少し燃えてしまった一本を取り出した。ドキドキと高鳴る鼓動を抑えながら、それを咥えて少しだけ吸う。
昨夜、あの何気なくやってしまった行動の後、私はスマホで煙草の吸い方について調べた。何でも初めてやる事は知識が無いと不安だし、思っていたよりも上手く火が点けられなかった事が気になって正しい吸い方というものを知っておきたかったのだ。
上手く火が点かず少しだけしか燃えていない煙草の先に、父のライターでカチッと恐る恐る火を付ける。学校でこんな禁忌を犯している自分に、ドクンッと心臓が大きく脈打つ。こんな場面を誰にも見られてはいけないと分かっているのに、私は昨夜のようにこの行為を止めることが出来なかった。
暫くすると煙草のフィルターを通して、口の中に煙の味が広がった。想像していたよりも不味いそれに驚いて、思わず眉間に皺を寄せる。急いで咥えていた煙草から口を離し、口の中に広がった不味い煙を呑み込む事はせずに慎重に吐き出した。
フーッと吐き出された煙は春風に漂って、何処かに消えていく。それをぼんやりと見つめていると、先程まで自分の中に渦巻いていたドス黒い何かがマシになったような気がした。指の間で挟んだ煙草の先から、ゆらゆらと煙が空へ流れていく。
何だ、こんなものか。大人や悪ぶった不良たちが吸う煙草はこんなものだったのかと意味も無く納得した。勝手に煙草というものは未成年で周囲から『真面目』と呼ばれる私からは程遠く、経験を重ねた大人たちだけの特別な嗜みだと大袈裟に思っていた。初めてまともに煙草吸って、こんなものだったのかという何とも言えない感情に浸る。誰かの言いなりになって何の信念も持っていない私でも、これ程簡単に吸えてしまうのだ。
もう一度、煙草を咥えて慣れないながらに少し吸ってみる。口の中に広がる煙はやはり不味かった。眉を寄せながら、少しだけ口内にそれを留まらせてゆっくりと吐き出す。全然美味しいとは思えないコレを中毒的に吸う大人たちの気持ちが全く理解出来ない。
けれど、屋上で一人、密かに煙草を吸った私は朝布団の中で必死に作り上げた私では無い。両親の都合の良い娘でも、真面目な学級委員長でも無くて、法律を犯した悪い学生だ。
その事実が何故か清々しく思えて、作り上げた私が消えていくのを感じる。そして、ようやく私は正気になれたような気がするのだ。誰かの指示ではなく、ただ自分の意思で煙草を吸っている状況が居心地良くて。『真面目』や『優等生』というレッテルからかけ離れたこの行為は、私を幾らか自由にした。
コンクリートに落ちた煙草の灰を視線で追いながら、また煙草を吸った。不味い煙が広がって何の美味しさも分からないのに、満たされていく何かを感じる。心の奥底でどうにも出来なかった感情が、少しだけ落ち着きを取り戻していくように。もしかしたら、私はまだ生きてるのかもしれないと。自分自身、何故そんな事を思うのか意味が分からない。けれど、己の口から吐き出された煙を眺めながら確かにそう感じたのだ。
時間と共に徐々に短くなっていく煙草をコンクリートに押し付けた時、昼休みの終了を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。
「恵、今回のテストはどう?ちゃんと勉強しているの?」
いつものように塾で何時間も勉強を終えた後に帰宅すると、母はこの前の父と同じように勉強の事について声を掛けてきた。
「…まぁ、ぼちぼち。」
「ぼちぼちって、もう高校三年生になったんだからしっかりしなさいよ。お父さんだって、凄く期待しているんだからね。」
それ以外に言う事は無いんだろうか、父も母も担任の萩原も毎回同じような事しか言わない。昔から彼等が気にするのはコレだけだ。勉強の良し悪しや世間体、私が優等生であるか否かが最も重要であるのだろう。私の存在意義はそれだけだと言われている気がして、酷く憂鬱な気分になる。
「そういえば、進路希望調査のプリント配られたんですってね。同じ学校の真帆ちゃんのお母さんから聞いたわ。」
そう言った母に私は思わず顔を上げた。進路希望調査のプリントの存在が、母に知られてしまったのは実に面倒だ。
「勿論、恵は榊大にしたのよね?」
当たり前と言わんばかりに放たれた言葉には、従わなければいけないような圧力を感じる。昔から私を有名大学に進学させたがっていた父の希望は榊大だった。榊大は県内一偏差値が高い大学で、全国的に見てもレベルの高いカリキュラムが組まれている。
榊大はもともと父が憧れていた大学でもあった為、以前から進学先の候補に上がっていたし、毎回勉強の話になると榊大の名前は刷り込みのように何度も言われてきた。配られた進路希望調査のプリントにもそう書く予定でいたのだが、どうしてか榊大の名前を書くのが億劫に感じて今だにプリントは空欄のままだった。
「…うん、そうだけど。」
空欄である事は決して言わずに肯定すれば、母は直ぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そうよね、良かったわ。お父さんが行きたかった大学だし、恵の将来の幸せを考えたら絶対に榊大にするべきよ。」
そう母は得意気に私に告げると、そそくさとキッチンへ向かった。その後ろ姿を見ながら、私は母の言った言葉を頭の中で繰り返す。彼女の言う幸せとは、一体なんだろう。榊大へ進学すれば、私は幸せになれるのだろうか。胸の中で、煙ように広がったモヤモヤとした感情が晴れない。
それを無理矢理呑み込んで、キッチンへ向かった母に「明日、進路希望調査のプリント提出するから。」と先程の言葉を素直に受け取ったフリをすれば、彼女は気が済んだのかそれ以上何かを言うことはなかった。毎回のやり取りなのに、日に日に何かが溢れ出しそうになる。
母から遠ざかるように、私は急ぎ足でリビングから自室に戻った。電気を点けることはせずに暗い部屋を彷徨って、息を殺すように布団の中に潜り込む。一層暗く閉ざされた空間に、少しだけ心が落ち着いた。なんだか酷く疲れた。
世界と自分を遮断するこの布団の膜の中で、私は毎朝『榎本恵』を作り上げている。この布団から出る時は、誰がどう見ても完全な『榎本恵』でいなければいけないのだけれど、誰の目もないこの布団の中で私は私であることを許されている。
こんな事をして一体何になるんだろう。唐突にそう思った。この狭い世界でしか生きられない本当の私が思考を荒らして、途方もない問いを私に突き付ける。
嫌だ。もう嫌だとドス黒く蠢いて、今にもコントロールが出来なくなりそうなそれを得意な見て見ぬフリをして必死に抑える。このまま、後どれだけの日々を乗り越えたら私は楽になれるのだろう。いつか見た蛹のように世界から外れた膜の中で、ドロドロと溶けて何も分からないまま終われる日は来るのだろうか。
そんな事を延々と布団の中で考えていれば、ガチャンッと遠くから玄関のドアが閉まる音が聞こえてきた。その音に父が帰って来たのかと悟り、キュッと心臓が縮む。もともと沈んでいた気分が、より一層深く沈み込んで全く浮上出来る気がしない。
父が帰って来たとあれば、また監視のように部屋に来て勉強の進行を聞いてくるかもしれない。そう思うと布団の中に居ることも出来ず、私は私であることを諦めて必死に『榎本恵』を作り上げてからヨロヨロと布団から起き上がる。部屋の電気を点け、机の上に参考書や塾の宿題などを適当に並べてあたかも勉強しているように装った。それを目の前にして椅子に座ると何とも言えない虚しさが込み上げてくる。本当に、私は一体何をやっているんだろう。
そのまま暫く待っても、父が私の部屋にやって来る気配は無かった。それに少しだけ安堵して、部屋の隅に放置されたスクールバックの中から進路希望調査のプリントを取り出す。その際に煙草を入れている小さなポーチが、スクールバッグの中からカシャンッと音を立てて床に転がり落ちた。
それを拾い上げて、ポーチの中に仕舞っていた煙草とライターを取り出す。手持ち無沙汰にカチッと意味もなくライターで火を付けて、直ぐに消す。それを何度か繰り返しながら、箱から煙草を一本取り出して口に咥えた。
部屋の窓を開けてベランダに出ると、夜風がふわりと入頬を撫でる。目の前に広がる夜空はどんよりと曇っていて星の一つも見えなかった。なんだか全てが遣る瀬無い気持ちになって、無意識に口に咥えた煙草のフィルターを噛む。
最初に煙草を吸った日から、私はこうして人の目を盗んでは度々煙草を吸うようになった。煙草を吸うたびに今まで見て見ぬふりをしてきた感情が、以前よりも強く自分の中で主張し始めたように感じる。真面目な優等生の委員長の姿が崩れて、法を犯した未成年になるたびに私は少しずつ息がしやすくなっていく。作り上げた『榎本恵』の中で、その感覚が徐々に広がって皮膚の下で蠢き今にも突き破って出てきそうだった。それくらい私は煙草に魅入られている。気付けば、半分ほどあった父の煙草はもうすぐ無くなってしまいそうな程だ。
ライターに灯した火を煙草の先に近付けたところで、遠くから階段を上ってくる足音がした。ヤバいと思って急いでベランダから部屋に戻り、口に咥えた煙草を戻してライターと共にポーチの中に仕舞う。唐突に訪れた緊張感に心臓が大きく打ちつけるが、私は何でもないような顔をして机に広げた教材の前に座った。
火を点ける前で良かったと密かに安堵しながら、素早くポーチを机の引き出しに入れて完全に隠し終えたところで、自室のドアがガチャッと開けられた。
「恵、来週あたりから塾の時間を増やしなさい。」
「…え、」
突然、自室にやって来た父は私に視線を向けると早々に言い放った。
「さっき母さんとも話したが、榊大の受験に向けて勉強時間を増やした方がいいだろう。それに、お前の受験生としての緊張感が足りないって母さんが言っていてな。気持ちを引き締める為にも、ちょうど良いじゃないか。」
「…」
「今頃、母さんが塾の先生に連絡して授業時間を調整してもらっているから、今後そのつもりでな。」
「…はい。」
相変わらず、私の意思なんて何処にも存在しない一方的な言葉に呆れる。父は言いたい事だけ言い終わると、満足したように私の部屋を後にした。
父の足音が遠ざかり聞こえなくなったところで、ようやく肩の力が抜ける。急に塾の授業時間を増やすなんて言い出した父の態度を見るに、きっと母から進路希望調査のプリントの話を聞いたのだろう。余計な事を知られた。
榊大へ進学に向けて私よりもよっぽど意欲的な父は、思い付いたら他人の事なんて気にせずに自分勝手なことばかり言うのだ。いっそのこと父が大学受験すれば良いのに。大人というのは皆、こんなに面倒な生き物なのだろうか。そんな父に従って、父の意思を援護射撃のようにぶつけてくる母にもうんざりする。
机の上に広げた教材を感情のまま、全て投げ捨ててしまいたくなった。それを自分の中で抑えながら、深い溜息を吐く。父の話を思い返し、これから塾の授業時間が増えるのかと思うとどうしようもない感情が湧き上がる。むしゃくしゃする気持ちを上手く消化出来ずに、先程急いで机の引き出しに仕舞った小さなポーチを取り出した。
再び、部屋の窓を開けてベランダに出る。やはり頭上に広がる空は何処までも暗かった。少し慣れてきた手付きで煙草を咥えると、ライターをカチッと鳴らして火を点ける。蠢く感情と共に吐き出した紫煙が、ぼんやりと夜に溶けていくのを視線で追いかけた。
帰りのホームルームを終えた教室内の空気は緩んでいて、慌ただしく部活に行く生徒やのんびりと帰り支度をする生徒で賑やかだ。
「恵ー、まだ帰らないの?」
「ちょっと、委員会の用事があって。」
スクールバッグを持った真帆にそう告げれば、彼女は顔を顰めて「うわ、それは面倒くさいね!」と私の労わるように言う。ちなみにもう一人の友人である香苗は写真部に所属していて、今日はその活動日らしく既に教室を出ていた。以前、彼女は週に二回しか活動が無いところが写真部の魅力だと間延びした声で話していたのを思い出す。
「そっか〜、じゃあ私先に帰るよ!委員会頑張ってね。」
「うん、また明日。」
真帆が手を振りながら教室を出ていくのを私は席に座ったまま、それを無感情に見送った。委員会があるなんて嘘だ。本当は何も予定なんて無い。
机の上に突っ伏して、深く息を吐く。真帆と一緒に帰らなかったのは、単純に私が家に帰りたくなかったからだ。学校に居ることも嫌だけれど、放課後になった今は校内から人が減っていくので少しマシに思えた。
それに明日から、塾の授業時間が長くなることが決まっている。父が勝手に決めて、母が塾に交渉した結果だ。これからは毎日夜遅くまで塾に通わなければいけないと思うと、今日が自由な時間を過ごせる最後の日になるような気がしていた。
だからこそ、余計に一人で居たかったのかもしれない。誰かと一緒に居ると酷く憂鬱で、『榎本恵』という存在を作らなくても許される時間が欲しかった。暗くなった視界に、ほんの少し安心感を覚えながら身体の力を抜く。
教室内にはまだ何人か人の気配があって、ベラベラと友達同士で会話するクラスメイトたちの声が聞こえる。早く帰ってしまえば良いのに、彼らは高校生らしく恋の話や遊びに行く計画などで盛り上がり、放課後の充実した時間を過ごしていた。
机に突っ伏しているのをいい事に、自分とはあまりにも無縁な会話に鼻で嗤う。なんでこうも人間って違うのだろう。チラリと突っ伏した腕の中から教室内を覗けば、数人の女子たちが集まって、楽しそうにキャッキャッとはしゃいでいる。あれが所謂、青春というやつなのだろうか。
同じクラスメイトなのに、何故私はあのように生きれないんだろうか。まるで別世界を生きているように笑い合う彼らが、酷く疎ましく思えた。やけに苛々する。
そんな事を思っていれば、不意に机がガタッと大きく揺れた。その振動に驚いて突っ伏していた顔を上げれば、「あ?」と佐々野がいつもと変わらず不機嫌そうな表情で此方を見下ろしている。
「何やってんだよ、佐々野〜」
「うるせぇ!コイツの机にぶつかったんだよ!」
「委員長とばっちり過ぎるだろ!佐々野ダッセェ〜!」
彼等のやり取りを見るに先程のクラスメイトしかり、佐々野も放課後の解放的な雰囲気に釣られたのか友人の武田とふざけあっていたようだ。その際に佐々野は私の机にぶつかってしまったらしく、こちらとしては本当にいい迷惑であった。
ぶつかって来たのは佐々野の方なのに、視線が合った彼は特に謝ることも無く眉を寄せて鋭く睨んでくる。それはまるで、「何か文句あるかよ?」と言わんばかりの図々しさを孕んでいて内心ムッとした。スクールカースト上位だと自覚しているからこそ出来る傲慢な振る舞いに苛立ちながらも、佐々野の強気な視線に怯み何一つ文句をぶつける事が出来ない。
そんな情けない私を相手にする価値も無いと判断したのか、佐々野は睨み付けていた視線を外すと時計を見てハッとしたように声を上げる。
「てか、こんな事してる場合じゃねぇ!バイト遅れる!」
そう言い放つや否や、慌ただしくスクールバッグを背負った佐々野に武田は「またバイトかよ〜!どんだけ金欲しいわけ?」と呆れたように両手を上げた。
確かに以前から、佐々野は何かと「バイト」と言って武田たちの遊びを断っているイメージがあった。校則違反の茶髪にピアスをして、遅刻は当たり前。クラス一の問題児である佐々野でも、既に社会で働ける能力があるのだという事実が何とも癪に障る。それと同時に、自分の意思で好き勝手に行動できる佐々野が羨ましく思えた。
佐々野は「じゃ、俺行くわ。」と教室を飛び出して行き、それを見た武田は「ちょっと待てよ!」と佐々野を追いかけながら走っていく。ただのよくある学校の風景なのに、何故こんなにも重たい気分になるのだろう。
先程から無意識に自分とクラスメイトを比べては、自分の中で永遠に繰り返されていく疑問。それが蠢いて広がって私を黒く犯していく。
再び机の上に顔を突っ伏して、世界から私を遮断するように目を閉じる。教室に今だに居座っているクラスメイトに煩わしさを感じて、徐々に苛立ちが募る。どいつもこいつも早く帰れよ。
早く私を一人にして欲しい。誰も居ないところで、静かに死んだように休みたいのだ。朝、目が覚める前の布団の中で意識の無い私になりたい。何も義務を課せられていないありのままの私で、眠っていたい。何も考えたくない。何もしたくない。
ドロドロを手足が溶けていくように身体が重く感じて、私というものが徐々に薄くなる。光の届かない暗闇の中で、ようやく目が開けられるような気がする。
何処まで広がっているのか分からないくらいに真っ暗な空間の中、この世界から置き去りにされたみたいに小さく蹲っていたい。楽になりたい。それだけなのに、どうして私は叶えられないんだろう。「何で」「どうして」「何故」こんな数え切れない疑問を一体どれだけ繰り返すのだろう。
私はもう、日常をやりこなすだけで一杯一杯なのだ。幼い頃の何の疑問も持たずに両親に言われるがまま、必死に勉強していた優等生の私にはもうなれない。親が金持ちで勉強も出来て大人の言う事は積極的に聞いて、同級生からは「良い子ぶってる」とあまり良く思われない事もたくさんあった。それでも「良い子ぶる」生き方しか、都合の良い誰かを演じる事しか出来ない情けない私は、大人から求められる『榎本恵』で居続けた。そんな私を同級生は次第に「真面目」と馬鹿にし始めた。私も馬鹿だと思う。馬鹿馬鹿しくて、やってられない。
首を絞められたように呼吸が上手く出来なくなって、勢い良く顔を上げる。バクバクと鳴る心臓に、額から一筋の汗が流れた。
あれからどれだけの時間が経ったのだろうか、いつの間にか楽しげに話していたクラスメイトたちは既に帰ったようで教室には誰も居なくなっていた。開けっ放しの窓からは、茜色の日差しが差し込んで教室内を染め上げている。
その眩しさに目を細めながら、そろそろ帰らなければと重たい気持ちで時間を確認した。スクールバッグを持って立ち上がり、開けっ放しだった教室の窓を閉めようとしたところで、外から聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「ねぇ、お小夜のこの顔マジ信じらんなーい!」
「面白すぎでしょ!これSNSに上げて良い?」
「ちょっと止めてよ!そんなに変なの!?」
騒がしいその声に釣られるようにベランダに出て外を覗き込むと、部活があったのか村上と橋本の二人が一人の女子生徒を誂っていた。
「えー!お小夜ノリノリだったじゃん〜!」
「てか、もう上げちゃったし!」
「う、嘘でしょ!?」
「ホントお小夜って面白いよね〜!ヤバすぎ!」
『お小夜』と呼ばれているのは、同じクラスで村上や橋本と共にスクールカースト上位グループにいる相川紗夜だ。相川がよく二人に揶揄われているのは、教室でもよく見かけたことがある。常に他人を馬鹿にしたような態度の村上と橋本の会話を聞くに、相川は彼女たちの要望を応えるべく変顔の写真でも撮られたのだろう。
焦る素振りをする相川を、村上と橋本は追い詰めるように笑っている。二人の良い玩具になっている相川に、何故か自分の姿が重なった。こんな事ばっかりだ。
ケラケラと響き渡る笑い声になんだか遣る瀬無い気持ちになって、スクールバッグから肌見放さず持ち歩いている小さなポーチを取り出す。
父の煙草とライターが入ったこのポーチは、いつからか私の御守りのようになっていた。誰にもバレないように注意しながらも、ポーチの中から煙草を一本だけ手にして口に咥える。ガジガジとフィルターを噛んで、吸いながらライターで火を付けた。この行為にも随分と慣れたものだ。
煙がゆらりと揺れて、風に流されていく。消えていったそれを視線で追いながら、口に広がる不味い煙を吐き出す。募り募った虚しさは消えないけれど、私を悪者にしてくれる煙草が好きだと思った。この瞬間、私はようやく私でいられるような気がするのだ。
煙草の灰をベランダに落としながら、大事な何かが壊れてしまいそうなのをなんとか保つ。広がる煙の匂いが鼻を掠めた。慣れない手付きで煙草を吸っては吐き出し、思考を空にする。何か酷い出来事があった訳では無い。ただ、毎日が息苦しいだけだ。もう私が、『榎本恵』でいたくないのだ。
煙が目に染みて、視界が歪んだ。それでも私は煙草を吸い続けた。燃えて灰になって短くなっていく煙草を吸って、吐いて、吸って。ポロポロと灰をベランダに落として、煙の匂いが漂った。
このドス黒く蠢いている感情がなんなのか自分でもよく分からない。どうしたら良いのかも分からないから、私は煙草を吸っている。必死に何かを紛らわして、保っているのだ。
「恵?」
不意に、背後から私を呼ぶ声が聞こえた。ハッとして、自分の状況を瞬時に理解する。ヤバいと思って直ぐに目の前にあるベランダの手摺に、吸っていた煙草の火を押し付けた。
流れていく春風が煙を消し去ってくれたのだと信じて、ゆっくりと首だけで振り返ると、そこには写真部の活動を終えたのだろかスクールバッグを持った香苗が居た。
「まだ帰ってなかったの?」
香苗は私を見て、少し戸惑ったようにそう言った。それに何でもないフリをしながら、彼女にバレないように手に持っていた吸殻をベランダに投げ捨てる。転がった吸殻をなるべく視界に入れないようにして、私は香苗に微笑んだ。
「うん。これから帰ろうと思って。」
「そっか、じゃあ一緒に帰ろ〜」
いつものように語尾を伸ばしながらヘラッと笑った香苗に、変わった様子は見えない。バレて、いなかっただろうか。ドクドクと速くなった鼓動を悟られないように教室に戻って、ベランダに続く窓をきっちり施錠する。
「教室に忘れ物しちゃって、恵が居たから驚いた〜」
「委員会の用事で、ちょっとね。」
煙草臭くないだろうかと、香苗にバレないように自分の制服の肩口を嗅いだ。そんな私を気にする事もなく、香苗は自分の机を漁って「あった、あった」と忘れ物らしきファイルをスクールバッグへ仕舞う。
「よし、行こ〜」
気の抜けた香苗の声に少し安堵しつつも、私はベランダに捨てたままの煙草の吸殻が気がかりで仕方ない。香苗はそんな私の背中を押して、足取り軽く教室の外に出た。
廊下を歩きながら会話を続ける香苗に適当に相槌を打ちながらも、私は酷く焦っていた。スクールバッグの中に入っている小さなポーチを思い出して、スクールバッグ越しにその存在を撫でる。
明日の朝、誰よりも早く学校に登校して、ベランダに捨てた煙草の吸殻を回収しなければならない。それだけを考えていた。こんな誰が来るかも分からない教室のベランダで、人目も気にせず煙草を吸ってしまうなんて私は一体何をやっているんだろう。バレたら終わりなのに、危機感無くやってしまった自分の行為が信じられない。そんな判断が出来ない程に、私はもう可笑しくなっているのだろうか。
煙草が見つかった時は、作り上げた『榎本恵』が終わる時だ。その瞬間を想像して、ゾッとする。それは私が一番恐れていることで、それと同時に私が心の何処かでずっと望んでいたことのような気がした。『榎本恵』で居たくないのに、私はどうしてここまで必死に『榎本恵』を作り上げているのだろう。
隣を歩く香苗の会話が、段々と煩わしく感じてくる。彼女の話なんて、心底どうでも良かった。この時の私はベランダに捨てた煙草の吸殻が、これまで作り上げてきた私を壊してしまうのではないかという不安で頭が一杯だったのだ。
「昨夜、このクラスのベランダで煙草が見つかった。」
翌日、朝のホームルームで担任の萩原が実に不快そうな顔で言った。鋭く教室中を睨み付けながら放たれていく萩原の低い声に、私は恐怖で心臓が止まりそうになった。ついに恐れていた事が起こってしまったのだと、私は荒振る胸のうちを抑えて表情を固める。それでも、額から流れた冷たい汗が自分の隠しきれない動揺を表していた。
今朝、いつもよりも早く家を出て学校に来た。昨日、教室のベランダに捨てた煙草の吸殻を回収しに来たのだ。誰にも見つかっていませんようにと何度も願いながら、人気の無い校舎の静かな廊下を歩き、辿り着いた教室に誰も居ないことを確認する。そして、素早く窓を開けてベランダに出た。しかし、そこには昨日捨てたはずの煙草の吸殻は何処にも無かったのだ。
もしかしたら風で転がってしまったのだろうかとコンクリートの隅々まで探したけれど見つけられず、手摺に煙草の火を押し付けた汚れも綺麗に落とされていた。まるで、昨日の放課後の出来事が何も無かったかのように煙草の痕跡が何一つ残されていないベランダに思考が止まる。
可笑しい。私はこの異変に、心臓が凍るような思いでしゃがみ込んだ。もう煙草は誰かに見つかってしまったのかもしれないと焦りに焦る。私の、作り上げた私が、今日で終わってしまうかもしれない。『榎本恵』は今日で死ぬのだと、その恐怖に耐え切れずにガタガタと身体が震えた。
あの時、香苗が教室に来なければ。そう八つ当たりのように何の罪の無い彼女を恨んだ。そうでもしなければ、情けない私は正気を保つことも出来なかったのだ。
どうしようどうしようどうしようと混乱する頭を必死に落ち着けながら、私はそれでもベランダに這いつくばるようにして何処にもない煙草の吸殻を探した。どのくらいそうしていたのか、次第に校内に人の気配が増えてきて騒がしくなった。
訪れてしまったタイムリミットに私は酷く落ち込んで、仕方なく這いつくばっていたベランダから教室に戻る。『委員長』で『優等生』の私が、朝からベランダに這いつくばっている姿をクラスメイトに見られたら、何て噂されるか堪ったものではない。
煙草の吸殻が回収できなかった絶望感を胸に自分の席に座れば、登校してきたクラスメイトがガヤガヤと教室に入って来る。それを横目に焦る気持ちを、どうにか落ち着かせようとしていた。何で、学校なんかで煙草を吸ってしまったんだろう。バレたら終わると分かっていたのに、私はどうして煙草を…終わりのない後悔を繰り返しながら、ただ時間が過ぎていくのを待った。
そして、今。朝のホームルームで、担任の萩原のは深刻そうに眉を寄せている。
「放課後から夜間に掛けて、用務員の方が掃除をしている際にこの煙草の吸殻を見つけたそうだ。」
そう淡々と告げた萩原は、ビニール袋に入った煙草の吸殻を教室にいる全員に見せつけると目の前の教卓にバンッと勢い良く叩き付けた。怒りが込められたその大きな音に、思わず肩がビクッと上がる。怯える私の心臓がヒュンッと一瞬止まった。
「このクラスに煙草を吸った奴が居るなんて事を考えたくはない。もしかしたら、他のクラスの奴かもしれない。だが、この煙草に誰か心当たりのある奴はいるか?」
怒りを抑えながらも、此方を睨み付けてくる萩原の視線から逃れたくて深く俯いた。心当りしかない私と違って、心当たりなんてあるはずもないクラスメイトたちは、萩原の話に「怠くね?」と小さく吐き捨てて無視を決め込んでいる。本当に気楽なものだ。
当然、私も馬鹿正直に自らの罪を認めるわけにいかない。何が何でも、絶対に知らないフリを貫き通さなければならないのだ。最後の足掻きだと言わんばかりに、私は頑なに口を閉ざす。
今まで大人の都合の良いように生きてきた私にとって、今回の失敗はあり得ないものだ。目の前で起ってしまった出来事への対処も分からず、ただただ恐ろしくてどうにかなってしまいそうになるを必死に耐えた。
萩原の言葉に誰一人反応する事が無く、教室内には暫く無言の時間が漂った。そして、居心地の悪い静寂を掻き消すように、突然ガラッと教室のドアが開けられる。
「サーセン、寝坊っす。」
教室内の空気が全く読めないのか、いつもと変わらず堂々とした足取りで現れたのは佐々野だ。佐々野は目立つ茶髪を気怠げに掻き上げながら、ノロノロと自分の席に着く。何度目かも分からない寝坊を理由に図々しく遅刻して来た佐々野の様子に、教壇に立つ萩原が我慢ならないといった表情で声を掛けた。
「佐々野、お前コレに見覚えはあるか?」
「なんすか、それ。」
「煙草だ。昨日の放課後、このクラスのベランダで見つかった。」
萩原のそう言って、手元の煙草の吸殻が入ったビニール袋をヒラヒラと揺らす。それを一瞥した佐々野は、「知らねぇな。」と軽く首を傾げた。その瞬間、分かりやすくピリついた萩原の雰囲気が変わった。
「惚けんなよ、このクラスで煙草なんて吸うとしたらお前しか居ないだろう!」
堪忍袋の尾が切れたように叫んだ、萩原の声が教室内に響き渡り酷く耳障りだ。突然キレ始めた萩原の様子に、佐々野は「はぁ?」と煩わしそうに眉を顰めた。
「茶髪、ピアス、制服、遅刻、何度言っても直さない。校則違反を挙げたらキリがないお前の事だ。どうせ煙草も吸ってるんだろ!」
日頃から佐々野のことが気に入らなかった萩原は、手に持った煙草をネタにして攻撃するように言い放つ。煙草を吸った犯人があたかも佐々野のように決め付けている萩原の物言いに、私は思わず俯いていた顔を上げた。
「ふざけんな!違ぇよ!」
ガシャンッと机を蹴った佐々野は、教卓の上で好き勝手な事を言った萩原に反論する。突如始まった二人の口論に、クラスメイトたちの動揺が波紋のように教室内に広がった。
「証拠は何処にあるんだよ!昨日の放課後、俺はバイトで直ぐに帰ってんだ!煙草なんて吸ってる暇ねぇんだよ!」
佐々野の言い分に、確かに昨日彼はバイトがあると言って、武田とふざけ合っていたにも関わらず、慌てて帰って行った姿を思い出した。ちゃんとアリバイはあるし、佐々野と共に帰った武田もきっと彼の無実を証言するはずだ。
何より、煙草を吸った犯人は私なのだ。身に覚えのない罪を萩原に無理矢理押し付けられているのだから、佐々野のが怒るのは当然のことだろう。
「そんな言い訳は要らない!お前みたいな勝手な奴がこのクラスに居るなんて、皆の迷惑だと思わないのか?今回ばかりは見過ごせないからな!」
「てめぇ、さっきから好き勝手言いやがって!」
「教師に向かってなんだその口の聞き方は!」
激しくなる口論にとうとう佐々野の限界が迎えたのか、彼は勢い良く萩原に向かって飛び掛かっていく。この状況は流石に不味いと思って、座っていた椅子から腰を浮かせた。
しかし、乱暴に萩原の胸倉を掴み上げた佐々野が、怒りのままに拳を振り上げようとしたその時。
「おい!何をやってんだ!?」
騒ぎを聞きつけたのか、隣クラスの教師が教室に駆け込んで来て振り上げていた佐々野の拳を止めた。隣クラス教師を筆頭に、そのまま雪崩込むように数人の教師が暴れる佐々野を抑え込み教室から出て行く。
「俺は何もしてねぇよ!」
教師たちに連れて行かれる佐々野の声に、罪悪感で強く胸が締め付けられた。私はもうどうしたら良いのか分からなくて、呆然と座っている事しか出来ない。
静まり返る教室を見渡した萩原は、佐々野に胸倉を掴まれた際に乱れたスーツを直してズレた眼鏡を指で上げる。今だに収まらない怒りが収まらない様子の萩原は、肩で息を整えながら「…一限目の数学の授業は自習にする。各自、テスト勉強を進めなさい。」と告げて、先程連れて行かれた佐々野を追いかけて教室を後にした。
萩原と佐々野が消えて静かになった教室に、クラスメイトたちは直ぐさま顔を見合わせてヒソヒソと会話をし始める。
「何あれ流石にヤバくない!?」
「てか、煙草とかどうでも良くね?怠いって。」
「まぁ、多分吸ったの佐々野でしょ。」
「ぶっちゃけ、誰でもいい〜」
「それな。面倒だから佐々野が吸ったって事で」
クラスメイトたちは誰が煙草を吸った犯人かなんてどうでも良いといった雰囲気で、自習になった一限目の時間を各々過ごし始める。先程の張り詰めた空気からは考えられない程に緩くなった空気感に、一人騒いでいた萩原の滑稽さが浮かび上がるような気がした。
「煙草吸ったか吸ってないかとかどうでも良いけど、佐々野ちょっと良い気味だよね〜!」
「ねー!いつも何様だよ?って感じだったし。」
ケラケラと笑って自分の席を立ち上がった村上は、教師の目が無いことを良いことに離れた橋本の席に向かって仲良く談笑していた。時折、教師たちに連れて行かれた佐々野を馬鹿にするように話をする彼女たちに、他のスクールカースト上位集団の奴らも少し同調しながら会話に加わっていく。
「まぁ、佐々野の事だから煙草くらい吸ってたって可笑しくねぇよな。むしろ納得するわ〜」
「それにアイツさ、前からウザいところあったじゃん?しかも最近ノリ悪すぎて、遊び誘っても全然来ないしな!」
「そもそもバイトって何やってんだか。もしかして闇バイトだったりして!」
いつも佐々野の金魚の糞のように彼とつるんでいた奴らは、ここぞとばかりに佐々野のことを悪く言った。佐々野の事は正直嫌いだけど、散々仲良くしておいて裏では彼の悪口を楽しげに話すなんてあんまりだ。
けれど、彼が疑われているのに煙草を吸ったことを自白出来ない私が、そんなことを思うなんて可笑しいにも程がある。佐々野の無実を誰よりも知っているのに、何もしない私が一番酷い。罪悪感と絶望感をジクジクと痛い程に感じた。
「そういえば、武田って昨日佐々野と一緒に帰ってたよね?」
スクールカースト上位集団の一人が、そう思い出しように声を上げた。各々自由に自習時間を過ごしていたクラスメイトたちの視線が、一気に武田に向かう。
「え、じゃあ煙草のこととか何か知ってるんじゃない?」
「武田ー、どうなの?」
村上と橋本が畳み掛けるように武田に聞く。
「さぁー?確かに昨日一緒に帰ったけど、佐々野が煙草を吸ったか吸ってないかなんて知ったこっちゃないし。そもそも俺、佐々野のこと良く知らねぇしな。」
スクールカースト上位集団の中に居た武田は二人に対して、軽い笑みを浮かべてながら両手をゆるゆると上げ首を振った。佐々野のことなんて知らないと突き放すような武田の口調に、周囲は少しだけ驚いたような表情を浮かべる。
「マジで?武田がその程度だったら、誰も佐々野のことなんて分かんないよ?ウケるんだけど!」
「佐々野の人望無さすぎ〜!」
武田の反応に村上と橋本は手を叩きながら、ケラケラと笑い声を上げる。佐々野と一番仲良く見えた武田でさえ、これ程までに彼に関心が無いのだ。この教室内に誰一人として、佐々野の味方なんて居ないのだと感じる。
私が煙草を吸ったと自白しなかったから、佐々野が疑われて連れて行かれた。それを良い事にクラスメイトたちは、佐々野のことを悪く言うばかりだ。彼等にとっては煙草を吸ったのが誰だろうと関係ないし、さほど興味も無い。学校という狭い世界で、ネタに尽きた彼等は新規の話題に食い付きたがり、皆であーだのこーだの言い合ってして共感するのが楽しいのだ。
煙草で深刻になっていたのは担任の萩原だけで、そんなもので騒いでいるのが馬鹿馬鹿しく思えてくるくらいクラスメイトたちは皆シビアだった。
「てか、佐々野これからどーなるんだろ?」
「んー、停学とかじゃね?」
「いや、佐々野の場合悪くて退学だろ。」
「さっき萩原殴ろうとしてたし、退学待ったナシって感じ?」
クラスメイトたちが話す内容に、私は心臓を容赦なく掴まれたような心地になる。彼等が言った『退学』という言葉に、恐怖で頭がいっぱいになった。この件でそうなった場合、私どうやって佐々野に償っていけば良いのだろう。
元々、校則違反が絶えない佐々野のことだ。萩原はそんな佐々野のことをあからさまに嫌っていたし、何なら退学を後押ししそうだ。煙草をネタにして、日頃の生活態度や注意しても直さない校則違反のことをネチネチと執念深く告げてくるだろう。私のせいで佐々野が退学になるかもしれない。
そう思うのに、佐々野の無実を晴らすために私は立ち上がることが出来なかった。仮に私が煙草を吸ったと自白したら、退学までいかなくてもきっと停学処分くらいにはなるだろう。そしたら、以前配られた進路希望調査のプリントに書いた榊大への進学は確実に難しくなる。最悪、進学も就職も出来なくなるかもしれない。きっと大人たちは激昂して、私が作り上げた『榎本恵』は完全なる終わりを迎えるのだ。
サァッと血の気が引いた。目の前がくらりと歪んで、呼吸がしづらくなる。そんなことになったら、私は一体どうやって生きていくのだろうか。小さい頃から両親に言われるまま、勉強を続けてきた。常に成績優秀であるようにと、将来有名大学に進学するようにと義務付けられてきた。本来の私を殺して、皆が求める『榎本恵』として生きていくことしか出来ないのに、その道が閉ざされたら私はどうなるのか。世界が全て変わってしまうかのような途方もない恐怖感に襲われる。
「恵…?」
突然掛けられた声に、ハッとして顔を上げる。近くの席である香苗が心配そうな表情で私を見ていた。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
その声に私は思わず自分の顔に手を触れる。こんな大罪を犯して動揺している姿なんて他人に見せてはいけないし、今は誰の目にも見られたくなかった。
「うん、大丈夫。昨日、少し寝るのが遅かっただけだから。」
「そっか、気を付けて。テストもあるだし、あんま無理しないようにね〜」
「ありがとう。」
香苗の目を欺くために、私は平気な顔をしていつも通りに微笑んだ。緊張で固まった身体を動かして、テスト範囲の教材を広げる。シャーペンを持って目の前の問題を作業のように解いていくも、頭は煙草のことや佐々野こと、そして私のこれからについて不安と恐怖で一杯だった。



