夜の街に繰り出した。いまは何時だろう。わからない。スマホは家に置いてきた。それにコートも。マウンテンパーカーだけでは寒い。
「ああ、畜生。明るいな」
街灯に向かって毒づく。真っ暗な場所に行きたかった。まったき暗闇に。光の差し込む余地がない場所に。
どこを目指しているわけでもなかった。この都会でまったき暗闇など求めようもない。僕が目指す場所はどこにもない。ただふらふらと彷徨うことしかできない。
「そういえば、財布すら持ってこなかったな」
別にかまわなかった。ほしい物なんて何もなかったから。まったき闇へのパスポート以外に、何も。
住宅街を彷徨うこと数十分、気づけば、緑地に出ていた。いつか、真理亜を助けたときのように。花束を供えたときのように。
「けっきょく、ここに辿り着くのか」
呟いたそのときだった。道端に佇む猫に気づいた。こちらに向かって歩いてくる。三毛猫だ。おそらくはメスだろうが、それにしては体が大きく、顔つきもごつい。いや、そんなことはどうでもいい。問題は尻尾だ。
「ははっ、尾曲がり猫か。本当にいたとはね」
猫の尻尾は鉤状に曲がっていた。いつか、上水口さんに見せてもらったのと同じ形だ。長崎に広く生息するという尾曲がり猫。それがすぐ目の前にいる。長崎から遠く隔たったこの彩都市に。
人懐っこい猫だった。僕に気づいたのか、なあなあと鳴きながら何かを要求するように見上げて来る。
「なんだ? 撫でてほしいの?」
頭を撫でてやった。サービスで尻もトントンと叩いてやる。猫は気持ちよさそうに体をくねらせ、さらになあなあと鳴いた。
「甘えただなあ。まあ、ちょうどいいかもね。よければ、来なよ」
僕は猫がついてくるのを確認しながら、緑地の方へと歩き出した。
「僕にはね、妹がいたんだ。それも双子の妹でね。とんだ暴君だったよ。両親はあの子には甘くてね、それをいいことにわがままを言いたい放題で……まあ、でもそれも致し方ないことでね、あの子は優秀だったんだ。頭も愛想もよくて、スポーツだって万能だった。両親が猫可愛がりするのもやむなしさ。対して、僕は妹と比べてこれと言って目立った点は何もなかった。明らかに外れの方だった。きっと妹はお腹の中にいるころからわがままで強欲だったんだろうね。それで、僕がもらうべきものも全部持って行ってしまったんだ」
冬枯れの寂しい緑地を歩き続ける。猫はずっと僕の横を突いてきていた。それをいいことに僕は語り続ける。
「両親にとって、子供の価値は社会的成功を収める可能性の多寡が全てだった。だから、僕は見捨てられた。いない者として扱われた。妹が両親の希望だったんだ。だけど――両親は良くも悪くも凡庸でね、社会的成功の為ならすべてを切り捨てられるほどドライでもなかった。だから、妹の本性を知ったとき、心底恐れたんだ。彼女が他の子供に命じて近所の動物を殺させていると知ったときはね。両親は何でそんなことをするのかって彼女に問うたよ。なんでそんな残酷なことをさせるのかって。妹はなんて答えたと思う? 誰もやりたがらないことだから――って、そう言ったんだ。一部の変態を除いて動物を殺して楽しむ奴なんていない。だから、それをやらせるように人を操るのは、やり甲斐があった。屈服させ甲斐があったって。動物の死体なんて汚いもの、自分は触れたくもないけれどって」
気付けば川原に出ていた。芝川が眼下に現れる。暗い水面に目が釘付けになる。
「さすがの両親も妹をそのままにはしておけなかった。叱って矯正しようとした。手も出てたよ。妹は殴られたっていうのに、不敵に笑って、両親はいっそう気味悪がった。こいつはそう簡単には治らないって判断した。それで、物置に監禁することにした。まったき暗闇の中に娘を放置した。反省するまで出さないってね。学校には病欠で通すことになった。考えなしにも程があるだろ。でも、両親も必死だったんだろうね。自分たちの子供なら、諭せばわかるって思ってたのかもしれない。まあ、既に諭すってレベルはとっくに超えてたんだけど。僕はね、そんな状況を目の当たりにしながら何も言えなかったんだ。なぜかって、そりゃ両親に妹のことをチクったのは僕だからさ」
川を吹き抜けるようにして、冷たい風が吹く。僕は川原に腰を落とした。猫が膝の上に乗ってくる。もうすっかり冬毛に生え変わっている。撫でるとふわふわとして気持ちがいい。
「僕は、自分を見てほしかったのかもしれない。妹が見限られれば、自分がスポットを浴びられるんじゃないかって、そう思ったのかもしれない。何せ昔のことだからね、よく覚えてないんだ。自分がどうしてあんなことをしてしまったのか。別に間違ったことをしたわけじゃないだろ。動物を殺す――それも自分の手は汚さず他人にやらせるなんて、とんだ悪行さ。だけど、やっぱり僕は間違ったんだろうね。あの両親に、妹の悪を裁けるような器量がないことくらいわかってもよさそうだったのに。ああ、それで監禁数日目のときにこっそり物置の様子を伺いに行ったんだ。鍵がかかってるから、外から話しかけることしかできなかったんだけどね。思えば、あのときが最後のチャンスだったんだと思う。妹を助ける最後のチャンス」
猫が膝を降りた。それから少し離れたところで毛づくろいをはじめる。まったく、自由だ。
「物置から、助けてってか細い声が聞こえてきたんだ。いまにも死に絶えそうな声でね。でも、妹は役者だったし、それもきっと演技だってそう思った。いや、他の可能性を考えないようにしたのかな。どうせ、僕は物置の鍵の場所も知らない。助けようがないって自分に言い訳して、聞かなかったふりをした。その翌日だった。妹が物置で凍死してるのが見つかったのは。両親はそりゃあ慌ててたよ。自分たちが殺したようなものだからね。その事実を受け止めかねていた。できたことと言ったら、邪魔な子供――僕を厄介払いするように叔父さんの家に預けたこと。それくらいだった。後は――どうしたのかな。けっきょくわからないんだ。両親も妹も、津波で流されてしまったから」
川は静かに流れ続けている。海に向かって、耐えず注ぎ続けている。
「何もかもうやむやになった。妹がやったこと、両親がやったことを知ってるのはもう僕しかいない。それに、僕がやったことも。全部自分だけで抱えなきゃいけなかった。誰にも話せなかった。話せるわけないよね。妹も両親も、許されざる悪行を働いたんだから。僕もまた妹を見殺しにして、結果自分だけが助かったんだから。そう、言えなかった。こっちに来て、どれだけ友だちができても、舞とどれだけ親密になっても、話せなかった。誰にも。だけど、あのときの妹の声がずっと脳裏にこびりついてる。ニュースで見た津波の映像も。僕が助けられなかったすべてが。僕が壊してしまったものすべてが。だからかな、僕は誰かを助けたかったんだ。きっと、あの日、真理亜を助けるために川に飛び込んだのも、もうこれ以上背負い込みたくなかったからなんだと思う。これ以上、死者たちの声に悩まされるのはごめんだったんだ。利己的な理由だろ。でもね、真理亜のことは本当にどうにかしたかったんだ。あんな結末にならないように手を尽くしたんだ。そのつもりだった。だけど、できなかった。思い上がりだったんだ。けっきょく、僕は出来損ないのまま。誰も助けられない。何もこの手に残らない。それがはっきりとわかった。だからもう――」
僕はふらふらと川の縁に歩いて行った。背後で猫がなあなあと鳴いている。そっちは水があるぞ、危ないぞ、とでもいうように。
「いいんだよ、僕はもう。荒れ狂う海に飲まれていい」
そうして、僕はまったき闇へと身を投げた。
「ああ、畜生。明るいな」
街灯に向かって毒づく。真っ暗な場所に行きたかった。まったき暗闇に。光の差し込む余地がない場所に。
どこを目指しているわけでもなかった。この都会でまったき暗闇など求めようもない。僕が目指す場所はどこにもない。ただふらふらと彷徨うことしかできない。
「そういえば、財布すら持ってこなかったな」
別にかまわなかった。ほしい物なんて何もなかったから。まったき闇へのパスポート以外に、何も。
住宅街を彷徨うこと数十分、気づけば、緑地に出ていた。いつか、真理亜を助けたときのように。花束を供えたときのように。
「けっきょく、ここに辿り着くのか」
呟いたそのときだった。道端に佇む猫に気づいた。こちらに向かって歩いてくる。三毛猫だ。おそらくはメスだろうが、それにしては体が大きく、顔つきもごつい。いや、そんなことはどうでもいい。問題は尻尾だ。
「ははっ、尾曲がり猫か。本当にいたとはね」
猫の尻尾は鉤状に曲がっていた。いつか、上水口さんに見せてもらったのと同じ形だ。長崎に広く生息するという尾曲がり猫。それがすぐ目の前にいる。長崎から遠く隔たったこの彩都市に。
人懐っこい猫だった。僕に気づいたのか、なあなあと鳴きながら何かを要求するように見上げて来る。
「なんだ? 撫でてほしいの?」
頭を撫でてやった。サービスで尻もトントンと叩いてやる。猫は気持ちよさそうに体をくねらせ、さらになあなあと鳴いた。
「甘えただなあ。まあ、ちょうどいいかもね。よければ、来なよ」
僕は猫がついてくるのを確認しながら、緑地の方へと歩き出した。
「僕にはね、妹がいたんだ。それも双子の妹でね。とんだ暴君だったよ。両親はあの子には甘くてね、それをいいことにわがままを言いたい放題で……まあ、でもそれも致し方ないことでね、あの子は優秀だったんだ。頭も愛想もよくて、スポーツだって万能だった。両親が猫可愛がりするのもやむなしさ。対して、僕は妹と比べてこれと言って目立った点は何もなかった。明らかに外れの方だった。きっと妹はお腹の中にいるころからわがままで強欲だったんだろうね。それで、僕がもらうべきものも全部持って行ってしまったんだ」
冬枯れの寂しい緑地を歩き続ける。猫はずっと僕の横を突いてきていた。それをいいことに僕は語り続ける。
「両親にとって、子供の価値は社会的成功を収める可能性の多寡が全てだった。だから、僕は見捨てられた。いない者として扱われた。妹が両親の希望だったんだ。だけど――両親は良くも悪くも凡庸でね、社会的成功の為ならすべてを切り捨てられるほどドライでもなかった。だから、妹の本性を知ったとき、心底恐れたんだ。彼女が他の子供に命じて近所の動物を殺させていると知ったときはね。両親は何でそんなことをするのかって彼女に問うたよ。なんでそんな残酷なことをさせるのかって。妹はなんて答えたと思う? 誰もやりたがらないことだから――って、そう言ったんだ。一部の変態を除いて動物を殺して楽しむ奴なんていない。だから、それをやらせるように人を操るのは、やり甲斐があった。屈服させ甲斐があったって。動物の死体なんて汚いもの、自分は触れたくもないけれどって」
気付けば川原に出ていた。芝川が眼下に現れる。暗い水面に目が釘付けになる。
「さすがの両親も妹をそのままにはしておけなかった。叱って矯正しようとした。手も出てたよ。妹は殴られたっていうのに、不敵に笑って、両親はいっそう気味悪がった。こいつはそう簡単には治らないって判断した。それで、物置に監禁することにした。まったき暗闇の中に娘を放置した。反省するまで出さないってね。学校には病欠で通すことになった。考えなしにも程があるだろ。でも、両親も必死だったんだろうね。自分たちの子供なら、諭せばわかるって思ってたのかもしれない。まあ、既に諭すってレベルはとっくに超えてたんだけど。僕はね、そんな状況を目の当たりにしながら何も言えなかったんだ。なぜかって、そりゃ両親に妹のことをチクったのは僕だからさ」
川を吹き抜けるようにして、冷たい風が吹く。僕は川原に腰を落とした。猫が膝の上に乗ってくる。もうすっかり冬毛に生え変わっている。撫でるとふわふわとして気持ちがいい。
「僕は、自分を見てほしかったのかもしれない。妹が見限られれば、自分がスポットを浴びられるんじゃないかって、そう思ったのかもしれない。何せ昔のことだからね、よく覚えてないんだ。自分がどうしてあんなことをしてしまったのか。別に間違ったことをしたわけじゃないだろ。動物を殺す――それも自分の手は汚さず他人にやらせるなんて、とんだ悪行さ。だけど、やっぱり僕は間違ったんだろうね。あの両親に、妹の悪を裁けるような器量がないことくらいわかってもよさそうだったのに。ああ、それで監禁数日目のときにこっそり物置の様子を伺いに行ったんだ。鍵がかかってるから、外から話しかけることしかできなかったんだけどね。思えば、あのときが最後のチャンスだったんだと思う。妹を助ける最後のチャンス」
猫が膝を降りた。それから少し離れたところで毛づくろいをはじめる。まったく、自由だ。
「物置から、助けてってか細い声が聞こえてきたんだ。いまにも死に絶えそうな声でね。でも、妹は役者だったし、それもきっと演技だってそう思った。いや、他の可能性を考えないようにしたのかな。どうせ、僕は物置の鍵の場所も知らない。助けようがないって自分に言い訳して、聞かなかったふりをした。その翌日だった。妹が物置で凍死してるのが見つかったのは。両親はそりゃあ慌ててたよ。自分たちが殺したようなものだからね。その事実を受け止めかねていた。できたことと言ったら、邪魔な子供――僕を厄介払いするように叔父さんの家に預けたこと。それくらいだった。後は――どうしたのかな。けっきょくわからないんだ。両親も妹も、津波で流されてしまったから」
川は静かに流れ続けている。海に向かって、耐えず注ぎ続けている。
「何もかもうやむやになった。妹がやったこと、両親がやったことを知ってるのはもう僕しかいない。それに、僕がやったことも。全部自分だけで抱えなきゃいけなかった。誰にも話せなかった。話せるわけないよね。妹も両親も、許されざる悪行を働いたんだから。僕もまた妹を見殺しにして、結果自分だけが助かったんだから。そう、言えなかった。こっちに来て、どれだけ友だちができても、舞とどれだけ親密になっても、話せなかった。誰にも。だけど、あのときの妹の声がずっと脳裏にこびりついてる。ニュースで見た津波の映像も。僕が助けられなかったすべてが。僕が壊してしまったものすべてが。だからかな、僕は誰かを助けたかったんだ。きっと、あの日、真理亜を助けるために川に飛び込んだのも、もうこれ以上背負い込みたくなかったからなんだと思う。これ以上、死者たちの声に悩まされるのはごめんだったんだ。利己的な理由だろ。でもね、真理亜のことは本当にどうにかしたかったんだ。あんな結末にならないように手を尽くしたんだ。そのつもりだった。だけど、できなかった。思い上がりだったんだ。けっきょく、僕は出来損ないのまま。誰も助けられない。何もこの手に残らない。それがはっきりとわかった。だからもう――」
僕はふらふらと川の縁に歩いて行った。背後で猫がなあなあと鳴いている。そっちは水があるぞ、危ないぞ、とでもいうように。
「いいんだよ、僕はもう。荒れ狂う海に飲まれていい」
そうして、僕はまったき闇へと身を投げた。

