「お兄ちゃん?」
 目が覚めた。自室のベッドの上。舞が困惑したように僕を見下ろしている。
「どこか悪いの?」心配そうに問う。
「どうしてそう思うのさ――って、ああそうか。塾の日だったね」
「うん。迎えに来ないし、電話にも出ないからどうしたのかなって。心配したんだよ」
「それで一人で帰ってきた?」
「うん」
「そう。それはけっこう」僕は体を起こした。「舞ももう十四なんだしね。僕だってずっとこの家にいるわけじゃない」
「何を言ってるの?」舞は言った。「やっぱりどこか悪いの? 風邪とか? ほら、おでこ出して」
 舞が僕の前髪に手をかけようとする。僕はその手を払った。
「お兄ちゃん?」
「もうやめよう、舞。こんな恋人ごっこは」
「ねえ、本当にどうしたの。変だよ。お兄ちゃんは……お兄ちゃんはそんなこと言わない」
「そう? じゃあいまここにいる僕はいったい誰なんだろうね」
「お兄ちゃんでしょ! わたしのお兄ちゃん」
「僕は君の兄じゃない。わかるだろ、家族じゃないんだ。だから、長くはいられない」
「そんなことない! お兄ちゃんだってまだ十七じゃない。まだ、子供だよ。家にいてもいいんだよ」
「もう十七だ」僕は訂正した。「いいんだよ、舞。叔父さんたちからすれば、僕の存在は災難以外の何物でもないだろうからね。叔父さんたちは、本当は舞一人だけを育てるつもりだった。そういう人生計画だった。そこに親戚の子供をポンと預けられたんだ。そりゃ戸惑うし、どう扱っていいかわからないよね。それにお金だって惜しい。愛娘に注ぐはずだったお金を、どうして僕なんかに割ける?」
「違う! お父さんたちはそんなんじゃない」
「舞は実の娘だからわからないんだよ。僕がこの家でどれだけ居心地悪くしてるかなんて。小学校からお嬢様学校に通わせてもらってるような、箱入り娘には決してね。僕はスマホだって舞のお下がりなんだよ」
「それは、お兄ちゃんが――」
「それでいいって言ったから? そりゃそうさ。どうして贅沢なんて言える? 拾ってもらった立場で。言えるわけないよ。僕なんかのためにお金を使ってくれだなんてとうてい言えない。言えっこないんだ。実の娘と比べたら、そりゃ待遇が悪くて当然だろ? まったく、叔父さんたちには同情するよ。僕なんかを押し付けられる羽目になって」
「だって、そんなの、お兄ちゃんが悪いわけじゃない。お兄ちゃんだって子供だったんだよ。大人に守ってもらうのは当然のことじゃない。そんな風に遠慮する必要なんて――」
「それは理想論だよ。人間の身の丈には合わないきれいごとさ。叔父さんたちだって人間なんだ。それに僕だって。だから恩知らずにも、拾ってくれた恩人の娘にも平然と手を出す」
「違う! わたしがお兄ちゃんを好きになったの!」
「だから何さ。僕は君の恋愛感情をもてあそんだんだ。ひとえに、度しがたい欲望のためにね。そうさ、僕に詩情なんてあるわけない。僕はただ目の前の女体に欲情していただけなんだからね。甘い言葉を囁いて、その気にさせて、その体を好き放題させてもらっただけさ。あいにくと、本番はできなかったけどね。やれてたらとっくにやってたさ。僕がそういう意味でも使い物にならない産業廃棄物でなければね。まったくもってたやすかったよ。男慣れしてない乙女を誑かすのはね」
「やめて! もう聞きたくない! いまのお兄ちゃんはお兄ちゃんじゃない! だから聞かない!」
「ずっとそうやって耳を塞いでいればいいさ」僕は立ち上がった。「僕がいなくなるまでずっとね」
「待って!」舞が手を掴んでくる。潤んだ瞳でこちらを見上げて来る。こんなことをされたら年頃の男子はみんなイチコロだろう。そのままベッドに押し倒してハッスルするに違いない。だけど、僕にそんなことはできない。やりたくてもできないのだ。
「離しなよ。僕は『お兄ちゃん』じゃないんだから」僕は手を払った。ドアへと向かう。「精々もっとましな男を見つけることだね。処女はその男に捧げるがいいさ。いくら待ち呆けたって、僕はもらってやれないよ」