まだ死んでない、か。僕は言った。でも、そんなの時間の問題でしょ。
 ううん。残念だけど、あなたは死ねないの。
 どうして――
 わかるの。あなたはこれ以上こっち側には近づけないって。
 そんなのあんまりだ。僕は嘆いた。生きてて何の意味があるんだよ。多少の慰めがあるだけで、希望なんて何もありやしないのに。苦しみだけ背負って、誰とも分かち合えないっていうのに。
 ……あなたは運が悪かった。わたしみたいにうまくいかなかったの。
 なら、何度でも繰り返すだけだよ。荒れ狂う海まで、君の元に行くまで何度も。
 できないよ。だってわたしとあなたは違うから。わたしは龍で、あなたはスサノオ。そう、決まってる。
 それってどういう――
 言いかけた瞬間、目の前が光に包まれた。何が起こっているのかわからないが、身体がふわっと浮く感覚があった。そして、気づけば、固い鱗のようなものの上にまたがっていた。龍だ。
 掴まってて。
 麻耶の声だった。僕は咄嗟に龍の角を掴んだ。龍が真っすぐ上空へと飛翔しはじめる。振り落とされまいと、僕は龍――麻耶の角を掴み続けた。
 龍はある程度の高さに達すると、彩都市の上空へと向かって行った。彩都市の上空には雨雲が漂っていた。雨の中を突っ切るようにして、麻耶は飛んでいく。
 どこに行くのさ。
 あなたがいるべき場所に。
 雨は降り続けた。やがて、東京の方からじわじわと海面が迫りはじめ、彩都市はそのまま海に沈んでしまった。黒い海面が全てを覆う。
 全部沈んじゃったね。
 うん。でもこれでよかったのかもしれない。
 苦しいことばかりだったから?
 うん。それが海の正体だったのかもしれない。すべてを破壊したいと望む心が。僕はずっとそれを認めるのが怖かったのかもしれない。
 やっぱり、あなたとわたしは違うね。わたしはそんな激しさすら持てない。わたしの海は――静かすぎた。あなたとも、お姉ちゃんとも違って。
 やがて空が晴れはじめる。そうして、気づけば海は引いていった。見慣れた彩都市の街並みが眼下に現れる。僕の家がある住宅街、通っていた高校、そして、市東部に広がる緑地を流れる川。あの日、僕が飛び込んだ川。溺れる少女を助けた川。
 見て。麻耶が言う。
 川に目をやる。高校生くらいの少年が岸に引っかかっていた。仰向けで両腕をだらんと広げてぷかぷかと浮いている。
 やがて、少年に気づいたランナーのお兄さんが救急車を呼んだ。そして、人工呼吸と心肺蘇生を試みる。やがて救急車が到着すると、少年は担架で運ばれ、最終的に市内の病院に緊急搬送されることとなった。
 僕は本当に死ねなかったんだね。
 うん。
 少年は病院で気管挿管や酸素投与の処置を受けるとともに、他に外傷がないか改めて確認されることとなった。いくつかのかすり傷がある以外はきれいなものだった。骨も折れていない。少年は厚手の患者服を着せられ、集中治療室のベッドに横たえられた。
 手ぶらで外出したためだろう。身元確認には時間がかかった。翌日の昼前になってようやく、少年の氏名がわかり、家族に連絡が入った。現在の保護者である夫婦は会社を抜け出して病院に駆けつけ、程なくして同居する娘も駆けつけた。娘が涙ながらに「お兄ちゃん」と呼び続ける。
 僕は舞にひどいことを言った。なのに……
 だからって死んでいいなんて思ったりはしない。そうでしょ?
 その日も、少年の意識は戻らなかった。翌日、今度は少年の友人という少女が昨日の娘を伴って訪れた。少女は涙ぐんでいた。娘と肩を寄せ合い、互いを慰めながら、少年の目覚めを待った。
 折笠さんまで……どうして、どうしてなんだよ。
 縁は簡単には切れない。わたしもうまくいかなかった。
 だから、目覚めろって? また苦しみを抱えたまま生きろって? 嫌だよ、そんなの。もう嫌なんだ。辛いのも、苦しいのも。もうたくさんだ。
 だったら、忘れちゃえば?
 そんなこと簡単にできっこないよ。それに、僕が忘れたら誰が覚えてるんだよ。妹も、両親も、真理亜も、君も、全部消えてなくなるなんて、そんなのあんまりだ。自分を許せない。
 だけど、その記憶があなたを苦しめてる。きっと、あなたには荷が重すぎたんだよ。
 僕が驕ってたって? 自分に背負えはしないものを背負おうとした愚か者だって?
 そう言ったら、納得してくれる?
 たしかに僕には荷が重すぎたよ。だけど、やっぱりだめだ。忘れるくらいなら記憶ごと抱えて死んだ方がいい。僕は何も忘れたくない。だけど、それじゃきっと生きられない。
 二律背反、だね。
 ああ、そうさ。君と同じだ。板挟みになってずっと苦しむことになる。生きてる限りずっと。
 なら、一緒に背負ってくれる人を探して。あなたの重荷ごと受け止めてくれる人を。たとえば、ほら、あの二人みたいに。
 ……そんなこと、できないよ。
 全部はできないかもしれない。でも、いくつかは分かち合える。あなたにはまだその選択肢がある。
 それでもまだ荷物が重かったら?
 なら、やっぱりその荷物は置いて行って。わたしが持っていくから。無にはならないから。
 ……そうか、君も背負ってくれるのか。
 うん。だって恋人だから。
 そうだね。恋人ならそのくらい甘えてもいいか。
 僕はため息を吐いた。
 でももう、君とは会えないんだね。
 そうだね。でも、それが本来のあるべき姿なんだよ、きっと。
 僕は龍の鱗に顔を寄せた。冷たくてざらざらとしている。頬ずりすれば、かすり傷ができそうだ。
 ありがとう。麻耶。君と出会えてよかった。
 わたしも、君と出会えてよかった。
 鱗から顔を話した。気づけば僕の手には剣が握られている。天叢雲剣だ。ヤマタノオロチの体内から出てきたという神剣。別名を草薙剣。代々天皇家に受け継がれてきた三種の神器の一つだ。そのオリジナルは壇ノ浦の戦いの折、幼帝安徳天皇とともに関門海峡に沈んだとされる。それがいま僕の手の中にある。
 じゃあ――僕は剣を龍の頭に突き立てた。さよなら。
 うん、さよなら。
 剣が龍の頭に深く突き刺さる。すると、龍は光となって四散し、僕は空高くから真っ逆さまに落ちていった。朝焼けの光が眩しい。ああ、きれいだ。そんなこと思いながら僕は目を閉じた。程なくして、光に満ちた水面へと着水した。