どういう意味だろう。麻耶というのは誰だろう。
少女が逃げるように河原を去ってから、ずっと考えていた。ずぶ濡れで家路を歩きながら、無人の家でシャワーを浴びながら、気を紛らわせようとアプリゲームを起動しながら、ガチャの沼に首までどっぷり漬かりながら。
――麻耶が……妹が死んだのは、あなたのせいなんだから!
河原で出会った彼女の姿が、声が頭を離れない。日を跨いでも、折に触れて考え込んでしまう。彼女は誰なのだろう。僕は彼女の妹に何をしたのだろう。
「最近、お兄ちゃんから他の女の匂いがする」
舞に指摘されたのは、少女を助けて数日後のことだった。
「馬鹿なことを言っちゃいけないよ」僕は言う。「僕にそんな甲斐性がないことは舞が一番知ってるはずだろ」
舞は依然として、怪訝そうな目で見つめてくる。十四歳には見えない幼い雰囲気の少女で僕の従妹だ。週に三度、塾で遅くなる彼女を迎えに行くのが僕のルーティンだった。
駅前の塾銀座から自宅までの道を並んで歩く。日中は酷暑が続くが、日が落ちるといくらか涼しくなってくる。街路樹の茂みからだろうか、鈴虫の鳴き声が聞こえる。秋の訪れを予感させる、そんな夜道だった。
「うん。だから長続きするとは思ってない。浮気してるとしたら、最近のことだろうね」
「最近かあ……」
「心当たりがあるの?」
「ないってば」
最近出会った女の子と聞いて浮かぶのは一人だけだが、川での出会いについて話してもしょうがないだろう。信じてもらえる気がしない。
「でも最近、上の空でしょ?」
「僕だって悩むことはあるよ」僕は事実を述べた。「女の匂いってそういうこと?」
「それだけじゃないけど……うーん、なんだろう。乙女の勘?」
「まるで舞が乙女みたいなことを言うね」
足を蹴られる。「誰のせい?」と言わんばかりに睨んでくる。
「馬鹿」シンプルな罵倒だ。
「悪かったよ」僕は詫びた。「でも逆に言うと、いままでそういう匂いは感じなかったってこと?」
「前科があったの?」
「信用がないなあ……」僕は言葉を探した。「ちょっと前にさ、恋人でもできたんじゃないかって言われたことがあるんだ」
「嘘。お兄ちゃんにそんな砕けた話をする友だちなんていないじゃない」
「友だちくらいいるよ」
「それって折笠さんのこと?」
折笠さんは僕の同級生だ。女子なのだけれど、「お兄ちゃんのタイプじゃないから」と舞からそういう警戒は一切されていない。舞はこれでも男女間の友情には理解的なのだ。
「お兄ちゃん、折笠さんとそういう話するの?」
「舞のことはよく話すよ。舞がいかに賢くてかわいい女の子かについて、そんな子と同じ屋根の下で暮らせる幸福についてね」
ストレートな賛辞に、舞が頬を染める。こういうとこはまだお子様なんだよなあ。
「別に本気で浮気を疑ってるわけじゃないんだけどね」舞は言った。「でも、お兄ちゃんってわかるようでわからないから。わたしに対してだって、どこか距離を取ってるし」
「こんなに近くにいるのに?」
「どれだけ近づいても遠いの。まるで心だけがどこか別の場所にあるみたいに」
「別の場所ねえ」
脳裏をよぎるのは、海だ。荒れ狂う海と波の音。全てを飲み込む、暴力的な海。
「どこにも行かないよね?」舞が腕を絡めてくる。薄着越しにふくよかで柔らかい感触が伝わって、正直、心臓に悪い。
「……家が近いよ」
「いいの。いつか、お父さんとお母さんにもわかってもらうから」
「それはいまじゃないんじゃないかな」
やんわり窘めるが、離そうとしない。諦めて、しばらくさせるがままにした。分別がつかない子じゃない。僕が家に居づらくなるようなことはしないだろう。家の前まで来れば自然と離れるはずだ。
「幸せだよね」舞が確認するように問う。
「うん」
家に帰ってからのことを考える。たぶん、僕の部屋で一通りいちゃいちゃして、それから――
舞のあんな姿やこんな姿を想像する。思い出す。ハリのある白い肌。匂いと体温。柔らかさ。甘い声。だけど、それに割り込むようにして、川原で出会った少女の声がこだまする。僕の恋人だったかもしれない誰かの姉の声が。
少女が逃げるように河原を去ってから、ずっと考えていた。ずぶ濡れで家路を歩きながら、無人の家でシャワーを浴びながら、気を紛らわせようとアプリゲームを起動しながら、ガチャの沼に首までどっぷり漬かりながら。
――麻耶が……妹が死んだのは、あなたのせいなんだから!
河原で出会った彼女の姿が、声が頭を離れない。日を跨いでも、折に触れて考え込んでしまう。彼女は誰なのだろう。僕は彼女の妹に何をしたのだろう。
「最近、お兄ちゃんから他の女の匂いがする」
舞に指摘されたのは、少女を助けて数日後のことだった。
「馬鹿なことを言っちゃいけないよ」僕は言う。「僕にそんな甲斐性がないことは舞が一番知ってるはずだろ」
舞は依然として、怪訝そうな目で見つめてくる。十四歳には見えない幼い雰囲気の少女で僕の従妹だ。週に三度、塾で遅くなる彼女を迎えに行くのが僕のルーティンだった。
駅前の塾銀座から自宅までの道を並んで歩く。日中は酷暑が続くが、日が落ちるといくらか涼しくなってくる。街路樹の茂みからだろうか、鈴虫の鳴き声が聞こえる。秋の訪れを予感させる、そんな夜道だった。
「うん。だから長続きするとは思ってない。浮気してるとしたら、最近のことだろうね」
「最近かあ……」
「心当たりがあるの?」
「ないってば」
最近出会った女の子と聞いて浮かぶのは一人だけだが、川での出会いについて話してもしょうがないだろう。信じてもらえる気がしない。
「でも最近、上の空でしょ?」
「僕だって悩むことはあるよ」僕は事実を述べた。「女の匂いってそういうこと?」
「それだけじゃないけど……うーん、なんだろう。乙女の勘?」
「まるで舞が乙女みたいなことを言うね」
足を蹴られる。「誰のせい?」と言わんばかりに睨んでくる。
「馬鹿」シンプルな罵倒だ。
「悪かったよ」僕は詫びた。「でも逆に言うと、いままでそういう匂いは感じなかったってこと?」
「前科があったの?」
「信用がないなあ……」僕は言葉を探した。「ちょっと前にさ、恋人でもできたんじゃないかって言われたことがあるんだ」
「嘘。お兄ちゃんにそんな砕けた話をする友だちなんていないじゃない」
「友だちくらいいるよ」
「それって折笠さんのこと?」
折笠さんは僕の同級生だ。女子なのだけれど、「お兄ちゃんのタイプじゃないから」と舞からそういう警戒は一切されていない。舞はこれでも男女間の友情には理解的なのだ。
「お兄ちゃん、折笠さんとそういう話するの?」
「舞のことはよく話すよ。舞がいかに賢くてかわいい女の子かについて、そんな子と同じ屋根の下で暮らせる幸福についてね」
ストレートな賛辞に、舞が頬を染める。こういうとこはまだお子様なんだよなあ。
「別に本気で浮気を疑ってるわけじゃないんだけどね」舞は言った。「でも、お兄ちゃんってわかるようでわからないから。わたしに対してだって、どこか距離を取ってるし」
「こんなに近くにいるのに?」
「どれだけ近づいても遠いの。まるで心だけがどこか別の場所にあるみたいに」
「別の場所ねえ」
脳裏をよぎるのは、海だ。荒れ狂う海と波の音。全てを飲み込む、暴力的な海。
「どこにも行かないよね?」舞が腕を絡めてくる。薄着越しにふくよかで柔らかい感触が伝わって、正直、心臓に悪い。
「……家が近いよ」
「いいの。いつか、お父さんとお母さんにもわかってもらうから」
「それはいまじゃないんじゃないかな」
やんわり窘めるが、離そうとしない。諦めて、しばらくさせるがままにした。分別がつかない子じゃない。僕が家に居づらくなるようなことはしないだろう。家の前まで来れば自然と離れるはずだ。
「幸せだよね」舞が確認するように問う。
「うん」
家に帰ってからのことを考える。たぶん、僕の部屋で一通りいちゃいちゃして、それから――
舞のあんな姿やこんな姿を想像する。思い出す。ハリのある白い肌。匂いと体温。柔らかさ。甘い声。だけど、それに割り込むようにして、川原で出会った少女の声がこだまする。僕の恋人だったかもしれない誰かの姉の声が。

