残酷にも、日々は過ぎ去っていく。外はめっきり寒くなり、ついこの間に中間テストがあったばかりだというのに、もう期末テストが近づいてくる。ハロウィンが終わったと思ったら、街はもうクリスマスに向けて浮足立っている。まるで常に何かしら祭に興じていないと、やってられないとでもいうように。
 真理亜は未だ目を覚ましていない。上水口さんも学校に来ないままだ。秩父の瑤子さんとは一度だけ電話で話した。僕が知ることをおおよそ全部。
「自分を責めないで。お願いよ。あなたは真理亜ちゃんによくしてくれた。ただ、何かが噛み合わなかっただけで。それはあなたのせいではない」
「わかっています。自分が何もかも救えるなんて驕った考えは持っていませんから」
 時間は全てを浚っていく。記憶も、命も。僕に残された猶予時間も。
「将来の夢とかないの?」面談で担任に尋ねられた。「何でもいいのよ。あなたが望むならきっと……」
「夢なんてありませんよ。僕はずっと惰性で生きてるだけですから」
「あなたの家庭が少し特殊なことは知っているつもりだけれど、それでも、人生をあきらめるにはまだ若すぎるわ」
「あきらめてるわけじゃありませんよ。ただ、受け入れてるだけです。僕は生きてるだけで幸運なんです。それ以上を望む気にはなれません」
 嘘だ。生きてるだけで幸運だなんて、思ったことはない。
「大学に進む気はないのね」
「ええ、卒業したら就職しますよ。でも就活なんて堅苦しいことをする気にもならないかな。適当にバイトを渡り歩いて、気楽に生きますよ」
「本当にそれでいいの? あなたの学力なら、国公立の大学だって選択肢に入って来る。そして、大学に入れば将来の選択肢はさらに増える。たとえいま、夢がなくても、大学でなら見つかるかもしれない」
「そんな不確かなもののために七桁以上の借金を背負うのは性に合いません」僕は肩を竦めた。「僕は気楽なのがいいんです。何も背負いたくないんです。いいえ、背負えません」
 そう、背負えやしないんだ、何も。

 真理亜の件以降、しばらくの間、クラスには陰鬱な空気が漂っていた。同級生に続いてその姉が身を投げたのだ。当然だろう。真理亜がステンドグラスを見に来た、ということも伝わってしまったらしい。僕は、真理亜とのことについて改めて説明し気に病まないように伝えたが、それでも、「自分たちのせいではないか」という声を完全になくすことはできなかった。
 そんな子たちを気遣い、声をかけて支えたのは、折笠さんだった。
 彼女は僕が説明したりなかったことを補い、心情的に寄り添い、ときに一緒に涙を流し、教室に漂っていた瘴気のようなものを徐々に払っていった。
 人見知りなのは相変わらずだ。決して、流暢に喋れるわけではない。どもりながら、言葉を探しながら、目を泳がせながら、それでも必死に言葉を交わし続けた。
そうしているうちに、彼女の周りには自然と人が集まるようになった。彼女の根っからの優しさと真摯さが日の目を浴びたわけだ。彼女はもはや「ぼっち」ではない。僕以外にもたくさんの友だちがいる。僕とは違って。
「葉月君だって、その気になれば友だちくらいできるでしょ」
 ある日の休み時間、折笠さんに言われた。
「なのに、どうしてやらないのかって?」僕は言った。「どうしてだろうね」
「葉月君が感情を見せたがらないのは知ってる。それがなぜなのかはわからないけれど――でも、つらいならつらいって言ってもいいんだよ」
「なんだか今日はずいぶんと優しいんだね。僕にはずっと辛辣だったのに」
「冗談を言っていいときとそうでないときの区別くらいつく」
「僕は別にいつも通りでかまわないんだけどね」
「そうかもしれない。だけど、それだとずっとつらいままでしょ」
「折笠さんは言葉に出しさえすれば、つらいことなんて忘れちゃうの?」
「そうじゃない。だけど、気持ちが少しは軽くなる。話さないよりはずっといい」
「そう」僕は言った。「本当にそう思ってるんだね」
「うん。だから――」
「思い上がらないでよ」
「え?」
「折笠さん、君は少しばかり思い上がってるよ。クラスの子たちと話すようになって、少しばかり自信が持てるようになったのはけっこうだけれどね、だからって、君に何でもできるわけじゃない。誰の心も救えるわけじゃない」
「そんな風には思ってない! わたしはただ葉月君が心配なだけで――」
「心配? 何が。僕に同情でもしてるつもりかい。君が言ったんだよ、僕は感情を言葉にしない。表に出さないって。その通りだよ。いままでずっと僕は言葉を慎重に選んできた。本音を隠してね。そんな僕の何がわかるっていうんだ」
「だから話してって言ってるんでしょ!」
「話して何になるんだよ! 何がわかるっていうんだよ! わかりやしないさ。決して。折笠さんにはとうてい理解できないだろうさ。折笠さんが孤独だったことなんて一度もないんだから。まがいものだよ、折笠さんは。孤独じゃない癖に、孤独ぶって。それが気に食わなかった。ずっと」
 折笠さんは茫然としたように僕を見つめていた。もはや堰は切られた。言葉は止められない。
「いまの状況がその証拠さ。折笠さんの周りにはたくさんの人がいるけど、僕にはいない。なぜかって? いくら周りに人がいたって同じだからだよ。気疲れするだけで、自分がいっそう孤独に思えるだけで」
「そんなこと――」
「やってみないとわからない? やったんだよ! とっくにね。折笠さんは知らなくても無理はないさ。出会うよりもずっと前のことだからね。その結論が、これさ。同じなんだよ。どれだけ多くの人に囲まれてたって。だからもう、やめたんだ」
「じゃあ、どうしてわたしに声をかけたの!」折笠さんは言った。「どうして真理亜さんを助けようとしたの!」
「見てられなかったからさ。それだけだよ。周りに不幸な人間がいることに耐えられなかった。でも、もう全部終わったことだ。真理亜は眠り姫で、折笠さんはもう僕なんかいなくたって平気だ。だからもういらないんだよ。僕の居場所なんてどこにもないんだ。もういいんだよ、全部。どうでもいい。もう僕にかまわないでくれ」
 折笠さんは押し黙ってしまった。瞳が揺らいでいる。唇をきつく噛みしめているように見えた。
「どうしたのさ。さっさと去りなよ。僕なんかと関わって何もいいことなんてないでしょ」
 次の瞬間、僕は頬を張られた。折笠さんだ。目を潤ませながら、こちらを機っと見つめている。
「馬鹿! そんなことできるか!」
「なんでさ」僕は頬を撫でながら言う。
「そんなの、友だちだからに決まってる!」
「……言ったはずだよ。僕は……」
「それでも、わたしは葉月君の友だちだから。だから――貸し借りとかそんなんじゃないんじゃなかったの。友だちっていうのは」
「そんな詭弁、信じるものじゃないよ」僕は鞄を手に立ち上がった。
「待って。早退する気?」
「ああ、別に、先生には伝えなくていいよ」出入口に向かう。「僕が勝手にサボるだけだから」
 僕はそれ以上は待たず、教室を後にした。