「月曜日とかマジ怠い」
「一時限目から体育とか本当ふざけてるよね」
「てか今日、私日直なんだけど!」
「うわ、ドンマイ」
 暖かな日差しの中、登校した生徒たちのざわめきが次々に目の前を通り過ぎて行く。それを横目に、足元の花壇へ片手に持った重たいジョウロを傾けた。
 柔らかくシャワーのように降り注ぐ水を眺めながら、いつものように窮屈さを感じる学校の雰囲気に溜息を吐く。誰かが言った「怠い」の言葉に、引き摺られるように自分の身体まで一層重くなった気がした。
 水を与えられた色とりどりの花々は、そんな私の気持ちとは裏腹にその雫を花弁に乗せてキラキラと輝いている。
「委員長、朝から精が出るな。」
 唐突に自分へと向けられた声に顔を上げれば、眼鏡をかけて神経質そうな表情をした担任教師の萩原が居た。
「先生、おはようございます。」
 気怠げな気持ちを悟られないように無意識に声色を調整して、丁寧な口調を心掛ける自分に吐き気がする。萩原は「おはよう。」とテンプレートのように返しながら、淡々とした様子で私に話しかけてくる。
「もうすぐ中間テストだけど、調子はどうだ?」
「…まぁ、ぼちぼちですかね。」
「そうか。榎本は委員長だし、学年トップの成績だから今回も期待してるぞ。もし分からない事があったら、何でも聞いてきなさい。」
「はい、ありがとうございます。」
 言いたくもない形だけの言葉を告げれば、萩原は「テスト頑張れよ」と満足したように頷いて去っていく。その真っ直ぐと伸びた後ろ姿に内心舌打ちをしたくなる。
 萩原は生徒の事を気に掛けているようでいて、実際は担当のクラスから学年トップの成績を出して自分の評価を上げたいだけなのだ。入学してからずっと学年トップの成績を取り続けている私に、萩原はテストの度にこうやって重圧まがいの言葉を掛けてくる。やりたくもない学級委員長になったのだって、面倒事を押し付け合うクラスメイトと自分の評価ばかり気にする萩原のせいだ。
「あれ、委員長じゃん。」
 登校してきた生徒の中から小さく聞こえてきた声に、私は態と気付かないフリをした。私を「委員長」と呼ぶのは萩原やクラスメイトの他にいない。
 視線は足元の花壇に向けたまま、視界の端でチラつく短いスカートを履いた足が通り過ぎるのを待つ。多分、クラスでも目立つグループにいる女子二人。村上と橋本あたりだろう。
 大して仲良くもないクラスメイトの対応をするのは、いつも正解が分からなくて苦手だ。クラスメイトの視線から逃れるように、足元の花壇に黙々と水をやる。
「朝から花の水やりとか本当よくやるよね〜」
「てか、あれ委員長の仕事なの?」
「いや、知らん。勝手にやってんじゃね?」
 勝手にやってねぇよ。美化委員に部活で大会前の朝練があるから変わってくれって頼まれたんだよバーカ。なんて言えるはずもなく、心の中で苛立ちを募らせながらも無表情のまま花壇へ水をやり続ける。
「はぁ〜、ウチらと違って育ち良いとそんな事までやりたがるわけ?」
「教師に良い子アピール乙って感じ」
 悪口と呼ぶにはインパクトが足りないけれど、自分の中で確かに削られていくその言葉はよく聞くものだ。いつもの日常。もう慣れた。
 そうは思っているのにグッと息がしづらくなって、頭が上手く働かなくなった。それでも何も聞こえないフリをして、私は黙々と花に水をやる『委員長』を演じ続ける。
 村上と橋本の二人が立ち去った気配を感じても、私は視線を上げられない。まだ季節は春で、全然暑くもないのに額から汗が流れた。
 次々と登校してきた生徒たちのざわめきが、校内に吸い込まれていく。何度も繰り返してきた朝の光景は終わらない絶望のようで、気分は非常に重たい。
 上げられない視線のままでいれば、いつの間にか片手に持ったジョウロが軽くなっていた。花に水をやり終えたジョウロの先からは、ポタポタと雫が溢れている。
 溢れた先をなんとなく視線で追うと、キラキラと輝く花の葉に違和感を覚える。しゃがみ込んでその葉をよく観察すると、葉と同じ色の小さな蛹を見つけた。
 「あ、」と思わず声が溢れるが、それを遮るように校内のチャイムが大きく響き渡る。先程まで周囲は登校してきたばかりの生徒たちでざわめいていたのに、彼らは既に校内へ向かったようで随分と静かになっていた。
 もう教室に戻らなくてはと思うのと同時に、あの気の休まらない空間に居続けなければならないのかと思うと憂鬱だ。憂鬱を通り越して鬱だ。
 しゃがみ込んだまま重く溜息を吐きながら、再度視線を下げて葉にくっついた蛹を見つめる。この世界を拒絶するように膜の中で、ドロドロと溶けていく蛹が羨ましい。
 自分の存在なんて、あやふやになるくらい全てをぐちゃぐちゃにして欲しかった。何も考えたくない。何もしたくない。
 毎朝、目が覚めて布団の中で私は私ではない誰かを作っている。それは両親が望む『娘』の姿で、教師やクラスメイトが望む『委員長』の姿で、この世界から外されないように必死に作り上げた偽りの姿だ。布団の中から起き上がった時、本来の私とは程遠いその姿になって私はおままごとのように日常をこなしていく。
 気持ちが悪いと思う。それでも私は布団の中で、私ではない誰かを作らなければ起き上がれないのだ。随分と長い事そうやって生きてきたせいで、私自身本来の私というものが酷く曖昧なものになっている気がする。
 けれど、世界を拒絶するように布団の中に居るとき、私はそこで初めて自分というものを認識してる。それを崩して誰にとっても都合の良い存在を作り上げて、布団という膜から何者かを産み出している。
 まるで、目の前の蛹のように。ただ私は蛹のまま、布団という膜に包まれたまま、自分という存在さえも何もかも分からなくなったままドロドロに溶けてしまいたいのだ。布団の膜に包まれて、この世界に出てくること無く死んだように眠っていたいのだ。