どれだけの間、闇の中を彷徨っていたことだろう。わからない。気づけば、僕は木船の上に寝かされていた。
 起きた。
 見知った少女の顔が覗き込んでくる。
 あなたもとうとうここまで来たね。
 麻耶……?
 正解。
 麻耶はなぜかピースをして見せた。
 久しぶり……になるのかな。
 たしかに君が生きてる頃に顔を合わせたことくらいはあったろうけど……言いかけて、思い出す。この世界のことを。川を渡る木船の上で起こったこと。そのすべてを。こうして君と話すのははじめてじゃない。そうだね?
 思い出したんだ。
 ああ、大した忘れん坊だ。僕は体を起こした。夢の中で何度も会ってたっていうのに。
 無理もない。この世界は言ってしまえば泡沫のようなもの。目覚めるより先に記憶から消えてしまう。
 ……でも君は起きても覚えていた。だから日記に僕のことを書いた。夢で会ったときのことを。
 わたしもそう長く覚えていたわけじゃない。だからこそ記録しておきたかった。
 僕は忘れてたよ。君と会ったときは、目覚めたとき勃起してたってだけで。なんで勃起してるのかもわからなかった。
 たくさんえっちしたもんね。
 現実では射精なんてできやしないのにね。
 そうだね、わたしの中でしか出せなかった。
 ……いったい、いつからなんだ。いったい、いつから僕らは……
 わたしも答えられない。でもたぶん、ずっと前から。
 そうか、ずっと前から僕らは恋人だったわけか。
 恋人って呼んでいいのかはわからないけど。
 会うなりセックスしてばっかりだったもんね。
 そう、固い船の上に横たわって、船ごと揺らしながら。
 僕らは笑みを交わした。
 でも、君にだけは僕の全てを話せた。ピロートーク――って言っても、枕もないけど、とにかくセックスの合間合間に自分のことを話せた。そんな相手は君だけだった。
 わたしもそうだった。あなた以外には話せなかった。お姉ちゃんにも珊瑚にも。
 僕らを乗せて、木船は川下へと下っていく。相変わらず船頭の顔はもやがかかって見えない。機械的に櫂を漕ぎ続けている。
 えっちする?
 いや、今日は話そう。頭の整理がしたい。
 そうだね。きっとまだ混乱してるよね。あなたはまだこっちに来たばかりだから。
 君はもう整理がついた?
 うん。だから話せると思う。あなたが知りたいと思うすべてを。
 すべてか。そう言われると、どこから聞いたものか。まあでも、まずは身投げした理由を改めて聞きたいかな。
 そっか。そうだよね。でも、そんなむずかしい話じゃないよ。遺書に書いた通り。わたしはね、自分自身に失望したんだ。あの日――修学旅行で長崎の教会を見に行った日に。
 クラスで君だけが泣かなかった日に。
 そう。あのとき、改めて突き付けられたんだ。自分は人間のふりをした別の何かなんだって。そして、それが自分でも困惑するくらいに悲しかった。涙を流せないこと。悲しくないことが悲しかった。
 みんなと違うことが?
 それもあったかもしれない。
 でも、君は修学旅行から帰ってきてもしばらくは生きた。
 うん、尾曲がり猫を探してたから。
 それだけ?
 うん、それだけ。でも、わたしにはそれが重要だった。理由なんてない。だけど、近所で尾曲がり猫を見たって噂を聞いて、いてもたってもいられなくなった。あるいは、そうやって目をそらそうとしたんだと思う。自分への失望を忘れるために別の何かに熱中しようとした。
 そして君は尾曲がり猫を見つけた。
 うん。だから全部おしまいだったんだよ。もう何も、わたしには残ってなかったから。麻耶は続ける。秩父で過ごすうちに、わたしはきっと勘違いをしたんだと思う。自分は普通の子供なんだって。周りの子供を見よう見真似するうちに、それが本当のわたしになったんだって。でも、違った。長崎でそれを思い知らされた。
 でも、君は静かな海を求めていた。それは君みたいに心が揺るがない状態の事なんじゃないの?
 そうだね。それも本当だった。生きるっていうのは苦しいことばかりで、世の中は悲しみで満ちていて、だから一切の望みを捨てて何物にも煩わされず生きたかった。そう願った。だけど、生きてるうちに、いろんな欲がわたしにまとわりついてきた。猫とか、友だちとか、家族とか、そうしたしがらみと凪は相反するものだった。なのに、わたしは両方が手に入ると勘違いしたんだね。それも長崎で気づかされた。そんな虫のいい話はないって。けっきょく、わたしはどっちつかずの中途半端な存在だった。凪と波の狭間で板挟みになって、恐れていた苦痛を身に引き受けてしまった。それが耐えられなかった。残りの人生をずっとその二律背反に悩まされるなんて、想像するだけで恐ろしかった。
 そうだね。それは恐ろしい話だ。
 船が大きく揺れる。波が立っているらしい。揺れが収まらない。
 できれば、お姉ちゃんのこともどうにかしたかったんだけどね。麻耶は言った。正直、オルゴールのことは余計なことをしてくれたなって思った。どうせ後から後悔するのにって。それもあって、すぐには死ねなかった。でも、もうちょっと先まで延ばすべきだったんだろうね。苦しみに耐えるべきだったんだろうね。
 しょうがないさ。尾曲がり猫が見つかっちゃったんだから。
 そうだね。猫は気まぐれだから。思うようにはならないよね。麻耶は微笑んだ。でも、もしかしたらあなたがどうにかしてくれるかもしれないって思った。夢のことは覚えてなかったけど、日記の中のあなたならって。
 それはとんだ買い被りだったね。
 気にしないで。元はと言えばわたしのせいだから。それに……お姉ちゃんのことはまだわからないでしょ。
 ……目覚めたって生きる希望がないよ。
 あなたは希望になれないの?
 彼女はそれをよしとしないさ。
 うん。それは想像がつく。お姉ちゃんはきっと自分が幸せになることを許さない。そういう呪いを自分にかけちゃってる。お姉ちゃんの夢にも化けて出られればそんなこと気にするなって言ってやれるのにね。
 できないの?
 うん、開けるチャンネルはあなただけ。
 まあ、たしかに僕も君としか会えないもんね。
 でしょ?
 船はどこまでも進み続ける。黒々とした川の上を、海に向かって。だけどいっこうに辿り着く気配がない。
 この船が海に着くことはあるの?
 もちろん、わたしは海まで運んでもらった。
 そうか、僕は海なんて見たことがないな。
 あなたは海を恐れているから。麻耶は言った。それに、あなたはまだ死んでない。だから、海には行けない。