彩都市は埼玉県の県庁所在地であり、政令指定都市だ。なんでも平成の大合併とやらで、旧浦和市や旧大宮市をはじめとする行政市が統合されて誕生したらしい。彩都市という名は、市民からの公募で選ばれたものだそうだ。
僕の家は旧浦和市にあたる住宅街にある。そこから北東に向かって自転車を二〇分ほど走らせたところに、僕が通う高校があった。通称「東高」だ。何ということのない普通科の県立高校で、特筆すべき点は特にない。あえて言うなら、芝のサッカーコートや弓道場など運動部周りの設備が豊富であること、食堂のケバブ丼が絶品だということだろうか。
この時期はまだ男女ともポロシャツの制服で登校する姿が見られるが、じきに男女ともブレザーに衣替えする時期が来るだろう。
「ねえ、折笠さんなんで埼玉には海がないんだと思う」
その日の昼休み、僕は尋ねた。
「内陸だからでしょ」折笠さんがつまらなさそうに答える。目線をスマホから上げもしない。長い黒髪をだらんと垂らして、古いホラー映画の怨霊みたいな雰囲気を醸し出している。
「つまらないなあ」僕は言った。「もっと詩的な答えを期待してたのに」
お互い、昼食はすでに食べ終えていた。いまは学校のWi-Fiで同じアプリゲームをしている。『オース・オブ・レムリア』という人気ゲームだ。主に神話から材を取ったキャラクターが行儀よく順番に行動してHPを削り合う、言ってみればよくあるコマンド選択式のRPGだ。その代わり、舞のお下がりのスマホでもサクサク動く。
「詩的って何? 埼玉と海が織姫と彦星みたいに偉い人に引き離されたとか?」
「それはどちらかというと神話的かな」
折笠さんはそれには答えず、「ねえ、このボス固くない?」なんて問いかけてくる。そこまで進んでいない僕には何とも答えられなかった。
「やっぱりスサノオ引いとくべきだったかも」
「完凸借りると強いもんねえ」適当に答える。「実はね、折笠さん。埼玉にも海があった時代があるんだよ」
「嘘。埼玉にアレキサンダーみたいな征服王でもいないとそんなのあり得ない」
それでは東京湾がオケアノスになってしまう。
「おもしろい発想をするね」僕は言った。「だけど、そういうことじゃなくてね、ほら、縄文海進って授業でやらなかった? 温暖化によって海面が上昇して、このあたりまで東京湾が進出してきたことがあるんだよ」
「あー、そういえば、貝塚とかあるもんね」
「そうそう。見沼のあたりの地形もね、海に侵食されてああいう形になったらしいよ」
少女と出会った後、僕はこのあたりの地理について調べた。結果、自分が普段目にしている光景に地質学的意味があることを知ったのだ。
「葉月君そういうの好きだっけ」
「文系だからね。っていうか折笠さんもでしょ?」
そうじゃなきゃ、同じクラスにはならない。東高は二年から文系と理系でクラス分けがされるから。
「理科が苦手だから文系を選んだだけ。知ってるでしょ?」
顔を上げて睨んでくる。舞曰く、「僕のタイプじゃない」顔だ。折笠さんは少し吊り目がちでいつも仏頂面をしてるものだから誤解されがちだが、その実シンプルに人見知りなだけのどこにでもいるオタク少女だ。尤も、すでに選挙権を所持し、アプリゲームにも無際限に課金可能な彼女を少女と呼称していいかどうかには議論を待つところだけれど――
「ああ、そういえばそれで留年したんだっけ」
「留年言うな!」
「でも事実だし……」
折笠さんは現在二週目の高校二年生生活を送っている。六月に誕生日を迎えた十八歳で、すでに立派な有権者だ。そのせいか、一年から上がってきた大多数の同級生とはどうしても距離を感じてしまうらしい。僕もその例外ではないはずなのだけれど、最初の席替えで隣になって以来、不思議と馬が合って話し相手になった。
「……別にそれだけじゃない」折笠さんは言い訳するように言った。「不登校気味で出席日数が微妙だったの。それも言ったでしょ」
「うん。まあ、でもそれだと折笠さんが留年に関係なく学校に馴染めなかった人になっちゃうから……」
「事実陳列罪!」折笠さんは口を尖らせた。「馬鹿」
それからしばらくは、二人でゲームの話をしながら攻略を進めた。「固い」というボス――ナーダだった――はギミックを正しく理解し、火力バッファーをパーティーに組み込めば難なく倒すことができた。竜殺しの性能を持つスサノオがいれば、もっと簡単だっただろう。
「にしてもみんな好きだよね、海」僕は言った。
「何、海の話がしたい日なの?」
「あいにくと海の日は休みだったからね」
「祝日なんだから当たり前でしょ」折笠さんは呆れたように言った。「そんなに海が好きなら行けばよかったじゃない、修学旅行」
東高では、二年生の六月に修学旅行が企画されている。今年の行き先は長崎だった。パンフレットを見るに、海を見に行く予定もあったらしい。
「僕が長崎に行ったら、誰が折笠さんの話し相手をするのさ」
修学旅行に行かなかったのは、折笠さんも同じだ。何せ、去年すでに修学旅行を経験済みなのだ。長崎旅行をおかわりするつもりはなかったらしい。結果として、修学旅行の期間中、学校で僕と仲良く自習するはめになったわけだ。
「そういうつまらない冗談本当にやめて」折笠さんは照れ隠しなどではなく本当に嫌そうに言った。舞は慧眼だ。折笠さんとは恋愛に発展する匂いがまるでしない。
「葉月君って本当にふざけてる」折笠さんは言った。「それってわたしに対してだけ? ぼっちをいじって楽しんでるの?」
「まさか。あいにくと生まれ持っての資質だよ。誰が相手でも変わらないさ」
「家族とか恋人が相手でも?」
「たぶんね」僕は言った。そこで、ふと連想が働く。「恋人といえば、折笠さん。ひとつ聞いていいかな?」
「セクハラ」折笠さんがチベットスナギツネよろしくのジト目で睨んできた。
「いや、折笠さんのことを聞きたいんじゃなくてね。変な質問なんだけど、僕に恋人なんていたことあったっけ」
「何それ」折笠さんは眉をひそめた。「自分のことでしょ?」
「うん……でも僕忘れっぽいから」
「だからって恋人のことを忘れる? 忘れるほどの数の恋人がいたわけでもないでしょ?」折笠さんは怪訝そうな表情から一転して、少し心配するように続けた。「今日は本当にどうしたの? いつもにも増して変だけど」
折笠さんが僕を心配するなんて相当なことだ。このままでは明日、彩都市を嵐が襲いかねない。少し悩んだ末、週末の川原で起こったことを話すことにした。慎重に、嘘だと思われないように丁寧に。
「自分で話しといてなんだけど信じがたい話だよね」
「たしかに」折笠さんは認めた。「でも、葉月君の嘘にしては支離滅裂すぎる。いつもの戯言と違って、もっともらしさの欠片もない」
「信じてくれてるってことでいいのかな」
折笠さんはそれには答えず、「本当に、その人の顔に見覚えはないの? 水に濡れてたんなら、普段と印象が違ってもおかしくないでしょ?」
「そうだけど、そもそも女の子の知り合いなんて折笠さんくらいしかいないよ」
折笠さんは考え込んだ。
「その人の妹が葉月君の恋人だった、ってことになってるんでしょ。姉妹で、面影があってもおかしくない。なのに、葉月君は気づけなかった。その人の顔を見ても何も思い出せなかった」
「うん」
「じゃあその人の勘違いなんじゃない?」
「僕もそう思うんだけど……」僕は少女の顔を浮かべながら、「でも、勘違いであんな風に取り乱すとも思えないんだ。あの子には、僕がそうだって確信があったんだと思う」
「名前は? その人か妹の名前」
「ああ、言ってなかったっけ。妹の方は麻耶って名前だったはずだよ」
「麻耶?」
「うん。何度か繰り返してたから間違いないと思う」
折笠さんが怪訝そうな顔になる。「ねえ、やっぱりわたしを担ごうとしてる?」
「なんで?」
「麻耶って名前で何か思い出すことはないの?」
「え、えーっと。釈迦のお母さんの名前だったかな」
折笠さんがますます怪訝そうに眼を細める。
「折笠さん、何か知ってるの?」
「とぼけてるようには見えないんだよね……」折笠さんは呟くように言う。「それに悪趣味すぎる。いくら葉月君でもこういう冗談は言わない。だけど――」
「どういうこと?」
「葉月君、本当に覚えてない? 麻耶って子。恋人かどうかに関係なく、身の回りにそういう名前の子はいなかった?」
「だから知らないって」
折笠さんが沈黙する。予鈴のチャイムが鳴った。間もなく、五時間目がはじまる。
「あのね、葉月君」折笠さんは真剣な声音で言った。「もしかしたら聞きたくない話題だったのかもしれないけど――ていうかわたしもそうだったし――さすがに覚えてるでしょ? 箒木さんのこと。夏休み中に自殺しちゃった子。その子の下の名前が麻耶」
僕の家は旧浦和市にあたる住宅街にある。そこから北東に向かって自転車を二〇分ほど走らせたところに、僕が通う高校があった。通称「東高」だ。何ということのない普通科の県立高校で、特筆すべき点は特にない。あえて言うなら、芝のサッカーコートや弓道場など運動部周りの設備が豊富であること、食堂のケバブ丼が絶品だということだろうか。
この時期はまだ男女ともポロシャツの制服で登校する姿が見られるが、じきに男女ともブレザーに衣替えする時期が来るだろう。
「ねえ、折笠さんなんで埼玉には海がないんだと思う」
その日の昼休み、僕は尋ねた。
「内陸だからでしょ」折笠さんがつまらなさそうに答える。目線をスマホから上げもしない。長い黒髪をだらんと垂らして、古いホラー映画の怨霊みたいな雰囲気を醸し出している。
「つまらないなあ」僕は言った。「もっと詩的な答えを期待してたのに」
お互い、昼食はすでに食べ終えていた。いまは学校のWi-Fiで同じアプリゲームをしている。『オース・オブ・レムリア』という人気ゲームだ。主に神話から材を取ったキャラクターが行儀よく順番に行動してHPを削り合う、言ってみればよくあるコマンド選択式のRPGだ。その代わり、舞のお下がりのスマホでもサクサク動く。
「詩的って何? 埼玉と海が織姫と彦星みたいに偉い人に引き離されたとか?」
「それはどちらかというと神話的かな」
折笠さんはそれには答えず、「ねえ、このボス固くない?」なんて問いかけてくる。そこまで進んでいない僕には何とも答えられなかった。
「やっぱりスサノオ引いとくべきだったかも」
「完凸借りると強いもんねえ」適当に答える。「実はね、折笠さん。埼玉にも海があった時代があるんだよ」
「嘘。埼玉にアレキサンダーみたいな征服王でもいないとそんなのあり得ない」
それでは東京湾がオケアノスになってしまう。
「おもしろい発想をするね」僕は言った。「だけど、そういうことじゃなくてね、ほら、縄文海進って授業でやらなかった? 温暖化によって海面が上昇して、このあたりまで東京湾が進出してきたことがあるんだよ」
「あー、そういえば、貝塚とかあるもんね」
「そうそう。見沼のあたりの地形もね、海に侵食されてああいう形になったらしいよ」
少女と出会った後、僕はこのあたりの地理について調べた。結果、自分が普段目にしている光景に地質学的意味があることを知ったのだ。
「葉月君そういうの好きだっけ」
「文系だからね。っていうか折笠さんもでしょ?」
そうじゃなきゃ、同じクラスにはならない。東高は二年から文系と理系でクラス分けがされるから。
「理科が苦手だから文系を選んだだけ。知ってるでしょ?」
顔を上げて睨んでくる。舞曰く、「僕のタイプじゃない」顔だ。折笠さんは少し吊り目がちでいつも仏頂面をしてるものだから誤解されがちだが、その実シンプルに人見知りなだけのどこにでもいるオタク少女だ。尤も、すでに選挙権を所持し、アプリゲームにも無際限に課金可能な彼女を少女と呼称していいかどうかには議論を待つところだけれど――
「ああ、そういえばそれで留年したんだっけ」
「留年言うな!」
「でも事実だし……」
折笠さんは現在二週目の高校二年生生活を送っている。六月に誕生日を迎えた十八歳で、すでに立派な有権者だ。そのせいか、一年から上がってきた大多数の同級生とはどうしても距離を感じてしまうらしい。僕もその例外ではないはずなのだけれど、最初の席替えで隣になって以来、不思議と馬が合って話し相手になった。
「……別にそれだけじゃない」折笠さんは言い訳するように言った。「不登校気味で出席日数が微妙だったの。それも言ったでしょ」
「うん。まあ、でもそれだと折笠さんが留年に関係なく学校に馴染めなかった人になっちゃうから……」
「事実陳列罪!」折笠さんは口を尖らせた。「馬鹿」
それからしばらくは、二人でゲームの話をしながら攻略を進めた。「固い」というボス――ナーダだった――はギミックを正しく理解し、火力バッファーをパーティーに組み込めば難なく倒すことができた。竜殺しの性能を持つスサノオがいれば、もっと簡単だっただろう。
「にしてもみんな好きだよね、海」僕は言った。
「何、海の話がしたい日なの?」
「あいにくと海の日は休みだったからね」
「祝日なんだから当たり前でしょ」折笠さんは呆れたように言った。「そんなに海が好きなら行けばよかったじゃない、修学旅行」
東高では、二年生の六月に修学旅行が企画されている。今年の行き先は長崎だった。パンフレットを見るに、海を見に行く予定もあったらしい。
「僕が長崎に行ったら、誰が折笠さんの話し相手をするのさ」
修学旅行に行かなかったのは、折笠さんも同じだ。何せ、去年すでに修学旅行を経験済みなのだ。長崎旅行をおかわりするつもりはなかったらしい。結果として、修学旅行の期間中、学校で僕と仲良く自習するはめになったわけだ。
「そういうつまらない冗談本当にやめて」折笠さんは照れ隠しなどではなく本当に嫌そうに言った。舞は慧眼だ。折笠さんとは恋愛に発展する匂いがまるでしない。
「葉月君って本当にふざけてる」折笠さんは言った。「それってわたしに対してだけ? ぼっちをいじって楽しんでるの?」
「まさか。あいにくと生まれ持っての資質だよ。誰が相手でも変わらないさ」
「家族とか恋人が相手でも?」
「たぶんね」僕は言った。そこで、ふと連想が働く。「恋人といえば、折笠さん。ひとつ聞いていいかな?」
「セクハラ」折笠さんがチベットスナギツネよろしくのジト目で睨んできた。
「いや、折笠さんのことを聞きたいんじゃなくてね。変な質問なんだけど、僕に恋人なんていたことあったっけ」
「何それ」折笠さんは眉をひそめた。「自分のことでしょ?」
「うん……でも僕忘れっぽいから」
「だからって恋人のことを忘れる? 忘れるほどの数の恋人がいたわけでもないでしょ?」折笠さんは怪訝そうな表情から一転して、少し心配するように続けた。「今日は本当にどうしたの? いつもにも増して変だけど」
折笠さんが僕を心配するなんて相当なことだ。このままでは明日、彩都市を嵐が襲いかねない。少し悩んだ末、週末の川原で起こったことを話すことにした。慎重に、嘘だと思われないように丁寧に。
「自分で話しといてなんだけど信じがたい話だよね」
「たしかに」折笠さんは認めた。「でも、葉月君の嘘にしては支離滅裂すぎる。いつもの戯言と違って、もっともらしさの欠片もない」
「信じてくれてるってことでいいのかな」
折笠さんはそれには答えず、「本当に、その人の顔に見覚えはないの? 水に濡れてたんなら、普段と印象が違ってもおかしくないでしょ?」
「そうだけど、そもそも女の子の知り合いなんて折笠さんくらいしかいないよ」
折笠さんは考え込んだ。
「その人の妹が葉月君の恋人だった、ってことになってるんでしょ。姉妹で、面影があってもおかしくない。なのに、葉月君は気づけなかった。その人の顔を見ても何も思い出せなかった」
「うん」
「じゃあその人の勘違いなんじゃない?」
「僕もそう思うんだけど……」僕は少女の顔を浮かべながら、「でも、勘違いであんな風に取り乱すとも思えないんだ。あの子には、僕がそうだって確信があったんだと思う」
「名前は? その人か妹の名前」
「ああ、言ってなかったっけ。妹の方は麻耶って名前だったはずだよ」
「麻耶?」
「うん。何度か繰り返してたから間違いないと思う」
折笠さんが怪訝そうな顔になる。「ねえ、やっぱりわたしを担ごうとしてる?」
「なんで?」
「麻耶って名前で何か思い出すことはないの?」
「え、えーっと。釈迦のお母さんの名前だったかな」
折笠さんがますます怪訝そうに眼を細める。
「折笠さん、何か知ってるの?」
「とぼけてるようには見えないんだよね……」折笠さんは呟くように言う。「それに悪趣味すぎる。いくら葉月君でもこういう冗談は言わない。だけど――」
「どういうこと?」
「葉月君、本当に覚えてない? 麻耶って子。恋人かどうかに関係なく、身の回りにそういう名前の子はいなかった?」
「だから知らないって」
折笠さんが沈黙する。予鈴のチャイムが鳴った。間もなく、五時間目がはじまる。
「あのね、葉月君」折笠さんは真剣な声音で言った。「もしかしたら聞きたくない話題だったのかもしれないけど――ていうかわたしもそうだったし――さすがに覚えてるでしょ? 箒木さんのこと。夏休み中に自殺しちゃった子。その子の下の名前が麻耶」

