わたしは七歳まで彩都市に住んでいた。いまは秩父の祖父母の家で暮らしている。
 このレポートは両者の土地における信仰を比較し、その特色を分析、ひいては宗教そのものについて考察することを主旨としている。
 主に参照するのは、彩都市は大宮の氷川神社と、秩父神社及び秩父神社と関係が深い聡見寺だ。

 結論から言って、氷川神社は全国的に見ても特殊な点がある。それは仏教の影響をほとんど受けていないということだ。
 本邦の中世において、神道と仏教は密接な関係を持っていた。神仏習合という言葉があるように、神と仏を同時に祀り、時に同一視する向きもあった。今日においても、我々日本人は神社で初詣を上げ、仏教式に弔われることが自然なこととして受け止められている。いわゆる七福神が仏教と神道、さらには道教までもが入り混じった本邦オリジナルの概念であることはよく知られているだろう。
 秩父神社もその例外ではない。明治の神仏分離まで、本神社は「秩父大宮妙見宮」と呼ばれ、妙見信仰の強い影響下にあった。『風土記稿』によれば、平安時代の武将平良文が秩父に居を構えた際、妙見社を勧請し、秩父神社に妙見社が創生されたという。鎌倉時代からは、母巣山蔵福寺が別当寺として秩父神社を管理した。江戸時代の絵画では、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むようにして、天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社・日御碕神社の四祠が配されていた。これはそのまま、秩父神社における仏教と神道の力関係を象徴しており、妙見菩薩が強く信仰されていた証左と言えるだろう。
 時は下って、明治の神仏分離において、秩父神社から妙見信仰の要素が排され、天之御中主神を祭神と改めることとなった。
 秩父における妙見信仰は、たとえば、聡見寺の小堂にその名残を見て取ることができる。これは、本寺院の南にあった妙見宮が秩父神社に合祀された際、その名残を留めるため設置されたものだという。
 一方、大宮の氷川神社は創建以来、須佐之男命を祭神としている。秩父神社における妙見菩薩にあたるような、仏教由来の信仰が持ち込まれることはなかったようだ。明治元年、東京遷都の折には、明治天皇によって鎮守・勅祭の社と定められ、明治四年に近代社格制度が制定された際には、伊勢神宮を除いた中では最高格にあたる官幣大社にも選定された。
 さて、明治政府主導の神仏分離政策は、本邦古来の神道を国家神道として整理し、国教とすることで、天皇を中心とする中央集権国家を作る意図があった。これは西洋のキリスト教君主制国家を参照したもので、キリスト教を根拠とする王建神授説を本邦に輸入するにあたって必要とされたのが、キリスト教に代わる一神教であり、そうした要請から作られたのが国家神道だったという訳だ。
 氷川神社は国家神道の中枢を担う一社であり、国家権力の補強に利用された形になる。太平洋戦争における本邦の敗戦に伴いGHQによって国家神道は解体、近代社格制度も廃止されるが、現在もなお別表神社として神社本庁の直轄に置かれ、大宮、ひいては東日本を代表するパワースポットとして栄えている。
 かように、権力が信仰を利用しようとしたのが神仏分離政策であり、秩父神社がその影響を多大に受けた一方、氷川神社は変化の必要がなく、むしろ権力にとって都合のいい神社として厚遇を受けたと言える。

 しかし、何も信仰が変化するのに権力の介入は必ずしも必要ではない。
 たとえば、妙見信仰について見てみよう。
 妙見菩薩は中国は道教の北辰信仰――北極星、北斗七星信仰が基となっている。仏教がインドから中国へと伝わった際に天部として取り込まれ、日本にも輸入さたのだ。そして、寺院のみならず神社の祭神としても祀られるようになった。
 妙見信仰はさらに元をたどれば、古代バビロニアの占星術を由来とする説もある。それが長い時代をかけて、それが異国へと伝播し、他の信仰と混ざり合い、異なる名前で信仰を集める結果となったわけだ。
 さて、秩父ではどうだったか。秩父神社はそもそもは武甲山を祀るため創建されたとされるが、秩父神社の社殿と参道は武甲山から北側にまっすぐ伸びており、これは北辰信仰を示すものだと言われている。妙見信仰の伝来以前から、この地には北極星及び北斗七星を崇める信仰があったことを示唆しているのだ。
 順番がどうであれ、秩父神社はその創建から北辰信仰と切っても切れない関係であり、妙見信仰と融合するのは必然であったのだろう。
 かように、信仰の変遷をたどることは一筋縄ではいかないものなのだ。わたしたちは、神というものを古来、変わらぬ存在であるかのように考えてしまいがちだ。しかし、実際には人の都合によってたやすく名を変え、姿を変え、ときにその本質すら変えてしまう。
 妙見信仰に限った話ではない。
 たとえば、各地に伝わる龍神信仰だ。蛇神や龍神は川がもたらす恩恵と災害への畏怖から生まれたものとされている。彩都には見沼の湿地帯に龍伝説がある。秩父でも同様に、秩父神社の南東にあった天ヶ池に龍が住んでいたという伝承がある。
 古の人々にとって、水害への恐怖は現代よりもずっと切実なものだったろう。河川改修や堤防の造成、ダムの建造などといった技術が発展する以前、人々はただ恐れ、祈ることしかできなかった。ゆえに、龍神は必要とされたのだろう。
 そうした土着信仰の名残は未だに各地に残っている。氷川神社には龍神とされる土着の神アラハバキを祀る摂社があるし、氷川神社の本殿にも天ヶ池の龍を封じるための彫刻「つなぎの龍」がある。
 心理学者ユングは集合的無意識という人類が普遍的に持つ無意識の領域があると考えた。世界各地で似通った神話や伝承が存在することを説明する仮説だ。しかし、集合的無意識などを持ち出さずとも、人類が普遍的に畏れ、物語ろうとするものを説明することは可能だ。水害への畏れはその一例だろう。
 素朴な土着信仰が外来の神話によって上書きされるとき、土着の神はときに悪魔や悪神という形で生き残る。キリスト教における悪魔は土着の神々であったとされるし、本邦の八岐大蛇も元は土着の龍神だったはずだ。しかし、八岐大蛇を討伐した須佐之男の神話が浸透することで、全国各地で龍殺しの英雄として祭神として祀られることとなったのだろう。龍神はもはや、畏敬ではなく、単なる恐怖の対象になり下がり、畏敬の対象は須佐之男へと移った。氷川で須佐之男とともに祀られるアラハバキもまた同様に。
『古事記』や『日本書紀』に代表される神典によって神道の基本的な神話体系が形成され、明治に至り、国家がそれを権力の根拠として利用することとなった。

 今日でもなお人は神を祀り続ける。祈り、願い、救いを、ご利益を、あるいは人生の意味を求める。
 しかし、その神とは何者だろうか? 誰が作ったものなのか? どういう根拠によって存在するとされているのか?
 信心とは思考停止と表裏一体だ。
 信仰心を権力が利用してきた歴史もある。かつて明治政府がそうしたように、時の政府が再び信仰や神話を利用する日が来ない保証はない。わたしたちは神との距離感を慎重に見極める必要がある。