箒木麻耶は我らが二年一組の生徒だった。出席番号は二七。折笠さんによれば、どちらかといえば小柄な、黒髪のミディアムボブの少女だったらしい。
彼女が死んだのは、夏休みが明ける少し前。芝川に身を投げたらしい。その瞬間を目撃した人がおり、消防署に通報した。彼女の遺体は下流で引き上げられ、証言に加えて、自宅に遺書が残っていたことから自殺と判断されたらしい。
ニュースでも報道されたし、メッセージアプリの連絡網でも回ってきた。二学期の始業式や、最初のHRでもその話題が触れられたという。
それを僕は覚えていなかった。
そういうことになる。
僕はニュースなんて見ないし、始業式やHRの長話を馬鹿真面目に聞くようなタイプでもない。けれど、同級生の一人が自殺して、それに気づかない、あるいは忘れてしまうことなんてあるだろうか。
自分でも信じがたい。
けれど、折笠さんがこんな嘘を吐く理由はないし、実際にその件を報じる記事も見つけた。
夏休み明けの僕はよっぽどぼんやりしていたらしい。今年の夏も暑かった。そのせいだろうか。頭が茹ってしまったのだろうか。
この調子では、他に何か大事なことを忘れていてもおかしくはない。たとえば、自分に恋人がいたことさえ――
「箒木さんの写真?」
同級生が聞き返した。校則を律儀に守ったおさげの、大人しそうな女子生徒だ。名前は知らない。覚えていない。折笠さん曰く、「麻耶」とよく話していたらしい。知っているのはそれだけだった。
「うん、いきなりごめん」僕は言った。「実はこの前たまたま箒木さんのお姉さんと会ってね。妹がどんな学校生活を送っていたか知りたがってたみたいだから」
「お姉さん?」同級生が聞き返す。
「もしかして、箒木さんは話したことなかった?」
同級生は頷いた。
「考えてみたら、家族の話はほとんどしなかったかも」
「仲は良かったの?」
「話すことはあったけど……ごめん。写真は持ってない」
そんな話をしていると、横から別の女子が割り込んできた。やはり名前は思い出せない。少し上背がある、ウェーブがかったボブの子だ。
「箒木さんの話?」
「うん」僕は頷いた。「ごめん。辛いことを思い出させて」
「いいの。忘れちゃいけないって思うから」
おさげさんがボブさんに事情を説明する。
「そっか。そういうことならいいよ。写真、送ってあげる」
ボブさんがスマホを操作して写真を表示する。自撮りらしい。ボブさんの背後に、何人かの女子生徒が写っている。そのうちの一人には、つい最近見覚えがあった。
――麻耶が……妹が死んだのは、あなたのせいなんだから!
「こうして見ると、そっくりだね」僕は思わず呟いた。
「お姉さんと?」ボブさんが問う。
「うん。双子……なのかな。そこまでは聞かなかったけど」
「そっか。双子のお姉さんがいたんだ……」ボブさんがしみじみと言った。「あの子、そういうことは何も話してくれなかった」
ボブさんは他にも何枚か写真を見せてくれた。秘密主義だったらしい少女はいつも控えめな笑みを浮かべていた。前髪が長く、特に右目にかかりがちだったが、特に暗い印象は受けない。周りにはいつも人がいるし、こうして写真に撮ってくれる友人もいる。数か月後に自殺する子には見えない。
「僕は箒木さんと話したことないんだけど――どんな子だった?」
「どんな、か」ボブさんが言った。「掴みどころがない子だったかもしれない。いまになってそう思うの。あの子のこと何も知らなかったのかもしれないって」
これだけ写真に残しているのだ。仲は良好だったのだろう。その彼女が言うのだ。よっぽど掴みどころがない性格だったらしい。
写真が移り変わっていく。そのうちの一枚が目に留まった。麻耶が机に座っている。対面にはもう一人の女子生徒。そして、机の上には握り拳ほどの大きさの水晶玉が鎮座していた。
「これは……占い?」
「うん。あの子得意だったの」ボブさんは言った。「半分は人生相談みたいなものだったけど……でも、全くの的外れってことは一度もなかったと思う」
「ふうん」
「信じてないでしょ」ボブさんは言う。「まあ、無理もないか。誰にでも当てはまるようなことを言って煙に巻いたり、事前に相手のことを調べておいて知らないふりをしたり――占いってそういうイメージだもんね」
「だけど、箒木さんは違った?」
「うん。何もね、本当にスピリチュアルな力があったとかそういうことを言いたいんじゃないよ。あれはきっと直観っていうやつ? 感覚じゃなくて観客の『観』ね。観察と経験から導かれるインスピレーションみたいなものが、あの子にはあったんだと思う」
「なるほど」
写真を何枚か選んで僕のスマホに送ってもらう。
「ありがとう」ボブさんに礼を述べる。それから、おさげさんにも。「えーっと、君も」
「森崎」おさげさんが言った。「覚えてなかった?」
「ごめん」
「ちなみにあたしは南ね」ボブさんが名乗る。「まあ、葉月君は折笠さんとしか喋らないもんね」
「ははは」わざとらしく笑って見せる。
「でも意外。失礼かもだけど、人見知りとかじゃなくて、普通に喋れるんだね」
「ちょっと本気を出せばね」
その答えが可笑しかったのか、南さんがくすっと笑う。
「修学旅行にも来なかったよね? どうして?」
「生来の貧乏性でね」僕は肩をすくめた。「修学旅行に行くお金があればバイクの一台くらいは買えそうだし」
「バイクほしいの?」
「まさか。買うとしても電動自転車だね」
その回答がまたくすり笑いを誘った。どうやら僕はウェーブボブの女の子を笑わせる才能があるらしい。
最後にもう一度礼を述べて、その場を去る。自分の席に戻ると、折笠さんが律儀に待っていた。
「どうだった?」
「そういう子がクラスにいた気がする、という程度には思い出したよ」
「それは思い出したとは言えないんじゃない?」
「そうかもね」僕は認めた。「正直、自分でも信じられないんだ。こんなことを忘れていたなんて」
「辛かったからじゃない?」折笠さんが言う。「同級生が自殺したなんてショックだもの。心が蓋をしてもおかしくない……かも」
自信なさげだ。とはいえ、理解は示してくれるらしい。
「僕はそんなに繊細じゃないよ。本当に繊細な折笠さんでも覚えてることを忘れたりはしない」
「そう? だけど、ずいぶんと――」折笠さんは言葉を呑んだ。
「何?」
「顔。茫然自失って書いてある」
あいにくと手鏡の持ち合わせはない。実際に自分がそんな顔をしているのかどうか確かめるすべはなかった。けれど、折笠さんの言った通りだとしてもおかしくはない。実際、僕は茫然としていた。それは同級生が自ら命を絶ったという事実そのものに対してかもしれないし、自分がそれを忘れていたということに対してかもしれない。いや、きっと両方だ。
「どうするの?」折笠さんが問いかける。
「何が?」
「箒木さんのお姉さんのこと。同じ学校に通ってたわけじゃないし、勘違いもあるのかもしれない。だけど――そう勘違いしてしまうだけの何かがあったのかもしれないでしょ。葉月君と箒木さんとの間に」
「それも忘れてるって?」
「もしかしたらすごく些細なことかもしれない。忘れて当然の、ほんの些細なこと。だけど、たとえばそれを箒木さんが一方的に覚えていて、家族に話したのかもしれない」
「それで、彼女のお姉さんが恋人と勘違いしたかもしれないって?」
折笠さんが頷く。気づけば、教室にはもうほとんど誰も残っていなかった。隣の教室からはがやがやと人の声が聞こえる。文化祭の準備だろうか。そういえば、うちのクラスの出し物は何だったろう。文化祭はもう一カ月半ほど先のはずだ。そろそろうちのクラスでも何かしらの準備がはじまるに違いない。
「まあ、とりあえず下校しようか」僕は言った。机にかけてあったリュックを背負う。
「え、うん」折笠さんは慌てたように自分のリュックを回収した。
「ときに折笠さん、ちょっと付き合ってくれる?」
「付き合うって何に?」折笠さんが少し嫌そうに言う。どうせろくなことじゃないんでしょ、とでもいうように。実際、その通りなので少し言葉に詰まる。
「そんな大したことじゃないんだけどね」警戒を解くように言う。「ちょいと近所の女子校に突撃したいんだ」
彼女が死んだのは、夏休みが明ける少し前。芝川に身を投げたらしい。その瞬間を目撃した人がおり、消防署に通報した。彼女の遺体は下流で引き上げられ、証言に加えて、自宅に遺書が残っていたことから自殺と判断されたらしい。
ニュースでも報道されたし、メッセージアプリの連絡網でも回ってきた。二学期の始業式や、最初のHRでもその話題が触れられたという。
それを僕は覚えていなかった。
そういうことになる。
僕はニュースなんて見ないし、始業式やHRの長話を馬鹿真面目に聞くようなタイプでもない。けれど、同級生の一人が自殺して、それに気づかない、あるいは忘れてしまうことなんてあるだろうか。
自分でも信じがたい。
けれど、折笠さんがこんな嘘を吐く理由はないし、実際にその件を報じる記事も見つけた。
夏休み明けの僕はよっぽどぼんやりしていたらしい。今年の夏も暑かった。そのせいだろうか。頭が茹ってしまったのだろうか。
この調子では、他に何か大事なことを忘れていてもおかしくはない。たとえば、自分に恋人がいたことさえ――
「箒木さんの写真?」
同級生が聞き返した。校則を律儀に守ったおさげの、大人しそうな女子生徒だ。名前は知らない。覚えていない。折笠さん曰く、「麻耶」とよく話していたらしい。知っているのはそれだけだった。
「うん、いきなりごめん」僕は言った。「実はこの前たまたま箒木さんのお姉さんと会ってね。妹がどんな学校生活を送っていたか知りたがってたみたいだから」
「お姉さん?」同級生が聞き返す。
「もしかして、箒木さんは話したことなかった?」
同級生は頷いた。
「考えてみたら、家族の話はほとんどしなかったかも」
「仲は良かったの?」
「話すことはあったけど……ごめん。写真は持ってない」
そんな話をしていると、横から別の女子が割り込んできた。やはり名前は思い出せない。少し上背がある、ウェーブがかったボブの子だ。
「箒木さんの話?」
「うん」僕は頷いた。「ごめん。辛いことを思い出させて」
「いいの。忘れちゃいけないって思うから」
おさげさんがボブさんに事情を説明する。
「そっか。そういうことならいいよ。写真、送ってあげる」
ボブさんがスマホを操作して写真を表示する。自撮りらしい。ボブさんの背後に、何人かの女子生徒が写っている。そのうちの一人には、つい最近見覚えがあった。
――麻耶が……妹が死んだのは、あなたのせいなんだから!
「こうして見ると、そっくりだね」僕は思わず呟いた。
「お姉さんと?」ボブさんが問う。
「うん。双子……なのかな。そこまでは聞かなかったけど」
「そっか。双子のお姉さんがいたんだ……」ボブさんがしみじみと言った。「あの子、そういうことは何も話してくれなかった」
ボブさんは他にも何枚か写真を見せてくれた。秘密主義だったらしい少女はいつも控えめな笑みを浮かべていた。前髪が長く、特に右目にかかりがちだったが、特に暗い印象は受けない。周りにはいつも人がいるし、こうして写真に撮ってくれる友人もいる。数か月後に自殺する子には見えない。
「僕は箒木さんと話したことないんだけど――どんな子だった?」
「どんな、か」ボブさんが言った。「掴みどころがない子だったかもしれない。いまになってそう思うの。あの子のこと何も知らなかったのかもしれないって」
これだけ写真に残しているのだ。仲は良好だったのだろう。その彼女が言うのだ。よっぽど掴みどころがない性格だったらしい。
写真が移り変わっていく。そのうちの一枚が目に留まった。麻耶が机に座っている。対面にはもう一人の女子生徒。そして、机の上には握り拳ほどの大きさの水晶玉が鎮座していた。
「これは……占い?」
「うん。あの子得意だったの」ボブさんは言った。「半分は人生相談みたいなものだったけど……でも、全くの的外れってことは一度もなかったと思う」
「ふうん」
「信じてないでしょ」ボブさんは言う。「まあ、無理もないか。誰にでも当てはまるようなことを言って煙に巻いたり、事前に相手のことを調べておいて知らないふりをしたり――占いってそういうイメージだもんね」
「だけど、箒木さんは違った?」
「うん。何もね、本当にスピリチュアルな力があったとかそういうことを言いたいんじゃないよ。あれはきっと直観っていうやつ? 感覚じゃなくて観客の『観』ね。観察と経験から導かれるインスピレーションみたいなものが、あの子にはあったんだと思う」
「なるほど」
写真を何枚か選んで僕のスマホに送ってもらう。
「ありがとう」ボブさんに礼を述べる。それから、おさげさんにも。「えーっと、君も」
「森崎」おさげさんが言った。「覚えてなかった?」
「ごめん」
「ちなみにあたしは南ね」ボブさんが名乗る。「まあ、葉月君は折笠さんとしか喋らないもんね」
「ははは」わざとらしく笑って見せる。
「でも意外。失礼かもだけど、人見知りとかじゃなくて、普通に喋れるんだね」
「ちょっと本気を出せばね」
その答えが可笑しかったのか、南さんがくすっと笑う。
「修学旅行にも来なかったよね? どうして?」
「生来の貧乏性でね」僕は肩をすくめた。「修学旅行に行くお金があればバイクの一台くらいは買えそうだし」
「バイクほしいの?」
「まさか。買うとしても電動自転車だね」
その回答がまたくすり笑いを誘った。どうやら僕はウェーブボブの女の子を笑わせる才能があるらしい。
最後にもう一度礼を述べて、その場を去る。自分の席に戻ると、折笠さんが律儀に待っていた。
「どうだった?」
「そういう子がクラスにいた気がする、という程度には思い出したよ」
「それは思い出したとは言えないんじゃない?」
「そうかもね」僕は認めた。「正直、自分でも信じられないんだ。こんなことを忘れていたなんて」
「辛かったからじゃない?」折笠さんが言う。「同級生が自殺したなんてショックだもの。心が蓋をしてもおかしくない……かも」
自信なさげだ。とはいえ、理解は示してくれるらしい。
「僕はそんなに繊細じゃないよ。本当に繊細な折笠さんでも覚えてることを忘れたりはしない」
「そう? だけど、ずいぶんと――」折笠さんは言葉を呑んだ。
「何?」
「顔。茫然自失って書いてある」
あいにくと手鏡の持ち合わせはない。実際に自分がそんな顔をしているのかどうか確かめるすべはなかった。けれど、折笠さんの言った通りだとしてもおかしくはない。実際、僕は茫然としていた。それは同級生が自ら命を絶ったという事実そのものに対してかもしれないし、自分がそれを忘れていたということに対してかもしれない。いや、きっと両方だ。
「どうするの?」折笠さんが問いかける。
「何が?」
「箒木さんのお姉さんのこと。同じ学校に通ってたわけじゃないし、勘違いもあるのかもしれない。だけど――そう勘違いしてしまうだけの何かがあったのかもしれないでしょ。葉月君と箒木さんとの間に」
「それも忘れてるって?」
「もしかしたらすごく些細なことかもしれない。忘れて当然の、ほんの些細なこと。だけど、たとえばそれを箒木さんが一方的に覚えていて、家族に話したのかもしれない」
「それで、彼女のお姉さんが恋人と勘違いしたかもしれないって?」
折笠さんが頷く。気づけば、教室にはもうほとんど誰も残っていなかった。隣の教室からはがやがやと人の声が聞こえる。文化祭の準備だろうか。そういえば、うちのクラスの出し物は何だったろう。文化祭はもう一カ月半ほど先のはずだ。そろそろうちのクラスでも何かしらの準備がはじまるに違いない。
「まあ、とりあえず下校しようか」僕は言った。机にかけてあったリュックを背負う。
「え、うん」折笠さんは慌てたように自分のリュックを回収した。
「ときに折笠さん、ちょっと付き合ってくれる?」
「付き合うって何に?」折笠さんが少し嫌そうに言う。どうせろくなことじゃないんでしょ、とでもいうように。実際、その通りなので少し言葉に詰まる。
「そんな大したことじゃないんだけどね」警戒を解くように言う。「ちょいと近所の女子校に突撃したいんだ」

